意見書 平成一○年一○月三一日
千葉県柏市松葉町七丁目一三番地六号
同志社大学文学部社会学科教授
浅野健一大阪地方裁判所第八民事部御中
はじめに
本損害賠償請求事件被告の株式会社新潮社訴訟代理人は、九八年八月二八日付の準備書面(被告第一回)第10頁において、《少年法のの六一条の立法目的の一つが少年の更生と社会復帰を図るというものであるならばそれは対象が少年のみに限られる理由もない)匿名報道主義の提唱者である浅野健一教授も匿名報道一般を提唱しているのであって、「二○歳過ぎた成人にだって将来はあると」とし、こと少年のみの匿名報道は意味がないとしている[神戸事件でわかったニッポン・双葉社・一五八頁]》と述べている。
被告代理人による私の著作の引用は極めて部分的であり、不正確というより、正反対の意味にとられる可能性も強いので、私が一五年前から展開してきた逮捕段階での被疑者実名報道原則に対する批判と、北欧に学んだ匿名報道主義について、貴裁判所に私の見解をお伝えしたい。私の経歴と著作については末尾を参照していただきたい。
一 「事件の本質」を見えなくした実名記載
私は「こと少年のみの匿名報道は意味がない」とは全く考えてもいないし、どこにもそのようなことは書いたり、話したりしたことはない。少年に適用されている匿名報道を、成人についても、原則として導入すべきだと提案してきたのである。従って、現在、新潮社などの一部言論機関を除いて、ほとんどのメディアで行われている少年の匿名原則を「意味がない」とは考えない。それどころか、マスメディア従事者は、報道倫理の問題として、少年法の精神を大人にも適用すべきだと主張している。このことは、代理人が引用している『神戸事件でわかったニッポン』の私の記事の全体を読んでいただければ明らかであろう。
私は新潮社のような立派な文学作品などを出版している会社が、敢えて「法に抵触する」と宣言してまで、本事件の少年の実名などを伝える必要性はないと思う。出版社は再販制度など多くの特権で守られているのは、民主的な社会をつくるための文化活動をしているという前提からである。メディア企業が、法律を違反してまで、問題提起しようとする自由があることを私は否定しない。ただし、法に触れても伝えるべき内容かどうかだ。少年のアイデンティティを明らかにするパブリック・インタレスト(民主的な自治を行うために市民の権利や利益に必要な情報)があるかどうかが問われる。
神戸事件の時のように、新潮社発行の「フォーカス」が捜査段階(逮捕から数日後)顔写真を掲載したり、一部インターネットで姓名、親の職業、家族関係などが伝わったのは論外であろう。
「ノンフィクション作家」、高山文彦氏が「新潮45」九八年三月号に書いた一六頁にもわたる文章を読んでも、「事件の本質」はよく分からなかった。当時、家庭裁判所の審判を受けていた少年の姓名、「中学卒業時の顔写真」の掲載だけが「衝撃的」であった。また、事件を「虐殺」と呼び、犯行の模様を生々しく伝えているのが特徴だろう。そのほかは、母親を中心に家族のプライバシーを長々と書いているだけだ。少年の家に入って、家族の様子を描くという取材・執筆方法そのものが妥当だろうか。家族は高山氏の取材を心から受け入れていたのだろうか。少なくともこのような記事が大手出版社から実名で掲載されるとは考えてもいなかったのではないか。
事件のポイントは、少年がなぜ「シンナーの錯乱による犯行」を起こしてしまったかだろう。シンナー中毒になった背景、そして家族や地域社会がどう対応したかだろう。なぜ地域社会は彼を救出できなかったか。この種の犯罪の再発を防ぐためには、薬物中毒をどう防ぎ、中毒に罹った患者の治療とリハビリをどうするかを検討すべきであろう。加害者の個性、生い立ちに重点を置きすぎると、社会的にどういう問題点があるのかが不明確になると思う。
記事は裁判の見通しに触れ、《△△は早晩、この町に帰ってくる》(△△は記事では実名)と締めくくられている。要するに、神戸事件の時の新潮社、文藝春秋の雑誌、産経新聞などが展開してきた「今の少年法では、またこの種の凶悪犯罪が起きる」というほとんど根拠のないキャンペーンの一環なのだ。
山口正紀読売新聞記者(人権と報道・連絡会世話人)が「週刊金曜日」九八年三月一三日号で書いているように、編集部が銘打った「衝撃のノンフィクション」とは、「シンナーの錯乱による犯行」の生々しい描写、違法と認めた上で、それを「売り物」として掲載した実名、顔写真だけだった。
高山氏の文章に実名を掲載したからと言って、記事の迫力も増していないし、市民の知る権利にこたえているとは到底思えない。
「新潮45」編集部は高山氏の「ルポルタージュ」の末尾に、《●小誌はなぜ“十九歳少年”を「実名報道」し顔写真を掲載したのか》と題して、「あえて少年法に抵触した理由」を四点挙げている。それらは、@稀に見る極悪非道の犯罪であるAあと半年で二十歳になるにもかかわらず「十九歳少年」と匿名化され、事件の本質が隠されているB昭和二十四年に施行された少年法は、著しく現実と乖離しているC以上の論拠について、編集スタッフ及び筆者の全面同意が得られたーーである。
極悪な事件だからといって、まだ司法手続きが終わっていない段階で、被疑者や被告人を懲らしめていいということはない。刑罰は公開の裁判で言い渡される判決にのみ基づいて行われる。それ以外の刑罰はリンチである。もうすぐ二十歳だから少年とは言えないというのでは、法律に年齢を明記する意味がない。憲法だって同じころに制定されている。古い法律だから現実と乖離しているとは言えない。代用監獄を認めている監獄法は明治四一年に施行されているが、新潮社の雑誌が改正を求めているという話はない。「フォーカス」の少年顔写真掲載(姓名は伏せた)の時は、編集部で意見が分かれて、最終的に編集長が迷いに迷って決断したというが、本件では編集スタッフが「全面同意」したというのだから、驚いてしまう。
少年の犯罪の急増が大きな社会問題だと編集部は主張するが、本当にそうだろうか。また米国や英国でも少年が実名報道されるとよく言われる。しかし、英国でも極めて例外的ケースとして判決の後、実名が公表された。自治体が少年たちの姓名を変更するという手続きを終えてからである。米国でも現行犯逮捕などで実名が出るケースが増えているが、原則は匿名であることをメディアはあまり伝えない。
新潮社の雑誌による「成人の場合はいつも実名なのに、二十歳未満だからと言って匿名にするのはおかしい」という主張は、ある意味で理解できる。二十歳以上の市民の場合も、被疑者・被告人の姓名は原則として報道すべきではない。二十歳をすぎた市民にも更正の機会を与えるべきだ。公人・準公人による職務上の犯罪容疑、不適切な行為の疑いがある場合は顕名報道すべきだ。北欧で実践されている匿名報道主義を導入することでこの矛盾は解決される。少年法の精神をできるだけ成人にも適用していくのが、犯罪をなくしていくこにもつながる。繰り返すが、だからと言って、少年の匿名報道は意味がないということでは全くない。
被告代理人は、成人の実名報道が許されているから、少年を実名報道することが違法になるというのは不当だと主張している。私は、成人の被疑者の実名報道が、原則として報道倫理に反すると考えている。だから、少年の匿名報道を成人にも適用すべきだと提案してきたのである。
そもそも報道機関は犯罪の加害者が誰であるかを決めたり、犯罪を犯した人に刑罰や制裁を与えるために存在するのではない。メディア企業の定款に、犯罪者に対して社会的制裁を与えることを業務とすると書いている会社はない。八九年一二月に読売新聞が他社と共に、「容疑者の呼び捨て廃止」を決めた際、犯罪者に社会的制裁を加えることは新聞の役割ではないという社告を出した。また毎日新聞は、すべての被疑者は無罪を推定される権利を持つと明言した。この二つの法律、社会的ルールの上に立って報道や論評がなされるべきであろう。
本件記事について各新聞社が《タブーなき報道といいながら、実は「私刑」ではないのか。(中略)法律の規定を曲げて、更生の規定を曲げて、更生の芽を摘む権利はだれにもない」(九八年二月一九日の朝日新聞社説)「ひとりよがりな法への挑戦と言わざるを得ない》(二月二三日の読売新聞社説)などと厳しく批判したのは当然だろう。前述したように、各新聞社による新潮社批判は、自らの成人実名報道にも向けられるべきだろう。
高山氏や新潮社は、犯罪が起きる社会的要因を探り、犯罪者を矯正するための仕組みをどうするかなどの議題設定を行うべきであろう。市民全体の生活保障の充実、カウンセラー・保護司・ソーシャルワーカーなど専門家の育成などの必要性を訴えるのも大切である。
本件記事のように、「実名報道」することで、世間の注目を浴びようとするのは邪道であり、「事件の本質」から逆に目をそらすことになる。二 なぜ匿名報道主義か
被告代理人が言及している私の匿名報道主義について、私がなぜそれを主張するようになった背景、提案が日本社会でどのように受け止められてきたかを述べてみたい。
私は九四年に二二年間勤めた共同通信を退社し、同志社大学教員となった。入社二年後の七四年に冤罪事件(九一年東京高裁で無罪が確定した小野悦男さん)に出会って、人権と犯罪報道の問題にかかわるようになった。私が『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、八七年に講談社文庫)を書いて以来、多くの人々に励まされてきた。本件被告代理人の岡田宰弁護士も私の問題提起を真剣に受け止めてくれた多くの人々の一人である。
私は日本弁護士連合会の「自由と正義」八四年一二月号で「新聞こそ冤罪づくりの主犯」と題して、新聞・通信社、放送局ニュース部門などの「正統派ジャーナリズム」幹部たちは、「週刊誌やテレビのワイドショーはひどいが、我々はちゃんとやっている」と言っているが、犯罪報道で「警察が逮捕・捜索差押など強制捜査に踏み切れば、被疑者の実名、写真、住所などを報道する」という基準を捨てない新聞社にこそ最も重い責任があると主張した。
共同通信記者だった私はその前年末、月刊誌「マスコミ市民」で連載を開始、八四年九月に『犯罪報道の犯罪』を出版して、捜査当局が逮捕というアクションをとれば、未成年者と精神医療ユーザーを除いて、実名報道していいという報道基準は、お上にしょっぴかれた者は悪い人間という江戸時代の瓦版以来の封建的意識であると指摘。実名報道されると、逮捕された人が裁判で犯人でなかったということが分かっても、警察に疑われるにはそれだけの理由があった、と考える人々が多い。ジャーナリストは社会の水先案内人として、逮捕されたら悪人という前近代的な思考方式を捨てるべきだと主張して、北欧で実践されている犯罪報道の方法を導入するよう提言した。
私が事件報道の現場で悩んでいるときに世に出たのが、七六年に日本評論社から出版された日弁連編『人権と報道』である。この本の第三章「報道と公共性」で、「世間の関心ないし好奇心がそのまま公共の利害につながるわけでは決してない」「犯罪報道の必要性を主張するいかなる見解に立っても、氏名の公表を必要とする理由は見い出せない、と考える。少なくとも無罪の推定を受けているはずの被疑者・被告人に対しては、原則として、氏名を公表することなく報道すべきである」などという見解が示されていた。私はこれを読んで、匿名報道主義の理論化の基礎にした。『人権と報道』の編集責任者だった北山六郎弁護士は「当時、貴兄のスウェーデン視察と報告が先行していれば、もっと匿名主義を明確に打ち出していただろうと思う」と表明した。『犯罪報道の犯罪』が出た後、絶版になっていた『人権と報道』が復刊され、私が帯の推薦文を書いた。
平川宗信名古屋大学教授が「自由と正義」九七年八月号などで論じているように、この国のジャーナリズムの犯罪報道は、一部で小改革は実施されたものの、捜査当局者の視線で取材報道し、大事件が起きる度に「犯人探し」でスクープ競争に集中し、毎日のように被疑者・被害者の市民の名誉・プライバシーを侵害している。前近代的な犯罪報道は今世紀のうちに改革したいと私は願っている。犯罪報道による報道被害が、どのようなときに、どのように、どうして起きるかを現状分析し、被害をなくすための仕組みをいかに構築すべきかを検討したい。
私は七六年に日本弁護士連合会が『人権と報道』(日本評論社)で初めて提起した「被疑者の匿名原則」をテキストにして、千葉県内法律家の人たちと共に学習しながら、匿名報道主義とメディア責任制度の理論を確立していった。裁判官の方々からもさまざまなアドバイスを受けた。新聞記者からよく聞くところのよると、現職の裁判官が私の本を読むように記者たちにすすめているそうだ。
私は、メディアが捜査当局の強制捜査を実名を出す基準としているのは警察依存体質の現れであり、公正な裁判を受ける権利を侵害し、冤罪を生み出す要因になっていると指摘。メディアは被疑者・被告人を原則として匿名とし、刑事事件に関係していると疑われた人の姓名が人民の権益と関心にとって重要な場合だけ顕名にすべきだと主張した。メディアは匿名報道主義を含む報道倫理綱領を策定し、日々の取材・報道で綱領を順守しているかどうかを監視する報道評議会・プレスオンブズマン制度設立を提唱した。
八五年七月には人権と報道・連絡会(東京都杉並南郵便局私書箱23号、ファクス03ー3341ー9515)が誕生した。報道被害者、記者、法律家、研究者、市民、学生など五百人が会員になり、メディアによる人権侵害を調査し、改善を求めている。
法律家の多くは、私たちの提案と運動を支持してくれたが、青年法律家協会・自由人権協会などリベラルな考え方を持つ一部の人々が「匿名報道主義危険(慎重)論」を言い出し、連絡会はメディアを糾弾し過ぎると主張し始めた。連絡会のやり方は性急すぎて、マスメディア内部で改革を志す人まで排除しているという批判だった。
こうした人たちの多くはメディアの現場の事情に比較的疎い人が多かった。メディア企業の顧問弁護士も多い。秋山幹男氏が朝日、山川洋一郎氏が読売、飯田正剛氏がテレビ朝日、林陽子氏が文藝春秋のそれぞれ顧問弁護士をしている。メディア相手の民事裁判を見ると、被告側の代理人に、他の分野では人権や環境を守るために活躍している「リベラル派」「民主団体」の弁護士がなっているのを見て驚くことが多い。
報道機関(特に朝日新聞、共同通信)の幹部は、「情報公開のない日本では、捜査当局の逮捕時点で被疑者の身元を明らかにすることによって冤罪を防いでいる」「実名報道主義を止めれば警察は被疑者を匿名発表してくるのは必至で、警察が被疑者を闇から闇に葬り去る暗黒社会になる」という、まことによくできた「理論」を打ち立てて宣伝した。警察担当記者を一週間でもやれば、現在の社会部記者のほとんどが、警察権力のチェックのために取材活動をしているというのは全くの詭弁であることが分かる。しかし教育、医療、安全保障問題などで進歩的立場をとるメディア幹部が、警察権力を監視するために取材していると釈明すると信じてしまったのだ。かなりの法律家、研究者がこの「権力チェック論」に騙された。田島泰彦神奈川大学教授のように、報道機関は無罪推定の原則には縛られないと明言する人まで現れた(詳しくは『犯罪報道とメディアの良心』第三書館参照)。
八七年に熊本で開かれた日弁連の人権大会は人権と報道をテーマにして開かれたが、執行部の提言案に匿名報道原則は入っていなかった。むしろ匿名報道主義をすぐに導入するのは危険という立場を鮮明にしていた。パネリストは読売新聞の実名主義擁護者、新潮社の訴訟担当者らであった。そのため三億円事件の報道被害者や「ロス疑惑報道」でメディアに集中砲火を浴びた青年実業家の父親らが会場から反論。会員の弁護士からも異論が続出、執行部は「原則匿名の実現に向けて」という文言を挿入した。「なぜ匿名原則を外すのか」「実名報道が冤罪を防いだケースはあるのか」などとフロアーから発言した人たちはほとんどは冤罪事件で闘った弁護士だった。警察の違法不当な捜査を肌で知っている人たちであった。
その後、一部の研究者の中にも、反匿名主義を主張する人たちが現れ、メディアはこぞってこういう学者を登場させて、実名報道主義を維持してきた。その結果が九三年頃からの逆流現象である。甲府の信用金庫職員誘拐殺人、大阪と関東の愛犬家殺人、つくば妻子殺害などで、犯罪報道が情緒的にまたセンセーショナルになった。そしてサリン事件である。八九年末にメディア界が一致して始めた被疑者の呼び捨て廃止では、各社は「推定無罪の原則を守る」(毎日)「犯罪報道は社会的制裁を目的にしない」(読売)と宣言したのだが、熱病に冒されたようなサリン・オウム報道でこれらの公約は吹っ飛んでしまった。
オウムの国選弁護団に対する中傷もあった。麻原被告に対する予断と偏見を隠さないオウム裁判報道が展開されて、報道が捜査に協力するのは当然という主張が出てきた。別件・微罪逮捕も止むなしというコメントが連発された。大事件が起きる度に、瞬間湯沸かし器のようにセンセーショナルな報道が展開される。「フォーカス」は少年法を無視してローティーンの被疑者の顔写真を掲載した。
当局に逮捕された人間は悪い奴で、凶悪事件で拘束されている人に人権なんかを認めるなという風潮が強まっている。裁判で刑事罰を決めるというのは、社会のルールである。経済不況で社会全体がぎすぎすする中で、誤った正義感を抱いた多くの市民が、裁判に苛立ちを見せ、社会的処罰欲を強めている。こうした世論の押されて、保守的メディアを先頭に、「最近、日本では加害者の人権ばかりが擁護されて被害者の人権はおざなりにされている」というキャンペーンが展開されている。
被疑者の人権と、被害者の人権は両方とも大切なのに、両者を対立的に扱う人たちが現われた。
飯室勝彦・田島泰彦・渡辺眞次各氏が編者になり明石書店から出版した『報道される側の人権』(九七年)では、人権と報道をめぐっての著作で、被害者の権利の問題はほとんど論議されなかったか軽視されてきたと書いている。(この本の中には人権と犯罪報道に関係した著作が参考文献として挙げられているが、私や連絡会の仲間が出版した本は全く入っていない)。私たちは繰り返し、被害者の匿名原則を主張してきた。捜査段階で被疑者をその家族もろとも抹殺する実名犯人視報道がエスカレートした結果、マスメディアは事件の被害者のプライバシーまで商売のネタにするレベルにまで退廃したのである。諸悪の根源は官憲のアクションに依存する実名犯人視報道である。
公害問題、悪徳商法、ODA、薬害などマスメディア以外の問題であれば、行政や企業を徹底的に批判してきた。残念なことに人権と犯罪報道の分野になるとメディア企業の幹部(特に社会部系)のプロパガンダに影響されて批判のトーンが弱まるようだ。確かに表現の自由にかかわる問題だけに慎重な姿勢を取らざるを得ないという側面もあるように思う。しかし、メディア企業はNHKを除いて完全な私企業である。市民の基本的人権を白昼堂々と無視している現状を法律家が看過していいのだろうか。
河野さんは、自身への報道被害を「古典的なパターン」だという。メディアが謝罪をしても犯罪報道の構造を変えようとしないのは、加害者意識が薄いからだと見ている。河野さんは、「松本サリン事件も三月四日からやっと被害者の証言が始まる。これから真相が解明されようとしているわけだが、世論は麻原さんらオウムがやったと判断している。マスメディアが憲法に決められた推定無罪の原則を破っていいわけがない。メディアは今も公然と法律違反を続けている」と述べている。
あらゆる運動と同じように、人権と報道を論じる時には、まずメディア企業による公害の実態を知ることだ。河野さんら捜査と報道によって殺されそうになった市民の傷みを共有することから出発すべきだと思う。青法協が今後、メディアによる被疑者と被害者へのリンチのおそるべき実態を調査し、一般の企業と同程度の品質管理を行うよう要求してほしいと思う。メディアに対してはしばらくは容赦ない批判を向ける必要がある。三 少年非行とメディア
神戸連続児童殺傷事件の小学六年生の両親が、少年とその両親に一億円の民事訴訟。事件の内容を知りたいという遺族の気持はよく理解できる。しかし、刑事裁判とは違って、非公開での少年法との関係はどうなるのか。被害者の遺族の中には、『彩花ー「生きる力」をありがとう』(河出書房新社)の著者山下京子さんのように、加害者とされている少年をも包み込んであげたいという人もいる。
被害者の遺族が加害者と認定された少年と家族を相手取って民事訴訟を起こす権利はあるので、それを行使するのは当然だろう。神戸事件報道を振り返ると、犯人探しをやめないメディアの問題がここにもあった。「中年男」はどこへいったのだろう。たった三分の県警捜査一課長の記者会見で少年を犯人と断定し、それまで取材してきた多くの目撃証言を無視した。無罪推定の法理や客観報道の原則を無視した報道が展開された。殺された少年の親をにアリバイの有無を聞いた大新聞記者もいた。
田島泰彦神奈川大学短期大学部教授が、「フォーカス」不買を、「見る権利を奪った」と批判した。民主団体系学者と新潮社の論理は酷似している。「表現の自由」を制限するものをすべて非難するのだ。表現の自由とマスメディア企業の自由はイコールではない。少年の顔を見たいとか、少年の両親に「記者会見しろ」という文化人(林真理子氏ら)も多かった。家族が自殺するのを待っているのかとさえ考えた。「フォーカス」などの広告を載せる大新聞も問題である。
九七年一○月一七日に少年の処分が決定した。警察の取調官が筆跡鑑定が一致したと虚偽の事実を伝えて、男児殺害事件の自白を強要、裁判官が取調官に対する供述調書を排除。違法捜査が明るみに出たのに、毎日新聞以外はほとんど取り上げなかった。筆跡鑑定が一致しないということは、第二犯行声明文は誰が書いたのか。祖母の死が原因などの検察主張も採用しなかった。憲法違反の捜査なのに、捜査一課長は「捜査は適正」とコメント。メディアはほとんど取り上げなかった。少年は「警察官にだまされていた、悔しい」と弁護士に泣いて訴えていたのに、弁護団は抗告せず処分が確定した。
少年犯罪はそう増えているわけでもないのに、メディアが大きく報道している。月刊文春の神戸少年の検察官調書の掲載。続いて「新潮45」の堺の少年の実名、写真掲載があった。
次に、高山文彦氏の奄美差別問題がある。私は九八年八月末、奄美大島で調査した。その後、別の島へも行き、神戸事件の「加害者」の少年のルーツをたどると称して、警察の広報役を務めたフリーライターの取材の跡を検証した。
「週刊宝石」九七年七月二四日号出、大林高士(ジャーナリスト&本誌取材班)は「少年Aの父親は、沖縄にほど近い、ある離島の出身だ」「伯父にあたる人物」の勤務先に取材に行っている。少年が三年前に父親の郷里を訪れている。小学校五年生の時だ。大林氏は、「凶悪犯罪者を身内から出した」「親戚縁者のつながりは強い」などと記述した。
「新潮45」九七年一○月号で高山文彦氏(ノンフィクション作家という肩書き)が「沖永良部島の残照」と題してとんでもない記述をしている。冒頭で、大林氏の記事を引用している。高山氏はA少年の両親の出身地 を訪れ、親類の発言を引用した。神戸のニュータウンと人間的な島を単純に対比して、情緒的な文章を書いている。タンク山のことを「風葬の儀式を行おうとしていたのではないか」と根拠もなしに結び付けた。高山氏は「たしかにこの島には、病人を癒すためにユタの導きにしたがって牛や山羊の首を切り落とし、神に生贄として捧げる儀式があった。海流でつながる東南アジアの少数民族のなかには、少年が大人になるための通過儀礼として、ほかの部族の首を刈りに行かせる儀式があったことも広く知られている。彼らは生首を祀り、少年を祝福した」「島では昭和の中ごろまで。十四歳になると大人として認められ」などと書いている。
単行本『地獄の季節』では首切り云々の箇所を削除している。「家畜を使った生贄の儀式」などと一部書き換えた。
高山氏の記述には次のような問題がある。
1 「新潮45」が出たとき、A少年は司法手続きの途中の段階(精神鑑定)であり、加害者と断定されていなかった。(現在に至っても、事件の真相は十分解明されていない)
2 仮に少年が加害者としても、父親の出身地と事件にどういう関連性があるのか、簡単にわかるはずがない。これをノンフィクションと言えるのか。高山氏の出身地を分析してみても仕方がない。小渕首相やクリントン大統領の出身地なら調べる意味もあるだろう。日本の国会議員の地縁血縁も報道していいだろう。
3 高山氏は、検察の主張がさまざまな点で矛盾しているのに知らん顔である。少年が猫の舌をビンに詰めていたなどという完全なでっちあげを鵜呑みにするなど、レベルが低すぎる。
新潮社以外のメディアの中にも、須磨という地区の土地柄についての常軌を逸した記述があった。須磨を「悪魔が住む」(九七年七月五日付の夕刊フジ)などという言葉あそびまで。被害者の母親に「鬼腹」と書いた週刊誌もあった。私は少年による事件について、審判の手続きで、でっちあげが起きる可能性がある点だけが問題だと思ってきた。従って、少年法の一部改正が必要と考える。しかし、現在のように、一部マスメディアによるセンセーショナルな報道に影響されて、少年法の精神を骨抜きにし、厳罰化を目論む風潮の中での性急な改正作業は危険と判断する。
サリン事件の時もそうだったが、刑事手続きが進んでもいない段階で、宗教法人法の改正論議が先行した。今はカルトについてほとんど論じられていない。
少年非行についても、専門家の間で、戦後の第三の波が来ているかどうか慎重に見極めがなされている段階である。非行件数は、成人の犯罪でも同じだが、捜査当局がどれだけ積極的に事件として扱うか、またマスメディアがどう取材し、報道するかで、かなり変わってくる。メディア現場では、デスクから「少年事件ならどんな小さなものでも記事にするように」という指示があるという。数年前なら報道されなかったような事件も、最近では段が立つのである。加害者が誰かも分からないのに、「中学生の郵便局強盗」という見出しになったのこともあった。
政府自民党は少年法の改正を、法政審議会にかけずに、いきなり改正しようとしている。一部メディアの後押しで、強行される危険性がある。民主主義手続きを無視した強権的なやり方を絶対に許してはいけない。少年非行に長くかかわってきた現場の専門家や法律家、研究者、一般市民による冷静な調査と討議を経て、改正点を探るべきであろう。
この国では、少年院などの保護施設が少年のために機能しているかどうかが最大の問題。少年の人権が無視され、矯正というより懲罰的な色彩が強いと言われる。少年院などの更正施設を少年のために改善し、そこで働く専門家の待遇を改善し、プロを養成すべきである。
私は最近、ある少年院を見学した。少年院の担当者たちは、少年の実名報道、顔写真掲載はとんでもないことだと非難していた。神戸事件で処分を受けた少年の収容先を最高裁が発表したのは違法だとも指摘していた。四 『神戸事件でわかったニッポン』の記述
私が『神戸事件でわかったニッポン』(双葉社、九七年一○月)で「犯罪報道はリンチ/少年匿名原則から被疑者の匿名原則へ」と題して書いた原稿は以下のとおりである。
《神戸の小学生殺傷事件報道は、日本のマスメディアが重い病気にかかっていることと、その病気を治すための課題が何であるかを私たちに示した。厖大な数の取材陣を神戸に投入して、犯人は中年男であると断定して報道したのに、警察が逮捕した被疑者がローティーンの少年だったと知るや、少年を犯人と決め付けて警察のリークを垂れ流した。相変らずの無節操さである。
あれだけ多くの記者が警察幹部や捜査官に夜討ち朝駆け取材をしていたのに、少年逮捕をどこもキャッチできなかった。少年の任意同行、逮捕状の請求、逮捕状の発付、逮捕状の執行がすべて終わってから一時間半後にNHKが初めて報道した。NHKはこの記者に賞を与えたそうだが、全く呑気な協会だ。
私は捜査官の自宅に御用聞きのように毎晩出掛けていく夜回り取材の方法を批判してきた。また警察が逮捕や強制捜査した段階で被疑者を実名報道することをやめよと訴えてきた。しかし、大新聞や通信社の社会部幹部たちは「警察が誰を逮捕したかを取材しないと、誰が逮捕されたか分からなくなる」「我々が実名報道するから警察は捜査ミスをしないように慎重になる」と反論してきた。今回の神戸のケースは、こうした言い訳が全くの詭弁であることを示した。記者たちは警察を懐疑的には見ていない。警察は絶対に秘密にすると決めたら、情報がメディアに漏れないように管理できることがよく分かった。
被疑者が少年だったために、ほとんどのメディアは少年の姓名、住所などを報じなかった。読者、視聴者も戸惑いを見せながらも、未成年の被疑者は匿名にするという少年法の精神とメディアの報道基準に理解を示した。少年の個人の犯罪だと強調する小田晋教授らの宣伝にもかかわらず、若い世代の多くの人たちは、事件を社会的な問題としてとらえようとしている。
その一方で、凶悪事件で警察に捕まった奴は悪い奴だという単純な正義感を植え付けられた一部の若者が、「少年だからといって匿名になるのはおかしい」と考えた。「マスコミは少年法に縛られて動けない。情けない」という批判だ。そんな人たちの「論理」に便乗したのが、大出版社の新潮社が出している「フォーカス」だった。確信犯的に少年の顔写真を載せた。売れるに違いないという読みもあった。日頃から事件の被疑者・被告人に「晒し刑」を与えて恥じない雑誌だから驚くことはない。一般犯罪についての過剰な取材・報道ぶりはオウム報道を境にして、八○年代前半の水準に戻った。
「フォーカス」に刺激されて、インターネット上では、人を殺した人間は制裁を受けるべきだという論理で、少年の姓名、家族関係、親の職業などあらゆる情報が流れた。これを削除したプロバイダーに対して、言論統制だと批判した。自分たちが権力と闘っていると錯覚しているから気の毒だ。
近代国家の法律はどういう歴史を経てつくられてきたのかや、憲法や刑事法についてまともな勉強をしたことのない連中は、少年の実名報道ができないマスコミは腰抜けだと考えてしまう。小林よしのり氏の漫画を読んで、歴史が分かったように勘違いしている世代の特徴だろう。
警察に逮捕された奴は悪い奴で懲らしめて当然、という彼や彼女の考え方こそ、マスメディアの誤った犯罪報道によって形成されている。人殺しは八○歳でも一四歳でも同じように悪いという単純な思いだ。確かに少年の場合は匿名というのは分かりにくい。メディアは少年には人生をやり直すチャンスを与えるべきだというが、二十歳を過ぎた成人にだって将来はある。
少年だけが匿名原則という現在の報道基準に矛盾があるのだ。少年法は刑事手続きの問題だ。ジャーナリズムは被告人を裁いたり、刑罰を加える機関ではない。市民が民主主義的自治を行うために必要な情報を提供するのが仕事だ。
犯罪に関しては、警察に捕まった人の姓名が、市民の知る権利の対象であるかどうかを吟味すべきである。その際、被疑者の年齢は一要素に過ぎない。何歳以下は匿名で、それ以上は顕名というのはルールに説得力はない。スウェーデンの報道界は、マスメディア全体で決めている統一報道倫理綱領で、一般刑事事件の報道においては、その被疑者・被告人の姓名が一般市民の権利と関心にとって重要な意味を持つ場合を除き匿名を原則にしている。被疑者がまだ犯人とは決まっていないという無罪推定の原則と、犯人であったとしても家族などに影響があり、本人のスムーズな社会復帰の妨げになるという理由からである。政治家、高級公務員、大企業・大労組役員らの姓名は出るが、普通の市民の場合は現行犯で逮捕された凶悪事件の被疑者のようなケースを除いて匿名になる。「なぜ少年なら匿名なのか」という疑問にこたえるには、成人も匿名原則をとるしかないだろう。
▼「フォーカス」販売拒否は言論統制か
田島泰彦という名前の「メディア論」研究者がいる。私が主張する匿名報道主義に反対している神奈川大学短期大学部教授の彼は、九七年八月二六日に「ジャーナリズムを語る会」と毎日新聞労組などでつくる「ジャーナリズムを語る会」で、「販売も問題だが読み手が実物を見て批判する機会を奪ったのも問題」(毎日新聞)と述べたという。毎日新聞労組によると、この発言の前には、法務省の回収勧告などについての言及があったそうだが、田島氏の「凶悪事件」に関する見解から考えると、少年だからといって凶悪事件の被疑者の顔を「見る自由」を制限するのは不当だと主張しているのであろう。
少年の顔を見て何をどう批評しようというのだろうか。田島教授は「民主団体」や労働組合に評判のいい学者である。観念「左翼」系の学者に多い反応だが、メディアに何らかの制限、批判を加えると「言論への不当な介入」「言論には言論で対抗せよ」と主張する。田島教授らはメディアを相手に損害賠償裁判を起こすことにも慎重であるべきだ、とあちこちで書いてきた。
田島教授らには「フォーカス」も含め日本のマスメディアが私企業であり、企業である以上、食品メーカーと同程度の社会的責任はあるし、最低限の社会的ルール(それが法律と常に同じとは限らない)を守らなければならない。表現の自由が無条件に「私企業である新聞、出版社の報道の自由」とイコールではないのだ。
日本雑誌協会(田中健五会長)は八月二一日、書店やコンビになどが「フォーカス」の販売を取りやめたことは不当だとする声明を発表した。田島教授や雑誌協会幹部らに欠けているのは、報道される側が受ける市民の被害の深刻さに対する想像力である。神戸で審判を受けている少年本人、家族が、どういう思いでいるかを考えないのだ。少年の顔写真を私たちが見る必要はない。田島教授のプライバシーを私たちが知る必要がないのと同じくらい意味がないことだ。
流通業者が権力の圧力によって販売を自粛したなら問題だが、自分の判断で売るべきではないと決めるなら何も問題はない。販売ルートを遮断したから、実物を見る機会を奪ったというのはこの場合は全く当たらない。そんなに見たかったら新潮社に電話して郵送してもらえばいいのだ。
▼「被害者の人権」を守るということ
そこで出てくるのは、それでは「少年に殺された被害者の遺族の気持はどうなるのか」という疑問だろう。
殺された人の悔しい気持をマスメディアは代行する権利があるのかということだ。別の言葉で言えば、犯罪の加害者に対してマスメディアが社会的制裁を与える権利があるかどうかということになる。
江戸時代の瓦版以来、多くの人たちはメディアが犯罪の加害者を晒し者にして制裁を与えることは当然だと考えてきた。しかし冷静に考えてほしい。私たちの社会のルールは、犯罪の加害者に刑罰を加えることができるのは、公開の公正な裁判によって言い渡された確定判決による場合だけである。法手続きによらない刑罰は私刑(リンチ)とみなされる。仇討ちや復讐は許されていない。
そんなことはきれいごとだ。「悪い奴をマスコミが叩くのは当然だ」という人は、自分や自分の家族、友人がそう報道された時にも、当然だと言うのだろうか。
現在のルールがおかしいから変えろ、というなら私もある程度理解できる。つまりマスメディアに犯罪者をやっつけるという機能を法的にもたせるように法令を改正するのだ。その場合、現在のように警察の逮捕や強制捜索の段階で、被疑者(加害者ではない)を犯人として叩いいている現状をどう法的に説明するのか。また被疑者が不起訴になったり、裁判で無罪になった場合には、加害者ではない市民に刑罰を加えたことになるのだが、その責任を誰がどのような手段でとるのかを明確にしなければならない。
報道される側には、自殺に追い込まれるようなリスクを負わせながら、報道する側は結果的に何の責任もとらないというのではむしがよすぎる。
被疑者の人権と被害者の人権は対立するものではない。二者択一する対象でもない。両方とも大切である。殺人事件などが起きてしまった時に、まずすべきは被害者の遺族に対する援護である。犯罪被害者給付金制度など経済的支援と心のケアを公的に保証すべきだ。先進国では税金で犯罪被害者の支援を行っている。起こってしまった事件で、加害者にバッシングを加えるだけでは、何も解決しない。事件で家族の収入源畫が断たれた場合に、社会全体がサポートする態勢が必要なのだ。日本では交通事故で死亡した場合には、自賠責保険や任意保険か補償金が支払われるが、殺人事件だと、一千万にも満たない見舞い金がやっと支払われるようになっただけだ。
ワイドショーのように、「犯人は悪い奴」と叫んでも、遺族の生活にあまりプラスにならない。犯罪が起きないように、犯罪を誘発する悪徳金融をなくすとかの社会的努力と、起きてしまった後の救済策を充実させるようキャンペーンするのがジャーナリズムの役割だと思う。
▼両親の自殺を待っているのか
八月二七日の新聞各紙に掲載された「フォーカス」の広告に「少年A両親の居場所」という見出しがトップに載っている。新潮社は灰谷健次郎氏の版権引き上げという手段を使った抗議に全く耳を傾けず、少年の家族につきまとっていくのだ。これまでマスメディアに包囲された家族が自殺するケースが何回もあった。
また、審判を受けている少年の両親が、通り魔事件の被害者の少女の両親に謝罪の手紙を送っていたことが八月二0日朝刊で報道された。手紙を受け取った人の弁護人がメディアに明らかにしたようだが、私信を勝手に公開していいのだろうかと思った。
同日午前一一時から文化放送で放送された梶原しげるの「本気でDONDON」は、この謝罪をどう評価すべきかを特集した。番組の最後でマスメディアの報道について私も電話で出演した。
番組は街頭の市民に@両親の謝罪は評価できるかAあなたが被害者の両親であればどう思うかを聞いた。番組の途中で司会の梶原氏が、「もしあなたが加害者の両親だったらどうしたか」ーーという設問を追加するよう提案し、設問は三つになった。
「自分の子供が殺されたら」とは考えるが、「自分の子供が殺したら」とは考えない。梶原氏の視点は鋭いと思った。殺人事件は殺される人と殺す人の割合は約一対一である。どちらになるかの可能性は五分五分である。
番組全体が「加害者の両親」などと表現。ほとんどの発言者が「加害者」と断定していた。映画監督の大島渚氏は「記者会見など公の場で謝罪すべきだ」と主張した。作家の柳美里?氏も新聞、テレビで度々、「両親は記者会見せよ」と発言している。何という無神経さだろう。
少年には両親以外の家族もいる。両親が名前を名乗れば、少年の匿名報道の意味はなくなる。今のようなマスメディア情況で、両親が記者会見を開いたらどのようなことになるか考えてみたらいい。できるはずのないことをやれというのは、彼女のサイン会を妨害した人たちと同じレベルの暴力性を持つと私は考える。
両親は本当に少年がやったのだろうか、もし加害者だとしたらなぜこんな事件を起こしてしまったのいだろうかと悩み続けているはずだ。少年は加害者か、またなぜ事件が起きたかのかを家庭裁判所の審判が明らかにしているのだ。今はまず少年の精神鑑定が行われている。両親自身が何が起きたのかをきちんと確認すべきであり、何が何でも謝れというのは全く理解できない。
マスコミは両親や学校関係者が事件の全体像をつかみ、分析するための静かな環境をつくるべきである。
もし少年が加害者でなかったらという視点を忘れるべきではない。死刑囚再審無罪が四件もあったのが日本である。冤罪事件の被疑者・被告人の家族が、逮捕や起訴の段階で事件の被害者の遺族に謝罪していればどうなっただろうか。
詳しくは九七年八月に出版した『犯罪報道とメディアの良心』(第三書館)を参照してほしいが、大分県大分市で八一年に起きたみどり荘事件で警察とメディアに犯人扱いされて、九五年に福岡高裁で無罪が確定した輿掛良一さんのケースを見てみよう。被害者の両親は一四年近く彼を犯人として憎んできた。高裁判決は真犯人像にまで触れたが、大分県警は時効成立まで一年もあったのに再捜査をさぼった。両親はやり場のない気持で今もいる。西日本新聞の宮崎昌治記者が浅野・山口正紀編『無責任なマスメディア』に両親の近況を書いている。
▼河野義行さんから見た神戸報道
九四年六月に松本市で起きたサリン事件で、警察とメディアによって「毒ガス男」にされた河野義行氏は神戸事件の報道について次のような感想を私に伝えた。
〈メディアは松本サリン報道の時と全く同じ誤りを犯している。「フォーカス」は少年の顔写真掲載については、いろいろと理屈を並べているが、売るために載せたとしか思えない。推定無罪の原則はいったいどこへいったのだろうか。法の精神をを全く理解していない。仮に少年が犯人だとしても、家族は関係ない。そういうけじめもない。今の日本では容疑者が逮捕されたら犯人扱いされ、推定無罪がないに等しい状況である。私たちの社会は、法律を守って成り立つと思うが、無罪推定や黙秘権などの諸権利は自分たちが決めたルールなのに、平気でそれを否定するような言動がメディアにあるのはおかしい。メディアは事件を商品にしているだけだ。加工前の素材なんだと思う。〉
河野氏の自宅には、「河野さんを犯人と疑っていたことをお詫びしたい」という一般市民からの手紙が今も何通も届いている。河野氏は講演会などで「メディアと警察によって、私が犯人だ、凶悪犯だという悪想念を持たされてしまった。でっちあげの共犯者にされてしまった」と訴える。
河野氏は松本サリン事件で犠牲になった七人の遺族の人たちといまだにコミュニケーションがとれていない。「一時期私のことを犯人と思い憎んだのだと思います。どこかにわだかまりが残っているのではないかと思います。報道は私と遺族の皆さんとの間に深い溝をつくってしまった」。誤った報道、不必要な取材・報道は何の罪もない人たちをでっちあげの共犯者に仕立てあげてしまうのだ。》私の略歴(九八年一○月三一日現在)は次のとおりである。
浅野健一(あさの・けんいち)
1948年7月27日、高松市生まれ。66ー67年AFS国際奨学生として米ミズーリ州スプリングフィールド市立高校へ留学。72年、慶応義塾大学経済学部卒業、共同通信社入社。編集局社会部、千葉支局、ラジオ・テレビ局企画部、編集局外信部を経て、89年2月から92年7月までジャカルタ支局長。帰国後、外信部デスク。77ー78年、共同通信労組関東支部委員長。94年3月末、共同通信退社。
93ー95年慶応義塾大学新聞研究所非常勤講師。
94年4月から同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)、同大学大学院文学研究科教授。
96年12月から1年間、同志社大学教職員組合委員長。
共同通信社社友会準会員。人権と報道・連絡会(連絡先:〒168-8691 東京杉並南郵便局私書箱23号、ファクス03ー3341ー9515)世話人。日本マス・コミュニケ−ション学会会員。
著書
主著に『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『犯罪報道は変えられる』(日本評論社、『新・犯罪報道の犯罪』と改題して講談社文庫に)、『犯罪報道と警察』(三一新書)、『過激派報道の犯罪』(三一新書)、『客観報道・隠されるニュースソース』(筑摩書房、『マスコミ報道の犯罪』と改題し講談社文庫に)、『出国命令 インドネシア取材1200日』(日本評論社、『日本大使館の犯罪』と改題し講談社文庫)、『日本は世界の敵になる ODAの犯罪』(三一書房)、『メディア・ファシズムの時代』(明石書店)、『「犯罪報道」の再犯 さらば共同通信社』(第三書館)、『オウム「破防法」とマスメディア』(第三書館)、『犯罪報道とメディアの良心 匿名報道と揺れる実名報道』(第三書館)、『天皇の記者たち 大新聞のアジア侵略』(スリーエーネットワーク)、『メディア・リンチ』(潮出版)。
編著に『スパイ防止法がやってきた』(社会評論社)、『天皇とマスコミ報道』(三一新書)、『カンボジア派兵』(労働大学)、『激論・新聞に未来はあるのか ジャーナリストを志望する学生に送る』(現代人文社ブックレット)。共編著に『無責任なマスメディア』(山口正紀氏との共編、現代人文社)。
共著に『ここにも差別が』(解放出版社)、『死刑囚からあなたへ』(インパクト出版会)、『アジアの人びとを知る本1・環境破壊とたたかう人びと』(大月書店)、『派兵読本』(社会評論社)、『成田治安立法・いま憲法が危ない』(社会評論社)、『メディア学の現在』(世界思想社)、『検証・オウム報道』(現代人文社)、『匿名報道』(山口正紀氏との共著、学陽書房)、『激論 世紀末ニッポン』(鈴木邦男氏との共著、三一新書)、『松本サリン事件の罪と罰』(河野義行氏との共著、第三文明社)、『大学とアジア太平洋戦争』(白井厚氏編、日本経済評論社)、『オウム破防法事件の記録』(オウム破防法弁護団編著、社会思想社)、『英雄から爆弾犯にされて』(三一書房)などがある。
『現代用語の基礎知識』(自由国民社、1998年版)の「ジャーナリズム」を執筆。
監修ビデオに『ドキュメント 人権と報道の旅』(製作・オーパス、発行・現代人文社)がある。
資格 1968年、運輸相より通訳案内業(英語)免許取得
E-mail:kasano@mail.doshisha.ac.jp
VZB06310@niftyserve.or.jp
(電子メールの場合は、お手数ですが、両方に送ってください。VZBの後は数字の0です)
浅野ゼミのホームページ http://www1.doshisha.ac.jp/^kasano/
人権と報道・連絡会 ホームページ http://www.jca.ax.apc.org/~jimporen/welcome.html一九九八年一○月三一日 浅野健一
(了)
Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.03.28