2001年1月22日
報道評議会は「理想論」ではない
毎日・朝日の新・委員会の創設とメディア責任制度
またも「オンブズマン」詐称の疑い
二○世紀中に誕生しなかった日本報道評議会を今年こそ設立する好機だと私は考えてきたが、日本の新聞界は、活字媒体全体を網羅した報道(プレス)評議会の創設をあきらめ、各社がこれまで持っていた記事審査室や読者広報室の延長線上の新組織を立ち上げた。毎日新聞を皮切りに、新潟日報、朝日新聞、東京新聞がつくった。名称は様々で、組織形態も活動内容も異なる。毎日新聞は「我が国」の四社の新組織を「複数の社外委員による日本の独自のオンブズマンともいえる」(一月二三日)と定義しているが、「当社のは年に三回集まってもらうだけで、八人の委員の意見を紙面に反映させてもらうもので、オンブズマンではない」(新潟日報編集局)という声も上がるなど、混乱が見られる。朝日新聞は二ヶ月半前にできた毎日新聞の組織を無視するかのように、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」(一月三日)人権に絞った初の社外組織」だなどとPRしている。
四社とも「苦情処理」「報道被害救済」などの看板を掲げただけで、国際的な基準を充たした報道評議会やオンブズマンとは無縁の、各新聞社の苦情処理機関にすぎないと思う。
各社の委員会にはほとんど専任のスタッフがいない。報道被害者から積極的に苦情を受け付けようという姿勢が不十分だ。各社のホームページにも出ていない。東京新聞はどこに訴えたいいのかも書いていない。新潟日報も《新潟日報「読者・紙面委員会」》をつくった。
各社の新組織の委員の顔触れが政府の審議会メンバー以上に偏っている。各新聞社がその新聞に「理解がある有識者」を選んでいるのでから、被害者が安心して訴えることはできない。委員の多くが犯罪の被疑者も被害者も実名報道が当然と公言している人たちだ。少年も凶悪事件は実名にという学者やジャーナリストも入っている。
政府与党がメディアによる人権侵害問題について、法律で規制することを検討している。報道界全体で報道評議会などの自主規制期間をつくらないければ法規制もやむなしという世論もでき上がっている。各社がつくった新委員会だけでは、こうした権力と市民からの批判に対応できない。
ところが新聞労連や一部弁護士は、各社の委員会設置を「オンブズマン制度」と評価し、報道評議会を「理想論」で今すぐには困難と位置づけている。私たちはメディア責任制度とは何かを原点に立ち戻って考え、北欧や英国にある制度を参考にして、報道される市民のための仕組みをつくるよう報道界に求めていかなければならない。1 毎日新聞
各社の新・委員会設立の経緯を見てみよう。
まずトップを切った毎日新聞の新組織を取り上げる。
毎日新聞は二○○○年一〇月一四日、社告で「『開かれた新聞』委員会」の設置を発表した。発足から二カ月たったのに、当事者からの苦情申し立てがいまだにないそうだ。毎日新聞の二カ月間の取材や報道には、一件の名誉・プライバシー侵害もないのであろうか。また新世紀の二○○一年元日、朝日新聞も似たような「報道と人権委員会」を創設した。一月三日付の紙面では、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」とうたった。毎日新聞が独自のオンブズマンと自称する委員会は「人権権問題に絞った本格的な社外組織」ではないと言うことだろうか。東京新聞(中日新聞東京本社)も一月一八日、「新聞報道のありかた委員会」を創設した。
毎日新聞は一一月七日と一二月五日に、《「開かれた新聞」委員会から》という記事を載せた。一回目は四つのケースで委員会の委員が論評しただけで、二回目は毎日新聞が一一月五日朝刊でスクープした「旧石器発掘ねつ造事件」報道を評価する記事を載せた。後者は、新聞社のPRページのようだった。
毎日新聞は、この委員会を毎日新聞の「オンブズマン」と自称しているが、「報道された側」から一件の苦情も届かない制度がオンブズマンとは言えないと思う。読者・市民はこの委員会が「報道によって傷ついた市民をオンブズ(スウェーデン語で代理するという意味)する」オンブズマン制度などではなく、新聞社のための機関であることを見抜いているから、電話の一本もかからないのであろう。
毎日新聞は、報道評議会の設立は当面無理だから、この委員会をつくったと説明している。この委員会はないより、あったほうがいいが、報道評議会の替わりには絶対になりえない。組合などとの社内議論も不十分で、かえって報道評議会の設立を妨害する結果になる懸念さえある。一部のジャーナリスト、学者や法律家の間でも、雑誌「世界」(岩波書店)などを舞台に、報道評議会は日本になじまないとか現実的には無理などの主張がされてきた。こうした人々は、私たち人権と報道・連絡会の長い闘いにいつも「敵対」し、「実名報道主義」を擁護し、メディア界の民主化を妨害してきた。
政府・与党が活字媒体の業界にも自主規制機関をつくるように提言し、もし十分なシステムができなければ法的規制もやむを得ないという方針を公言している中で、業界全体でメディア責任制度をつくるのは「非現実的」とか「今は無理」などとのんきなことを言っている場合ではない。
この委員会の三カ月を検証してみたい。
「オンブズマン」と言えるのか
「報道評議会はすぐにはできませんからね。個人的には評価しています」「せっかくの試みを全否定するのはどうかと思う」。毎日新聞が一〇月一四日、社告で創設を発表した「『開かれた新聞』委員会」について、一一月一七日、毎日新聞労組の見解を電話で聞いたところ、電話に出た役員がこう言った。私が世話人の一人を務める人権と報道・連絡会は一九八五年から日本にも報道評議会を設置するための市民運動を展開してきたが、最近になって、「すぐには報道評議会は無理だ」という主張が一部の研究者、法律家の間で目立ってきた。
《社外の識者5人委嘱 「第三者」の目で意見》という見出しの毎日新聞の社告記事は新設の委員会を次のように規定している。
《読者に開かれた新聞作りを目指す本社の基本姿勢をさらに具体化する一歩になると考えたからです。本社は報道による名誉・プライバシーなどに関する人権侵害だとして当事者から寄せられた苦情、意見の内容と本社側の対応を、委員に開示します。委員は必要なケースについて意見を述べ、報道を検証します。読者と毎日新聞の間に立った委員が「第三者」の視点から毎日新聞の報道をチェックするシステムで、毎日新聞の「オンブズマン」といえます。さらに、報道をめぐるさまざまな課題についても委員から参考意見をいただき、新聞報道に生かしていきます。》
公表されたメンバー五人は元日弁連会長・中坊公平、テレビプロデューサー・吉永春子、作家・柳田邦男、フリージャーナリスト・玉木明、上智大学教授・田島泰彦の五氏である。
毎日新聞の新組織は、ないよりいいことは間違いない。しかし、報道評議会をつくるのは困難だから、社内の苦情処理部門を改革するという論理と方針は疑問だ。しかも、毎日新聞の新組織が、外国のプレスオンブズマン制度に匹敵するとまで主張しているのは、到底納得できない。
朝比奈豊毎日新聞社編集局次長は、月刊『創』二〇〇〇年一二月号で、《毎日新聞「『開かれた新聞』委員会」の試み》と題した談話を発表している。朝比奈次長は、《去年の9月ぐらいから、社内の関係者が報道評議会の是非も含めて議論を続けてきた結果です。主筆の下に四本社の編集局長、次長が集まって検討し、今年の夏にGOサインが出ました。》と述べ、次のように説明している。
《プレスオンブズマン制度も調べました。オンブズマンというと、ライバル紙の編集局長を迎えたワシントンポストの例が有名です。しかし調べてみると、欧米の新聞のオンブズマンは自社のベテラン記者が就任している例が多いことがわかりました。これは、毎日新聞でいうと、紙面審査委員と読者室とメディア欄を合わせたものに近いといえます。つまり、欧米のオンブズマンの水準に近いものはすでにあることがわかりました。
結局、私たちは、第三者機関を作って、そこに問題を任せてしまうのではなく、自分のところをまず改革する必要があるのではないかという結論に達しました。それがこの「『開かれた新聞』委員会」です。いきなり報道評議会を作るというのは現実的ではないし、むしろ、新聞社としての自律的処理能力を発揮すべきではないかと考えました。》
《委員を選んだのは、主筆、各本社の編集局長、次長らが集まる場です。あくまでも新聞社が主体性をもって、報道の実際にある程度認識のある方を選びました。
実際の判断の基準になるのは、編集綱領です。今回私たちは報道基準(主筆通達)の見直しも行いました。具体的には精神障害者の報道の仕方についてですが、この件は今後メディア欄や特集ページで紹介していこうと思っています。》
《政治家など公人の苦情は受け付けません。》
《報道評議会などについては今後の検討課題にしたいと思っています。》
田島泰彦委員の誤ったオンブズマン観
また、委員に選ばれた田島泰彦上智大教授は「メディアが自律的に救済のための組織を」と題してこんな談話を出している。
《スウェーデンとアメリカ・イギリス・カナダとの間でスタイルの違いはありますが、欧米のオンブズマンは普通一人です。一人の人が意見を言ったり、苦情を受け止めるというやり方です。しかし、毎日の委員会のみそは複数の人間で構成されていることだと思います。》
《私は、今の新聞協会の体制下で、号令一下で一つの機関を作ってしまうことには懸念も持っています。評議会・オンブズマンの問題は意見を重ねて行って、各社が自発的なイニシアティブで始め、積み上げていくのが望ましいのではないでしょうか。上からの命令で作ると、「メディア浄化機関」のようなものになって、「枠に入らないとダメだ」と、「上品でない」メディアを排除していく機関になる危険性があります。
毎日以外の新聞社でもかなり議論をしているところはあるようです。ほかの社から違う形の機関が出てくればおもしろいと思います。そして、将来的に新聞界全体の評議会を目指していけばいい。》
《新聞社も毎日に続いて、オンブズマンや評議会の仕組みを積極的に取り入れていくべきです。》
朝比奈氏も田島氏も、毎日新聞の委員会が「オンブズマンや評議会の仕組み」の範疇に入っていると認識しているらしいが、オンブズマンとは何かを十分理解していないとしか言いようがない。
朝比奈氏の「欧米の新聞のオンブズマンは自社のベテラン記者が就任している例が多いことがわかりました。これは、毎日新聞でいうと、紙面審査委員と読者室とメディア欄を会わせたものに近い」という主張は、英訳して欧米の「オンブズマン」に読んでもらいたい。正統派のオンブズマンから猛反発があるだろう。
また田島氏は、「欧米のオンブズマンは普通一人です。一人の人が意見を言ったり、苦情を受け止めるというやり方です」というが、オンブズマン発祥の地、スウェーデンでは、オンブズマンは一八○九年にスウェーデンで導入された「国会オンブズマン」が起源で、「政府と人民のあいだの確執の局面に公正な立場で介入して、人間の尊厳を守るという目で、正邪の判断を下す役職」(潮見憲三郎『オンブズマンとは何か』講談社、1996年)で、多くの国に広がった。スウェーデンの「プレスオンブズマン」(Press-ombudsman for the General Public)は、メディア責任制度の一形態である。一九一六年に@メディア界全体の報道倫理綱領の制定A倫理綱領を守っているかどうかをモニターする報道評議会ーーをセットにしたメディア責任制度が誕生したが、報道に関する苦情が急増したため、六九年に「一般市民のためのプレスオンブズマン」職を導入した。報道評議会と同義語と考えてもよい。
外国のプレスオンブズマンの中に、いんちきなものが少なくないのは事実だ。スハルト政権下にもインドネシア報道評議会があったが、そんなものが報道評議会とは言えない。
田島氏は、今の新聞協会の体制下で、「号令一下で一つの機関を作ってしまう」「上からの命令で作る」ことに懸念を表明しているが、NHKと民間放送連盟が九七年六月一一日に設置し、田島氏も委員の一人を務める「放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)」の「放送と人権等権利に関する委員会機構(BRC)は、郵政省や自民党などからの圧力を受けて、氏家民間放送連盟会長らの号令一下で設置したと私は理解している。田島氏はBRCをかなり評価している。なぜ新聞協会(氏家氏の“盟友”の渡辺恒雄氏が会長だ)がつくることに懸念を表明するのだろうか。(二○○年の日弁連・前橋大会前後にも、「ナベツネが支配している新聞協会がつくる報道評議会は危険だ」などと言う「文化人」が少なくなかった。しかし、新聞協会の会長は持ち回りであり、読売新聞の「力」で会長になったわけではない。人権の問題で「政治」を持ち出すのはいかがかと思う。
委員が判断の基準とする報道基準が、毎日新聞の編集綱領以外、読者・市民に開示されておらず、今後検討するという。倫理綱領や報道基準に違反しているかどうかを審判するのが、オンブズマン・報道評議会であり、綱領や基準を隠しているのでは話にならない。
「委員を選んだのは、主筆、各本社の編集局長、次長らが集まる場」で、「報道の実際にある程度認識のある方」を選んだというのでは、オンブズマンではない。委員を選ぶ主体に、独立性が不可欠で、「報道の実際」に理解がある人だけを選ぶのでは、とても公正、公平とは言えない。編集局の幹部が記者を代表し、報道倫理上も優れているとは、かならずしも言えないところに、日本の報道機関の深刻な問題がある。とくに犯罪報道に関してはそうである。
委員会の設置に当たって、毎日新聞労働組合は公式には全く関与していないようだ。毎日労組は、この間、人権と報道に関して独自の取り組みを展開してきた。新聞労連が報道評議会設置を提言した背景に、毎日から出た北村肇委員長(当時)の功績が大きい。毎日労組は、ジャーナリズムを語る会も開催してきた。労働組合が設置の直前まで知らなかったのは、きわめて不自然である。
朝比奈氏は毎日労組と主筆との交渉の席で、委員会は裁定書、裁定文などを出さないと断言したという。 将来、事務局に専任を置く意向だが、当面は読者室のメンバーが兼務している。委員会の平沢事務局長は読者室長である。平沢氏以外にはスタッフがいないようだ。「これでは看板を出しただけだ。本気で苦情に対応するなら、スタッフがかなりいるはずだ。一人も専任がいないのでは話にならない」と松本サリン事件被害者の河野義行氏は言う。
毎日新聞の内部で匿名報道主義に反対してきた人たちは、公人と私人に分けることはできないと言ってきたが、今回は公人による苦情を受け付けないと明言している。飲酒運転警官の実名報道は「当然」か
毎日新聞は二〇〇〇年一一月七日付け毎日新聞朝刊二二ページで「開かれた新聞委員会から」を掲載、一○月に寄せられた記事に対する読者の声と本社側の対応について委員会の意見をまとめた。「読者の苦情 委員から見解、課題に提言」などの見出しがついている。リードは、「記事で人権や名誉を侵害された」という当事者からの苦情は一件もなかったと述べ、「新しい報道のありかた」を考える参考例として原則として扱わないとしていた「公人や、官庁からの抗議」も含め五つのケースを取り上げている。
「抗議・苦情と本社の対応」という見出しに続いて、〈ケース1〉として次のような事例が載っている。 《青森署巡査長らによる酒気帯び運転事故を毎日新聞が実名報道した記事(9月20日)に関して、青森県警本部から「懲戒処分者の氏名の発表方法について検討の参考とする」ため、実名報道の理由や公務員の懲戒処分の実名公表の是非についての質問が青森支局にあった。同支局は「毎日新聞は事件・事故の人名報道に当たっては実名を原則としている。このような公務員の懲戒処分は実名で公表すべきだと考える。質問の要旨を問いたい」と回答した。県警は「10月に設置した県警改革推進委員会情報公開部会で、処分事案の発表方法を検討委しており、実名報道した各社に質問している」と説明している。》
警察が報道機関に「なぜ実名報道か」という質問書を文書で送るのは極めて異例だと思う。
各紙の報道によると、事故の概要は次のようだ。
青森県警青森署の巡査長と巡査部長は九月一八日午後六時半ごろから、市内の飲食店で開かれた同僚の送別会で酒を飲んでいたが、午後八時半に青森署刑事課長から呼び出しを受け、翌午前二時からの張り込み勤務を命じられた。巡査部長は、一度自宅で休憩した後張り込み現場に向かおうと考え、同日午後九時五○分ごろ、同課のキーボックスにあった捜査車両のカギを勝手に持ちだした。巡査部長は自分で車を運転しようとしたが、一緒に駐車場に向かった巡査長が運転を申し出たため、巡査長が飲酒していることを知りながら、乗用車のカギを渡したという。巡査長は巡査部長を自宅に送り届けた後、午後一○時五分ごろ、市内のカーブを曲がりきれず、右側の電柱などに激突する事故を起こした。けがはなかった。
青森署は一一月六日付で、巡査長と巡査部長を停職四カ月の懲戒処分とし、道交法違反(酒気帯び運転、同ほう助)の疑いで青森地検に書類送検した。
青森県警記者クラブ(正式には青森社会部記者会)には一七社が加盟しているが、毎日、朝日、読売、デーリー東北、NHKが巡査長と巡査部長の実名報道した。一方、東奥日報、陸奥新報、河北新報、産経、日経は匿名報道した。
青森県警広報課の鈴木誠課長補佐によると、県警広報課の名前で、実名報道した五社の県警担当キャップに手渡ししたという。
青森県警は九月一九日午前五時過ぎに、二人の事故について幹事連絡で公表した。県警はその際、二人の実名を発表しなかった。鈴木課長補佐は私の取材に対して、「一般市民の場合なら、発表もしないし、実名を出さない。警察官が飲酒したうえで、公用車を使っている時に起きた事故なので、発表した。二人の処分を発表した際も、実名は発表していない」と述べている。
鈴木補佐は毎日新聞が《開かれた新聞」委員会》を発足させたことを全く知らず、一○月七日の新聞で県警が「抗議」したり「苦情」を申し立てかのように大きく報じられているのを見て驚いたという。「県警の広報の担当者として私が、キャップの人たちに参考意見を求めただけなのに、委員会に大きく取り上げられた」という。
毎日新聞青森支局幹部は私の取材に対して、「県警から文書で問い合わせがあったので、本社と協議したが、委員会のメンバーに開示されたことは知らなかった。県警が参考意見が聞きたいというなら、担当記者らに口頭で聞くべきで、文書で問い合わせるのは、実名報道を問題にしていると推察できる」と述べている。
県警が二人を匿名で発表したのは問題がある。記事や番組で実名にするか匿名にするかは、報道機関が判断することで、当局は実名を明らかにすべきだ。一般市民の場合は実名を発表することが多いのだから、 ただし、鈴木補佐は「我々が実名で発表すると、報道機関は実名報道することが多い。実名報道による被害を防ぐために、匿名発表する場合もある。普通の市民が今回のケースのような事故を起こした場合は、実名を出さない。だから二人も匿名にした」と説明している。
県警が二人を匿名にして発表したにもかかわらず、ほぼすべての報道機関が、実名をつかんだことは評価できる。「匿名報道主義になると、当局が匿名発表し、誰が逮捕されたかがわからなくなる」という実名報道主義者の論理がここでも破綻している。
この事例について、田島泰彦委員は、「問われているのは感性だ」という見出しの「見解」でこう指摘している。
《ケース1は、クレームや苦情案件ではなく、処分事案の発表方法を検討中の青森県警から参考のため質問が寄せられたケースであり、実名記事の妥当性そのものが争われたわけではないが、考えさせられたことがいくつかあった。警官が酒気帯び運転で事故を起こし、しかも捜査車両を使用していたという疑いがもたれている以上、取り調べ中とはいえ、実名で事故を報道することは当然だ。
ただ、記事によると、この警官は同僚の送別会に出席した2時間後に呼び出しを受けて署に戻り、そこで深夜の張り込みを命じられ、仮眠を取るため自宅へ向かう途中だったようだ。私の疑問は、酒気を帯びた警察官が数時間後の張り込みを命じられ、公用車両を運転して仮眠をとるべく自宅に向かうということが堂々と行われたことである。上司を含めこうした事態を回避する当然のチェックシステムが働かないとしたら、これこそ空恐ろしい状況ではないか。このあたりの真相ももっと取材し、伝えてほしかった。
また事件・事故等の報道における人名表記の基準について、報道機関は各社それぞれ相当詳細なルールやガイドラインを定めている。こうした報道基準は、報道等に異議を申し立てる人にとって重要な資料となるだけでなく、本委員会のように取材・報道を客観的に検証し、よりよいあり方を探求するためにも、不可欠である。「開かれた新聞」を実現するために、出来る限り、今後そうした基準を公表していく方向での検討を望みたい。》
柳田委員も県警への回答について、「公務員の違法行為や非倫理的行為は、厳しい姿勢で報道に臨む必要があり、特に公務員のモラル低下が課題となっている最近の状況ではその姿勢が重要であることを言及すべきだった」と強調。吉永委員も「警察官は交通違反を取り締まる立場であるから実名報道は当然だ。自らの職務についてどう考えているのか逆に聞きたいと思った。この際、警察の公務に対する考えや人権感覚をただし、読者に伝えるべきだ」と断定している。
田島、吉永の各氏は巡査長と巡査部長の実名報道を「当然」と断言しているが、両氏が問題にしているのは、こうした非常識な行動を防ぐためのチェックシステムがないことである。そうであるならば、勤務を終えて送別会に参加していた二人の警察官が、深夜に再び勤務を命じられた後に起きた酒気帯び運転事故の個人名を明らかにする必要はなく、二人の上司に当たる署長、刑事課長や県警警務部長らの実名を出して、署内の管理体制の不備について聞くべきであろう。
柳田氏は、「厳しい姿勢」を示すために実名報道を肯定している。これは彼が、九八年に大阪堺で起きた幼児刺殺事件で少年の実名報道を肯定している論理ともつながるのだが、実名報道による社会的制裁機能を是認している。
現状の犯罪報道では、二人は実名報道されても仕方がないという見方もあるだろう。しかし、地元のメディアの半数以上が二人を匿名報道しているのに、五人の委員のうち誰もが、「実名報道でよかったのか」とか「実名を出す必要性が十分にあったのか」という疑問すら呈していないのは理解できない。毎日新聞は二人の実名報道を肯定する委員の意見について、どう考えるかを明らかにしていない。
毎日新聞は一二月五日朝刊のに《「開かれた新聞」委員会から》という記事(23面全面)を載せた。毎日新聞が一一月五日朝刊でスクープした「旧石器発掘ねつ造」事件報道に関する全国の読者からの二○○件近い意見を取り上げ、五人の委員の見解を載せている。これでは、メディア欄の特集にいつも載る「識者」談話とどこが違うのだろうか。「多くの読者から賛辞、励ましをいただいた一方、一部の読者からビデオ撮影による取材方法や映像の紙面掲載に関する疑問や反対意見もありました」として委員の意見を聞いたのだが、ほとんどの委員が毎日新聞の立場を「理解」している。
精神論だけでは無理
先に述べたように、政府与党はさまざまな方法でマスメディアの法規制を狙っている。「報道評議会などの自主規制機関を設置しなければという最後通告を突きつけている。
こうした動きを阻止し、報道被害をなくしていくためには、^匿名報道主義を軸としたメディア界が守るべき統一報道倫理綱領を制定し、_倫理綱領を守っているかどうかを監視する市民参加型のプレスオンブズマン・報道評議会の仕組みをつくるしかない。
ところが日本新聞協会などのメディア業界団体は、各社で対応するとかいうだけで、業界を網羅するメディア責任制度をつくろうともしていない。毎日新聞は、こうした状況をみて独自に「報道評議会」に代わるものをつくったのだ思う。
新聞経営者だけでなく、現場の記者の多くも深刻に受け止めていない。二〇〇〇年一一月二日の朝日新聞は、《「痛み」理解する取材を 徳山徹(私の見方)》 を掲載した。徳山記者は「書かれる人々」を社会面で五回にわたって連載した取材班の一人として、「個人的な印象」を書き残した。徳山記者は、五月初旬に起きた西鉄バスジャック事件の被害者ら十四人と直接会い、電話も含めて二十人前後の思いを聞いた。
《一家殺傷事件の現場近くの男性(四〇)は、同級生の死を悼む中学生を取り囲むマスコミの姿を「ハイエナなみだ」と言い放った。バスジャック事件で母親を失った画家の塚本猪一郎さん(四四)は、マスコミを「遺族に群がる亡者」と表現した。》
この後、「こんなやり方を続けていれば法で規制される日が来るぞ、と警告を突きつけられていると思った」「法的な規制を検討する動きは現実的な形をとり始めている」と述べて次のように書いた。
《マスコミ自身による「報道評議会」を求める声も根強い。だが、本質的な解決とは思えない。取材する側が変わらなければ、評議会に「人権侵害」と指摘される例が続くだけだ。
その前に、私たちがすべきことがありはしないか。
私たちは、取材活動を中途半端に和らげたりやめたりすることはできない。中高校生の「いじめ自殺」のケースを考えて欲しい。学校や警察がいじめを否定したり、ぼかしたりするなかで、遺族らへの取材は不可欠な前提なのだ。
大切なのは、記者一人ひとりが特権意識を捨てることだ。相手の痛みを理解しようと努めれば、取材の意味を分かってもらえる時がくるはずだ。少なくとも傍若無人と映ることは避けられるのではないか。》
記者一人ひとりがしっかりする。意識改革こそ大事だ。こうした精神論でやってきたきた結果、徳山記者が嘆く報道被害を生み出してきたのだ。各社が記事審査室を充実させ、苦情に対応する。悪いことではないが、それでは不十分だ。
腐敗しきった警察をどう改革するかというときに、一人ひとりの警察官の意識を変えることだと言っても始まらないのと同じで、報道界も、古く硬直化した仕組みを組み替え、新しいシステムを構築するしかない。
新聞各紙は二○○○年一○月の新聞週間にちなんで、報道被害の問題を取り上げた。政府・自民党だけでなく、「公権力の介入に批判的だった弁護士の間でも、規制に理解を示す意見も出始めた」(一○月一八日の毎日新聞大阪本社版)という危機感もあるようだ。しかし、日本新聞協会は「あくまでも自主的な措置として行われるべき」で、法規制に反対と主張するだけで、「一部」どころか、マスメディア全体が「世間」の非難を浴びていることにまだ気付いていないようだ。
二○○○年一一月二九日の読売新聞社説も法務省の人権擁護推進審議会の提言がメディアを対象に含めたことを問題にしたうえで、こう述べた。「ただ最近、報道による人権侵害への社会的批判が高まっている。(中略)一部の無責任な報道が、社会の批判と不信を招いているのは事実だ」。ここでも、無責任な報道が「一部」ではなく、読売新聞にも責任があることに無自覚である。
訂正必要な「オンブズマン」自称
毎日新聞「開かれた新聞」委員会の平沢忠明事務局長は、「事務局に全本支社の取材部門から紙面に関する苦情や意見と対応結果が報告されるシステムを整備している」ので、青森県警の質問書と回答を委員に開示して意見を紙面で報告したという。またこの委員会は《毎日新聞独自の「オンブズマン」制度であり、欧米のオンブズマンとは異なる面もあると思う》などと書いていた。
毎日新聞が、この委員会をオンブズマン的だとか、報道評議会に代わるのようなものだと報じてきたことをまず、訂正するように勧告することが、この委員会の最初の仕事ではないかと思う。
私は一二月一五日、ファクスと電子メールで、私の疑問と見解を伝え、斎藤明社長と各委員に二〇〇一年一月一〇日までに回答を求めた。
一二月二七日付の平沢忠明事務局長から次のような手紙が届いた。
《読者と毎日新聞との間に立った委員に「第三者」の視点から毎日新聞の報道をチェックしていただくシステムとして、弊社が創設しました「開かれた新聞」委員会につきましては、様々な方からご意見をいただいております。
弊社は、そうしたご意見を参考にしながら、この委員会を充実させていきたいと考えております。》
毎日新聞はこれを回答としているのだろうか。
「女房役」は味のある表現か
毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一六日にも「『開かれた新聞』委員会」を掲載した。同年一一月度に寄せら得れた読者からの苦情と本社の対応に関する委員会の意見のうち、「旧石器発掘ねつ造」以外の四つのテーマについて報告している。
そのうちの一つが一○月二一日朝刊政治面にあった「首相の女房役の官房長官」との表現について、《政治家のポジションを言うのに『女房役』は不適切で、違和感を覚える」と女性読者からの投書が東京本社にあった。
この意見について「社内組織・紙面審査委員会の「紙面審査週報」で社内議論の材料とするとともに、こうした対応を女性に回答した」という。
テレビプロデューサーの吉永春子委員は「指摘通り『女房役』という言葉を軽々しく使うべきではないだろう」とコメントしている。ところが、上智大学教授の田島泰彦委員は「『女房役』が『古い男女関係の観念』とか『男性優位の見方』を示すとは必ずしも考えない。時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ。言葉には敏感であるべきだし差別的な表現は吟味すべきだが、抗議を受けて直ちに『女房役』という言葉を紙面から消す前に、社内外の議論でどうするか模索すべきだ。言葉を抹殺するのは最後の手段だ」と指摘している。
不思議なことに大阪本社版では「時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ。」という一文が削除されている。
田島教授は、六○年代から米国の女性たちが中心になって、性差別を助長するような表現をやめようという運動を起こした結果、性による区別をしない言葉(non−sexist language)が考案され、日本でも女性差別をなくすための努力が積み重ねられてきたたことを知らないのだろうか。「処女作」「女史」「婦人」 その代わりに、「第一作」「さん(氏)」「女性」に使うなどの工夫がなされている。詳しくは拙著『客観報道』(筑摩書房)第四章を参照してほしい。
マスメディアにおける性差別表現には@女性を性的対象・モノとして見て商品化するA男性が標準で女性は特別・下位という視点B女性への固定観念・「女らしさ」の押し付けC性別役割分業を前提とし、それを固定化するーなどのパターンがある。「女房役」という表現はCに当たり、「補佐役」などに言い換えるべきである。
そもそも「女房」という言葉をマスメディアは使うべきではない。「内助の功」とか「奥様」も不適切だ。私が共同通信の記者やデスクをしていた時から、「女房役」という言葉は使わなくなっていた。
田島教授が個人の趣味で、女房という言葉を使うのは自由だ。自分の論文や日記には書けばいい。だれもそういう言葉を抹殺せよとか消せとは言っていない。まして毎日新聞は「社内議論の材料とする」とのんびりしたことを言っているわけで、なぜ言葉狩りのような話に発展するのか全く理解できない。
被害者実名にも固執した毎日の報道基準
毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一九日には、新聞製作にあたる際の報道基準の主要部分である「事件・事故報道における人名表記」を公開した。「『開かれた新聞』委員会」が発足した際に、公開を検討するとしていた。
「追跡 メディア」というタイトルの記事は、こううたっている。《事実を正確に伝えて国民の「知る権利」に寄与し、民主主義を維持する報道機関の使命から、あくまで実名を原則とし、未成年者、精神障害者、性的暴行の被害者などのケースはそれぞれの理由から例外的に匿名扱いを定めている》。
囲み記事で載った「人名表記」は「人名報道にあたっては、実名を原則とする」と明記、「容疑者・被告」については、「実名を原則とする。特に、政治家・高級官僚・法曹・捜査関係者ら公的立場にある人物が、その職務に関する容疑で捜査対象になった場合は、実名扱いとする。微罪事件について報道する必要があり、実名を掲載すると過度の制裁になる場合は、匿名も選択できる」と書いている。その他の事例として未成年者と精神障害者を挙げている。未成年については従来通り匿名を原則にしている。
精神障害者に関しては、《捜査段階あるいは公判で、容疑者・被告が心身喪失により「刑事責任能力」が全くないと判断されたとき(不起訴処分、無罪判決の場合)、または、そう判断されることは確実なときは、本人を特定する名前、住所などは記載しない。判断に際しては、精神鑑定の結果など科学的・客観的データや、捜査内容等の取材結果を総合的に検討して結論を出す。精神科への入・通院歴がある、または現在も入・通院中である場合でも、それだけで匿名の理由とはせず、あくまでも刑事責任能力の有無を基準とする。》と決めている。
次に犯罪の被害者についても、性的暴行の被害者、二次被害の危険のある場合を除いて実名原則にしている。
今回の報道基準は、精神医療ユーザーの匿名基準を「より明確にした」のが唯一の変化で、被疑者・被告人も「あくまで」実名原則を貫いた。私は『犯罪報道の犯罪』を出版した際、毎日新聞が北欧型の匿名報道主義を採用することを期待していた。毎日新聞は八九年に被疑者の呼び捨てを廃止した際、無罪推定の法理を根拠としていたことも評価していたが、今回の基準には何の新味もない。
犯罪被害者の実名原則ぐらいは見直すと思ったが、被害者も実名だ。「被害者の人権やプライバシーに配慮して事件報道に当たる」というが、被害者側に匿名を希望するかどうかも聞かずに、実名が原則だと言い切っていては、人権を尊重した取材・報道は望めない。
この基準で最大の問題は、「微罪事件について報道する必要があり、実名を掲載すると過度の制裁になる場合は、匿名も選択できる」と書いたことだ。朝日新聞もかつて同じような表記があったが、二○○○年三月の新基準には入っていない。毎日新聞は「適度な(社会的)制裁」は容認するようだが、「過度」か「過度でない」かをどういう基準で決定するのだろうか。読売新聞は容疑者呼び捨て廃止を決めた際、新聞報道による社会的制裁機能を否定した。毎日新聞は憲法三一条(法定の手続きの保障)で禁止されている私刑を肯定するであろうか。
国民の「知る権利」に寄与し、民主主義を維持する報道機関の使命から、あくまで実名を原則と言うのだが、なぜ被疑者・被害者の実名掲載が必要なのかが論証されていない。被疑者・被告人が犯人でなかった場合には、その犯罪について正確に伝えたことにはならない。新聞が全体として実名報道を原則にするのは当然だが、事件・事故にかかわる報道では、実名報道は深刻な報道被害をもたらすという現実がある。捜査当局に嫌疑をかけられているという事実を報道されると、自殺に追い込まれたり、家族も含めて生活が破壊されるのが実態だ。捜査当局に疑われた市民の姓名が、市民の「知る権利」の対象かどうかを吟味すべきである。報道される市民のいのちを奪うかもしれないというリスクをおかしても、伝えるべき事実かどうかを考えて決めるべきであり、「あくまで実名が原則」という基準では、深刻な報道被害は防止できない。
「特に」以降に書かれている公人を顕名(私は匿名報道主義下で姓名を報じる場合は、顕名報道と呼んでいる)にすればいい。毎日は次のような基準を採用すればよかったのである。
「匿名を原則とする。ただし、政治家・高級官僚・法曹・捜査関係者ら公的立場にある人物が、その職務に関する容疑で捜査対象になった場合など、その姓名が市民全体の権利と関心に深くかかわることが明白なときは、原則として顕名とする。公的立場にない一般市民の事件につい実名を掲載すると取り返しのつかない被害がおよび、法律にもとづかない制裁になるからである」
毎日新聞が力を入れた精神医療ユーザーの報道基準も問題がある。一九九九年七月二三日、東京・羽田発新千歳空港行の全日空機が男性にハイジャックされ、機長が刺殺された事件で、逮捕された男性の姓名の扱いの混乱などをあげて、
精神科への入・通院歴がある、または現在も入・通院中であるというだけで、匿名の理由としてきたことは間違っている。あくまでも刑事責任能力の有無を基準とする捜査段階あるいは公判で、容疑者・被告が心身喪失により「刑事責任能力」が全くないと判断されたときは匿名とするいうのもいいだろう。しかし、「そう判断されることが確実なとき」とうのは、極めてあいまいだ。また、「判断に際しては、精神鑑定の結果など科学的・客観的データや、捜査内容等の取材結果を総合的に検討して結論を出す」という作業を毎日新聞のだれがどういう手続で行うのだろうかと疑問に思う。捜査当局や裁判所でも長い時間をかけて判断するのに、精神医療の専門知識も薄い記者やデスクが「総合的に判断」できるとは思えない。
メディア各社は、被疑者本人の社会復帰と家族の人権保護を、「精神障害者の匿名報道」の根拠としている。朝日新聞社の新・報道基準(二○○○年三月)は、精神障害者の匿名報道の根拠として@刑法三九条に「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」とあり、刑事責任不能力とされているA社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるB本人が社会復帰した場合への配慮のためーーの三点を挙げている。ここで不思議なことは、@の理由はともかく、非精神「障害」者の場合もAとBは適用されるべきではないかということだ。警察に逮捕されているという事実が報道されれば、社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるし、本人の社会復帰の妨げにもなる。拘束されている被疑者の氏名、写真は基本的には不要なのだ。問題は少年と精神「障害」者しか匿名にならないところにある。
朝日や毎日の「新基準」では、まず実名が掲載されて心神喪失であることが報道されるケースが増えるだろう。精神医療ユーザーの匿名報道基準の根拠の問題はあるにしても、匿名で報道されてきた精神医療ユーザーの多くが実名報道されたうえに、精神疾患と関連づけられることになる。これは改悪である。
精神障害と事件報道の混乱を解決するには、犯罪報道の匿名主義を導入するしかない。匿名原則として、刑事責任能力に関して必要に応じてそれを取材し報道すればいいのだ。「あくまで実名が原則」という因習に捕らわれているから、いびつな基準になるのだ。
新年の二○○一年一月三日の毎日新聞には、青木彰筑波大学名誉教授ら「識者」たちが「開かれた新聞」委員会を持ち上げるコメントを掲載している。桂敬一東京情報大学教授は「ゆくゆくは」活字メディア全体の報道倫理を扱う機関を設けてほしい、と書いている。自民党議員だけが「新聞界として取り組んでほしい」と正論を述べている。
、朝日新聞の「開かれた新聞」委員会の問題点
朝日新聞社は元日、社外委員三人による「報道と人権委員会」を発足させた。毎日新聞が昨年十月に設置した「開かれた新聞」委員会に続く動きだ。朝日新聞社が二〇〇〇年一二月二三日付で掲載した「社告」 は次のように書いていた。
《朝日新聞社は、国民の知る権利に奉仕する報道の自由を守ると同時に、本社発行の新聞、週刊誌などの報道で名誉棄損、プライバシー侵害、差別などの人権問題が生じた場合の救済を図るために、社外委員三人による「報道と人権委員会」を元日付で発足させます。
委員は大野正男元最高裁判事(七三)、原寿雄元共同通信編集主幹(七五)、浜田純一東大教授・大学院情報学環長(五〇)の三氏です。
朝日新聞社はこれまでも、自らの報道によって人権を侵すことのないよう、可能な限りの努力を傾けてきました。今回、社外委員による委員会を新たに設けたのは、読者の窓口である広報室の苦情の受理、対応など、問題の解決に向けた一連の手続きに透明性、第三者性を持たせることで、人権問題にさらに配慮していきたいと考えたからです。委員会は隔月ごとに開かれ、読者からの苦情と、それへの対応について、広報室から定期的に報告を受けます。さらに、苦情のある読者と広報室との間で解決の難しいケース、委員が「重大な人権侵害ではないか」と判断したケースについて随時、委員会を開きます。
当の読者を含む関係者から事情を聴くなど独自に調査したうえで問題の解決に努め、審理の結果を「見解」の形でまとめます。本社はご本人の了解を得て、発行紙誌上で「見解」を公表することも考えています。》
二○○○年一二月二三日の朝日新聞「社告」 によると、「本社発行の新聞、週刊誌などの報道で名誉棄損、プライバシー侵害、差別などの人権問題が生じた場合の救済を図る」のが目的。委員の三氏は偶然だろうが、三人とも東大法学部出身だ。委員会審理の結果を「見解」の形でまとめ、本人の了解を得て公表することも考えているという。
委員会は「苦情の受理、対応など、問題の解決に向けた一連の手続きに透明性、第三者性を持たせることで、人権問題にさらに配慮していきたい」と表明。審理の結果を「見解」の形でまとめ、本人の了解を得て、発行紙誌上で「見解」を公表することも考えているとしている。
一月三日付の紙面では、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」とうたい、委員会の事務局長に社会部出身で論説副主幹、出版局長を務めた佐藤公正氏が就任したと伝えた。社内の超エリートコースを歩んだ人が苦情を受理し、事前調査するのでは、とても「本社から独立した存在」(中馬清福朝日新聞専務)とは言えないのではないか。委員が何を基準に審判するのかや、委員三人をどういう手続きで選んだかも全く開示されていない。
「社外組織」というが、「社外」の機関が編集に口を出すのでは、編集権はどうなるのだろうか。「社外」の機関が編集に口を出すことになっては、朝日がいつも強調する「表現の自由」「報道の自由」への介入になるのではないか。北欧などのメディア責任制度は、メディアの責任でメディア内部に報道評議会をつくり、外部の委員にも入ってもらって、メディア自身が決めた倫理綱領に違反しているかどうかを審判してもらう。報道評議会は処罰をしないし、救済措置もとらない。審判の結果をそのまま市民に開示し、市民に広く知ってもらう。市民が監視する中で、メディアは二度と同じ過ちを起こさないような方策をとるのだ。メディア自身が報道評議会の裁定結果をその後の取材・報道に生かすのである。
「表現の自由」は新聞社の特権でも何でもない。市民が等しく持っている権利で、権力がその自由を妨げようとしたときに主張すべき権利だ。表現の自由と市民の人権を「調整する」とか、人権を尊重するという言い方自体がおかしい。
三日の朝日新聞では、委員三人の「抱負」も載っているが、「学会の熟達者」と紹介された浜田純一東大教授(情報学・憲法学)の発言には問題が多い。浜田教授は「開かれた議論の場作ろう」という見出し記事でこう書いている。
《メディアの人権侵害が問題になっています。以前よりメディアの数が増え、取材と報道が集中豪雨的
になったことと、国民の人権意識が高まったために起きている問題だと思います。
最近、人権侵害の面が強調され、報道の自由の意義を擁護する意見があまり聞かれません。メディア
が委縮し、本来報道すべきことまで抑制してしまうのではないかと気がかりです。
人間の好奇心は抑えきれません。それはメディアも同じでしょう。でも、それではもう通用しませ
ん。メディアは自主的に取り組む必要があります。具体的には、各社ごとに内部チェック機関を設け、
専門家や読者の意見を聞く。メディア側も自らの考えを述べ、議論を紙面で紹介するなどオープンにす
べきです。
いま必要なのは、問題点を共有して社会的な議論をすること。人権侵害と報道の自由について、バラ
ンスの取れた考え方を見いだすことだと思います。
問題解決を急ぐあまり、権威を持った第三者機関をすぐに設けるのは反対です。裁判所でも意見が割
れている問題を一律に解決できるとは思いません。「こうすべきだ」とメディアを従わせる方法は危険
を伴います。むしろ開かれた議論の場作りが大切なのです。
名誉棄損の裁判では、公共の利害に関する事柄で、公益目的があって真実と信ずるに足る相当の理由
を裁判所が認めれば、メディア側の責任は問われません。メディア側はそれでよしとせず、仮に報道内
容に問題があったと自ら判断すれば、追加記事で補うことが必要です。書かれた側の事実上の救済にも
なり、読者の知る権利にさらにこたえることになると思います。
被害者の人権救済も報道の自由も共に大切な価値。対立的にとらえず、並行して考えたいのです。》
この人は、かつて読売新聞の座談会で「匿名報道」を批判したこことがあり、私がその根拠を質したのに、まともに答えなかった。浜田氏は新聞協会と親密な研究者ですが、本当に「報道と人権」分野の「学会の熟達者」なのだろうか。
朝日新聞を含むこの国の報道機関による人権侵害が大きな社会問題になったのは、メディア企業が一般の企業がもっている常識も持たず、非人間的な取材や報道を繰り返してきたからである。メディアの犯罪を浜田教授らの「学会」がメディアの人権侵害の実態をまじめに調査もせず、批判を怠ってきたからではないか。メディアが委縮するのが心配だというが、社会的弱者である市民に対する取材報道は抑止し、委縮させたほうがいい。「本来報道すべきこと」が何かを見極め、ジャーナリズム本来の仕事を遂行すべきだ。
浜田教授の言う「権威を持った第三者機関」が何を指すかは不明だが、もし報道評議会のことであるなら、とんでもない曲解だ。被疑者になった一般市民の実名が報道された場合、後で追加記事がいくら出ても被害は救済などできない。無実が証明されても実名は伏せてほしいという市民もいる。実名報道されて自殺に追い込まれたり、仕事を失うなどの生活を破壊される市民がいることを浜田教授は知らないのでだろうか。八〇年代の前半にもこんなひどい「学者」はいなかった。人権侵害がないような報道の仕組みをつくることが重要なのだ。
原氏も「いずれは読者・市民・メディアによる報道評議会のような機関も検討すべきでしょう」と述べている。
「Q&A」形式の記事では、「メディア全体の横断的な組織が必要だ、という機運が芽生える可能性もあるのかもしれません」と書いている。委員の原氏も「いずれは読者・市民・メディアによる報道評議会のような機関も検討すべきでしょう」と述べている。
この委員会の名称が、「人権と報道委員会」ではなく「報道と人権委員会」になっているところに注目したい。「表現の自由」は新聞社の特権でも何でもない。市民が等しく持っている権利で、権力がその自由を妨げようとしたときに主張すべき権利だ。表現の自由と市民の人権を「調整する」とか、人権を尊重するという言い方自体が傲慢だと私には感じられる。
朝日の委員会の事務局長は専任だが、彼以外にはスタッフがいないようだ。委員が集まるのは二カ月に一回。評判の悪い国家公安委員会みたいだ。
毎日の「開かれた新聞」委員会と同様に、従来の苦情対応機関を手直ししただけの機関だと言わざるを得ない。
朝日と毎日の両社は、「報道評議会はいずれは必要」とのんびりしたことを言う「識者」を動員している。
一六年前から日本にも報道評議会をという市民運動があるのに、「ゆくゆくは」とか「いずれは」などと悠長に構えていては、目前に迫った法規制を阻止できないと思う。
毎日は今も委員会を「毎日新聞独自のオンブズマン」と詐称し、報道評議会につながるかのように言っている。朝日はこの辺はカニングですから言わない。毎日は、この委員会が発足して三カ月になっても、「書かれた側」の当事者から、いまだに苦情の申し立てがないのはなぜかを深刻に考えてほしい。実名主義を擁護し、「官房長官は首相の女房役」という表現を批判しないような田島泰彦教授が入っているのだから、苦情を申し立ててもむだと誰でも思うだろう。
社別の対応はないよりあったほうがいいし、いままでそれさえなかったことが問題だ。しかしそれをいくら充実しても、メディア責任制度にはならない。これをつくったから、報道評議会は先送りという「アリバイ作り」の危険性さえあると思う。報道評議会は将来の課題などと言っている新聞社幹部や識者は、権力にどうぞ法規制してくださいということだろうか。大新聞は日ごろ、権力と癒着してしまっているので、鈍感なんだとさえ思う。再販や記者クラブ制度でなどで官庁に法律と税金で保護されている現実を見てから、「法規制反対」を言うべだ。
毎日新聞の委員会は、発足から三カ月たったのに、当事者からの苦情申し立てがいまだにないそうだ。毎日新聞の三カ月間の取材や報道には、一件の名誉・プライバシー侵害もないのであろうか。
新聞労連もオンブズマンを誤解
日本新聞労働組合連合(新聞労連)は二○○○年九月一九日、「報道評議会」に関する原案を発表した。原案は「設置場所・形態」の解説の中で、こう述べている。《評議会は東京に置く。形態としては「プレスカウンシル型」とする。形態については、権限の集中を招くオンブズマン型ではなく、合議制によるカウンシル型が適していると思われる。》
権限の集中を招くオンブズマン型」というのはかなり誤解を招く表現である。
労連原案は、北米型の新聞社別のオンブズマンはおかないという意味だろうが、「権限の集中を招く」オンブズマンは、オンブズマンではない。
社別の苦情処理機関(それ自体はいいことだが)をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。両者は全く別のものなのだから、両方とも不可欠なのだ。私は一○月に新聞労連へ意見書を送った。
新聞労連「報道評議会」原案の成案化をはかる報道評議会特別プロジェクト会議が二○○一年一月一○日に労連新研部と合同で開かれ、原案の一部手直しを行った。二五日からの第九七回臨時大会に提案・採択されることを確認した。
労連は原案の「はじめに」で、「臓器移植報道や事件・事故取材での必要以上のプライバシー侵害、行き過ぎた性表現や不適切な差別表現、容疑者と決めつけたような報道による人権侵害など、いわゆる報道被害が繰り返され、市民の報道への信頼は、もはや各報道機関ごとに読者対応室や法務室などを作って対処するだけでは回復できない段階にきている」と述べ、「権力による無用の介入を防ぎ、報道機関が自律した存在であり続けるために、メディアが引き起こした報道被害に業界として自ら対処するシステムが今こそ必要になっている」と強調している。報道評議会は、「権力からの監視、コントロールを一切拒否すると同時に、報道被害が起きた時には速やかに救済を図ることによって、報道の自由と責任を体現していくとうたっていた。
ところが、成案では、《昨年秋から毎日新聞が「開かれた新聞」委員会、朝日新聞社が「報道と人権委員会」を立ち上げるなど、新聞各社の自主的なオンブズマン制度創設を受けて、[はじめに]の中の「市民の報道への信頼は、もはや各報道機関ごとに読者対応室や法務室などを作って対処するだけでは回復できない段階にきている」との表現を削除》した。
また、《「設置場所・形態」の項目では、誤解を招く恐れのある「権限の集中を招くオンブズマン型ではなく、合議制によるカウンシル型」の表現を削除》した。
後者の削除は当然だが、前者を削ったのは大問題だ。そもそも毎日、朝日の委員会をオンブズマン制度と見なすことは、到底賛同できない。
また、二○○一年一月一日の新聞労連の機関紙によると、新聞労連の「01春闘」運動方針案は、毎日新聞の委員会を「オンブズマン・システム」と呼び、朝日や共同通信と地方紙などの「報道と人権」機関の設置を評価している。社別の苦情処理機関をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。
者別苦情対応機関の委員会にメンバーとして入った学者やジャーナリストが、「世界」(岩波書店)などを舞台に、「当面、報道評議会は無理だから市民とメディアの評議会を」などと「提言」してきた人たちだったことも忘れてはならない。日弁連の人権と報道調査研究委員会の一部幹部が、「新聞各社は社内オンブズマンをつくろうとしている」と発言していたのも、思い起こそう。
新聞労連の現役員は、北村肇委員長時代に行った報道評議会に関する労連の調査報告書を読み直すべきである。社別の苦情処理機関(それ自体はいいことだが)をいくら充実させても、報道評議会を中心としたメディア責任制度にはならない。両者は全く別のものなのだから、両方とも不可欠なのだ。
新聞労連は法的規制の動きがある中で、メディア責任制度の原理原則を忘れずに、97年の臨時大会での決議をもとに活動してほしい。
「各社の対応」は苦情処理の域を出ない。絶対にオンブズマン制度ではない。労連が設立を目指した報道評議会は、新聞社のための機関ではなく、すべての市民のための仕組みだったはずだ。
松井教授の驚くべき見解
研究者の中にも無責任に報道評議会に敵対する人が現れた。松井茂記大阪大教授は前述の『少年事件の実名報道は許されないのか』の後書きの中で、「メディアの苦情救済機関の確立を」という小見出しでこう書いている。
《プライヴァシー保護の観点から、導入を考えるべきだとすれば、それはメディアの自主的な救済機関である。この点、現在のように、マス・メディアによる報道被害に対する人権救済を求める声の高まりに応じて、プレス・カウンシルのような業界の自主的な救済機関の設置の提案がなされている。たしかにそのような救済機関の構想にはうなずけるものがあるが、新聞、雑誌、書籍その他の多様なメディアが混在し、しかも新聞メディアと雑誌メディアの間に一種のライバル関係が存在する現在、すべてのメディア横断的なプレス・カウンシルの実現は困難であろう。そのうえ、業界横断的な自主規制機関の存在は、情報統制の手段となり、自主規制という名前の情報流通談合組織となる可能性ももっている。
それゆえ、まず早急に整備すべきは、個々のマスメディア内部の救済機関である。この機関が、たとえ報道等が違法でなくても、苦情や批判を受け付け、きちんとそれを報道の現場にフィードバックさせることによって、救済の役割を果たすべきである。それが、責任あるマス・メディアのとるべきみちだというべきであろう。》
各社ごとに誠実に対応すると何十年も言ってきたが、ほとんど効果がないから法規制が迫っているのだ。
報道評議会ができたあとにも、各社の記事審査室も苦情承り部門も大切だ。「社内オンブズマン」「オンブズマン的組織」などの紛らわしい名前はよくないが、そう自称したい職制は何らかの役に立つと思う。しかし、それらがメディア責任制度を代替はできない。お互いに異なる機能で複合的に補完すればいい。
法規制の動きを逆利用
外国でも、一般市民によるメディア批判と、それをバックにした政治家による法規制の動きがあって、メディア責任制度が確立されてきた。政府などからの法規制の意図を見抜いて、市民にその危険性を訴えて、日本にメディア責任制度を設立する好機である。日弁連が、労連と新聞協会の橋渡し役を務めることを望んでいる。
榊原英資慶応大学教授は 一○月一日の毎日新聞の「時代の風」で、「カルテル体質 改革を 日本のマスメディア」と題して、日本の政治・行政システムあるいは民間大組織が極端に時代遅れになってきているが、「何といっても、規制と日本語という非関税障壁に守られ続けてきたマスメディアの特殊性は群を抜いている」と書いている。「メディア批判はある種のタブーになってきた」と指摘し、「特に記者クラブの存在は極めて異常で、さまざまな日本的現象を引き起こしている」と断言している。
榊原教授は「記者クラブの古いカルテル体質が、日本の公的セクターに近代的広報システムを採用することを妨げている」「記者クラブ等によるマスメディアのカルテル体質は、他方で優秀かつ専門的ジャーナリストを育てることの障害になっている」とも書いている。
元大蔵官僚の榊原教授は、父親が今の共同通信と時事通信の前身である同盟通信の外報部記者だったという。「それ故か。筆者にも多少、ジャーナリストの血が流れているのかもしれない。厳しいマスメディア批判を展開したのも、メディアを自分のより近いところに感じているからであろう」。
マスメディアの構造改革こそ日本の最も重要な改革の柱だという榊原教授の提言を真剣に受けとめたい。
また、河野義行氏は「メディアの人たちには加害者意識が欠如している。報道被害は市民を社会的に抹殺するということを分からせなければならない」と訴えている。記者たちが、自らの信条に従いジャーナリズムの大道を歩むかどうか。それを支えるのは一般市民のメディアへの積極的参加である。おかしな記事、番組があったらすぐに抗議し、いいものがあれば誉めること。市民がメディアを監視しているという緊張感を持たせることが今絶対に必要だと思う。
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.26