2001・5・11
私は「週刊金曜日」5月11日号に、「人権派記者受難の時代」と題して、2ページの記事を書いた。以下は、それをもっと詳しくしたリポートである。
「書ける記者」を使わない大マスコミ
賃金差別・長沼節夫時事通信記者の闘い浅野健一
あこがれの新聞社に入社しながら、数年もしないうちに記者をやめていく若者が多い。五年前に入った記者の四分の一がいなくなった大新聞もある。大学生の就職希望先としても、新聞・通信社の人気は長期低落傾向にある。なぜ、ジャーナリズム本流である新聞社が魅力を失いつつあるのかを考えてみよう。
第一に、労働基準法無視の睡眠時間が満足にとれないような超長時間労働があるなど、記者の人権が守られていない。第二に、記者としてたいした実績もない役人的なオジサンたちが幹部に昇進し、人権感覚に優れ、ジャーナリストの初心を大切にする記者が冷遇されているから、若い記者が新聞社の前途に不安を抱いてしまう。
第三に、新聞・通信社は個性ある記者を育てず、社内言論の自由がほとんど認められていないから、組織の持つダイナミズムが失われつつある。
そんなメディア企業の体質を象徴しているケースとして、人権を軸に国際的に活躍してきた長沼節夫記者を、「書けない職場」に配転し、生活設計を無視した超低賃金に押さえ込んでいる時事通信社(村上政敏社長、従業員約一二○○人)の「不当労働行為」事件を見てみたい。
▼58歳ヒラ記者
「長沼さんはお元気ですか」。韓国の金大中大統領が、日本の報道機関の代表団と会見する際、共同通信と並んで日本を代表する通信社である時事通信の編集局長や最高幹部に対して、最初にこう言う。時事の幹部はどう返答したらいいか分からず困惑するそうだ。
元死刑囚の金大中氏が敬愛するのは「週刊金曜日」でもおなじみの国際的にも著名な長沼氏だ。金大統領就任式に日本のマスコミ記者としてただ一人招待された。
長沼氏は七一年に金大中氏が初めて大統領選挙に出た際に演説会場で知り合い、そのルポを「エコノミスト」(毎日新聞社)に発表した。金氏が七二年、日本と米国で亡命生活を始めてからも親交を続け、七三年に東京で拉致された後も支援活動を続けた。金大中氏に死刑判決が出た裁判で、起訴状に長沼氏の名前が書き込まれていた。
長期の獄中生活から仮釈放された直後の金嬉老氏から会社で勤務中の長沼氏宛てに電話がかかってきたが、記事を執筆する機会も与えられない。
長沼氏は一九七二年に入社したベテラン記者だが、いまだになんの役職にもついておらず、同期入社の最低の賃金で働かされている。「生涯一記者」がモットーだが、九一年には取材記者としての身分をはく奪され、希望しない整理部赤筆(校閲係)の内勤記者に配転された。「最も書ける記者」に取材、執筆の機会を与えない時事の幹部は、長沼氏の近況を金大統領に伝えることもできないのだ。
最近、マスコミ記者から、「記者としての実績がない役人のような人たちばかりが出世していく。出来る記者は冷遇される」という嘆きをよく聞くが、長沼氏の置かれた状況はそんなメディア企業の体質を象徴していると思われる。
長沼氏は京都大学文学部で社会学を学んだ。米国務省招待でハーバード大学に留学(ベトナム反戦デモが原因で二カ月で自主帰国)するなどした後、大学院修士課程を修了。学部・院を通して京都大学新聞などでジャーナリズム活動を始め、本多勝一氏からは朝日新聞への入社を勧められた。京大の先輩である時事経済部の梅本浩志記者の誘いで時事に入社。経済部からナイジェリアのラゴス特派員を経て、社会部に移った。特派員時代に「ラクダで横断中の日本人冒険青年サハラに死す」のスクープで有名だ。また「昭和天皇・マッカーサー第三回会見録」を国会図書館で発見したが、時事ではボツにされ、「朝日ジャーナル」で発表した。
八○年、ポーランド「連帯」のゼネストでは、有給休暇をとって梅本記者と共にグダニスクに飛んだ。その際、村上政敏経済部長(現社長)はわざわざ「記事はいらない」と通告した。二人はワレサ連帯委員長とのインタビューに成功したが、関係支局に「梅本らには便宜供与したり、原稿を受けとるな」という命令が出ていたため、時事では記事にならなかった。
整理部に配転された後も、休暇を利用して記者活動を続けた。九一年から日本軍強制従軍「慰安婦」問題を追い、九五年には、マニラで開かれたアジア各国の元慰安婦のシンポジウムや、アウシュビッツ解放五〇周年記念行事を取材した。
▼最低ランクの賃金
ここで長沼氏の賃金がいかに低いかを見てみよう。
時事通信が八六年に実施した「職能資格等級」制度では、等級は「Nー1」から始まり、標準モデルでは一三年後に例外なく「S−3」になり、その後は会社の評価により昇格する。通常は三、四年で一ランクづつ昇格していくのだ。ところが、長沼氏は制度実施の八六年に当時の年齢として最低の「S−3」に格付けされ、その後一三年間も「S−3」に据え置かれた。五十歳代の社員の中でただ一人だった。
この制度では、五六歳になると評価の枠外となり、「V等級」というランクに位置づけられ、それまでの「S等級」時の賃金の最大二五%をカットされる。長沼氏は五五歳時の格付けに従って「V−1」から「V−3」等級にランク付けられたため、最低ランクの「Vー1」になり、現在に至っている。
整理部に移ってからは時間外手当もなくなり、年収は三八歳以上の時事社員の中で最低となっている。長沼氏の被害額は八六年以来、少なくとも四千万円に上り、退職時までには五千万円を超えると思われる。
▼少数派組合に対する差別
長沼氏は「時事通信労働者委員会」という少数派労働組合のメンバーである。前身が時事通信労組(六八年発足、二○○一年四月末現在の組合員七三八人)経済班で、七六年に結成された。組合員は発足時は二二人で、会社側の弾圧で現在は九人。
同じく労働者委員会のメンバーである山口俊明記者は一カ月の有給休暇をとったことで処分され、処分を正当化する最高裁判決が出た途端に懲戒解雇された。これは「バカンス裁判」として、人権後進国ニッポンを象徴する事件として国際的にも有名になった。
労働者委員会のメンバーは全員があからさまな賃金・身分差別、不当配転攻撃を受けており、委員会はあらゆる法的手段を使って抵抗してきた。その労働者委員会と長沼氏が、総決算として長沼氏に対する「人権蹂躙もあらわな賃金差別の不当労働行為攻撃」を取り上げ、九九年一○月、東京都地方労働委員会に不当労働行為の救済を申し立てた。長沼氏が二○○二年に定年を迎えるため、緊急性があると判断して一人に絞っての申し立てとなった。
時事の現体制がなぜ労働者委員会を忌み嫌うかについては、梅本浩志著『わが心の「時事通信」闘争史 日本マスコミの内幕的一断面』(社会評論社)が詳しいが、ここで簡単に説明しておきたい。
時事の前身は、戦時中に国策通信社として侵略戦争の広報宣伝機関を務めた同盟通信である。同盟は一九四五年一○月に解散し、同年一一月に共同通信、時事通信、電通に分かれて再発足した。「時事地獄」「マスコミの憲兵」とまで呼ばれた長谷川才次代表取締役の「恐怖独裁体制」の時代が長く続いたが、約百人でスタートした時事労組が長谷川体制を打倒した。その中心が時事労組経済班であった。
ところが長谷川体制の崩壊後五年間で時事労組の一部幹部たちは、新たな経営陣に参加する。経済班はこれを「ネオ長谷川体制」と批判し、経済班賃金闘争委員会を結成して抵抗した。時事労組執行部は委員会メンバーに処分攻撃をかけたため、時事通信労働者委員会が誕生した。
当時の時事労組の顧問弁護士だった弁護士が会社側代理人を務めた。
▼28歳の私が見た労働者委員会
私が共同通信の五年目の記者を務めていた七六年、共同は地方支局の記者を削減して本社を増員する「地方再編」合理化を提案した。当時の共同の幹部に原寿雄氏(元新聞労連副委員長)がいた。原氏は、ジャーナリズムを守るために「合理化」が必要だとして、労働組合の基本原則を踏みにじる「改革」を断行していった。組合の副委員長として原氏の意向を受けて合理化に屈服する路線をとったのが、現在の共同通信社長・斎田一路氏である。
私は当時共同労組関東支部委員長で、人事人員問題では地方支部にもスト権の発議権を認めるよう求めた。合理化の被害を受けるのは地元採用の高齢者が多かった。組合員の多い本社の人たちには、無関係というより、有利な会社提案だった。多数のために犠牲になることに納得がいかなかった。
共同労組幹部(いま会社の幹部になっている)は、私の提案は「統一と団結」を乱すとして強く反対した。議論が山場にさしかかった六月の組合大会で、時事通信労組の高橋純委員長(整理部長を経て現在、子会社の取締役)が来賓としてあいさつする中で、「地方支部のスト権を認めると、時事のようになって大混乱する」と恫喝した。当時の時事労組は新聞労連にまだ加盟しておらず、共同労組の大会に招待されたのは初めてだった。
私が労働者委員会の人たちと出会ったのはそのころだったと記憶している。その中には、不当配転などの弾圧を受けて九五年に五○歳で他界した岩山耕二氏もいた。
▼自主管理の思想
時事通信労働者委員会は日本のメディア関係労組としては極めてユニークな運動論をもっている。委員会は、時事には相矛盾する二つの基軸が絡み合い、せめぎ合ってきたと分析する。労働者委員会の代表幹事の梅本氏によると、時事には創業以来、「政府や財界など支配体制側の必要性に即応することによって、そこから利益を得る国策通信社的な基軸」と、「テクノクラート(記者)や労働者の内在的欲求から発し、民衆から仕事のエネルギーを得ようとする自主管理的な基軸」があるという。委員会は後者の強化を訴えてきた。
また、委員会は人権論と仕事論も両軸にしてきた。仕事論とは、記者が能力と意欲に応じて働きがいを感じることのできる仕事をしたいと思いながらも、メディア企業の不当労働行為によって妨害されているとき、社権力の意思や体制秩序とは無関係に有給休暇制度などを活用して社内外で独自のジャーナリズム活動を展開するという考え方だ。実際、委員会のメンバーたちは優れた記者活動で社会的評価を獲得してきた。
ジャーナリズム性を薄め、情報産業化を目指す現代のメディア企業幹部にとって、「梅本イズム」と呼ばれる、のびやかでしたたかな自主管理の思想ほど邪魔な存在はないであろう。幹部らは、記者を人事や賃金差別で脅して、会社に都合のいい「社畜」に飼いならすことしか考えないのだ。
北村肇編著『新聞記者をやめたくなったときの本』(現代人文社)でも、社内言論の自由がほとんどない実態が明らかになっている。朝日新聞など主要紙は、社員の社外活動を厳しく制限している。一部のベテラン記者を除いて、記者たちは市民集会での発言さえ原則的に禁止され、社外メディアに書く場合、仮名で書くしかない。
報道機関の「右傾化」だけが問題ではなく、取材・報道の現場で熱い議論がほとんどなくなっていることが危機的なのだ。読売新聞の憲法改正私案でも、その内容に疑問があるが、読売新聞の記者やデスクたちが議論してまとめられた提言ではないことこそ、病理が潜んでいる。産経新聞の社説やコラムに現れる極端な前近代的「思想」に関しても、産経新聞の記者やデスクたちが議論した形跡はない。
新聞・通信社の労働組合が、仕事論をたたかわせなくなったことこそ、ジャーナリズムの危機である。
新聞労連は九七年二月の臨時大会で採択した「新聞人の良心宣言」の「解説」で示した「基本姿勢」の中で、「この宣言に基づいて、言論の自由を守り、真実の報道を続けようとする新聞人に対し、会社側が不当な圧力や処分を掛けてきた場合は、新聞労連がこの新聞人を守るために全面的に支援する」「多様な価値観を尊重したうえで、メディア間の相互批判を積極的に行う」とうたっている。
時事通信労働者委員会には、反長谷川闘争時代を全く知らない若い記者が入っている。委員会に所属しているだけで、さまざまな不利益を被ることを覚悟で、「ジャーナリズムを基底に据えた真の国際的総合通信社を作り上げる」運動に参加しているのである。
「時事は私の人権を侵害している」という長沼氏は次のように訴える。「マスメディアは社会のさまざまな問題を取材・報道する中で民主主義の重要性を説くが、自分の組織のことになると差別意識と封建遺制的な体質をあらわにするのは滑稽としか言いようがない。自らの問題を問われると過剰反応し、無視、差別、いじめなどのあらゆる手段で弾圧する。最近、新聞・通信社をやめる若い記者が多いと聞いている。時事だけの問題ではない。マスコミは、自らを開かれた社会を作り直さなければならない」。
長沼氏の投げ掛ける問題について、時事通信社社長室に取材を申し込んだところ、信友政男法務室長(元時事労組委員長、五六歳超社員となる直前のランクは最高の「M−8」)が四月二○日、「係争中の案件なので、コメントは差し控えたい」と述べ、取材を断った。時事通信から取材を受ける政官財界要人や一般市民は、「係争中だから答えられない」と拒否すればいいということになる。
▼時事労組もコメント拒否
私は四月二五日、新聞労連時事通信労働組合委員長の菱谷毅氏にファクスで、週刊金曜日で「人権記者受難の時代」という原稿を書いており、その中で、時事通信の社員である長沼節夫時事通信記者の闘いを取り上げることを伝えて、次のように質問した。
《本日は突然のファクスで大変に失礼します。先ほど貴労組書記の方から、書面で問い合わせ内容を送るようにというご指示をいただきました。
長沼氏は元貴労組組合員で、現在は時事通信労働者委員会のメンバーと聞いております。
貴労組の組合員でない記者に関することで、貴労組にお聞きするのは、長沼氏が被っている人権侵害をストップさせるためには、貴労組がこの問題で何らかのコミットをすることが有効ではないかと考えるからです。
組合が違っていても、おなじ職場の労働者が不当な扱いを受けていれば、それに抗議することが、労働者組織の作風ではないかと考えます。
私は元共同労組の関東支部委員長で、大学でも教職員組合の委員長を務めました。私自身の組合経験からも、定年が迫っている長沼さんへの差別が撤廃されるよう祈っています。
長沼氏の賃金がいかに低いかを知って驚きました。私も共同時代、原寿雄総務局長〈当時)らに睨まれ、ずっとヒラ記者でしたが、賃金差別はそうありませんでした。
長沼氏の投げ掛ける問題について、時事通信経営側に取材を申し込んだところ、信友政男法務室長(元時事労組委員長)が四月二○日、「係争中の案件なので、コメントは差し控えたい」と述べ、取材を断りました。
長沼節夫さんの闘いについて、貴労組がどのように考え、行動されているのかを教えて下さい。》(一部削除)
四月二五日、時事通信労働組合中央執行委員長・菱谷毅氏から次のような回答がファクスで届いた。
《浅野健一様
拝啓
時下、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
多忙のため、電話でのお問い合わせに直接回答できず、失礼いたしました。また、大変ていねいな書面をいただき、恐縮いたしております。さて、お問い合わせの件についてですが、1つの会社に2つの労働組合があるという状況から容易にご推察いただけるように、両組合の間にはこれまでの歴史的な経緯があり、運動方針や組合員の意識にも隔たりがあります。このため、お問い合わせの件について何らかの見解を表明すること自体、極めてデリケートな問題を含んでいると言わざるを得ません。当組合と労働委員会との関係はもちろん、会社側に対しても、当組合の組合員に対しても、重大な影響を及ぼしかねないことから、少なくとも現時点では、お問い合わせに応じかねる事情をご賢察いただきたく、お願い申し上げます。
末筆ながら、ご研究が実り多いものとなりますよう、お祈り申し上げます。
敬具》
私の思いは大労働組合には届かなかったようだ。国際的に認められた人権、自由、民主主義の原理・原則に照らして、「会社側に対しても、当組合の組合員に対しても、重大な影響」を与えるのが、労働者組織の任務だと私は思う。(了)
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.05.17