2000年3月24日
実名・顔写真を出すのが「調査報道」か/大阪高裁 「少年実名容認」判決を嗤う
浅野健一大阪府堺市で一九九八年一月、幼稚園児ら三人が死傷した通り魔事件で殺人 罪などに問われた当時一九歳の男性被告(21)=一審懲役一八年=が、月刊 誌「新潮45」で名前と写真を掲載したのは実名報道を禁じた少年法六一条に違反しプライバシーの侵害だとして発行元の新潮社(東京)と当時の編集長らに二二○○万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、 大阪高裁(根本眞裁判長、鎌田義勝裁判官、島田清次郎裁判官)は二○○○年二月二九日、新潮社側に二五〇万円の賠償を命じた一 審・大阪地裁判決を取り消し、訴えを棄却する男性被告側逆転敗訴判決を下した。根本裁判長は「少年法六一条は罪を犯した少年に実名で報道されない権利を与えるものではない。記事は社会の正当な関心事で、内容は真実であり、表現が不当でない場合は違法性を欠き、プライバシーなどの侵害とはならない」と判断した。
加害者が少年であっても場合によっては実名報道できるとした初めての判決。男性被告側は三月三日上告すると発表した。
一審・大阪地裁は少年法六一条に関し「公益を守るやむを得ない場合を除き、実名や写真掲載は不法行為」としたうえで、「記事に公益性はない」と、新潮社側に二五〇万円の支払いを命じた。同社側は控訴審で「男性の犯行は非行と呼べるようなものではない。当時、十九歳六か月という年齢で、実名報道に違法性はない」などと主張していた。
裁判長らは、一般の新聞・放送における成人も含めた、逮捕段階での実名報道の凶悪性について知ろうともせず、報道被害者の痛みを共有しようとする想像力にも欠けている。
裁判官たちは、通園途中の幼稚園児らが襲われるという凶悪な事件の加害者には名誉・プライバシー権に基づいて賠償を求める権利などないと考えたのだと思う。初めに実名報道容認の結論があり、それを理論的に裏付けようとしたから、論旨が支離滅裂である。
判決は、「犯罪報道は匿名であることが望ましい」と断定しながら、「被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素」と述べ、凶悪事件で現行犯逮捕されたケースは「実名報道も正当」と結論づけている。
男性は現行犯ではなく緊急逮捕だった。また、男性はこの記事が出た当時、勾留されており、起訴されていなかった。刑事責任能力の問題もある捜査段階だった。
犯罪事実の報道に公益性があるとしても、被疑者(犯人ではない)の姓名、住所などを伝えることに公益性があると、直ちに言えるだろうか。被疑者を特定することによって、社会が得る利益がどれほどあるかを証明すべきだ。
判決文が「被害者側の心情」を持ちだしているのは、司法がメディア・リンチを追認したものだ。凶悪事件なら実名も許されるというが、凶悪でない犯罪などあり得るのだろうか。またメディアが個々の犯罪について凶悪かどうかをどう判断できるというのだろうか。
さらに判決は、「マスコミに連日報道されており、地域住民は男性の実名などは熟知しているとみられる」「地域住民以外の一般市民が被控訴人の実名を永遠に記憶しているとも思えない」と指摘した上で、「実名報道がなぜ更生の妨げになるかを男性側は立証していない」と退けた。しかし、一般市民はすぐに忘れてしまうから、実名報道でもいいのだというのは、暴論である。
男性は今も拘束されており、「実名報道がなぜ更生の妨げになるか」を現段階で立証できるはずがない。
三人の裁判官は、過去二十数年にわたる日本弁護士連合会、人権と報道に関する市民団体、新聞労連などの報道被害調査について、何も知らないのだろうか。日本弁護士連合会が八七年と九九年に犯罪報道の匿名原則を提唱していることも視野にないようだ。
判決は最後に、高山氏の記事について、「実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われない」とまで言う。ならば、実名報道を擁護するのはおかしいではないか。
判決が、実名報道を禁じた少年法六一条について、「必ずしも表現の自由に優先するものではなく、社会の自主規制にゆだねたもの」と指摘した点は評価できる。
産経を除く主要新聞各社は高裁判決を批判して少年の匿名報道の大切さを訴えている。ここで検討すべきは、二十歳を過ぎた私人による私的な犯罪事実について、官憲による逮捕に連動して実名報道している実名報道主義の見直しである。逮捕されたら実名にするという安易な報道基準ではなく、「表現の自由」が、報道される側の名誉・プライバシー権を上回るケースでは顕名報道するという北欧型の匿名報道主義を導入することだ。
私は判決後にこの裁判の元になった「ノンフィクション作家」、高山文彦氏が書いた文章を再読したが、「事件の本質」はよく分からなかった。少年の姓名、「中学卒業時の顔写真」の掲載だけが「衝撃的」であった。
大阪弁護士会は三月八日、「報道界が少年法を無視した報道に走ることにならないか重大な懸念を抱く」という会長談話を発表した。私も、「加害者の人権ばかりが守られている」と声高に叫びながら、埼玉県桶川市、東京都文京区などの犯罪被害者のプライバシーを徹底的に暴く取材と報道を続けるタカ派メディアの暴走が心配だ。
少年の実名を掲載した当時の「新潮45」編集長、石井昂(たかし)氏は「判決をもとに社会の公益性に寄与すべく、しっかりとした調査報道を続けていきたい」とコメント。
三月一日の読売新聞によると、石井氏は「極めてまっとうな判決。この判決をもとに社会の公益性に寄与すべく、しっかりとした調査報道を続けていきたい」と述べた。
また、産経新聞によると、判決後、大阪司法記者クラブで会見した「新潮45」の早川清編集長石井前編集長の次のようなコメントを読み上げた。
「真っ当な判決を下した裁判官諸氏に敬意を表します。当初から『石が流れて木の葉が沈む』と主張していましたが、初めて『木の葉が流れた』と感じた」
早川編集長は「五歳の幼女が生きる権利という最大の人権を奪われているのに、加害者はプライバシーの権利を侵害されたと訴えてくる。少年の真の更生にとって、これでいいのだろうか」と述べた。被告の一人で、記事を書いた作家の高山文彦さん(四二)は「原告側代理人の弁護士の方々は、少年がいかに生きていくか、いかに被害者に罪を償うかについて整理する余裕を与えず、名誉棄損で訴えた。この点が一番の問題」と指摘した。
各紙によると、男性被告の代理人の木村哲也弁護は「少年法の理念を全く無視した判決で理解できない」「判決は実名や顔写真を掲載されることの被害実態への認識が薄い。報道の影響で就職先を狭められたりする例は常に聞く」などと表明。山崎敏彦弁護士は記事の違法性に言及した判決の個所を挙げ、「なぜ社会的に相当でない記事を出すことが不法行為にあたらないのか。少年法六一条の存在意義をなくしている」と批判した。
▼田島教授が判決を「評価」
メディア論研究者や作家の中からも、判決を支持する意見が出ている。三月一日の毎日新聞は「実名是認の判断評価」という見出しで、「表現の自由に詳しい田島泰彦・上智大学文学部教授(メディア論)の話」を載せている。
《報道の自由は憲法で保障された権利であり、実名報道を禁じている少年法61条も表現の制約を無制限にできるものではない。判決はその点について、適切な調整点を探っており、今回のケースでは、事件の重大性を考えて少年の実名を報じることはやむなしとした判断は評価できる。ただ、一方で全体的に少年特有の権利・利益保護の必要性について考慮している部分が少なく、もう少しその特殊性に触れてほしかった。》 後半の文章は意味不明だ。
佐木隆三、猪瀬直樹、黒田清各氏らも判決を評価するコメントをテレビや新聞で発表している。
報道界は、新潮社が少年法を無視してまで、少年の実名を出す必要があったのかどうかの報道倫理の問題として議論すべきだ。裁判になったこと自体が言論界にとって不幸なことである。訴えた原告が悪いのではなく、裁判長さえ、必要だったとは認めていない少年の実名掲載を、調査報道だと自画自賛する新潮ジャーナリズムの体質の問題であろう。
【少年法六一条】家庭裁判所の審判に付された少年、または少年の時犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼうなどにより、その者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事、写真を新聞、その他の出版物に掲載してはならない。▼とんでもない論理
大阪高裁(根本眞裁判長、鎌田義勝裁判官、島田清次郎裁判官)の判決文を読んで、この三人の裁判官の世間知らずに驚いた。おそらく私と同じ団塊の世代に属する人たちだろうが、現在の新潮社、文芸春秋、テレビ・ワイドショーなど俗悪メディアがいかに人権侵害を繰り広げているかについて、全く認識不足である。まさに裁判官の世界に閉じこもり、現実にある「犯罪報道の犯罪」の凶悪性について無知であり、報道被害者の痛みを知ろうとする想像力にも欠けている。
判決文の論理展開も乱暴で、納得できない。
判決文の一六頁にこう書いている。
《犯罪事実の報道においては、匿名であることが望ましいことは明らかであり、これは犯人が成人であるか少年であるかによって差異があるわけではない。
他方、社会一般の意識としては右報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事であると解されるから、犯罪事実の態様、程度及び被疑者ないし被告人の地位、特質、あるいは被疑者側の心情等からみて、実名報道が許容されることはあり得ることであり、これを一義的に定めることはできないが、少なくとも、凶悪重大な事件において、現行犯逮捕された場合には、実名報道も正当として是認されるものといわなければならない》
判決は、犯罪報道は匿名であることが望ましいと断定しながら、「被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事である」と述べて、凶悪事件で現行犯逮捕されたケースは「実名報道も正当として是認される」と結論づけている。犯罪事実に公益性があるとしても、姓名、住所などに公益性があると言えるだろうか。被疑者(犯人ではない)を特定はすることによって、社会が得る利益がどれほどあるかを証明すべきではないか。
「被害者側の心情」を持ちだしているのは、司法がメディア・リンチを追認したもので、本判決の最大の問題だと思う。報道界は八九年の被疑者呼び捨て廃止の際に、「メディアには被疑者、被告人に社会的制裁を与える権利はない」という立場を確認した。新聞、雑誌、放送局の定款のどこにも、犯罪被害者の悔しい思いを代弁して、加害者を懲らしめることが業務内容の一つだと書いているところはない。
判決は、被疑者・被告人に社会的制裁(法に基づかないリンチ)を加えている実名報道が、被害者の感情によって正当化されると受けとれる内容になっている。
一八頁からこういう記述がある。
《本件犯罪事実は、前記のとおり、極めて凶悪重大であり、実名での報道はなかったものの、被控訴人の犯行事実を目撃した者も多く、しかも新聞やテレビ等のマスコミに連日報道されており、口コミで伝えられることも多いと思われるから、少年の居住する地域住民にとっては、本件記事が出る前から被控訴人の実名や本件犯罪事実を知悉しているとみるのが相当である。また、地域住民以外の一般市民は、本件記事によって被控訴人の実名を知ったと思われるが、仮にそうであるとしても、被控訴人を知らない一般市民が被控訴人の実名を永遠に記憶しているとも思えないし、仮に一部の市民が被控訴人の名前を記憶していたとしても、そのことによって直ちに被控訴人の更生が妨げることになるとは考え難い》
三人の裁判官は、犯罪報道の実名報道が、本人のみならず家族や関係者にどのような深刻な被害を及ぼしているかについて全く認識していないから、このような論理を持ち出すのだ。
一般刑事事件の被疑者の姓名は、一般市民にとって「記憶」する必要もない。だから、実名報道の必要性がないのである。一般市民はすぐに忘れてしまうから、実名報道でもいいのだというのは、居直りである。
二○頁からは次のように言う。
《親族に関する記載もあるが、それらの者に対するプライバシーの侵害があるか否かはさておくとして、こと被控訴人に関する限りは、その成育歴、境遇、家族や周辺との関係を自らの足で取材した材料に基づいて記されたものであって、表現方法において特に問題視しなければならないところも見受けられない。
もっとも、控訴人らは、控訴人高山が本件事件について実名報道を行おうと決めたのは、「少年」の尊厳を認め、匿名性の中に埋没させずすべてを事実として書き、「少年」に自分のしたことを明確に認識させた上で、分からせるべきであると考えたためである旨主張し、控訴人高山は、乙大五号証の記載及び原審における本人尋問の重大性ばかりでなく被控訴人の成育歴等に接した控訴人高山が、匿名性の中に埋没させずすべてを事実として書くことを思い立ったことは理解できなくはないが、本件事件において、実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、控訴人らが本件事件のあとがきで述べるように、本件事件の本質が隠されてしまうものとも考えられない。しかも、本件事件によって被控訴人に自分のしたことを認識させ分からせることができるかどうかは不明というべきであるし、そもそも控訴人らにそれをする権利があるとも解されないから、この点に関する控訴人らの主張は理由がない。》
「親族に対するプライバシーの侵害があるか否かはさておくとして」とさらっと述べるところに三人の裁判官の体質が現れている。「さておいて」もらっては困るのだ。「実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、控訴人らが本件事件のあとがきで述べるように、本件事件の本質が隠されてしまうものとも考えられない」とまで言うのなら、実名報道を擁護するのはおかしいではないか。▼最高裁で的確な判断を
友人の刑事法学者はこう述べた。
《一審判事は少年法の匿名規定に重きを置きすぎたのかもしれない。二審は、それでは「表現の自由」はどうなるのだということになったのではないか。大阪高裁民事部の裁判官は民事専門なので少年犯罪の実務はよく知らないと思うが、最高裁のメンバーには検察官・弁護士出身や保護司経験者も入っている。彼らは少年事件の実務を知っている。最高裁の調査官も少年事件を扱っているはずだ。こういう人たちが少年刑事事件の実名報道についてどういう反応を示すかがポイントだろう。
堺の事件だけでなく犯罪事件そのものには公共性・公益性があるだろうが、その少年の名前や写真を出すことにも公益性があるという論理は納得できない。アイデンティティを明らかにすることに公益性があるかどうかを究明していない》
「少年事件の実名報道」が、「凶悪な事件にかぎって許される」というメディア独自の判断が一般化するのではないかと心配だ。判決は何が「凶悪」かについて詰めていない。凶悪でない犯罪はあるのだろうか。
名古屋大学の平川宗信教授は、《憲法21条の知る権利が人格権に優先されるのは、プライバシー権を超える政治的優越的権利に限定される》と主張している。「プライバシー権を超える政治的優越的権利」が何をさすかという判断は、メディア独自がすればよい。
「少年実名報道肯定」のユニークな判決をきっかけにして、改めて匿名報道主義を考えたい。メディアによる社会的処罰を「調査報道」と詐称する文春や新潮社、ワイドショーなどのエセ・ジャーナリズムに流れて行ったら大変だ。新聞なども少年も実名報道になってしまうという危惧がある。メディアによる社会的制裁を肯定する方向に行ってしまっては大変だ。
それを止めなければならない。裁判官も、一部メディアの現実を知って考えなければならない。起こった犯罪について、誰がそれを凶悪かどうかと決めるのことができるのか。知る権利の対象であるかないかで判断しなければならない。
朝日、毎日、読売の社説は、報道が社会的制裁機能をもつべきではないと、判決を批判している。しかし、各社は「一九歳は匿名で二〇歳は実名」の基準をもっている。殺人を犯した一九歳の人が匿名で、お賽銭を盗んだ二〇歳の人が実名で報道されれば、誰だっておかしいと思う。朝日の社説などでは、この矛盾を説明できていない。
最高裁ではまた少年法の匿名原則か、表現の自由かという論に戻るだろうが、一審の論理だけでは勝てないと思う。大人も子どもも私人の場合匿名が望ましい。子どもに公人はほとんどいない。事件の公益性と、事件を起こした人の公益性は違う。大人と子どもとの整合性をどうするか。やはり、改めて匿名報道主義を高らかに提唱していきたい人権と報道・連絡会のあるメンバーは次のような意見を送ってきた。
《表現の自由はとても大事なことであるとわかっているが、河野義行さんは九九年一○月の日弁連人権擁護大会のシンポジウムで、「知る権利と命とどっちが大切ですか」と問い掛けた。少年の場合(ほんとうは少年に限らずだが)、更正と社会復帰を妨げるのはある意味において「命」を奪うことになるだろうし、そんな権利はマスメディアにもどこにもないはずだ。「命」を奪う権利を持った表現の自由の権利はどこまで認められるのか?表現の自由と、他の権利をはかりにかけたら、表現の自由の方が重い。他の人権より重要な権利だということは認めよう。しかし、「他の権利」の一つである、たとえば個人のプライバシーの権利を、今よりももっと重く扱おう、表現の自由とプライバシーが同等にしようとする。「表現の自由」にたずさわる者(この場合メディア)は、そうなると表現の自由を規制する、と異議を唱えるでだろう。でも、「個人」「一般市民」の場合、そのプライバシー権を今より重く扱うことを認めても、表現の自由(この場合、「報道の自由」ですか)を侵害するものにはならないと思う。
いまの、プライバシー権(人格権)に対する一般的な考えを「そうじゃなかったんだ、プライバシーとは、もっと重要なものだったんだ」と変えていきたい》▼弁護士からメール
二月二九日の大阪高裁による堺の少年実名報道損害賠償事件で、新潮社が逆転勝訴した判決には怒りを感じました。京都のある弁護士はその夜、テレビニュースを見てこんなメールを送ってきた。
《大阪高裁の裁判長は、表現の自由が少年法61条より優越するようなところまで踏み込み、少年の実名は「そのうち周囲(地域?)の人間は忘れるだろう」「社会復帰できないとはいえない」などという、とんでもない(まさに、キャリア裁判官で、社会実態・現実を知らないとしか言いようがない!)言及までしているようです。
これから、新潮・文春・産経らのタカ派メディアの暴虐・暴走が間違いなく始まるでしょう。非常に心配です。
この裁判官は、日弁連人権大会で「原則匿名報道を!」と議論し、議決したことを、なんと思っている(そもそも知らない・世の中の動きに無関心で知らない) のでしょうか?
言語道断の判決だとして、日弁連・各弁護士会で抗議声明・会長談話くらいは早急に出すべきでしょう(「雲助判決」のときのようにモタモタしていてはダメ!)。そうでなければ、前橋人権大会なんかやった意味がないと思いますし、それくらいしないと「舐められっぱなし」だと思います(私は、さっそく、京都弁護士会宛に同趣旨のメールを送りました)。》
私はすぐに返事を送った。
《私は数日前から木村哲也さんから今日の判決のことを聞いていました。こんな判決になるとは全くの驚きです。今日午後、日本テレビの若い記者が知らせてくれました。
少年法の匿名規定は政策上のことで、匿名の権利があるわけではないということのようです。
実は、新潮社の弁護団は、私が本の中で、成人にも将来があり、少年だけを匿名にしているから、矛盾があるというふうなことを書いているのを歪曲して引用して、実名報道の根拠にしていました。私は意見書を出して反論しました。あなたが書かれている通り、タカ派メディアは勢いづくでしょう。逆風です。
判決は田島泰彦氏の「理論」と酷似しています。社会部の実名主義者も喜んでいるでしょう。全く大変な事態です。私も日弁連が何らかのアクションを起こすように願います。木村哲也さんと少し話しました。反撃しましょう。》▼私は意見書を出している
私は九八年一○月三一日、この裁判の一審審理段階で大阪地方裁判所第八民事部に次のような意見書を出した。佐木隆三氏は新潮社側を支持する意見書を出している。
《はじめに
本損害賠償請求事件被告の株式会社新潮社訴訟代理人は、九八年八月二八日付の準備書面(被告第一回)第10頁において、《少年法の六一条の立法目的の一つが少年の更生と社会復帰を図るというものであるならばそれは対象が少年のみに限られる理由もない。匿名報道主義の提唱者である浅野健一教授も匿名報道一般を提唱しているのであって、「二○歳過ぎた成人にだって将来はある」とし、こと少年のみの匿名報道は意味がないとしている[神戸事件でわかったニッポン・双葉社・一五八頁]》と述べている。
被告代理人による私の著作の引用は極めて部分的であり、不正確というより、正反対の意味にとられる可能性も強いので、私が一五年前から展開してきた逮捕段階での被疑者実名報道原則に対する批判と、北欧に学んだ匿名報道主義について、貴裁判所に私の見解をお伝えしたい。私の経歴と著作については末尾を参照していただきたい。
一 「事件の本質」を見えなくした実名記載
私は「こと少年のみの匿名報道は意味がない」とは全く考えてもいないし、どこにもそのようなことは書いたり、話したりしたことはない。少年に適用されている匿名報道を、成人についても、原則として導入すべきだと提案してきたのである。従って、現在、新潮社などの一部言論機関を除いて、ほとんどのメディアで行われている少年の匿名原則を「意味がない」とは考えない。それどころか、マスメディア従事者は、報道倫理の問題として、少年法の精神を大人にも適用すべきだと主張している。このことは、代理人が引用している『神戸事件でわかったニッポン』の私の記事の全体を読んでいただければ明らかであろう。
私は新潮社のような立派な文学作品などを出版している会社が、敢えて「法に抵触する」と宣言してまで、本事件の少年の実名などを伝える必要性はないと思う。出版社が再販制度など多くの特権で守られているのは、民主的な社会をつくるための文化活動をしているという前提からである。メディア企業が、法律に違反してまで、問題提起しようとする自由があることを私は否定しない。ただし、法に触れても伝えるべき内容かどうかだ。少年のアイデンティティを明らかにするパブリック・インタレスト(民主的な自治を行うために市民の権利や利益に必要な情報)があるかどうかが問われる。
神戸事件の時のように、新潮社発行の「フォーカス」が捜査段階(逮捕から数日後)で、顔写真を掲載したり、一部インターネットで姓名、親の職業、家族関係などが伝わったのは論外であろう。
「ノンフィクション作家」、高山文彦氏が「新潮45」九八年三月号に書いた一六頁にもわたる文章を読んでも、「事件の本質」はよく分からなかった。当時、家庭裁判所の審判を受けていた少年の姓名、「中学卒業時の顔写真」の掲載だけが「衝撃的」であった。また、事件を「虐殺」と呼び、犯行の模様を生々しく伝えているのが特徴だろう。そのほかは、母親を中心に家族のプライバシーを長々と書いているだけだ。少年の家に入って、家族の様子を描くという取材・執筆方法そのものが妥当だろうか。家族は高山氏の取材を心から受け入れていたのだろうか。少なくともこのような記事が大手出版社から実名で掲載されるとは考えてもいなかったのではないか。
事件のポイントは、少年がなぜ「シンナーの錯乱による犯行」を起こしてしまったかだろう。シンナー中毒になった背景、そして家族や地域社会がどう対応したかだろう。なぜ地域社会は彼を救出できなかったのか。この種の犯罪の再発を防ぐためには、薬物中毒をどう防ぎ、中毒に罹った患者の治療とリハビリをどうするかを検討すべきであろう。加害者の個性、生い立ちに重点を置きすぎると、社会的にどういう問題点があるのかが不明確になると思う。
記事は裁判の見通しに触れ、《△△は早晩、この町に帰ってくる》(△△は記事では実名)と締めくくられている。要するに、神戸事件の時の新潮社、文藝春秋の雑誌、産経新聞などが展開してきた「今の少年法では、またこの種の凶悪犯罪が起きる」というほとんど根拠のないキャンペーンの一環なのだ。
山口正紀読売新聞記者(人権と報道・連絡会世話人)が「週刊金曜日」九八年三月一三日号で書いているように、編集部が銘打った「衝撃のノンフィクション」とは、「シンナーの錯乱による犯行」の生々しい描写、違法と認めた上で、それを「売り物」として掲載した実名、顔写真だけだった。
高山氏の文章に実名を掲載したからと言って、記事の迫力も増していないし、市民の知る権利にこたえているとは到底思えない。
「新潮45」編集部は高山氏の「ルポルタージュ」の末尾に、《●小誌はなぜ“十九歳少年”を「実名報道」し顔写真を掲載したのか》と題して、「あえて少年法に抵触した理由」を四点挙げている。それらは、@稀に見る極悪非道の犯罪であるAあと半年で二十歳になるにもかかわらず「十九歳少年」と匿名化され、事件の本質が隠されているB昭和二十四年に施行された少年法は、著しく現実と乖離しているC以上の論拠について、編集スタッフ及び筆者の全面同意が得られたーーである。
極悪な事件だからといって、まだ司法手続きが終わっていない段階で、被疑者や被告人を懲らしめていいということはない。刑罰は公開の裁判で言い渡される判決にのみ基づいて行われる。それ以外の刑罰はリンチである。もうすぐ二十歳だから少年とは言えないというのでは、法律に年齢を明記する意味がない。憲法だって同じころに制定されている。古い法律だから現実と乖離しているとは言えない。代用監獄を認めている監獄法は明治四一年に施行されているが、新潮社の雑誌が改正を求めているという話はない。「フォーカス」の少年顔写真掲載(姓名は伏せた)の時は、編集部で意見が分かれて、最終的に編集長が迷いに迷って決断したというが、本件では編集スタッフが「全面同意」したというのだから、驚いてしまう。
少年の犯罪の急増が大きな社会問題だと編集部は主張するが、本当にそうだろうか。また米国や英国でも少年が実名報道されるとよく言われる。しかし、英国でも極めて例外的ケースとして判決の後、実名が公表されたことがある。自治体が少年たちの姓名を変更するという手続きを終えてからである。米国でも現行犯逮捕などで実名が出るケースが増えているが、原則は匿名であることをメディアはあまり伝えない。
新潮社の雑誌による「成人の場合はいつも実名なのに、二十歳未満だからと言って匿名にするのはおかしい」という主張は、ある意味で理解できる。二十歳以上の市民の場合も、被疑者・被告人の姓名は原則として報道すべきではない。二十歳をすぎた市民にも更正の機会を与えるべきだ。公人・準公人による職務上の犯罪容疑、不適切な行為の疑いがある場合は顕名報道すべきだ。北欧で実践されている匿名報道主義を導入することでこの矛盾は解決される。少年法の精神をできるだけ成人にも適用していくのが、犯罪をなくしていくこにもつながる。繰り返すが、だからと言って、少年の匿名報道は意味がないということでは全くない。
被告代理人は、成人の実名報道が許されているから、少年を実名報道することが違法になるというのは不当だと主張している。私は、成人の被疑者の実名報道が、原則として報道倫理に反すると考えている。だから、少年の匿名報道を成人にも適用すべきだと提案してきたのである。
そもそも報道機関は犯罪の加害者が誰であるかを決めたり、犯罪を犯した人に刑罰や制裁を与えるために存在するのではない。メディア企業の定款に、犯罪者に対して社会的制裁を与えることを業務とすると書いている会社はない。八九年一二月に読売新聞が他社と共に、「容疑者の呼び捨て廃止」を決めた際、犯罪者に社会的制裁を加えることは新聞の役割ではないという社告を出した。また毎日新聞は、すべての被疑者は無罪を推定される権利を持つと明言した。この二つの法律、社会的ルールの上に立って報道や論評がなされるべきであろう。
本件記事について各新聞社が《タブーなき報道といいながら、実は「私刑」ではないのか。(中略)法律の規定を曲げて、更生の規定を曲げて、更生の芽を摘む権利はだれにもない」(九八年二月一九日の朝日新聞社説)「ひとりよがりな法への挑戦と言わざるを得ない》(二月二三日の読売新聞社説)などと厳しく批判したのは当然だろう。前述したように、各新聞社による新潮社批判は、自らの成人実名報道にも向けられるべきだろう。
高山氏や新潮社は、犯罪が起きる社会的要因を探り、犯罪者を矯正するための仕組みをどうするかなどの議題設定を行うべきであろう。市民全体の生活保障の充実、カウンセラー・保護司・ソーシャルワーカーなど専門家の育成などの必要性を訴えるのも大切である。
本件記事のように、「実名報道」することで、世間の注目を浴びようとするのは邪道であり、「事件の本質」から逆に目をそらすことになる。二 なぜ匿名報道主義か
被告代理人が言及している私の匿名報道主義について、私がなぜそれを主張するようになった背景、提案が日本社会でどのように受け止められてきたかを述べてみたい。
私は九四年に二二年間勤めた共同通信を退社し、同志社大学教員となった。入社二年後の七四年に冤罪事件(九一年東京高裁で無罪が確定した小野悦男さん)に出会って、人権と犯罪報道の問題にかかわるようになった。私が『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、八七年に講談社文庫)を書いて以来、多くの人々に励まされてきた。本件被告代理人の岡田宰弁護士も私の問題提起を真剣に受け止めてくれた多くの人々の一人である。
私は日本弁護士連合会の「自由と正義」八四年一二月号で「新聞こそ冤罪づくりの主犯」と題して、新聞・通信社、放送局ニュース部門などの「正統派ジャーナリズム」幹部たちは、「週刊誌やテレビのワイドショーはひどいが、我々はちゃんとやっている」と言っているが、犯罪報道で「警察が逮捕・捜索差押など強制捜査に踏み切れば、被疑者の実名、写真、住所などを報道する」という基準を捨てない新聞社にこそ最も重い責任があると主張した。》
▼大阪高裁での少年の実名報道容認判決要旨(三月一日の読売新聞)
新潮社の少年犯罪の実名報道をめぐる控訴審判決の要旨は次の通り。
【当裁判所の判断】
1 表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、慎重に判断しなければならないが、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、違法なプライバシー権等の侵害とはならないと解するのが相当である。
2 次に、実名報道されない人格的利益ないし実名報道されない権利について検討するに、人格権には、自己に不利益な事実に関し、みだりに実名を公開されない人格的利益も含まれているということができる。しかし、人格的利益が法的保護に値する利益として認められるのは、報道の対象となる当該個人について、社会生活上、特別保護されるべき事情がある場合に限られるのであって、そうでない限り、実名報道は違法性のない行為として認容されるというべきである。
ところで、少年法六一条には「家庭裁判所の審判に付された少年または少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知できるような記事または写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」旨規定されている。この規定は、少年の名誉・プライバシーを保護し将来の改善更生を阻害しないようにとの配慮に基づくものであるとともに、記事等の掲載を禁止することが再犯を予防する上からも効果的であるという見地から、公共の福祉や社会正義を守ろうとするものである。
すなわち、同条は、少年の健全育成を図るという少年法の目的を達成するという公益目的と、少年の社会復帰を容易にし、特別予防の実効性を確保するという刑事政策的配慮に根拠を置く規定であると解すべきであり、罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできない。仮に実名で報道されない権利を付与しているものと解する余地があるとしても、少年法がその違反者に対して何らの罰則も規定していないことにかんがみると、同条が表現の自由に当然に優先すると解することもできない。
罰則規定のないことは、このような規定の順守をできる限り社会の自主規制にゆだねたものであり、新聞紙その他の出版物の発行者は本条の趣旨を尊重し、良心と良識をもって自己抑制することが必要であるとともに、受け手の側にも、本条の趣旨に反する新聞紙や出版物、発行者に対して厳しい批判が求められているものというべきである。
表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、少年法六一条の存在を尊重しつつも、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には違法なプライバシー権等の侵害とはならないといわなければならない。
3 本件は通学、通園途中の女子高生及び幼稚園児と園児の母親が路上で殺傷されるという悪質重大な事件であり、社会一般に大きな不安と衝撃を与え、社会的に正当な関心事であった。
4 本件は極めて凶悪重大であり、被控訴人が現行犯逮捕されていることと、被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無残にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば、実名報道をしたことが直ちに被控訴人に対する権利侵害とはならないといわなければならない。
本件記事に実名が記載されたことにより、被控訴人が社会復帰した後の更生の妨げになる可能性が抽象的にはあるとしても、そして更生の妨げになる抽象的な可能性をも排除することが少年法六一条の立法趣旨であるとしても、そのことをもって控訴人らに対する損害賠償請求の根拠とすることはできない。
本件の被疑者が十九歳とはいえ少年であり、顔写真がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは解されず、しかも用いられた写真が中学卒業時のアルバム写真で、犯行時のかなり前のものであることからすると、写真掲載の必要性については疑問を感じざるを得ない。
しかし、本件事件の重大性にかんがみるならば、写真掲載をもって、表現内容・方法が不当なものであったとまではいえず、被控訴人に対する権利侵害とはならないといわなければならない。
5 本件記事は、少年法六一条に明らかに違反し、社会的に相当ではなく、法務省が、人権侵害に当たることは明白であるとして、発行元の控訴人会社に対し、再発防止のため適切な処置をとるとともに関係者への謝罪などの措置を講じるように勧告している。
しかしながら、以上の検討によれば、少年法六一条に違反した記事が報道されたとしても、そのことから直ちにその報道の対象となった当該少年個人について損害賠償請求権が認められるものではなく、本件記事は、被控訴人の主張するプライバシー権等の侵害には当たらないといわなければならない。
Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.03.28