わたしはなぜ野村沙知代さんと対談したのか

2000年3月3日午前、ある地方の「人権と報道」を考える市民団体のメンバーと名乗る人から人権と報道・連絡会のメンバーに電話があり、同日発売の「週刊金曜日」3月3日号に、私と野村沙知代さんの対談が掲載されていることをスポーツ新聞で知り、こういうことはやめてほしいと、私に伝えてほしい、述べた。
彼は次のように述べたという。
「スポーツ報知を見て、まだ雑誌の方は読んでないのですが、なんで浅野さんがサッチーのような人と対談しているのか、もうびっくりした。この記事の内容だけではわかんないが、やっぱり世間の人はサッチーでああいう人だとわかっているんですよ。起訴はされなかったけれど。新聞記事だけ見ると、浅野さんがサッチーを弁護しているから困ります。これからもいろいろやっていこうと思っているのに。これから裁判をやっていこうとサッチーが言っているようだけれど、浅野さんがサッチーに利用されているんではないかと思うんです。もう、どうしてこういうことになったのか、ちょっと言っておいてくださいよ。会の代表に相談しようと思ってます。でもほんと、浅野さんはどうしてこんな対談をしたのか、よく言っておいてください」。
この男性は言葉つかいも丁寧で、私と野村さんが対談したことを、本当に心配している様子だったという。なぜ「週刊金曜日」や私本人に言ってこないのか、よく分からないが、人権と報道に取り組んでいる人でさえ、「サッチーは別」と考える人たちが多数いるのであろう。
かつて、人権と報道・連絡会がロス疑惑報道の三浦和義さんの報道被害を最初に取り上げた時にも強い反発があった。

三月一七日の「世界日報」の「オピニオン」欄に、私と野村さんの対談をはじめ、最近の「週刊金曜日」の記事を批判する記事(土田隆氏の署名)が載った。この人は山中登志子さん、山口正紀さんが嫌いなようだ。もちろん私も嫌われている。
土田氏は、野村氏が南京大虐殺について日本人の残虐性を語っているところが気に入らないようで、米国人の方がもっと残虐だったと書いた米国の歴史家がいると反論している。まず、日本人がやったことを反省すべきであり、日本帝国主義の侵略戦争の残虐性は世界史の中でも最もひどいものの一つであることは否定できないと思う。
それにしても、この新聞はよく金曜日を読んでいる。私のところへよく来る嫌がらせの手紙、はがき、ファクスなどと文体、表現、発送がよく似ていると感じた。
『犯罪報道の犯罪』を出した直後、統一教会系の「知識」という雑誌は、同書を激賞した。同誌記者が私のところへ来て、「特集を任せる。100万円の取材費を自由に使っていいので、メディア批判をしてほしい」と持ちかけてきた。ただし「戸塚ヨットスクール」の報道被害を書いてくれという条件付きだった。もちろんことわった。

私がなぜ野村さんと対談をしたのかは、「週刊金曜日」記事の中の囲みで載せた「手紙」のやりとりを読んでもらえば、明らかだが、野村さんはいわゆる公人ではない。準公人の部類に入る人だろう。確かにメディアに登場したが、二百日にわたって、論評されるような人ではない。野村さんの言動については、さまざまな評価があろうが、野村さんを悪者と決め付けて、これでもかこれでもかと叩き続けたマスメディアの犯罪はきちんと解明されなければならない。
彼女もメディアを利用していたというような言い方がされるが、一個人とマスメディアが対等な関係になれるはずがない。「利用」しているのはメディアである。この辺は、三浦友和氏の『被写体』(マガジンハウス)を読んでほしい。
学歴にかかわる公選法違反被疑事件については、検察庁の捜査の結果、違法性はなかったという結論が出ている。検察の判断が誤っているというのは自由だが、それならきちんとした根拠を示すべきであろう。嫌いだとか不愉快だとかいう感情で、公共の電波を使って人を非難してはいけないと思う。
私の周辺にも、野村さんに対して偏見を持っている人は少なくない。しかし、彼や彼女は野村さんに会ったこともない。すべてメディアからの情報で判断しているのだ。
野村さんはメディアに対して裁判を起こす準備をすすめている。デヴィさんの本では、米国留学の時期は広島などの刑務所にいたとまで書かれている。そのほか週刊文春、週刊朝日などを訴えたいと話している。

しかし、多くの人から野村さんとの対談はよかったという声が届いている。「あのメディアの騒ぎに違和感があった」という人がかなりいたのだと思う。
大学院の教え子からメールを紹介したい。
《先生と野村沙知代さんとの対談、「週間金曜日」で読みました。「サッチー騒動」、つねづね、おかしいと思っていました。「出る杭を打つ」とは、まさにあれのことです。雑誌を実家(福岡)に置いてきたので引用が正確ではないですが、あの対談の最後の方に出てくる、「留学は私の青春でした」といった野村さんの言葉は、さまざまな意味で重いと感じます。
若者の描く夢が正当なものであるとき、それを歪める権利は、誰にもないと思います。》

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Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.03.28