2001年1月23日
朝日新聞「報道と人権委員会」へ質問
同志社大学文学部社会学科新聞学専攻教授 浅野健一
朝日新聞東京本社社長 箱島信一様
朝日新聞「報道と人権委員会」事務局長 佐藤公正様
朝日新聞「報道と人権委員会」委員会委員
大野正男様
原寿雄様
浜田純一様
拝啓
厳寒の候となりましたが、貴殿におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
突然のメールで失礼します。
私は同志社大学文学部社会学科で新聞学を教えております。1972年から22年間、共同通信記者を務め、社会部、外信部、ジャカルタ支局に勤務しました。94年4月から同志社で教鞭をとっています。 1999年3月から10月まで、厚生省の公衆衛生審議会臓器移植専門委員会の委員(メディア論)を務め、医療の透明性の確保と患者のプライバシー保護について意見を表明しました。専門は「表現の自由と名誉・プライバシー」で、特に人権と犯罪報道に関心を持っており、刑事事件報道において「報道の自由」と「被疑者・被告人の公正な裁判を受ける権利」などの人権をどう調整・両立させるべきかなどについて研究・教育しています。朝日新聞社が今年の元日、社外委員三人による「報道と人権委員会」を発足させたことは、報道による人権侵害に対する長年の報道被害者の闘いの成果だと私は評価しています。これは毎日新聞が昨年十月に設置した「開かれた新聞」委員会に続く動きですが、貴社の社告や委員の抱負の中に、報道評議会との関係でかなり気になる表現があります。
四つの質問をさせていただきます。1浜田純一委員の「抱負」について
貴社の新委員会についての見解は資料として送らせていただきますが、浜田純一委員の「抱負」の中での次のような発言には、かなり問題があります。
《メディアの人権侵害が問題になっています。以前よりメディアの数が増え、取材と報道が集中豪雨的
になったことと、国民の人権意識が高まったために起きている問題だと思います。
最近、人権侵害の面が強調され、報道の自由の意義を擁護する意見があまり聞かれません。メディア
が委縮し、本来報道すべきことまで抑制してしまうのではないかと気がかりです。
人間の好奇心は抑えきれません。それはメディアも同じでしょう。でも、それではもう通用しませ
ん。メディアは自主的に取り組む必要があります。具体的には、各社ごとに内部チェック機関を設け、
専門家や読者の意見を聞く。メディア側も自らの考えを述べ、議論を紙面で紹介するなどオープンにす
べきです。
いま必要なのは、問題点を共有して社会的な議論をすること。人権侵害と報道の自由について、バラ
ンスの取れた考え方を見いだすことだと思います。
問題解決を急ぐあまり、権威を持った第三者機関をすぐに設けるのは反対です。裁判所でも意見が割
れている問題を一律に解決できるとは思いません。「こうすべきだ」とメディアを従わせる方法は危険
を伴います。むしろ開かれた議論の場作りが大切なのです。
名誉棄損の裁判では、公共の利害に関する事柄で、公益目的があって真実と信ずるに足る相当の理由
を裁判所が認めれば、メディア側の責任は問われません。メディア側はそれでよしとせず、仮に報道内
容に問題があったと自ら判断すれば、追加記事で補うことが必要です。書かれた側の事実上の救済にも
なり、読者の知る権利にさらにこたえることになると思います。
被害者の人権救済も報道の自由も共に大切な価値。対立的にとらえず、並行して考えたいのです。》
浜田氏の見解で下線部に対する貴社の見解をぜひお聞かせください。
2 国内新聞初めてという記述について
一月三日付の紙面では、新・委員会は「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」とうたっています。しかし、毎日新聞は二○○○年一〇月一四日、社告で「『開かれた新聞』委員会」の設置を発表し、毎日新聞が独自のオンブズマンと自称しています。毎日新聞の委員会は、「人権問題に絞った本格的な社外組織」ではないということでしょうか。
「国内新聞初めて」という記述は誤っていないのでしょうか。3 オンブズマン制度と呼ばれていることについて
毎日新聞は本日(一月二三日)の「追跡 メディア」の頁で、「我が国」の朝日新聞など四社の新組織を「複数の社外委員による日本の独自のオンブズマンともいえる」と定義しています。「当社のは年に三回集まってもらうだけで、八人の委員の意見を紙面に反映させてもらうもので、オンブズマンではない」(新潟日報編集局)という声も上がるなど、混乱が見られます。
また新聞労連は二○○一年一月一○日の会議で報道評議会原案の一部を手直しし、成案を作成しましたが、その中で《昨年秋から毎日新聞が「開かれた新聞」委員会、朝日新聞社が「報道と人権委員会」を立ち上げるなど、新聞各社の自主的なオンブズマン制度創設を受けて、[はじめに]の中の「市民の報道への信頼は、もはや各報道機関ごとに読者対応室や法務室などを作って対処するだけでは回復できない段階にきている」との表現を削除》しました。貴社と毎日新聞の委員会を「オンブズマン制度創設」と見なしています。また、二○○○年一月一日の新聞労連の機関紙によりますと、新聞労連の「01春闘」運動方針案は、毎日新聞の委員会を「オンブズマン・システム」と呼び、朝日や共同通信と地方紙などの「報道と人権」機関の設置を評価しています。労連のこの見解に私は到底賛同できませんが、貴社と三委員の方々は、自分たちのことを「オンブズマン」と認識されていることについてどうお考えでしょうか。4 報道評議会設立について
昨年一○月横浜市で開かれた日本新聞協会の第五三回新聞大会最終日の研究座談会で、新聞倫理綱領検討小委員会委員長の中馬清福・朝日新聞社専務が、六月に制定された新しい新聞倫理綱領の精神などについて特別報告しました。
《中馬氏は「人権の尊重」や「プライバシーへの配慮」など新綱領策定にあたって特に重視した点にふれた後、昨今の報道による人権侵害が「知る権利」や「表現の自由」の規制につながりかねないことに懸念を示し、「手遅れにならないうちに、新聞は人権問題について手を打つべきだ」と指摘した。さらに「その場合、肝心なことは、あくまで新聞自体が、自主的に解決を策定し、具体的に実行することだ。政府をお目付け役にするなど論外、『政府から独立した新しい人権機関』も受け入れるわけにはいかない」などと述べた。》(一○月一八日の朝日新聞)
中馬氏の問題意識は正しいと思います。「新聞自体が、自主的に解決を策定し、具体的に実行する」という宣言を現実化してほしい。「新聞自体」とは新聞界全体で自らの責任制度をという意味ではないでしょうか。
朝日新聞が日本に真のメディア責任制度(プレス界全体の統一報道倫理綱領制定と報道評議会・プレスオンブズマン制度)を確立するためにイニシアティブを発揮されるよう期待していますが、今後どのような取り組みをなさるおつもりでしょうか。以上の四つの質問について、1月29日までに回答ください。回答には回答者の役職名、姓名を、明記くだされば幸いです。
敬具
参考資料1
2001年1月23日
報道評議会は「理想論」とではない
朝日などの新・委員会の創設とメディア責任制度
浅野健一
二○世紀中に誕生しなかった日本報道評議会を今年こそ設立する好機だと私は考えてきたが、日本の新聞界は、活字媒体全体を網羅した報道(プレス)評議会の創設をあきらめ、各社がこれまで持っていた記事審査室や読者広報室の延長線上の新組織を立ち上げた。毎日新聞を皮切りに、新潟日報、朝日新聞、東京新聞がつくった。名称は様々で、組織形態も活動内容も異なる。毎日新聞は「我が国」の四社の新組織を「複数の社外委員による日本の独自のオンブズマンともいえる」(一月二三日)と定義しているが、「当社のは年に三回集まってもらうだけで、八人の委員の意見を紙面に反映させてもらうもので、オンブズマンではない」(新潟日報編集局)という声も上がるなど、混乱が見られる。朝日新聞は二ヶ月半前にできた毎日新聞の組織を無視するかのように、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」(一月三日)人権に絞った初の社外組織」だなどとPRしている。
四社とも「苦情処理」「報道被害救済」などの看板を掲げただけで、国際的な基準を充たした報道評議会やオンブズマンとは無縁の、各新聞社の苦情処理機関にすぎないと思う。
各社の委員会にはほとんど専任のスタッフがいない。報道被害者から積極的に苦情を受け付けようという姿勢が不十分だ。各社のホームページにも出ていない。東京新聞はどこに訴えたいいのかも書いていない。新潟日報も《新潟日報「読者・紙面委員会」》をつくった。
各社の新組織の委員の顔触れが政府の審議会メンバー以上に偏っている。各新聞社がその新聞に「理解がある有識者」を選んでいるのでから、被害者が安心して訴えることはできない。委員の多くが犯罪の被疑者も被害者も実名報道が当然と公言している人たちだ。少年も凶悪事件は実名にという学者やジャーナリストも入っている。
政府与党がメディアによる人権侵害問題について、法律で規制することを検討している。報道界全体で報道評議会などの自主規制期間をつくらないければ法規制もやむなしという世論もでき上がっている。各社がつくった新委員会だけでは、こうした権力と市民からの批判に対応できない。
ところが新聞労連や一部弁護士は、各社の委員会設置を「オンブズマン制度」と評価し、報道評議会を「理想論」で今すぐには困難と位置づけている。私たちはメディア責任制度とは何かを原点に立ち戻って考え、北欧や英国にある制度を参考にして、報道される市民のための仕組みをつくるよう報道界に求めていかなければならない。朝日新聞の「開かれた新聞」委員会の問題点と課題
朝日新聞社は元日、社外委員三人による「報道と人権委員会」を発足させた。毎日新聞が昨年十月に設置した「開かれた新聞」委員会に続く動きだ。朝日新聞社が二〇〇〇年一二月二三日付で掲載した「社告」 は次のように書いていた。
《朝日新聞社は、国民の知る権利に奉仕する報道の自由を守ると同時に、本社発行の新聞、週刊誌などの報道で名誉棄損、プライバシー侵害、差別などの人権問題が生じた場合の救済を図るために、社外委員三人による「報道と人権委員会」を元日付で発足させます。
委員は大野正男元最高裁判事(七三)、原寿雄元共同通信編集主幹(七五)、浜田純一東大教授・大学院情報学環長(五〇)の三氏です。
朝日新聞社はこれまでも、自らの報道によって人権を侵すことのないよう、可能な限りの努力を傾けてきました。今回、社外委員による委員会を新たに設けたのは、読者の窓口である広報室の苦情の受理、対応など、問題の解決に向けた一連の手続きに透明性、第三者性を持たせることで、人権問題にさらに配慮していきたいと考えたからです。委員会は隔月ごとに開かれ、読者からの苦情と、それへの対応について、広報室から定期的に報告を受けます。さらに、苦情のある読者と広報室との間で解決の難しいケース、委員が「重大な人権侵害ではないか」と判断したケースについて随時、委員会を開きます。
当の読者を含む関係者から事情を聴くなど独自に調査したうえで問題の解決に努め、審理の結果を「見解」の形でまとめます。本社はご本人の了解を得て、発行紙誌上で「見解」を公表することも考えています。》
二○○○年一二月二三日の朝日新聞「社告」 によると、「本社発行の新聞、週刊誌などの報道で名誉棄損、プライバシー侵害、差別などの人権問題が生じた場合の救済を図る」のが目的。委員の三氏は偶然だろうが、三人とも東大法学部出身だ。委員会審理の結果を「見解」の形でまとめ、本人の了解を得て公表することも考えているという。
委員会は「苦情の受理、対応など、問題の解決に向けた一連の手続きに透明性、第三者性を持たせることで、人権問題にさらに配慮していきたい」と表明。審理の結果を「見解」の形でまとめ、本人の了解を得て、発行紙誌上で「見解」を公表することも考えているとしている。
一月三日付の紙面では、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」とうたい、委員会の事務局長に社会部出身で論説副主幹、出版局長を務めた佐藤公正氏が就任したと伝えた。社内の超エリートコースを歩んだ人が苦情を受理し、事前調査するのでは、とても「本社から独立した存在」(中馬清福朝日新聞専務)とは言えないのではないか。委員が何を基準に審判するのかや、委員三人をどういう手続きで選んだかも全く開示されていない。
「社外組織」というが、「社外」の機関が編集に口を出すのでは、編集権はどうなるのだろうか。「社外」の機関が編集に口を出すことになっては、朝日がいつも強調する「表現の自由」「報道の自由」への介入になるのではないか。北欧などのメディア責任制度は、メディアの責任でメディア内部に報道評議会をつくり、外部の委員にも入ってもらって、メディア自身が決めた倫理綱領に違反しているかどうかを審判してもらう。報道評議会は処罰をしないし、救済措置もとらない。審判の結果をそのまま市民に開示し、市民に広く知ってもらう。市民が監視する中で、メディアは二度と同じ過ちを起こさないような方策をとるのだ。メディア自身が報道評議会の裁定結果をその後の取材・報道に生かすのである。
「表現の自由」は新聞社の特権でも何でもない。市民が等しく持っている権利で、権力がその自由を妨げようとしたときに主張すべき権利だ。表現の自由と市民の人権を「調整する」とか、人権を尊重するという言い方自体がおかしい。
三日の朝日新聞では、委員三人の「抱負」も載っているが、「学会の熟達者」と紹介された浜田純一東大教授(情報学・憲法学)の発言には問題が多い。浜田教授は「開かれた議論の場作ろう」という見出し記事でこう書いている。
《メディアの人権侵害が問題になっています。以前よりメディアの数が増え、取材と報道が集中豪雨的
になったことと、国民の人権意識が高まったために起きている問題だと思います。
最近、人権侵害の面が強調され、報道の自由の意義を擁護する意見があまり聞かれません。メディア
が委縮し、本来報道すべきことまで抑制してしまうのではないかと気がかりです。
人間の好奇心は抑えきれません。それはメディアも同じでしょう。でも、それではもう通用しませ
ん。メディアは自主的に取り組む必要があります。具体的には、各社ごとに内部チェック機関を設け、
専門家や読者の意見を聞く。メディア側も自らの考えを述べ、議論を紙面で紹介するなどオープンにす
べきです。
いま必要なのは、問題点を共有して社会的な議論をすること。人権侵害と報道の自由について、バラ
ンスの取れた考え方を見いだすことだと思います。
問題解決を急ぐあまり、権威を持った第三者機関をすぐに設けるのは反対です。裁判所でも意見が割
れている問題を一律に解決できるとは思いません。「こうすべきだ」とメディアを従わせる方法は危険
を伴います。むしろ開かれた議論の場作りが大切なのです。
名誉棄損の裁判では、公共の利害に関する事柄で、公益目的があって真実と信ずるに足る相当の理由
を裁判所が認めれば、メディア側の責任は問われません。メディア側はそれでよしとせず、仮に報道内
容に問題があったと自ら判断すれば、追加記事で補うことが必要です。書かれた側の事実上の救済にも
なり、読者の知る権利にさらにこたえることになると思います。
被害者の人権救済も報道の自由も共に大切な価値。対立的にとらえず、並行して考えたいのです。》
この人は、かつて読売新聞の座談会で「匿名報道」を批判したこことがあり、私がその根拠を質したのに、まともに答えなかった。浜田氏は新聞協会と親密な研究者ですが、本当に「報道と人権」分野の「学会の熟達者」なのだろうか。
朝日新聞を含むこの国の報道機関による人権侵害が大きな社会問題になったのは、メディア企業が一般の企業がもっている常識も持たず、非人間的な取材や報道を繰り返してきたからである。メディアの犯罪を浜田教授らの「学会」がメディアの人権侵害の実態をまじめに調査もせず、批判を怠ってきたからではないか。メディアが委縮するのが心配だというが、社会的弱者である市民に対する取材報道は抑止し、委縮させたほうがいい。「本来報道すべきこと」が何かを見極め、ジャーナリズム本来の仕事を遂行すべきだ。
浜田教授の言う「権威を持った第三者機関」が何を指すかは不明だが、もし報道評議会のことであるなら、とんでもない曲解だ。被疑者になった一般市民の実名が報道された場合、後で追加記事がいくら出ても被害は救済などできない。無実が証明されても実名は伏せてほしいという市民もいる。実名報道されて自殺に追い込まれたり、仕事を失うなどの生活を破壊される市民がいることを浜田教授は知らないのでだろうか。八〇年代の前半にもこんなひどい「学者」はいなかった。人権侵害がないような報道の仕組みをつくることが重要なのだ。
原氏も「いずれは読者・市民・メディアによる報道評議会のような機関も検討すべきでしょう」と述べている。
「Q&A」形式の記事では、「メディア全体の横断的な組織が必要だ、という機運が芽生える可能性もあるのかもしれません」と書いている。委員の原氏も「いずれは読者・市民・メディアによる報道評議会のような機関も検討すべきでしょう」と述べている。
この委員会の名称が、「人権と報道委員会」ではなく「報道と人権委員会」になっているところに注目したい。「表現の自由」は新聞社の特権でも何でもない。市民が等しく持っている権利で、権力がその自由を妨げようとしたときに主張すべき権利だ。表現の自由と市民の人権を「調整する」とか、人権を尊重するという言い方自体が傲慢だと私には感じられる。
朝日の委員会の事務局長は専任だが、彼以外にはスタッフがいないようだ。委員が集まるのは二カ月に一回。評判の悪い国家公安委員会みたいだ。
毎日の「開かれた新聞」委員会と同様に、従来の苦情対応機関を手直ししただけの機関だと言わざるを得ない。
朝日と毎日の両社は、「報道評議会はいずれは必要」とのんびりしたことを言う「識者」を動員している。
一六年前から日本にも報道評議会をという市民運動があるのに、「ゆくゆくは」とか「いずれは」などと悠長に構えていては、目前に迫った法規制を阻止できないと思う。
毎日は今も委員会を「毎日新聞独自のオンブズマン」と詐称し、報道評議会につながるかのように言っている。朝日はこの辺はカニングですから言わない。毎日は、この委員会が発足して三カ月になっても、「書かれた側」の当事者から、いまだに苦情の申し立てがないのはなぜかを深刻に考えてほしい。実名主義を擁護し、「官房長官は首相の女房役」という表現を批判しないような田島泰彦教授が入っているのだから、苦情を申し立ててもむだと誰でも思うだろう。
社別の対応はないよりあったほうがいいし、いままでそれさえなかったことが問題だ。しかしそれをいくら充実しても、メディア責任制度にはならない。これをつくったから、報道評議会は先送りという「アリバイ作り」の危険性さえあると思う。報道評議会は将来の課題などと言っている新聞社幹部や識者は、権力にどうぞ法規制してくださいということだろうか。大新聞は日ごろ、権力と癒着してしまっているので、鈍感なんだとさえ思う。再販や記者クラブ制度でなどで官庁に法律と税金で保護されている現実を見てから、「法規制反対」を言うべだ。
毎日新聞の委員会は、発足から三カ月たったのに、当事者からの苦情申し立てがいまだにないそうだ。毎日新聞の三カ月間の取材や報道には、一件の名誉・プライバシー侵害もないのであろうか。
新聞労連もオンブズマンを誤解
日本新聞労働組合連合(新聞労連)は二○○○年九月一九日、「報道評議会」に関する原案を発表した。原案は「設置場所・形態」の解説の中で、こう述べている。《評議会は東京に置く。形態としては「プレスカウンシル型」とする。形態については、権限の集中を招くオンブズマン型ではなく、合議制によるカウンシル型が適していると思われる。》
権限の集中を招くオンブズマン型」というのはかなり誤解を招く表現である。
労連原案は、北米型の新聞社別のオンブズマンはおかないという意味だろうが、「権限の集中を招く」オンブズマンは、オンブズマンではない。
社別の苦情処理機関(それ自体はいいことだが)をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。両者は全く別のものなのだから、両方とも不可欠なのだ。私は一○月に新聞労連へ意見書を送った。
新聞労連「報道評議会」原案の成案化をはかる報道評議会特別プロジェクト会議が二○○一年一月一○日に労連新研部と合同で開かれ、原案の一部手直しを行った。二五日からの第九七回臨時大会に提案・採択されることを確認した。
労連は原案の「はじめに」で、「臓器移植報道や事件・事故取材での必要以上のプライバシー侵害、行き過ぎた性表現や不適切な差別表現、容疑者と決めつけたような報道による人権侵害など、いわゆる報道被害が繰り返され、市民の報道への信頼は、もはや各報道機関ごとに読者対応室や法務室などを作って対処するだけでは回復できない段階にきている」と述べ、「権力による無用の介入を防ぎ、報道機関が自律した存在であり続けるために、メディアが引き起こした報道被害に業界として自ら対処するシステムが今こそ必要になっている」と強調している。報道評議会は、「権力からの監視、コントロールを一切拒否すると同時に、報道被害が起きた時には速やかに救済を図ることによって、報道の自由と責任を体現していくとうたっていた。
ところが、成案では、《昨年秋から毎日新聞が「開かれた新聞」委員会、朝日新聞社が「報道と人権委員会」を立ち上げるなど、新聞各社の自主的なオンブズマン制度創設を受けて、[はじめに]の中の「市民の報道への信頼は、もはや各報道機関ごとに読者対応室や法務室などを作って対処するだけでは回復できない段階にきている」との表現を削除》した。
また、《「設置場所・形態」の項目では、誤解を招く恐れのある「権限の集中を招くオンブズマン型ではなく、合議制によるカウンシル型」の表現を削除》した。
後者の削除は当然だが、前者を削ったのは大問題だ。そもそも毎日、朝日の委員会をオンブズマン制度と見なすことは、到底賛同できない。
また、二○○一年一月一日の新聞労連の機関紙によると、新聞労連の「01春闘」運動方針案は、毎日新聞の委員会を「オンブズマン・システム」と呼び、朝日や共同通信と地方紙などの「報道と人権」機関の設置を評価している。社別の苦情処理機関をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。
者別苦情対応機関の委員会にメンバーとして入った学者やジャーナリストが、「世界」(岩波書店)などを舞台に、「当面、報道評議会は無理だから市民とメディアの評議会を」などと「提言」してきた人たちだったことも忘れてはならない。日弁連の人権と報道調査研究委員会の一部幹部が、「新聞各社は社内オンブズマンをつくろうとしている」と発言していたのも、思い起こそう。
新聞労連の現役員は、北村肇委員長時代に行った報道評議会に関する労連の調査報告書を読み直すべきである。社別の苦情処理機関(それ自体はいいことだが)をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。両者は全く別のものなのだから、両方とも不可欠なのだ。
新聞労連は法的規制の動きがある中で、メディア責任制度の原理原則を忘れずに、97年の臨時大会での決議をもとに活動してほしい。
「各社の対応」は苦情処理の域を出ない。絶対にオンブズマン制度ではない。労連が設立を目指した報道評議会は、新聞社のための機関ではなく、すべての市民のための仕組みだったはずだ。
法規制の動きを逆利用
外国でも、一般市民によるメディア批判と、それをバックにした政治家による法規制の動きがあって、メディア責任制度が確立されてきた。政府などからの法規制の意図を見抜いて、市民にその危険性を訴えて、日本にメディア責任制度を設立する好機である。日弁連が、労連と新聞協会の橋渡し役を務めることを望んでいる。
榊原英資慶応大学教授は 一○月一日の毎日新聞の「時代の風」で、「カルテル体質 改革を 日本のマスメディア」と題して、日本の政治・行政システムあるいは民間大組織が極端に時代遅れになってきているが、「何といっても、規制と日本語という非関税障壁に守られ続けてきたマスメディアの特殊性は群を抜いている」と書いている。「メディア批判はある種のタブーになってきた」と指摘し、「特に記者クラブの存在は極めて異常で、さまざまな日本的現象を引き起こしている」と断言している。
榊原教授は「記者クラブの古いカルテル体質が、日本の公的セクターに近代的広報システムを採用することを妨げている」「記者クラブ等によるマスメディアのカルテル体質は、他方で優秀かつ専門的ジャーナリストを育てることの障害になっている」とも書いている。
元大蔵官僚の榊原教授は、父親が今の共同通信と時事通信の前身である同盟通信の外報部記者だったという。「それ故か。筆者にも多少、ジャーナリストの血が流れているのかもしれない。厳しいマスメディア批判を展開したのも、メディアを自分のより近いところに感じているからであろう」。
マスメディアの構造改革こそ日本の最も重要な改革の柱だという榊原教授の提言を真剣に受けとめたい。
また、河野義行氏は「メディアの人たちには加害者意識が欠如している。報道被害は市民を社会的に抹殺するということを分からせなければならない」と訴えている。記者たちが、自らの信条に従いジャーナリズムの大道を歩むかどうか。それを支えるのは一般市民のメディアへの積極的参加である。おかしな記事、番組があったらすぐに抗議し、いいものがあれば誉めること。市民がメディアを監視しているという緊張感を持たせることが今絶対に必要だと思う。
資料2
ささやかな願い「匿名報道」を無視する朝日新聞
九九年一〇月の日弁連人権大会で、兵庫県西宮市の施設で起きた園児水死事件で冤罪の被害に遭った山田悦子さんはマスメディアに、「匿名報道は私たち市民のほんのささやかな要求です」と訴えた。それから五カ月後の三月二七日の朝日新聞は《「報道される立場」さらに尊重 朝日新聞社の事件報道》と題し、事件報道の新たな指針を社告で出した。
《新たな指針は、「実名報道」の原則》を保ち、《捜査当局に身柄を拘束された者については、これまで通り原則として実名の後に「容疑者」を付ける》と述べたうえで、次のように述べている。
《精神障害者や精神障害の可能性のある者が事件に関与したとされる場合、「精神障害者」と「刑事責任能力のない心神喪失者」とは別の概念であることに留意する。容疑者に通院歴や入院歴があっても、十分な取材を尽くしたうえで刑事責任能力があると判断されるときは「実名報道」の原則を適用する。報道に際しては、原則として、病名や通院歴などの事実には触れない。こうした報道によって精神障害者全体に対する社会の偏見や差別を温存、助長することがないよう心がける。(中略)
今回は三度目の改訂になります。新たな指針も、機械的に当てはめるのではなく、個々の事件について、ケース・バイ・ケースで慎重に対応します》
ケース・バイ・ケースといいながら、「捜査当局に身柄を拘束された者については、これまで通り原則として実名」で、犯罪の被害者も実名を原則にしている。スウェーデンなどで実践されている、被疑者・被告人も被害者も私人は原則として匿名で、公人は顕名という報道方法があることを読者に知らせる努力もしない。
朝日の新基準では、精神医療を受けたことのある人も実名になり、後に「刑事責任能力のない心神喪失者」であると判断されると、そのことが報道される。「病歴」を書くことで匿名にすると「精神障害者全体に対する社会の偏見や差別を温存、助長する」ことはその通りだが、だからといって現在、匿名になっている権利を奪ってもいいということではない。逮捕段階で匿名原則にすることでしか、この矛盾は解決しない。朝日の新基準は改悪であるが、毎日新聞も朝日新聞の新方針に追随するようだ。
なぜ、逮捕されたら実名なのか。逮捕する警察が信用できないことは、警察組織による一連の「不祥事」が明らかなのに、捜査間による「身柄拘束」は重いといえるのか。権力チェックのために実名報道が必要というのは全くの詭弁だ。
朝日新聞の全社員は植竹伸太郎氏(当時、社会部次長)が「えんぴつ」三一一号(九○年八月に朝日新聞東京本社編集局発行)に書いた《私の「原則匿名」論 事件報道に迫られているのは「質的変革」》というタイトルの論文を再読してほしい。植竹氏は、「匿名報道だと取材が甘くなる」「誰がはニュースの基本」などの「実名論者」の一つ一つの主張を検討して、「原則実名」は論理的に破綻していることを具体例を挙げて論証している。植竹氏は、実名報道には他社がやっているからという理由しかない、と私に断言していた。植竹氏は《原則的に」匿名とし、「例外的に」実名で報道するよう」提案し、「いずれの場合でも大切なことは、実名で報道するのは、権力が公表したからーーつまり公共目的で、かつ、真実と信じるに足る相当の理由があるからーーではなく報道する側の主体的な責任において行うことである》と論じた。植竹氏はこの論文を「主体的な判断で報道し、結果に対して責任を取る。それが読者の信頼を取り戻す唯一つ方法と考える」と結んでいる。
『検証 免田事件』を中心になって著した熊本日日新聞の高峰武記者は「浅野さんの言う匿名報道主義とは、事件関係者の姓名について、最初は匿名で原稿を書き始め、姓名が市民にとって必要かどうかを記者とデスク、編集局幹部と相談し、必要と判断したら顕名で書くというように解釈している」と言っている。
これが正しい匿名報道主義の解釈だと思うし、これなら今すぐにでも実行できるだろう。官憲に身柄を拘束されたら、被疑者は実名になるという現行の実名報道主義に根拠はない。
政府与党はさまざまな方法でマスメディアの法規制を狙っている。「報道評議会などの自主規制機関を設置しなければという最後通告を突きつけている。
こうした動きを阻止し、報道被害をなくしていくためには、^匿名報道主義を軸としたメディア界が守るべき統一報道倫理綱領を制定し、_倫理綱領を守っているかどうかを監視する市民参加型のプレスオンブズマン・報道評議会の仕組みをつくるしかない。
ところが日本新聞協会などのメディア業界団体は、各社で対応するとかいうだけで、業界を網羅するメディア責任制度をつくろうともしていない。
経営者だけでなく、現場の記者の多くも深刻に受け止めていない。二〇〇〇年一一月二日の朝日新聞は、《「痛み」理解する取材を 徳山徹(私の見方)》 を掲載した。徳山記者は「書かれる人々」を社会面で五回にわたって連載した取材班の一人として、「個人的な印象」を書き残した。徳山記者は、五月初旬に起きた西鉄バスジャック事件の被害者ら十四人と直接会い、電話も含めて二十人前後の思いを聞いた。
《一家殺傷事件の現場近くの男性(四〇)は、同級生の死を悼む中学生を取り囲むマスコミの姿を「ハイエナなみだ」と言い放った。バスジャック事件で母親を失った画家の塚本猪一郎さん(四四)は、マスコミを「遺族に群がる亡者」と表現した。》
この後、「こんなやり方を続けていれば法で規制される日が来るぞ、と警告を突きつけられていると思った」「法的な規制を検討する動きは現実的な形をとり始めている」と述べて次のように書いた。
《マスコミ自身による「報道評議会」を求める声も根強い。だが、本質的な解決とは思えない。取材する側が変わらなければ、評議会に「人権侵害」と指摘される例が続くだけだ。
その前に、私たちがすべきことがありはしないか。
私たちは、取材活動を中途半端に和らげたりやめたりすることはできない。中高校生の「いじめ自殺」のケースを考えて欲しい。学校や警察がいじめを否定したり、ぼかしたりするなかで、遺族らへの取材は不可欠な前提なのだ。
大切なのは、記者一人ひとりが特権意識を捨てることだ。相手の痛みを理解しようと努めれば、取材の意味を分かってもらえる時がくるはずだ。少なくとも傍若無人と映ることは避けられるのではないか。》
記者一人ひとりがしっかりする。意識改革こそ大事だ。こうした精神論でやってきたきた結果、徳山記者が嘆く報道被害を生み出してきたのだ。各社が記事審査室を充実させ、苦情に対応する。悪いことではないが、それでは不十分だ。
腐敗しきった警察をどう改革するかというときに、一人ひとりの警察官の意識を変えることだと言っても始まらないのと同じで、報道界も、古く硬直化した仕組みを組み替え、新しいシステムを構築するしかない。
新聞各紙は二○○○年一○月の新聞週間にちなんで、報道被害の問題を取り上げた。政府・自民党だけでなく、「公権力の介入に批判的だった弁護士の間でも、規制に理解を示す意見も出始めた」(一○月一八日の毎日新聞大阪本社版)という危機感もあるようだ。しかし、日本新聞協会は「あくまでも自主的な措置として行われるべき」で、法規制に反対と主張するだけで、「一部」どころか、マスメディア全体が「世間」の非難を浴びていることまだ気付いていないようだ。
研究者の中にも無責任に報道評議会に敵対する人が現れた。松井茂記大阪大教授は前述の『少年事件の実名報道は許されないのか』の後書きの中で、「メディアの苦情救済機関の確立を」という小見出しでこう書いている。
《プライヴァシー保護の観点から、導入を考えるべきだとすれば、それはメディアの自主的な救済機関である。この点、現在のように、マス・メディアによる報道被害に対する人権救済を求める声の高まりに応じて、プレス・カウンシルのような業界の自主的な救済機関の設置の提案がなされている。たしかにそのような救済機関の構想にはうなずけるものがあるが、新聞、雑誌、書籍その他の多様なメディアが混在し、しかも新聞メディアと雑誌メディアの間に一種のライバル関係が存在する現在、すべてのメディア横断的なプレス・カウンシルの実現は困難であろう。そのうえ、業界横断的な自主規制機関の存在は、情報統制の手段となり、自主規制という名前の情報流通談合組織となる可能性ももっている。
それゆえ、まず早急に整備すべきは、個々のマスメディア内部の救済機関である。この機関が、たとえ報道等が違法でなくても、苦情や批判を受け付け、きちんとそれを報道の現場にフィードバックさせることによって、救済の役割を果たすべきである。それが、責任あるマス・メディアのとるべきみちだというべきであろう。》
各社ごとに誠実に対応すると何十年も言ってきたが、ほとんど効果がないから法規制が迫っているのだ。
報道評議会ができたあとにも、各社の記事審査室も苦情承り部門も大切だ。「社内オンブズマン」「オンブズマン的組織」などの紛らわしい名前はよくないが、そう自称したい職制は何らかの役に立つと思う。しかし、それらがメディア責任制度を代替はできない。お互いに異なる機能で複合的に補完すればいい。新聞労連は九七年二月の臨時大会で報道倫理綱領「新聞人の良心宣言」を採択し、報道評議会設立を目指すことを決めた。「新聞人の良心宣言」の「犯罪報道」の項で「新聞人は被害者・被疑者の人権に配慮し、捜査当局の情報に過度に依存しない。何をどのように報道するか、被害者・被疑者を顕名とするか実名とするかについては常に良識と責任を持って判断し、報道による人権侵害を引き起こさないように努める」と規定、実質的に匿名報道主義の立場をとった。
九八年三月には「報道被害相談窓口」(報道被害ホットライン)を設けた。相談は郵便かファクスで受け付けている。《101ー0061 東京都千代田区三崎町3ー5ー6 造船会館5階 新聞労連「報道被害相談窓口」係 ファクス 03ー5275ー0359》。また、二○○○年九月、報道評議会原案を発表した。
榊原英資慶応大学教授は 一○月一日の毎日新聞の「時代の風」で、「カルテル体質 改革を 日本のマスメディア」と題して、日本の政治・行政システムあるいは民間大組織が極端に時代遅れになってきているが、「何といっても、規制と日本語という非関税障壁に守られ続けてきたマスメディアの特殊性は群を抜いている」と書いている。「メディア批判はある種のタブーになってきた」と指摘し、「特に記者クラブの存在は極めて異常で、さまざまな日本的現象を引き起こしている」と断言している。
榊原教授は「記者クラブの古いカルテル体質が、日本の公的セクターに近代的広報システムを採用することを妨げている」「記者クラブ等によるマスメディアのカルテル体質は、他方で優秀かつ専門的ジャーナリストを育てることの障害になっている」とも書いている。
元大蔵官僚の榊原教授は、父親が今の共同通信と時事通信の前身である同盟通信の外報部記者だったという。「それ故か。筆者にも多少、ジャーナリストの血が流れているのかもしれない。厳しいマスメディア批判を展開したのも、メディアを自分のより近いところに感じているからであろう」。
マスメディアの構造改革こそ日本の最も重要な改革の柱だという榊原教授の提言を真剣に受けとめたい。
また、河野義行氏は「メディアの人たちには加害者意識が欠如している。報道被害は市民を社会的に抹殺するということを分からせなければならない」と訴えている。
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.26