2000年5月27日
匿名報道とは何か−中学生に− 浅野健一
ある中学生が人権と犯罪報道の問題に関心を持ち、人権と報道・連絡会のメンバーにインタビューしてきた。私は京都にいることが多く、同席できなかった。
彼らが匿名報道主義や報道評議会について関心を持っていると聞いて、日本ではこれらのことを私が主に提唱してきたので、「匿名報道」とよく言われるが、匿名報道主義・匿名報道原則と私は呼んでいる。
日本では犯罪の被害者と警察検察に逮捕、または強制捜索を受けた被疑者は、未成年者以外、原則として姓名、住所、経歴、写真などが報道される。私は一九八四年に出版した『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、八七年に講談社文庫)で、警察など当局による逮捕や強制捜索を根拠にして、被疑者のアイデンティティを明らかにする報道を実名報道主義と定義した。
日弁連が七六年に『人権と報道』(日本評論社)で被疑者の匿名報道原則を提唱したことをベースに、北欧などではスウェーデンの報道倫理綱領で「一般市民の関心と利益の重要性が明白に存在しているとみなされる場合のほかは、姓名など報道対象者の明確化につながるような報道を控えるべきである」と規定されていることを紹介した。
江戸時代の瓦版の時代から、お上にしょっぴかれた人間は晒しものにしていいという考え方できたが、警察に逮捕されたからといって悪い人とは限らない。被疑者は犯人だということなら、裁判はいらない。たとえ被疑者が加害者であることが100%確実であったとしても、犯罪者を裁いたり、刑罰を与えることは、ジャーナリズム(ジャーナリスト)の仕事ではない。逮捕直後に、被疑者についてあれこれ書いても、事実と違うことがある。文京区の事件で、お受験殺人と言っていたのが違っていた。
捜査段階で実名、写真は原則として抑制すべきだ。それらがなくても十分伝わる。裁判でじっくり調査報道すべきだ。
一般市民の被疑者の姓名は原則として報道せず、逮捕状を出した裁判官、逮捕状を執行した警察官、起訴した検察官、そして何よりも記事を書いた記者の名前を書くべきだ。この規定は、以下のような理由で制定された。
@逮捕された市民に対する推定無罪原則の尊重、被疑者が犯人でない場合がある。起訴されない人も少なくない。
A本人と家族の名誉・プライバシー保護
B公正な裁判を受ける権利がある
C犯人であっても犯罪者の社会復帰をスムーズにするーーDDのが目的。これを匿名報道主義(原則)と名付けた。実名報道主義(官憲に依存した報道基準)と警察記者クラブは一体。実名を書いても、捕まった被疑者の側の主張が公平に伝わればいい、つまり被疑者を犯人扱いしなければ問題ない、という人もいる。警察が犯人と疑っていたというのは、その時の事実だというメディアの言い方はおかしい。
例えば私が殺人事件で警察に捕まったということを、実名、写真入りでテレビや新聞に報道されたら、ほとんどの人は私が人を殺したと思ってしまう。そこで私が記者の取材に、「やっていない」と獄中から叫んで、それが報道されても、一般市民はほとんど信用しない。
メディアが被疑者の実名を出しているのは、悪いことをしたんだからこらしめて当然という、理由しかない。実名を出すということは、犯人扱いすることにつながってしまう。
繰り返すが、メディアが犯罪者に社会的制裁を加える権限はない。放送局や新聞社の定款に、犯罪者を懲らしめることを業務内容にしているところはない。実名を出すことで、犯罪者に制裁を加えている現状は、法律に違反したメディアのリンチである。
「悪いやつはやっつけて当然。被害者の悔しい思いを代行する」というメディア幹部に言いたいのは、被疑者が犯人ではないと分かったときに、誰がどう責任をとるのかということを、明確にしてほしい。実名報道される人には、本人のみならず、社会的に抹殺されるような被害がある。相手にリスクを負わせながら、自分は警察の見方をそのまま事実として客観的に伝えただけだという逃げ方は卑怯だ。記者を辞めろとまでは言わないが、賃金の一部を一生払い続けるくらいの覚悟は持っていてほしい。犯罪の背景や原因を知るためには、必ずしも実名は必要ない。むしろ、被疑者、被害者を匿名にすることによって、事実関係を詳しく追うことができる。はじめに名前が出ると、かえって報道しにくくなる。東京・文京区の事件でも、なぜ悲惨な事件が起きたかを追究すると、
ニュース原稿でも、字数を短くするには、被疑者の固有名詞を削ることだ。
事件報道から名前が消えると、絵にならないとかいうが、少年事件や、医療関係のニュースでは匿名報道で十分伝わっている。日本の刑事事件の半数近くは少年。先進国はどこでも20歳前後の犯罪が多い。
匿名報道主義とは、被疑者・被告人・囚人すべてを匿名にすることではない。「報道されるものをすべて匿名扱いせよといういわゆる『匿名報道』」と紹介しているのは完全な誤り。
公人、準公人の権力犯罪や不適切な行為は実名。捜査当局の逮捕・強制捜査などのアクションと連動して実名を出すのではなく、その姓名が知る権利の対象であれば各メディアは顕名にして客観的に報道するという考え方。一般刑事事件において、「警察が誰を逮捕するか」などに向けられている取材と報道のエネルギーを、主に権力監視などの調査報道に向けようという主張。
八五年七月には人権と報道・連絡会(東京都杉並南郵便局私書箱23号、ファクス03ー3341ー9515)が誕生、『新・犯罪報道の犯罪』(浅野健一著 講談社文庫)で「顕名報道基準試案」を発表している。八七年に熊本で開かれた日弁連の人権大会は「原則匿名の実現に向けて」活動すると決議。新聞労連は九七年二月に採択した「新聞人の良心宣言」の「犯罪報道」の項で「新聞人は被害者・被疑者の人権に配慮し、捜査当局の情報に過度に依存しない。何をどのように報道するか、被害者・被疑者を顕名とするか実名とするかについては常に良識と責任を持って判断し、報道による人権侵害を引き起こさないように努める」と規定、実質的に匿名報道主義の立場をとった。匿名報道主義の提唱などがきっかけとなり、報道される側の権利が社会的に定着し、八九年末にはメディア界が被疑者の「呼び捨て」の廃止を決定、朝日新聞などが被疑者の顔写真・連行写真の不掲載を決めた。
匿名報道主義に対し当初は、逮捕された人の起訴率・有罪率が高いとか、犯罪者を社会的に制裁するのは当然、無関係の人が疑われるなどという反論が多かったが、八六年ごろから「逮捕時点で被疑者の身元を明らかにすることによって冤罪を防いでいる」「実名報道主義を止めれば警察は被疑者を匿名発表してくるのは必至で、警察が被疑者を闇から闇に葬り去る暗黒社会になる」という権力チェック論が主流になった。田島泰彦神奈川大学教授のように、「被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と結論付け、匿名主義では調査報道が難しくなると言う学者まで現れ、論理的破綻をきたしている。
河野さんは「警察がある人を犯人と疑い、メディアがそれを報道して、世の中の人が犯人と思い込んで社会的に抹殺する構造は、古典的なパターン」と指摘。サリン事件などで起訴されたオウム真理教の人たちに対しても、無罪推定の原則が守られるべきだという立場を貫き、オウムへの破壊活動防止法の適用に反対した。九八年三月の松本サリン事件の公判で証言した後の記者会見で、「サリンをまいた人以上に、警察とマスメディアの罪は重い」と表明した。メディアに働く人々が、報道による人権侵害を起こしていることについての加害者意識が薄いとも指摘した。(了)
Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.06.08