DECENCY5号が完成
同志社大学に移ってから2000年4月でまる6年。私たちのゼミ会報誌『DECENCY 第5号』が3月18日に完成した。5期生がつくった5号のメインは「在日朝鮮人とマスメディア」。5号の冒頭に、私の99年3月からの1年間の回顧録が載っている。甲山事件無罪確定から団体規制方施行までを振り返っている。注文は下記にお願いしたい。1冊送料込みで1000円。
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最近の主な出来事について書いてみたい。
悪いと思わない早大当局の人権感覚こそ危険
早稲田大学で起きた名簿提供事件は、現在の大学の置かれた状況をよく表わしていると思う。
1999年12月1日の毎日新聞の「早大、警察に名簿提出/本人の了解取らず/江主席の講演会応募者1400人分」という一面トップ記事を見て驚いた。98年11月28日に早大大隈講堂で開かれた江沢民・中国国家主席の講演会に参加登録した約1400人の姓名、住所を警察当局に提出していたというのだ。本人には無断で警察に手渡していた。また、その後の報道で、早大は要人講演の参加希望リストを過去十年以上、警察当局に提出してきたことも分かった。
さらに驚くべきことに、大学当局は、警察への名簿提出について、「やむを得ない措置」と正当化している。何の反省もしてないのだ。大学が官憲に個人情報を手渡すということは、絶対にあってはいけないことだ。仮に、「警備上」の理由があり、例外的に許されるというなら、学生、市民が納得できるような明白かつ差し迫った「危険性」の説明が不可欠である。
12月1日の毎日新聞社会面には、こんな記述がある。《学生部の坂上恵二・事務副部長は「本人から同意は得ていない」と認めたうえで、「警備当局から『どういう人たちが参加するのか』と聞かれれば、こういう人たちと答えるのは当然。そうでなければ講演会自体が開けなくなってしまう」と、講演会優先の立場をにじませた。/また、外務省中国課は「早大は過激派学生が強い大学。事実、講演会当日、学生が垂れ幕を立て(訪日を)抗議する事態が起きた。警備当局がそういう事態を懸念して(名簿を)求めたとしても人権問題になるのだろうか」と話している。》
12月1日の朝日新聞夕刊には、《早大は学内のガイドライン「個人情報保護規則」で、個人情報の目的外使用を原則的に禁止しているが、今回の措置について「国賓などの場合には外交上の考慮も必要で、これまでも警備当局などに名簿を提出してきた。個人情報の保護に抵触するとは考えていない」と説明している。》という記事があった。
早大が12月2日に出した「学生の皆さんへ」は、「大学の見解」として、「世界の指導的人物」を招いて講演会を開くことは大学の伝統だと述べた。「国賓等の講演会に当たっては、関係機関と協議し、その際求めに応じ参加者名簿を提出することも、やむを得ない措置であると認識しています。/大学は、個人情報の保護には十分配慮しつつ、今後もこのような講演会を開催していきたいと考えています。」。
大学当局はさらに2000年1月初めに発行した「早稲田ウイークリー」で、国賓を招いた講演会は大学と関係機関(公安警察を含む)との共催だから、名簿の提供は当然で、学内の規則は関係ないと判断。今後も行うと居直った。とんでもない見解が表明された。
大学は権力に情報開示を求め、人民の情報は保護しなければならない。学問の自由は、権力には一切の介入を許さないというのが原則である。報道機関が報道の自由を守るために、権力の規制を一切排除するのと同じである。
しかも、日本の公安警察の腐敗ぶりは、神奈川県警の例を見るだけで明らかである。戦前の思想警察のながれをくむ公安警察はいますぐ廃止すべき官庁である。
早大は「個人情報の保護に関する規則」を定めているという。当局は自らが定めた規則に違反しているかどうかを、学生、市民の前に明かにする社会的責任がある。「開かれた大学」であるならば。私立大学には、「公費補助」として多額の労働者の税金が投入されている。
垂れ幕を掲げることは、表現の自由である。暴力行為ではない。江主席に向かって、2階席から「核軍拡・人民弾圧反対!」と書いた横断幕を掲げて、「中国の核軍拡反対」などと叫んだ3人の学生が逮捕されたのは、明かに不当逮捕である。逮捕された学生によると、3人は逮捕容疑も告げられず、私服刑事らに取り押さえられ、大隈小講堂で講演会終了まで監禁され、戸塚署に連行された。そこで初めて「建造物不法侵入」「威力業務妨害」容疑での逮捕と通告された。3人とも不起訴だった。
外務省中国課のどういう役職の誰がコメントしたのかを、毎日新聞は明かにすべきだろう。「外務省中国課」がしゃべるわけはないのだから。公務員が匿名で話すのは原則として許されない。名前を伏せるなら、その理由を市民に知らせなければならない。
早大政治経済学部教授会が12月7日、事実関係の早急な究明と大学当局の責任の所在を明確化するように求めた声明を賛成多数で決議し、当局側に提出。また早大生6人が名簿提供はプライバシー侵害にあたるとして、大学を相手取り、約200万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。この二つの動きで、早大には、まだ希望があると思えた。「警察の犯罪」監視はメディアの任務
新潟県警などの腐敗に連帯責任
新潟県柏崎市の民家で九年間監禁されていた女性が発見された当日、特別査察に来ていた中田好昭関東管区警察局長と温泉ホテルで飲食・マージャンをしていた小林幸二新潟県警本部長の一連の言動には、空いた口がふさがらない。監禁容疑で逮捕された男性の母親と保健所職員が何度も要請していたのに、警察は全く動かず、少女発見の経過について虚偽の記者発表を行っていた。
京都の小学生刺殺事件で被疑者とされた男性の転落死に関する京都府警の発表にも重大なウソがあった。神奈川県警の犯罪の反省が全く生かされていない。
「警察は市民の生命と財産を守ってくれるところだと思っていたのに、犯人をつくるところだと分かった」。松本サリン事件被害者の河野義行さんは2000年2月27日、高崎市で開かれた集会で、九四年に警察とメディアによって社会的制裁を受けた経験をもとにこう語った。
マスメディアは警察の腐敗を厳しく批判しているが、メディアと二人三脚で取材・報道を展開してきた自らの責任について反省する論調は全く見られない。新聞・通信社は、警察権力を監視する「独立した第三者機関」の設置を繰り返し提唱しているのだが、ちょっと待ってくれといいたい。
犯罪報道の匿名報道主義が提唱されたときに、読売新聞の井上安正社会部長らメディア幹部は「警察への密着取材と実名報道による権力チェック」を強調していた。井上氏は「新聞研究」八四年十一月号で、「夜討ち朝駆けの明け暮れに耐えているのは、スクープをものにしたいからではない。捜査の裏表を確認し、捜査そのものの“監視”につながるとの自負の念を持つことは思い上がりだろうか」と述べた。また著書『警察記者』でも、スクープを狙った取材について「捜査当局の権力行使に誤りや行きすぎがないかどうかのチェックにもつながる」と書いている。
日本の新聞社、放送局は各県警に合わせて二十人から四十人の記者を張り付けている。主要な警察署にも記者クラブがある。警察がこれだけ腐敗したのは、記者たちが密着して取材するのではなく、「癒着」していたからではないか。神奈川県警本部長は「マスコミで報道されなければ、不祥事ではない」とうそぶいていたという。全国のサツ回り記者は「第三者としての監視」に専念してほしい。外務省幹部がフンセン首相「偽名」入院を自白
私は浅野ゼミ会報誌「DECENCY」4号で、自民党渡辺美智雄派と外務省タカ派が、カンボジア問題を悪用して、自衛隊海外派兵と利権を目指して暗躍したことを書いた。特に、外務省が当時、承認していなかったヘン・サムリン政権おのフンセン首相と妻を秘かに日本に招いて、順天堂大学病院に偽名を使って入院させ検査と目の治療を受けさせたことを書いた。1月18日の朝日新聞に「担当外交官が回顧録を出版」という見出しで、カンボジア和平実現に外務省の一課長としてかかわった河野雅治氏(現アジア局審議官)が舞台裏の真相を描いた『和平工作 対カンボジア外交の証言』(岩波書店)を出版したという記事が載っていた。そこに私が問題にした「極秘来日」が手柄話として載っているというのだ。
さっそく本を読んだ。驚いたことに、第15章に「医療外交」として、河野氏ら外務省官僚が違法なことをしたと堂々と自白している。自分が違法なことをしたという自覚が全くないようだ。
《日本政府が承認していないヘン・サムリン政権の「首相」》の「病気治療という人道目的の訪日」を実現するため、報道陣に知られることのないように、「対外的に不公表とし、いわば極秘裏に進める」ことになったという。順天堂病院に入院する際、《このオペレーションが外部に漏れないようにするため、念には念を入れ、フンセンは「山内一郎」の偽名を使って入院した。この事実は、当時医院関係者の間でもごく一部にしか知らされていなかった》というのだ。「外務省は、フンセンの左目義眼をプラスティック製の軽くて新しいものに作り替えてあげた」。またフンセン首相は3泊4日の日程で入院したのだが、小和田恒外務審議官(皇太子妃の父)も全く同じ期間、偶然にもすぐ上の部屋に入院し、二人が退院した夜、フンセン首相を囲む夕食会が開かれ、カンボジア和平の進め方について、非公式に話し合ったと書かれている。カンボジアで私が取材中に訪問した社会党議員団の一人、喜岡淳元参議院議員(現在は香川人権研究所事務局長)は「税金を使って、秘かに招待し、偽名で病院で治療を受けさせるというのは明らかな医事法違反だ。当時、こもことを知った我々は、外務省当局者に事情を聞き、国会の外務委員会などで質そうと準備をした。国弘正雄議員とはよく相談した。ところが社会党幹部は、病気治療というプライベートなことだから、追及するのはどうかとストップがかかった。今からでもきちんとすべきだと思う」と話している。
この本の後書きによると、河野氏に本を書くよう強く勧めたのは岩波書店の馬場公彦氏だという。日本は当時、ポル・ポト派が中心になってつくっていた三派連合政府を支持して、ヘン・サムリン政権に敵対していた。カンボジア和平で動いたのは、米国などの路線変更に追随しただけだ。フンセン氏と親しくなうために、税金を使って来日し、偽名を使って入院するというようなことを公務員がしていいのか。こんな本を出した岩波の責任も大きい。また一つ岩波の「変節」である。日本外務省がカンボジア和平にこんなに貢献したという島国根性丸出しの本を岩波が出して、朝日が大きく記事で全く無批判に宣伝する。迷走するニッポン・ジャーナリズム!「週刊フジテレビ批評」に出演
初めてフジテレビに出た。3月11日午前4時55分からの「週刊フジテレビ批評」(30分番組)に招かれた。犯罪報道の実名報道、匿名報道についての3回連続の特集で、1回目が実名報道擁護の田島泰彦上智大教授、2回目が私で、最後は経済評論家の嶌信彦氏。
テレビ局の検証番組は、ほとんどの人がテレビを見ない時間帯にオンエアしている。「スポンサーをつけないから」というが、これでいいのだろうか。
制作はバンエイト。収録は前日の午後だった。
以下は私が15分の中で発言しようとした内容(アナウンサーの質問に答える形式だ)。言い尽せなかったが、大事なことはほとんど言えたと思う。
《−−匿名報道の論拠は?
匿名報道主義・匿名報道原則と私は呼んでいる。
日本では犯罪の被害者と警察検察に逮捕、または強制捜索を受けた被疑者は、未成年者以外、原則として姓名、住所、経歴、写真などが報道される。私は八四年に出版した『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、八七年に講談社文庫)で、警察など当局による逮捕や強制捜索を根拠にして、被疑者のアイデンティティを明らかにする報道を実名報道主義と定義した。
日弁連が七六年に『人権と報道』(日本評論社)で被疑者の匿名報道原則を提唱したことをベースに、北欧などではスウェーデンの報道倫理綱領で「一般市民の関心と利益の重要性が明白に存在しているとみなされる場合のほかは、姓名など報道対象者の明確化につながるような報道を控えるべきである」と規定されていることを紹介した。
江戸時代の瓦版の時代から、お上にしょっぴかれた人間は晒しものにしていいという考え方できたが、警察に逮捕されたからといって悪い人とは限らない。被疑者は犯人だということなら、裁判はいらない、マスメディアが犯罪者を裁いたり、刑罰を与えることは仕事ではない。逮捕直後に、被疑者についてあれこれ書いても、事実と違うことがある。文京区の事件で、お受験殺人と言っていたのが違っていた。
捜査段階で実名、写真は原則として抑制すべきだ。それらがなくても十分伝わる。裁判でじっくり調査報道すべきだ。
逮捕状を出した裁判官、逮捕状を執行した警察官、起訴した検察官、そして何よりも記事を書いた記者の名前を書くべきだ。
この規定は、@逮捕された市民に対する推定無罪原則の尊重、被疑者が犯人でない場合がある。起訴されない人も少なくない。
A本人と家族の名誉・プライバシー保護、
B公正な裁判を受ける権利がある
C犯人であっても犯罪者の社会復帰をスムーズにするーーDDのが目的。これを匿名報道主義(原則)と名付けた。実名報道主義(官憲に依存した報道基準)と警察記者クラブは一体。
田島教授や社会部幹部の一部は「実名を書いても、捕まった被疑者の側の主張が公平に伝わればいい、つまり被疑者を犯人扱いしなければ問題ない」という人もいる。警察が犯人と疑っていたというのは、その時の事実だというメディアの言い方はおかしい。
例えば私が殺人事件で警察に捕まったということを、実名、写真入りでテレビや新聞に報道されたら、ほとんどの人は私が人を殺したと思ってしまう。そこで私が記者の取材に、「やっていない」と獄中から叫んで、それが報道されても、一般市民はほとんど信用しない。
メディアが被疑者の実名を出しているのは、悪いことをしたんだからこらしめて当然という、理由しかない。実名を出すということは、犯人扱いすることにつながってしまう。
メディアが犯罪者に社会的制裁を加える権限はない。放送局や新聞社の定款に、犯罪者を懲らしめることを業務内容にしているところはない。実名を出すことで、犯罪者に制裁を加えている現状は、法律に違反したメディアのリンチである。
「悪いやつはやっつけて当然。被害者の悔しい思いを代行する」というメディア幹部に言いたいのは、被疑者が犯人ではないと分かったときに、誰がどう責任をとるのかということを、明確にしてほしい。実名報道される人には、本人のみならず、社会的に抹殺されるような被害がある。相手にリスクを負わせながら、自分は警察の見方をそのまま事実として客観的に伝えただけだという逃げ方は卑怯だ。記者を辞めろとまでは言わないが、賃金の一部を一生払い続けるくらいの覚悟は持っていてほしい。
犯罪の背景や原因を知るためには、必ずしも実名は必要ない。むしろ、被疑者、被害者を匿名にすることによって、事実関係を詳しく追うことができる。はじめに名前が出ると、かえって報道しにくくなる。東京・文京区の事件でも、なぜ悲惨な事件が起きたかを追究すると、
ニュース原稿でも、字数を短くするには、被疑者の固有名詞を削ることだ。
事件報道から名前が消えると、絵にならないとかいうが、少年事件や、医療関係のニュースでは匿名報道で十分伝わっている。日本の刑事事件の半数近くは少年。
匿名報道主義とは、被疑者・被告人・囚人すべてを匿名にすることではない。「報道されるものをすべて匿名扱いせよといういわゆる『匿名報道』」と紹介しているのは完全な誤り。
公人、準公人の権力犯罪や不適切な行為は実名。捜査当局の逮捕・強制捜査などのアクションと連動して実名を出すのではなく、その姓名が知る権利の対象であれば各メディアは顕名にして客観的に報道するという考え方。一般刑事事件において、「警察が誰を逮捕するか」などに向けられている取材と報道のエネルギーを、主に権力監視などの調査報道に向けようという主張。
匿名報道主義の提唱などがきっかけとなり、報道される側の権利が社会的に定着し、八九年末にはメディア界が被疑者の「呼び捨て」の廃止を決定、朝日新聞などが被疑者の顔写真・連行写真の不掲載を決めた。
匿名報道主義に対し当初は、逮捕された人の起訴率・有罪率が高いとか、犯罪者を社会的に制裁するのは当然、無関係の人が疑われるなどという反論が多かったが、八六年ごろから「逮捕時点で被疑者の身元を明らかにすることによって冤罪を防いでいる」「実名報道主義を止めれば警察は被疑者を匿名発表してくるのは必至で、警察が被疑者を闇から闇に葬り去る暗黒社会になる」という権力チェック論が主流になった。田島泰彦神奈川大学教授のように、「被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と結論付け、匿名主義では調査報道が難しくなると言う学者まで現れ、論理的破綻をきたしている。
河野さんは「警察がある人を犯人と疑い、メディアがそれを報道して、世の中の人が犯人と思い込んで社会的に抹殺する構造は、古典的なパターン」と指摘。サリン事件などで起訴されたオウム真理教の人たちに対しても、無罪推定の原則が守られるべきだという立場を貫き、オウムへの破壊活動防止法の適用に反対した。九八年三月の松本サリン事件の公判で証言した後の記者会見で、「サリンをまいた人以上に、警察とマスメディアの罪は重い」と表明した。メディアに働く人々が、報道による人権侵害を起こしていることについての加害者意識が薄いとも指摘した。》
Copyright (c) 2000, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2000.03.28