「殺人」ではなく「園児間の事故」を伝えないメディア
侵略責任とって初めてなくせる冤罪
山田悦子さん「警察・検察・報道ストーカー」との闘いを語る


浅野 健一(アカデミック・ジャーナリスト)

 大阪高等裁判所(河上元康裁判長)が九月二九日に言い渡した、山田(旧姓沢崎)悦子さんに対する無罪判決に対して、大阪高検は一○月八日、上告期限である同月一三日を待たずに上訴権を放棄する異例の手続きをとった。その際、佐々木茂夫・大阪高検次席検事は記者会見で、審理機関が二一年余りに及んだことについて、「様々な事情があったが、公判維持の任に当たる検察官として誠に不本意だ。今回の裁判を貴重な教訓とし、迅速適正な裁判の実現に向け努力したい」「出発点となった第一次捜査に十全の力を尽くせなかったのは反省すべき点だ」と述べ、初期捜査に問題があったことを率直に認めた。検察が非を認めるのは極めて異例のことである。
 偽証罪に問われていた荒木潔・元園長と元指導員の無罪も確定した。
 ところが山田さんを再逮捕した時の取り調べ主任検事の逢坂貞夫氏(今年七月に大阪高検検事長を退任し、大阪弁護士会所属の弁護士)は「証拠は十分有効に収集した。高裁で確定するのは納得いかない」などと、山田さんを犯人視するコメントをメディアで発表している。逢坂氏に取材を文書で申し込んだ後、一一月四日に電話取材をしたところ、「私たちはあんな判決を相手にしていない。あれは裁判官の作文だ。で
きるだけ早く、私は私の責任で意見を発表する」と語った。
 私は三度無罪判決を言い渡した裁判官たちが、この事件がそもそも「殺人事件」ではなく、園児の間で起きた「事故」であることを確信したことが一番大きいと思っている。

▼園児関与を示唆した高裁判決
 「園児間で起きた転落事故」を自ら証言したのは、事件当時一六歳だった園児のA子さんだった。甲山事件は、七四年三月一七日にM子さん(当時一一歳)が行方不明になり、捜索中の一九日、S君(同)がいなくなり、二人とも園内の浄化漕から水死体で見つかった事件だ。山田さんの捜査段階での断片的な「自白」では、自分が当直の時に傍にいたM子さんが転落したため、カモフラージュしようと他の職員が当直の時にS君を殺害したとされていた。検察は冒頭陳述でも、男子園児殺害の動機を、この線に沿って述べた。
 ところが第一次一審で、園児の五人の証人調べが始まる直前の八○年初めに開示された警察・検察による園児の供述調書に、女子園児の死は別の園児A子さんが引き起こしたという重大な供述が隠蔽されていたことが分かった。
 A子さんの調書は第二次捜査の中でとられたものだった。七七年六月二○日と七月一八日の員面調書で初めて、関与をほのめかした。この時は、別の園児がM子ちゃんの手を引っ張って落とした、と述べていたが、七七年一二月六日の逢坂主任検事作成の調書では、「マンホールは私が開けた。蓋を横にずらして開けた。中をのぞいたら、ばたばたしていた。蓋は閉めなかった。沢崎先生は傍に来なかった」となり、山田さんの再逮捕後の七八年三月一六日の調書では、「M子ちゃんと一緒にいた。S君ら三人があとから来た。私と○○ちゃんがM子ちゃんの手を引っ張ったら落ちた」となっている。
  これらの調書は、「沢崎先生がS君の足を引きずって連れ出した」などという他の園児の証言を調書にとった後につくられた。薮から蛇が出た。逢坂検事らはA子さんの供述が、S君殺害の動機と全く相反する内容であることに困惑したはずだ。他の検事調書は警察官作成の調書の数日後に作成されているのに、この調書は五カ月間もの空白の後に作成している。検察は、山田さんが近くで見ていたのは事実で、A子さんの証言とは矛盾しないと強弁した。
 彼女が神戸地裁尼崎支部の会議室を使って非公開で開かれた園児証人調べに呼ばれたのは、八○年五月二○日だった。検察側の証人として、「M子ちゃん、S君ら四人と浄化槽で遊んでいるうちに、M子ちゃんの手を引っ張ったらM子ちゃんがマンホールの中に落ちた。マンホールの蓋は私が持ち上げて開けた。浄化槽の水の中に沈んでいき、頭の毛がぷかぷか浮いているのが見えた。その時、園児以外はいなかった」と証言。一二月一六日と二○日の弁護側反対尋問に対しては、「M子ちゃんが落ちた後、いったん運動場に行ったが、また戻ってきてマンホールの蓋を閉めた。沢崎先生はいなかった」などと断言した。S君の転落については、弁護側も質問しなかった。
  河上裁判長は、逢坂主任検事の名前を何度もあげて、「自白をもとに検察が主張する動機は不合理であり、A子さんの供述で,重大な事実誤認があることがわかったはずだ。この時に、事件全体の構図を見直し、捜査を一からやり直すべきであった」「プロであるべき検察官や警察官は、この証言の重大性を見抜くべきだ」と指摘したはずだ。この時に、事件全体の構図を見直し、捜査を一からやり直すべきであった」「プロであるべき検察官や警察官は、この証言の重大性を見抜くべきだ」と指摘した。
  この園児証言は非公開で、記者は傍聴できなかった。しかし、この証言が検察側の主張を崩す衝撃的なものと考えた弁護団は、公判終了後に記者会見して、この証言の意味を詳しく説明した。大ニュースのはずなのに、これをまともに報道したのは毎日新聞だけだった。八○年一二月二一日の毎日新聞は「検察主張覆す証言/「○○子ちゃん落ちた時 先生、いなかった」などと大きく報じた。〈「えん罪」主張にはずみ〉という見出しの解説記事にはT記者の署名が入っている。T記者は検察幹部に「出入り禁止」を言い渡された。

▼日本の社会が冤罪を生む
私は一九九九年一一月二日、山田さんの自宅で約三時間インタビューした。山田さんは無罪確定後、朝日新聞のインタビューだけに応じているが、原則としてメディアの取材を断っている。中断している国家賠償請求訴訟をどうするかを決める微妙な時期でもあったが、過去一五年にわたって「人権と報道」の改革を共に闘ってきた仲間として取材に応じてくれた。
 インタビューは「週刊金曜日」一一月一二日号に書いた。
 山田さんのご了解を得て、以下、インタビューの全文を紹介する。

山田悦子さんインタビュー  11月2日 兵庫県、山田さん自宅にて
          聞き手 浅野健一氏(文中の*は浅野氏の発言)
 
* 山田さんの無罪確定で、荒木さん(甲山学園園長)多田さん(甲山学園保母)も無罪になって、まだ上訴権の放棄はしていないが、検察が放棄すれば甲山事件は刑事事件についてはすべて終わることになるが、山田さんにとって甲山裁判というのは何だったのでしょうか?
山田さん 一言では答えられませんけどね。随分とにかく学びましたね。今から振り返ってみると、無罪への闘いと共に学びの裁判でしたね。人間としていかにあるべきかについて、考えさせられました。
* それは山田さんがよく言われている法の正義とか人間の尊厳とか,そういう思想をこの20数年の間に固めていったということですね。
山田さん そうですね。
* 最初の頃は、それが悔しいとか辛いとか当局を憎むとかそういう感情があったと思うのですが。
山田さん 憎むとかそういうのではなくて。怒りはありましたけどね。不安でしたね、再逮捕までは。いろんな冤罪事件を見てきましたからね。免田事件とか松山事件、島田事件とか狭山事件とかね。財田川、赤堀さん他いろいろ、狭山とかね。とにかく、全国の市民運動で冤罪で闘っている人たちとの交流が狭山を頂点にして盛り上がっていましたから。そういう中で甲山が発生して,当然無実を訴えていく中で救援組織ができて、自然とそういう人たちとつながりが出来るのですね。当時、法学セミナー増刊号『日本の冤罪』(日本評論社)が出ましたが、そこには日本中に冤罪事件があることが書かれていました。そういう中で,本当に沢山の事件があるということがわかりましたからね。私だけが例外ではないということを知りました。60年かかって最終無罪が出た事件もあるのですから。
* まだ死刑囚再審無罪の4人も獄中でしたね。
山田さん そうですね。
* それで、連帯すると共に、一度検察ににらまれたらこんなに大変なんだという思いがあったと思うのですが。
山田さん そうですね。彼らと交流する中で再逮捕があったのです。他の冤罪事件も長い時間がかかったのを見てきていますから、時間がかかっても無罪になれば良いですが,そうならない事件だってあるのですから。1度不起訴になって2度目の逮捕をされ、有罪でこのまま確定するのではないかと思い、とても不安でしたね。
 その不安を打ち消すために、いろんな冤罪と闘っている人たちに会いに行きましたね。免田栄さんが出てこられて半年目に熊本に行きました。赤堀さんはまだ獄中でしたから、仙台に行って面会しました。平沢さんには面会しに行ったのですが,結局会えませんでした。 
* それは何年ごろでしょうか。
山田さん 1985年までの一審の段階ですね。1978年が再逮捕だから、それから85年までの間ですね。全部自分で連絡をとって行きました。同じ目に遭っている方々に会って、皆闘っているその生き方に学んだら元気が出てくるのではないかと思いまして。でも、全然不安解消にはならなかったですね。一時は私もがんばろうと思うのですが、体が悪くても根本を直さないでのりきろうとか、その即物的な治療では駄目なのと一緒でね。ずーと不安なままで、会っても会っても全然不安は解消されなくて。一審無罪はとても不安な中で迎えました。
* 無罪が出て、その後先ほど言ったような確信に変わっていったのですね。
山田さん 一審の無罪判決が出て、法というものが信じられるようになったのです。そこはかとなく,じわっと体の細胞が温まるような感じがしました。判決から一ヶ月ぐらいしてからですが。体で「法の精神」を知ったのですね。「法の精神」というものは、こんな風に魂を解き放つものなんだって感じたのです。
 控訴されましたけれども、これだけ完全無罪だから二審で無罪が確定すると信じていましてから、精神的に余裕が出たのですね。それで、法って何だろうと考えるようになり、
法について勉強するようになったのです。
* そうして、勉強を続けて行って、また差し戻しになっていって、逆戻りという展開になった。
山田さん 勉強と共に,日本の社会について考えるようになったのです。法の支配ということも勉強していくうちに意識しだしました。冤罪事件だけでなく、いろんな社会の事象を通して日本の国家というものを考えるようになりました。1982年から始まった教科書問題、文部大臣の失言や妄言があった、その流れで来ていたなかで日本社会というものを考えるようになった。そして、日本の侵略の問題に突き当たったのです。子供が同和教育推進校という、部落を抱えている小学校に行っていまして、そこでPTAの役員をしていましたから、いろいろ考えたりなんかしていました。反戦平和や教育方針でどういうテーマを考えたらいいかなど。でも、これらは日本の侵略性を問題にする教育ではないのです。それよりも、「戦争は物資が不足して大変で、ひもじい思いをする」というとらえ方なのです。それを、毎年戦争体験者のおじいさんおばあさんが来て語って聞かせるのですが。子供たち、それから役員も聞いたりはするのですが、「アジアに侵略した」ということは全く語られなかった平和教育だったのです。そのおかしさに気づきました。
* 在日朝鮮人の問題等は、始めそのへんから意識したわけですか?
山田さん 一審の途中で,在日韓国人の女性と知り合ったのです。その人が私に「在日韓国・朝鮮人は、日本の社会で『人間にして人間にあらず』と言われて育った」と、その言葉が私にとても強烈に響いたのです。  
* どういう経緯で知り合ったのですか?
山田さん 彼女は在日の人権問題に取り組んでいたので、私が冤罪の運動をしていたら自然と接点が出来たわけです。彼女にいろいろ差別されたことを聞かされて、すごいショックでした。私が通っていた愛媛県新居浜市の高校の近くには別子銅山があり、強制連行された在日朝鮮や韓国人がたくさんいたんです。私、友達だったのですが。いっぱい在日朝鮮人部落もあったのですが、その人たちが何故日本にいるかなんて考えもしませんでした。日本の侵略の問題を知った時に、クラスメートだった人たちの歴史的な存在がわかったわけです。
 皆、本名ではなく「通名」でした。なぜ「通名」を名乗るかは分からなかったのですが、朝鮮人だというのはわかるでしょう?友達と,そのボーイフレンドがいて、よく遊びにいったんですが、彼はいつも家に入れてくれないのです。結局あれは玄関を開けたとたんに朝鮮の文化が広がっていたからですよね。そういうことを全然知らずにいたのです。知らないことの罪深さ。彼は日本人と付き合いながらも、日本人の理解のなさに傷ついていたと思います。
 そういうことがある日本社会について、ずっと考えてきました。そして、侵略の問題を私の中で捉えることができたのです。なぜできたか、そのベースは無罪判決にあります。園児証言が知恵遅れの子供で信用できない、よって私が無罪だという差別的なことに裏打ちされて出た無罪判決だったら,私はとても救われなかったと思ったのです。でも、園児のことも私の人権も認め、2つの人権を認めた上で成立した判決でしたから。そこから私は他者の人権を侵して自らの人権はありえないということを学んだのです。          
 そういうメルクマールのようなものをもって日本社会を見たときに、アジアに対する本当に想像を絶するほどの人権破壊の下で、日本国家があるということがわかりました。それが政治的基盤になっているということがわかりました。そういう国家に国賠をおこし再逮捕されたのは、おこるべくしておこった出来事だと。
* それでこの後、哲学者の金定立(キム・チョンリップ)先生に会ったのですか?
山田さん はい。1986年の教科書問題のシンポジウムで初めて出会いました。
* キム先生はそのとき,パネリストだったのですか?
山田さん パネリストでなく、意見を求められた発言者でした。その時東ティモールの問題も出ていました。日本のアジアに対しての侵略責任が、いろいろな観点から言われていました。その時に金先生は「日本人は闘う質がない」って言ったのです。「闘う質がない国民」ですよ。また、東ティモールへの支援を訴えていた日本人の発言に対して「なんとインドネシアは健全な国家であろうか。時の政府に抵抗して闘う人々をつくっている。日本にはそれはない」と。衝撃でした。「あなたたちは闘ったことがあるのか」って、ないのですね。安保とかそういうレベルの問題ではないのです。もっと崇高なところでの主張があるべきなのですよね。                           
 これで、日本国家について考えるようになりました。世界史についても考えていかないと日本国家というものは捉えられないですよね。そこで、日本と世界の関係について考えていくようになりました。生命の誕生まで遡って考え、すると人類史が見えて来たのです。混沌として秩序のない侵略性に満ち満ちた古代の人間社会の在りようがわかるのです。そこから人間が法の支配を獲得してきたわけです。法でもって攻め入るものから守る、そこから国家概念が生まれてきたことがわかりました。法というのは1つの思想なのです。人間社会の最高のモラルが法だということがわかりました。それがわかった時に、日本の市民運動のおかしさが見えてきました。
 小沢一郎さんが前に朝日新聞のインタビューに答えて「反権力って何だ」と「あなたたちは主権を否定するのですか」と言われていたけれども、本当にそうなんですよね。「主権」は最高の権力なのです。私は日本の市民運動の人たちは「法の概念」や「権力の概念」をわかっていないとわかりました。反権力、反国家的な市民運動なのです。国家って何と考えた時、それを作っている構成員は私たちでしょう、それも否定するのかと。イェ−リングは「国家の涵養」ということを言っている。私たちが権利の為に闘うことが国家をより良い方向に導くのだと。日本の市民運動はそういう闘いではないのです。だから政府からは信頼されないのです。政治家は無知ではないのですから、権力は何かもよくわかっていると思いますし。これからは、日本の市民運動に毒されない考え方を持たなくてはいけないと思いました。
 これだけ市民運動が花盛りだったら国家は少しは変わるはずでしょう?だから、変わらないことをやっていて、それをすべて政治のせいにしている、このありかたを変えなければならないと思いました。日本人の力だけでは人権思想を持つことはできない。他者他国との連動の中でしか獲得できないということを歴史は示しているのです。日本人が言っているのは「日本人のための日本人による日本人の人権」なのです。アジアはないのです。近代文明の中で日本が生きてこられたのも、世界との連動の中でしょう?人権思想も同じです。
 歴史を小学校から、学ぶでしょう?でも義務教育15年の間、1度もアジアの侵略について教えてもらったことがないのです。在日朝鮮人がなぜいるのかも考えもしなかったし。それはまさしく侵略性でしょう?切り離して考えられないのです。違う国家の主権を持った人々なわけですから。教育者たちはそれをどう思っているのだろうと考えるようになったのです。
 そこで、1990年ぐらいに日本の知識人文化人にアンケートを出しました。200人ぐらい出して、3分の1ぐらい返ってきました。侵略であったという人も軍部のせいにする人が多い。自分自身にも責任があるというとらえ方は、ほとんどありませんでした。ただ、名もないものからの突然の調査にこれだけの人が答えたということに、私は感動しましたが。この思いをなんとかしなくてはと、電話して会いに行きました。学者に会って、賛同してくれた方と「日本の侵略答責会議」というのを立ち上げたのです。その間、韓国のほうにもアンケートを出しました。アンケートに答えて海を越えて送り返してくれた人々に応えたいと思い、私は韓国に行きました。刑事被告人がパスポートをとるにはいろいろ規制がありました。外務省で審査されて2ヶ月かかってパスポートがおりました。1回きりで限定のパスポートでしたが。
 空港まで金冒朱(キム・チャンス)東国大学教授が迎えに来てくれて、韓国の出版社や学者、ユネスコの韓国支部の支部長にも会いに行きました。東亜日報の論説委員にも会いました。金先生は「今まで日本のいろんな市民運動をやっている人はいろいろ来たが、責任を取りたいといって来た日本人はあなたたちが初めてだ。日本でこういうことをするのは大変だろうが力になりましょう」と言ってくれました。
* 日本でするのは大変だろうと。
山田さん 責任をとるという社会ではないのですから
* 今回の無罪判決に関して何か連絡はあったのですか?
山田さん 私のこと知らないですから。言っていませんから。 
* いや、知っていますよ。知っていて心配していました。しかし,答責会議と直接関係ないことです。
山田さん 私の知らないところでは話しているかもしれませんね。答責会議では私のことは全く問題にしませんからね。
* 答責会議には私は後から参加しましたが、勉強になりました。私は東南アジアのほうは特派員だったのですが、韓国との問題は逃げていたので。
山田さん キム・スンイルさんが言っていました。「日本はアジアの侵略の中で韓国に対して一番ひどいことをした」と。「台湾は殴って中国は倒して、その上にまだ踏み潰したのが韓国」と言っていました。だから、「他のアジアとは比べ物にならないのだ」と。そうですよね。一国を丸ごと取り上げ、そのすべてを日本のものにしてしまったのですから。
* この答責会議というのは、裁判を受ける山田さんにとっても、非常に大きない意味があったのですね。
山田さん そうですね,思想的に支えになりました。侵略の歴史を通して国家というものを世界史的に学ぶことができましたから。
* その、一つの入り口というのは韓国・朝鮮との関係だったのですね。 
山田さん はい、身近に友達がいましたし。人類が侵略の歴史を持ちながらも「人間の尊厳」を思想的に生み出したというのに,とても感動しました。だから、人間に対して絶望もするけど,希望も持てるのです。これは、ドイツの侵略の責任を取るという姿勢から教えられました。
* 古代の時代には,人間は殺しあったり暴力で支配した、そこから克服して行くのは法の支配よるものだということですね。山田さんの中では国家の主権と人民の主権は矛盾していないのですか?
山田さん 別に矛盾はしていません。国家主権というのは外国から侵略されない主権ですから。だから国家主権の行使とは侵略されないために、とても大事だと思いました。いくら広島の平和を叫んでも思想的に理論構築されていないと説得力を持ちませんから。欧米人はそういうことがわかっています。
* フィリピンやタイなどの最近がんばっている国はわかっているでしょうね。
山田さん はい、日本だけなのですね。でも,政治家はわかっている。学者もわかっているけど市民に教えない。
* 現実のいろんなテクニカルなやり取りが法廷に出るとありますが、もう一方で山田さんにとっては、そういう大きな人類史の中の思想の構築や哲学的な思考とかいうのがあったわけですね。。
山田さん 要するに人間をどう捉えるかですね。法廷の中のいろいろなやり取りを見ていて、それに関わる人々の思想性が見えてくるのです。弁護士の作った無罪の弁論書を見て、その弁護士がどういう思想の持ち主かわかってきて。証人の人々の人間性も,どういう思想に裏打ちされているか見てきました。
 侵略の問題を考えていく中で、人間をどうとらえるかについて考えて始めたのです。
 戦前みんな翼賛者だったのに、戦後民主主義でとたんに平和主義者になって。
* だから、一番痛いところを山田さんは言い始めたのですよ。
  河上裁判長の判決について、山田さんは「法の正義」と言われたのですけど、そのへんのところを今までの話と関連付けて話してください。
山田さん 法がいかなるものか私なりに勉強してわかってきているつもりなのですが、人間を豊かにしてくれるのが法の精神なのですね。今回の判決は当たり前のことを当たり前に認めたのです。「山田さんはアリバイがありやっていない」というのが25年たって,やっとそのまま認められた。
 でも、それを証明するには判決の意味付けが必要ですね。なぜ、私たちの主張が正当なのかということに対しての意味付けがとても良かったのです。一度目、二度目、三度目と、だんだん深い意味付けになってきている。法は生成して、より進化していくものだということを甲山の3つの無罪は証明しています。それまで正当だった法も、よりすぐれた法に今までの場を明け渡さねばならない。そうやって法はより気高いものに発展していく質と使命を持っています。それが法の生成なのです。甲山の3度の裁判の中にそういう法の変わりゆく様子をみたのです。甲山の裁判の場は法が持つ姿を証明してくれた場でした。
 いろんな理論づけをした本だけではわかりませんが、私はその理論の実体を甲山裁判で見ました。そしてそのためには大変な攻防がある、イェ−リンの「戦わずして法の精神は得られない」というのが本当に良くわかりました。
* 本当に良い判決でした。
山田さん ええ。隅々まで証明し、検察の主張を木っ端微塵に砕いたという判決でした。
* 山田さんは9月12日の判決前の集会で「証言を何度もさせられた園児たちがいとおしい」と言っていましたが、さっき言った「双方の人権を認めた判決」という点と絡めて説明してください。
山田さん 子供たちの証言というのは、犯行時間帯とされる時間のいろんな人間の動きに合わないわけです。人間の一連の行動の中で見たなら、一続きになりいろんな証言と連動しているべきなのです。子供たちの目撃証言だけは浮いて連動しているけど、職員とは連動しないのです。それで最初言っていたことと全然違うことを徐々に言って行くのです。どんなに矛盾している証言でも,検察官が主張するには、「知恵遅れだから矛盾しても仕方がない」と。「見ている見ていないは、うそつけないし創ることもできないのだ」と、だから「見たことだけは真実なのだ」と言うのです。5人の子供が見た見たと言っていますから。
「見た」ということだけを5人もの数を使って浮かび上がらせる、「知恵遅れ」というレッテルを貼って、見させようとしたわけですよね。そういうレッテルを取り去って、普通の人間がしゃべったととらえて欲しい、証言を証言として色眼鏡で見ないで欲しい。証言に矛盾があると弁護側は主張したのです。
 この理論を出すにしても、最初の再逮捕の時もみんなわかっていませんでしたから、ものすごい議論をしたのですよ。みんな知恵遅れの子たちをわかっていないのですから。知恵遅れの子はうそつきだというイメージも,知恵遅れだからうそはつけないのだと言うイメージもあるでしょう。どちらも偏見なのです。だから、その偏見でないところでこの証言はおかしいのだということを裁判所に訴えるために、合宿もしました。。
* ここに、さっきの市民運動の人々、特に左翼の人たちというのが出で来るでしょう?
山田さん そうです。再逮捕され公判が始まってしばらくした時、まだどこへ行くにも保釈条件の関係で弁護団と移動していたときです。大阪で甲山の市民集会がありました。当然尾行も付いていて,いちいちチェックされていたときです。どこで山田悦子が何をしていたか全部検察に報告されていたようです。そのとろ、ある集会で日弁連の元会長で徳島ラジオ商事件を手がけた和島岩吉先生と一緒に甲山支援の集会に出席した時のことですが、和島先生が弁護団に呼ばれて、「今までいろんな刑事事件を扱ってきた経験からみて、園児が関与している事件だと思う」と言ったのです。そうしたら、支援者たちから非難が出て集会が騒然となりました。
 それで非難轟々になって。そこからですよ、園児が関与しているとは言えない雰囲気が出来たのは。
* でも、これは初期捜査のころにも出ているわけでしょ。
山田さん ええ。職員の調書でそのことを言っている人もいます。だから非公開法廷で、3月17日の1人目の女子園児が浄化槽の中で亡くなった事件で、最初に「女子園児を自分がマンホールに落とした」という決定的な証言が出ても、それを外に救援の側からも伝えることができないという状況を市民運動は作り出したのです。
 こういう雰囲気を検察側は利用して21年の長期裁判を作ったのです。
* 逆に反権力的な市民運動の支援がなければ、再逮捕もなかったということも考えられますね。 
山田さん それはないと思います。これは、国家賠償請求訴訟を起こしたことへの報復だと思います。国家を問うということはこの国では許されませんから。
* 男子園児の死亡も、同じように園児間で起きたことだと積極的に取り上げたのは、公式では上告趣意書からですよね。
山田さん そうです。ずっとタブーだったのですよ。市民運動があるからずっと言えずにくるでしょ。また、私たち自身がそういうこととは別にきちんと知恵遅れの子供の存在をつかみとることができていなかったの思うのです。そういう子供達を管理する施設の実態があるということを、A子さんの証言も取り入れることで施設の問題も語りながら、私の無罪を訴えていくことはできなかったのです。
* このような、浄化槽で亡くなってしまうという事故はたくさんあったのでは。
山田さん 他の施設ではどうか知りませんが、今度の事件でマンホールからいろんなものが出てきたのです。それで初めて私たちはマンホールで子供たちが遊んでいたという実態をつきつけられたわけです。ピアノの鍵も無くなっていたのですが、落ちていたのですね。これも捨てていたのだというのがわかったのです。
* 園児同士の葛藤もあったわけですね。
山田さん だから偽証罪に問われた多田さん(甲山学園保母指導員)が指摘しているのは当たっているのです。
* 証言をさせられた子供たちがいとおしいというのは、彼らは大きな罠に巻き込まれていて。
山田さん そうです。そうして利用されたのですね。
* どんなに傷つくかという。
山田さん いえ、あの子たち、傷ついているという自覚はあまりないと思うのです。だからいとおしいのです。そういう子たちを利用するという。とても過酷な事情聴取が行われているのです。とられた調書の数が20何通です。
* A子さんだけでもすごいですよね。
山田さん 調べられるということは,ものすごい苦痛なのです。起訴されてからも園児証言がとられている子が出たのですから。そういうことこそマスコミは書くべきなのですよ。    
* そう。毎日新聞の武田裕記者だけ。
山田さん でもその後、検察に呼びつけられて叱られて。だからどうってことないのですよ。
* それでもう、あんまり書かなくなったのですか。
山田さん もう,全然。それで毎日新聞にはいまだに「山田が犯人だ」っていう雰囲気が残っているのですから。新聞社は皆そうですよ。だって、あの当時甲山に張りついていた記者たちが,今は論説委員や部長とかになっているのでしょう?その人たちが「あいつはやった」と後輩の記者をずっと洗脳していっているのですから。
* 甲山はフリーセックスだったとか言っている幹部もいる。
山田さん 男女が1つ屋根の下に当直で寝るのに、何もないのがおかしいと言っているのですよね。じゃあ、施設はもう全部フリーセックスですよ。修学旅行の旅館もフリーセックスですよ。
* やはり、当初から園児の間で起きたことではないか、というのはかなりあったのですか?
山田さん 当初から、ひょっとしたらとみんな思いました。でも、捜査当局が「犯人は職員」と打ち出したときから、もうそれが言えなくなりました。
* それから解放運動とか。
山田さん 障害者解放運動が大きなうねりをおこしている時でした。台頭してきたときだったでしょ。園児イコール犯人という見方はタブーになる。殺人事件になっていたから犯人がいるでしょう。殺人事件ではないのに、殺人事件としてしまっていますから。そういうのに市民運動はとらわれてしまっている。「園児関与」といえば「園児を殺人犯人にする気か」という返し方をしてくる。
* 殺人事件ではないですよ、この事件は。
山田さん そうです。
* そもそも責任能力を問えないですよね。殺意はこの場合ないでしょう、どう考えても。今度の判決でも私が不思議なのは、マスコミも書きにくいのでしょうが、河上裁判長が山田さんのアリバイを認めた上で、事件の真相についても「園児間の事故ではないか」と間接的に言及しているのに、この点を展開しているところはないですよね。朝日のインタビューもだいぶぼかして書いていますよね。
山田さん タブーなのですよ。障害者団体などから抗議がでたりするでしょう。私たちは差し戻し判決が出るまでそういうことをタブーにしてきたのですよ。そうしたら、元大阪高裁刑事部総括判事裁判官の石松竹雄先生が「山田悦子さんが犯人でないなら、誰が犯人だ」と言った。これが裁判官の発想です。この事件の本質を知らせないと勝てないよ、とアドバイスをされたのです。そこから「それが裁判官の見方か」って、弁護士がぐっと動いたのです。私たちには「山田悦子が無実だ」ということが真実でも、裁判官には「誰が犯人か」が真実なのです。
* それをちゃんとクリアしないと無罪判決を出せないのですね。
山田さん ええ。その線上にその次の差し戻し審の無罪判決があるのですよ。今回もそうです。
* 僕が山田さんに始めて会ったのは、1984年9月で、甲山京都救援会でしたよね。その時、山田さんは前のほうで聞いていましたよね。その次の年の85年2月、西宮の公同教会で僕が講演をしたのですよね。  
山田さん あれは無罪判決が出る前でしたね。
* そうですね。その懇親会で、ある弁護士が僕にからんだ。「君は何で無罪だとわかるのだ」と言われた。私は「山田さんと出会い、この事件について調べるうちに無実を確信した」と答えたのですが、彼は「園児が関与した事故だと分かっているのだ」と言いました。その時私は「そうならば、園児のことを言うべきだ」と言ったわけです。そしたら彼は「俺はそれを言わないで勝つ」と言いきった。だから、僕もそれがずっとひっかかっていて。そこが、今回の判決で明確に全部出てきたわけでしょ。山田さんの無実を社会に分かってもらうため、確かに障害者の「押して落とした」と言われている人の人権もあるが,それは言わなければならないとずっと思っていたのです。そういう意味で今回の判決は良かったと思います。
 日本の裁判は、真相について言及しないと勝てないと思います。アメリカみたいな、O・J・シンプソンがやっていると思うが、検察が証明できなかったら無罪でもそれはそれでいいんだと考える社会と、絶対犯人を逃がしては駄目という社会がある。だから、日本は代用監獄があるし、「やった人を逃がすな」という処罰欲の強い社会がある。
山田さん ただ、「園児が犯人だ」と言うことを許さない雰囲気がありましたね。それは市民運動が作り上げたのです。日本の市民運動は「日本の本質」をわかっていないのです。
* 権力のすごさとか,全然わかっていないですよね。簡単に権力を倒せるわけないですよ、あんな力で。でも、あの人たちが権力を握ったらもっと恐い。
 逢坂貞夫氏(第二次逮捕の主任検察官で、99年7月大阪高検検事長を退官。現在は弁護士)は、「判決は捜査がでっちあげだったと言っているようでけしからん」と言っているのですけど。山田さんは、彼は「ストーカーみたいだ」と98年無罪判決後言われていましたが,今どう思われますか?
山田さん 私は、そういう人材をもっている日本の権力の恐ろしさ、それが日本の国家らしいと思いました。逢坂さんがまさしく日本の国家を表しているのです。日本の国家の本質が逢坂さんを通じて体現されている。
 日本は大事件を起訴に持ち込んだ人はみんな出世する。甲山に不起訴出した検事なんて,出世してないです。佐藤さんという人でしたが。その佐藤さんの時の検事の調書でA子さんを調べているのですよ。彼女が男児を連れていったのではないか、という状況も調べているのですが。そいうのをきちんと整理していたら再逮捕なんて起こらないわけですよ。
* A子さんの証言は再逮捕の供述調書の前に出ているのですよね。
山田さん はい。第二次捜査中。
* 突いて落としたのは彼女かもしれないが、山田悦子さんは確かにその場にいたのだということで「自白」の動機につないだのでしょうか。強引ですね。
山田さん でっち上げ以外の何物でもないと。
* 逢坂さんのような人もいれば,河上裁判長のような人も国家にいる。だから希望があるというか。
山田さん 検察というのは、治安でしょう。国家をいかに治めるかがまた国家の本質となるでしょう?
* ええ。逆にいえば、検察官というのはある意味で国家をむき出しにしている。
山田さん だから、国家に責任を問うた時に大弾圧がかかる。園の関係者でない人も、12ヶ所も捜索されたのですから。学園とは全く無関係な人に、神戸新聞会館の保安状況を説明してもらっただけで逮捕されたのですから。この保安係の日常業務を述べることが、私のアリバイの証明につながるものですから、これを潰したのです。国家の責任を問う事に対しての大弾圧ですから。
* 見せしめ、復讐。
山田さん そうですね。
* 国賠訴訟でアリバイ証言した多田さんと荒木園長の逮捕もすごいことですよね。
山田さん だって、封じ込めておかないと無罪になってしまうからでしょう。
* いろんな冤罪事件ありますが、普通あそこまではしないですよね。
山田さん 国家の責任を問う事に対して,剥き出しになって国家が怒ったのが第二次逮捕だったと私は思っています。その時はわかりませんでしたが。日本がどういう国家かわかったときに再逮捕の意味がわかりました。証拠が支離滅裂でもかまわないのですよ。
* 山田さんは、私が3度目の無罪の数日後に電話をした時に、「ざまあみろという気持ちです」と言われていましたけど、98年3月で確定していれば検察はこんな赤恥をかくことはなかったわけです。特に今回、私は上訴権を放棄した大阪高検の判断を評価しているのですが、「初期捜査に問題があった」と言ってもいる。山田さんへのコメントは?と聞かれたら「それは控えさせてもらいたい」と終わっているのですが。でも「裁判の迅速化について考えていきたい」などとも言って。これまでだと,例えば大分みどり荘事件でも検察は「捜査は適正だった」と言っている。そういう意味で、これは日本の冤罪事件の中で初めでだったのでは。
 それから、毎日新聞の記事の中で当時の捜査官の一人が、ずっと捜査がおかしいと感じていたとコメントしている。今ごろという気もするが、でもそういうことが出たというのは良かったと思うのですね。
山田さん そう言わざるを得ないね。だって3度も無罪が出て、それでも有罪なんて言ったら見識が疑われるでしょう。
* そう言う意味では逢坂さんは生きにくいのではないかと言う気がしますが。大阪弁護氏会で仕事をするのですから。
山田さん そういう精神があれば、まず再逮捕はやらなかったでしょう。何の傷みも感じずに元気に弁護士生活をやられる方だと思いますよ。
* それと、新聞社の幹部になっている人たちは「山田さんが犯人だ」という思い込みでやっとやってきたと、私もそういうことを聞くのですが。そのときの根拠が「別所王太郎さん(二次逮捕の神戸地検検事正)や逢坂さんは人格者で、検察の中でもまともな人だ。だから間違いない」と、裁判を一度も傍聴せず、甲山について何も調べないで言っている人が多い。それを聞いた後輩たちが無実という確信をもてないでいるというか。また、「逢坂さんは悪人にはみえない」と言う人たちもいる。
山田さん 警察・検察発表によって取材していたら、そう思うでしょうね。
* 今回も、喜びの記者会見なかったのですが。山田さんが記者会見をしたのは、第一次控訴審判決が出て、弁護団がメロメロになっているときでしたね。
山田さん そうです。あれは出なかったら「逃げた」と思われましたから、私が棄却・差し戻し判決の不当性を訴えました。
* 無罪でも出ないのは、「写真による匿名報道主義の実践」だったと言っていますね。
山田さん 記事に実名を出さないのが「匿名主義」でしょう。それを、同じように映像の部門で実践すると「顔を出さない」ということになる。
* 基本的には名前もやめてほしいわけでしょう?
山田さん もちろん、そうです。テレビは前に撮った映像があって、断っても昔のをどんどん使いますからね。
* あれも使わないでほしいと申し入れているのでしょう?
山田さん はい。でも聞きませんよ。朝日テレビなんかは「山田さんの意向に沿って」と対処していますが。
* 読売テレビは、前回は過去の映像を使わなかったのに、今回、いろいろ事前のものも使ったのでしょう?
山田さん 向こうには営業もあるから、こちらがイヤと言っても流すときは流すでしょうし。ただ、私は浅野さんに教わった「匿名報道」の実践を映像部門で淡々としているだけ。
* それについては、関西のマスコミにはだいたい浸透していますよね。
山田さん そうですね。繰り返し、繰り返し言っていますから。
* 98年3月、第二次一審無罪の時は撮ったことがありましたよね、あのサングラスをかけた姿を、関西テレビや産経なんかが。今回はなかったのですか?
山田さん ありませんでした。フォーカスもなかった。やっぱり、言いつづけることは大切だと思いました。それでも、私の事件ではそういう扱いをしてくれるけど、言わない事件ではしてくれないですから。
 毎日新聞が甲山の過去の報道記事を検証していまして。新聞週間にちょうど判決が下りたから一石二鳥でやったのでしょう?10年前の容疑者報道を受けて何もしてきていないのに、今ごろするほうがおかしい。これは、3度も無罪が出たから仕方なくやっているだけでしょう。
* 「A子さんの証言を、うちだけ書いた」と書いていましたが。
山田さん 毎日新聞がそう書いたのですか?
* はい。(甲山報道の)「良かったところ」ということで。だけども、第二次逮捕をスクープしたのは毎日で。
山田さん そう。一貫性がなく場当たり的に対応しているから。           
* 朝日新聞のインタビュー(大阪本社版では10月14、15日)に応えたのは、今の社会部デスクのO記者と信頼関係があったからですよね。山田さんは、自分なりに納得できる人との信頼関係で対応するということですよね。それで今回、無罪判決確定、O記者とのつながりの中で、朝日を選んだということですか。
山田さん ええ。「甲山事件を通した山田悦子との信頼関係」ですよね。Oさんは、神戸支局にいた頃から、甲山事件に対して一貫して「山田さんは無実だ」という立場に立って、記者として努力してくれましたから。
* 95年ごろに5回連載をやりましたよね。「元保母」として匿名報道でした。あれもOさんたちの仕事ですよね。
山田さん はい。Oさんがいたからやれたのです。差し戻し審は、マスコミの誰もが有罪が出ると思っていたのですよ。関西テレビなんかは、私の友人に有罪を前提にして話を聞きに来たのですよ。毎日新聞などは、一番目は有罪、次は執行猶予付き判決、そして灰色無罪、4つ目が無罪で一番後といったランク付けをしてまで有罪を待っていました。だから、法廷での弁護側の無罪証明はあの人たちには全く関係ないのですよ。ジャーナリストとして事態をきちんと見極めるという姿勢は無いのです。
 98年3月の判決前に、弁護士と共にマスコミ対策のために回ったのですが、あの時の対応にも良く出ていました。普通無罪が出るとしたらいろいろ質問するのですが。みんな「はいはい、わかった」と。神戸新聞に至っては一言も発しませんでしたから。論説員クラスの人が3名と取材記者1、2人。こちらは一時間ほど説明しましたが、何も反応がなくて。その中で、朝日新聞だけは、きちんと応接室に通してくれて、「有罪と無罪の記事を両方用意している」と正直に言っていました。
* 要するにジャーナリストとしての真面目さですよね。山田さんは、先程、「匿名報道主義の実践」と言われていたけど、「誰が罪を犯したかわからなければ事実の報道にならない」や「警察権力のチェックのためにも必要」という、いわゆる有力な反論があり、いまだに逮捕ですぐ名前を出ることが続いているのですが。そのへんについてちょっと。
山田さん マスコミは権力が持っている情報をちゃんと全部取得せねばならないと思いますよ。逮捕された人の名前も知っておく。ただ、権力と対峙するものとして、私たちはマスコミというものを武器として持っているわけでしょう。でも、人間社会でその情報を全部出して権力と同じようなレベルに立って私たちを弾圧するのは、表現の自由を持っている本質的な意味から離れてしまうことになる。そこで、最低限譲れないのが、一般の事件では、逮捕した人の名前を出さない。それが、今後裁判になっていくかもしれない刑事訴訟の鉄則を守ることになるのですよね。そういう意味で私は実名報道は絶対良くないと思っています。
* 我々が知るべき必要のある名前は顕名報道にすればよい。
山田さん 権力を支えているもっとも身近な人たちの犯罪の場合です。
* 甲山事件で、そこで働いている保母さんが疑われているということについては名前は必要ないということですよね。
山田さん 社会を動かす力のある個人の名前は出すべきです。どこまでが名前を出して良いかということは、記者が記者生活の中で培っていく思想の中でしか生まれてきませんから。戦後50年のなかで、そう権力とやりあってこなかったのです。
* 逢阪さんが、犯人だと考え逮捕すると言えば、名前を書いていくわけですよね、早い話が。信頼する人が言っているから間違いないのだ、とすれば、そこにジャーナリストは必要なくなりますよね。
山田さん 人間は間違いを犯す存在だ、というのを顕著に示したのが侵略の戦争なのですから。その検証がなされていない中で戦後の日本が築かれてきたのですから。
* 山田さんは実際に罪を犯した人も匿名にすべきと、はっきり言われているのですが。
山田さん 償いをして社会に戻って生活しなくてはいけないのですよ。その権利を奪う権利は無いのです。そうでなければ、獄中での社会に出るための更正など必要ではなくなる。
犯罪者は償わなくても良いということに成りますから。
 実名報道は有実者に対して、法さえ否定するものだと思います。
* 家族も崩壊してしまいますよね。
山田さん 実名報道は、今の状態の法体系を崩して行くものだと思います。これは本当にささやかな要求なのですよ。
* それが通らない日本の社会というのには、先ほどの侵略戦争が関係しているのですよね。
山田さん 人が罪を犯すのは社会が駆りたてるのですから。人間は社会的な動物なのですから。実名報道は傷口に塩をすり込むようなものですよ。服役をした人を温かく待っている社会、それは、個人レベルとは別に社会レベルから見ると、匿名報道でしかできないと思います。癒しのない社会は退廃につながりますから。
* 日本弁護士連合会は10月14日に前橋でで開いた「人権と報道シンポジウム」でパネリストになった田島泰彦・上智大学教授は、「実名報道が悪いのでなく、実名報道によって犯人視されるという構造があるのが問題であって、あるべき姿の犯罪報道が実現したときの実名報道は区別して考えるべきだ」と強調していましたが。
山田さん でも、そういう社会は匿名報道によってしか実現されないのですよ。彼は闘わないで表現ばっかりしているから、矛盾が出てくるのです。この現状を少しでも変えようとしたら匿名報道しかないのですよ。彼は変わる手段を何も提示しないのですよ。
* それが、河野義行さんの言う「学者らしい」ということですね。
山田さん 「命か表現の自由かどちらが大事か」。河野さんにとっては表現の自由と命は体験によって同じものなのですから。
* 山田さんと、みどり荘事件の冤罪被害者、輿掛良一さんらが会場から匿名報道主義を 訴えたのに対し、東京新聞の飯室勝彦編集委員とTBSの「現場を預かっている」という上田と言う記者が、「何を報道するなというのは心外だ」、「正確な報道には実名が不可欠だ」などど言っていました。“勇気”のある人たちでした。
   最後にマスメディアの犯罪報道は変わったかということと、職業としてのジャーナリストになにを期待するかということをお聞かせ下さい。
山田さん 本質的には変わっていません。ただ住所なんかは出さないというようになりましたね。
* でも、他の事件では出ています。ただ山田さんのような要求が通るようになったというのはありますね。
山田さん くたびれずに、めげずに言いつづけなければ。
* そう。しかも、前は逮捕段階で呼び捨てでしたものね。
山田さん 呼び捨てでも呼称がついていても書く中身が同じだったら全く変わらないですよ。向こう側は「努力しています」という言い訳の材料はいっぱい作った。「容疑者報道にしています」とか。だから、変わっていませんね。学ばないのです。
* 朝日の「天声人語」も良かったのですが、これから犯罪報道をどうするかが出ない。
山田さん ないのですよ。やる気もないから。
* ただ、あそこまで書いた以上は、山田さんが朝日にどうしてほしいか言えるし、言ってほしいと思います。朝日、毎日、共同のどこかが本気になればこの問題はかなり進むと思うのですが。朝日の中でも変えたいと思っている人はいるでしょうし。そうでないと、無罪のインタビュー記事はスクープとして書いた記者が評価されるだけで終わる。
 山田さんの事を知った海外も人も集会に来て、注目して支援してくれました。スウェーデンのプレスオンブズマンのトシュテン・カーシュさん、アトランタオリンピックで爆撃犯にされそうになったリチャード・ジュエルさんと、その弁護士ワトソン・ブライアント弁護士です。そのへんに対してどうですか?
山田さん そういう人が世界の片隅にいるのは世界と連動していると、勇気づけられたりしますが。決して人権問題は切り離されていないのだ、と。
* ブライアント弁護士は、甲山事件を、中世の世界を見るような目で見ていましたね。
山田さん ソクラテス以前よ。 
* 今後はしばらく休んで疲れをとって、日本の司法とメディアの改革のために、甲山事件にはずっと世間が注目していくと確信しています。
山田さん そうですね。
* 報道評議会を作ることを、新聞労連や人権と報道の会でも要求してきたのですけど。今、政府がいろんな動きをしていてチャンスなのですよ。
山田さん あったほうがいい。ただどういうメンバーでどういうことをするかという中身ですよね。形骸化されないきちんとした思想のあるものを作っていく事が大事です。報道評議会自体が一つの権威になるから、絶えず人の回りを良くしないと。絶えず発展進化するようなシステムを確立しないといけないですね。

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