「ピースボート」水先案内人終える
浅野健一
8月31日に神戸港からピースボート(第30回「南十字星クルーズ」)に乗り、スービック(フィリピン)経由で、9月9日早朝ディリ(東ティモール)に入り、5日間滞在し、デンパサール経由で14日に帰国しました。ジャカルタに寄る予定でしたが、チケットが取れず断念しました。
ピースボートで、300人の参加者に、船上で、「犯罪報道と日本のジャーナリズム」「インドネシアの東ティモール侵略と日本の責任」「アジア太平洋への侵略の責任をどうとるべきか」について講義をしました。松野明久さん、古沢希代子さんも 一緒で、3人で「スハルトに最も嫌われた日本人トップ3」「言いたい放題、日本がやったこと」という鼎談もやりました。
「ピースボート」の参加者は4歳から88歳まで、職業もさまざまで、多くの人たちと出会うことができました。
東ティモールに入ったのは1年ぶり。去年8月に訪れた際にあったディリの主な建物、商店街がほとんど焼け落ち、なくなっているのを実際に見て、インドネシア軍による破壊活動のすさまじさを改めて知らされました。報道で90%以上の建物が破壊されたと何度も聞いていたが、この目で見ると大きなショックを受けました。「ご覧の通り、こんなに貧しいけれども、自由がある」「あのジャハット(邪悪な)インドネシア軍がいなくなって、安心して生活できる」。インドネシア侵略時代に知り合った人たちが、私に声を掛けてくれた。あの頃は、小声で、東ティモールの悲惨な状況を私に訴えていましたが、今は、誰にも遠慮せずに私に声をかけてくれました。獲得した表現の自由
独立国家建設目指す記者たち
週刊金曜日(00年9月29日号)「人権とメディア」に掲載
一年ぶりに東チモールに入った。一九九九年八月三○日に実施され独立を選択した住民投票を取材して以来だ。その時に利用していた首都ディリの商店はほとんど焼け落ちなくなっている。町の中の主な建物や住宅街がほぼすべて消えている。投票結果発表直後 、組織的に展開されたインドネシア軍特殊部隊と民兵による破壊活動のすさまじさを思い知らされた。よくこんなことができたものだと思う。
私は第三〇回「ピースボート」(南十字星クルーズ)に講師として乗り、フィリピン経由で、九月九日ディリに入り、五日間滞在した。船内で三〇〇人の参加者に、「インドネシアの東チモール侵略と日本の責任」などについて話をした。東チモール専門家二人も一緒で、三人で「スハルトに最も嫌われた日本人トップ3」などという鼎談もした。我々は、日本のメディアがスハルト元大統領の強権政治を黙認していたことを批判した。専門家の一人は、八月三〇日にディリから公共放送の番組に生出演したが、事前打ち合わせで、局側が「東ティモール問題の番組なのでインドネシアにふれると分かりにくいので、ふれないように」と何度も要請されたことを明らかにした。相変わらずの体質だ。
国連東チモール暫定統治機構のデメロ特別代表は九月九日、「外国からこんなに多数の一般市民が来てくれたのは初めて。チモール人民の正義の実現に力を貸してください」と一時間近く応対した。
私はインドネシア軍が強権的に支配していた八九年と九一年に、ディリを訪れたことがある。その頃に知り合った人たちが私を見つけて、声を掛けてくれた。「こんなに貧しいけれども、自由がある」「あのジャハット(邪悪な)インドネシア軍がいなくなって、安心して生活できる」。あの頃は、街のいたるところにインドネシア軍の兵士やスパイがいて、住民を監視していた。教会のミサの後、私にそっと近寄り、耳元で「東ティモールの悲惨な状況を日本に伝えてください」と私に訴えていた人たちが、今は、誰にも遠慮せずに言いたいことを言えるのだ。
インドネシア占領時代には、「東チモールの声」(九九年九月二日を最後に廃刊)という一紙しかなかった新聞が、いまは三紙になっている。
最も大きいのが「東チモールの声」を引き継いだ「チモール・ロロサエの声」。「チモール・ロロサエ」とは現地のテトウン語で、「太陽の昇るチモール」という意味だ。二二人の記者がおり、紙面にインドネシア語、テトウン語、英語の頁がある。カナダ、ニュージーランド、オランダ政府が援助している。メタ・グテレス編集長は「インドネシア併合時代には、言論の自由はなかった。新しい国造りに新聞の役割は重要だ。人々が政治に参加するために、多様な情報を提供したい」と述べる。
国連のバックアップで誕生した「チモール・ポスト」は二月二九日に創刊した際、輪転機がなくコピー機で印刷した。今は国連の印刷機で刷っている。一五人の記者が勤める。オーストラリアのブリスベーン大学ジャーナリズム学科の支援も受けている。ホセ・シメネス編集長は「インドネシア占領時代に『東チモールの声』の副編集長だったが、昨年九月二六日に、独立派の特集を組むはずが、インドネシアに買収された社主が記事をすべてボツにしたのに抗議して、仲間七人と一緒に退社した。その後インドネシア軍と民兵のテロにさらされた。山の中に逃げて何とか生き延びた。仲間が何人か殺された。平和な国をつくるためにペンの力を発揮したい」と目を輝かせて語る。
九月一二日にはテトウン語の新聞「ラレノク」(「鏡」という意味)が創刊した。三つの新聞ともに、発行部数は千数百部。一部が約四○円で、庶民にはかなり高い。
ディリの友人たちは、ポルトガル・日本・インドネシアの占領が終わったと思ったら、今度は国連に占領されたと言う。「国連は住民と相談せずに施策をすすめている。これまで十五の法令を施行したが、公聴会が開かれたのは一回だけだ」「海外の資本が入ってきて、賄賂を受け取る政治指導者もいる」。この国のジャーナリストたちが、二十一世紀の最初に誕生するチモール・ロロサエ国の行方を左右する。(了)
Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.11.07