松井茂記教授の実名報道論批判
『少年事件の実名報道は許されないのか〜少年法と表現の自由〜』を読んで松井茂記大阪大学法学部教授の『少年事件の実名報道は許されないのか〜少年法と表現の自由〜』(2000年11月、日本評論社)を読んで、どうしてこんな乱暴な論理の本が、日本評論社から出たのだろうと悲しくなった。日本評論社は日本弁護士連合会編『人権と報道』(1979年)を出版して以来、匿名報道主義を日本に紹介する出版物を出してきた。
日本評論社が毎日新聞などに掲載した本書の新聞広告に、「急増する少年犯罪」とあった。編集担当者は「著者の主張だ」と答えた。宣伝部長は「社内にいろんな考えがある」と説明した。
相手にするのも嫌になるプロバガンダ本である。悪いやつは、少年でもたたいて当然だ、という情緒的主張を「学問」的に著している情けない本だ。
12月の日本マス・コミュニケーション学会の理事会でも「少年の実名禁止の見直しについて研究したらどうか」という提案があったという。「リベラル」「革新」を装う学者が、憲法理論を机上で振り回している。
本の帯の部分は次のように書いている。
《試されるメディアと国民ー少年法の壁に疑問を抱かず「知る権利」に答えられない新聞やテレビ、読者の苛立ちに乗じてゲリラ的報道に出る一部メディア・・・。そんな状況下で少年法の理念と「知る権利」の調和点を探る本書は、メディアと国民に、続発する少年事件と同取り組むかという課題を提示している。
東京新聞・中日新聞論説委員 飯室勝彦》
以下、本文からいくつか問題の個所を引用する。
《メディアの苦情救済機関の確立を
プライヴァシー保護の観点から、導入を考えるべきだとすれば、それはメディアの自主的な救済機関である。 この点、現在のように、マス・メディアによる報道被害に対する人権救済を求める声の高まりに応じて、プレス・カウンシルのような業界の自主的な救済機関の設置の提案がなされている。たしかにそのような救済機関の構想にはうなずけるものがあるが、新聞、雑誌、書籍その他の多様なメディアが混在し、しかも新聞メディアと雑誌メディアの間に一種のライバル関係が存在する現在、すべてのメディア横断的なプレス・カウンシルの実現は困難であろう。そのうえ、業界横断的な自主規制機関の存在は、情報統制の手段となり、自主規制という名前の情報流通談合組織となる可能性ももっている。 それゆえ、まず早急に整備すべきは、個々のマスメディア内部の救済機関である。この機関が、たとえ報道等が違法でなくても、苦情や批判を受け付け、きちんとそれを報道の現場にフィードバックさせることによって、救済の役割を果たすべきである。それが、責任あるマス・メディアのとるべきみちだというべきであろう。》《少年事件に限らず、およそ事件は匿名にすべきである
少年の氏名の報道に反対する立場の学説のなかには、すべての刑事事件の容疑者の実名報道に反対するものも見られる。この立場は「匿名報道主義」にたつものである。実際、後述する堺市通り魔殺人事件訴訟では、原告側はこのような匿名報道主義に基つき、およそ犯罪報道は匿名で行うべきであって、実名報道は許されないと主張していた。 たしかに、現在のマス・メディアの犯罪報道のあり方を見ていると、このような匿名報道主義の主張にも一理あると思われる。もっぱら警察の発表のみに依拠して、警察の発表があたかも事実そのものであるかのように報道し、裁判で有罪と確定してないうちから(実際、警察が逮捕する前から)容疑者を犯人そのものであるかのように報道する姿勢は、批判されるべきである。すでに述べたように、犯罪報道は、基本的には警察行動を事実として報道し、警察の発表を警察の見方であるときちんと断って掲載すべきであるし、当然容疑者の側の見方も併記すべきである。本来、警察の発表があった場合はどの立場の誰の発言かを明示することも必要である。
しかし、最高裁判所も、『逆転』事件判決で、『事件自体を公表することに・・・社会的意義が認められるような場合」に実名報道が許されると判断している(最三小判一九九四年二月八日民集四八巻二号一九四頁)。事件が公共の利益に関する事実であれば、基本的には犯罪の実名報道は憲法二一条で保障された表現の自由というべきである。それゆえ、実名報道はおよそ違法であるとか、被疑者・被告人の保護のため政府は実名報道を禁止すべきだとは言えないし、また実名報道をすべて禁止することは憲法二一条違反と考えざるをえまい。》
《だが、この事件の衝撃も収まらないうちに、全国各地で、少年による事件が続発した》《もちろん少年による事件はいつの時代にもあった。終戦直後の混乱期には、多くの少年犯罪が犯されている。だが、社会自体が混乱期であったし、これらの犯罪のほとんどは貧困や空腹が原因の犯罪であった。罪を犯したことが悪いことには変わりはないが、それでも国民はその原因について想像することができた。
ところが、戦後の経済発展で、日本は(少なくとも終戦直後に比べれば)裕福な社会になった。もはや空腹を理由とする犯罪はあまり考えられなくなった。しかし、少年の犯罪は少なくはならなかった。》
《少年が凶悪な犯罪を起こす事件は、二〇〇〇年にかけても続いた。》
《ところが、少年法の場合、保護処分にはこの「応報」が完全に抜け落ちている。少年には、罪を犯しても、償いをすることは予定されていないのである。保護処分は、その少年を助ける処置である。そこには、
ほかの少年が事件を犯さないよう抑止ないし予防するという視点もない》
《ドイツでは、この問題はマス・メディアの自主規制に委ねられており、プレス評議会の定めるプレスコードは、少年事件については、少年の将来を考慮して、重罪にかかわらない限り、できる限り氏名および身元を明らかにするような写真の公表は、行うべきではないとしている。だが、あくまで報道の可否は個々的に行われているし、これに違反した場合にもプレス評議会への苦情申立てができるだけで、法的な制裁は科されていない》
《少年事件の審判手続は憲法上公開が要請され、国民およびマス・メディアは審判を傍聴する権利を有するものと考えなくてはいけない。》
《殺人や強姦などの一定の重大な犯罪については、国民の関心が高く、それゆえよほどの理由がない限りは審判を非公開とすることを許されないものと考えるべきではあるまいか。》
《少年が公開での裁判を求めた場合には、少年に十分な判断能力がある限り、基本的には公開で裁判すべきであろう。》
《殺人や強姦などの重大な犯罪については、国民の強い関心があるのは当然であるから、原則としては少年の氏名等の公表を禁止すべきではないように思われる。》
《第一に、少年が少なくとも氏名の公開の是非について合理的な判断が下せて、その少年が氏名の公開に反対しない場合には、たとえ審判前であっても氏名の公開は禁止されるべきものではない。 第二に、検察官に送致されて裁判所で刑事事件として訴追された少年については、いかなる場合であれ、その氏名の公表を禁止しうる根拠はないように思われる。刑事裁判は、憲法の規定により公開であり、被告人の氏名は公開されなければならない。それを公開することに対しては、いかなる制約も許されるべきではないというべきであろう。 また、逮捕の段階で、氏名等を公表することに問題があっても、審判で非行事実が認定された場合には、もはやそのような配慮は必要ではない。特に重大な非行ゆえに保護処分を受けたような事例では、非行事実が認定されたのであれば、氏名等も公開すべきであろう。》
《マス・メディアが、警察の逮捕したのが、こういう名前の少年だと報道した場合には、それは警察の活動の事実としての報道である。警察がどのような容疑をもっているのか、警察の調べではどのような事実があったのか、これらはすべて警察の見方である。それゆえ、マス・メディアが、それを警察の見方であると明示して報道している限り、マス・メディアは容疑者である少年が実際にそのような罪を犯したと主張しているわけではない。このような場合には、マス・メディアには、結果として警察の見方が誤っていて、少年が無実であったとしても、報道に対して責任を負わされるべきではない。》
《たしかに少年の立場では、裁判が公開されるのと、それが報道されるのとでは大きく異なるともいえる。》
《国民の立場からいえば、裁判が公開されているということはすべての国民がそれを傍聴する権利があるということである。たまたま実際に傍聴した人だけが知りえて、傍聴できなかった人は知ることができないというのは「公開」ではない。裁判が公開されている以上、そこで知りえた情報をすべての人に伝える権利と、すべての人に知る権利があるというべきである。》
《この点で、しばしばこれら少年の実名を報道したマス・メディアに対しては、販売部数をのばすための「売らんかな主義の報道であり、けしからん」という批判がある。名古屋高等裁判所判決の根底にも、そのような意識があるのであろう。新聞各社もそう思っているのかもしれない。 たしかに、少年の実名を報道するマス・メディアにそのような動機があるかもしれないことは否定できない。だが、この種の報道が、少年事件の事実を解明し、背景を探ろうとするマス・メディアの表現活動として行われている場合もありうる。少年の実名報道をすべて販売部数をのばすためだけの「不純な動機」によるものと決めつけるのは妥当ではあるまい。 しかも、しばしば忘れられているようであるが、マス・メディアは、表現や報道それ自体を目的に表現活動を行っている。そのマス・メディアが、なるべく多くの読者に事実を知ってもらいたいと考えたとしても、それ自体は当然のことであって、それらを何ら責めることはできないはずである。マス・メディアをまるで金のためなら何でもする金の亡者のごとく扱うことは正当ではあるまい。「フォーカス」などの例に見られるように、果たして少年の氏名を公表することが現時点で販売部数の拡大につながるかどうかは疑問であるが、もし少年の氏名等を公表してその販売部数が伸びたとしても、それは多くの国民がそれを知りたいと思っていることを示すにすぎない。これを「のぞき見趣味」だとして
否定的に評価するのは適切ではあるまい。国民は、明らかに重大な少年事件について、きちんと事実関係
とその背景に関する情報を求めているのである。》
《被害者の立場も考えてみることが必要である。》
《少年が犯したことや刑法に触れる行為をしたことが認定されても、少年に対して罪を償ってもらうこともできない。少年法の理念では処分は制裁ではないからである。自分またはその家族に被害を負わせた人がいるのに、誰もその被害に対して責任を負われず、誰も罪を償うことは求められないのである。 しかも、少年事件の場合、被害者にもその家族にも、容疑者の氏名さえ知らされない。容疑事実の詳細も知らされない。少年が審判に付されても、被害者もその家族も傍聴は許されない。処分が下されても、通知もなければその内容も知らされない。被害者もその家族も、自分あるいはその家族がなぜそのような被害を受けなければならなかったのか、事件の原因はどこにあったのか、少年の保護者はそのような事件の発生をとめることはできなかったのか、保護者に落ち度はなかったのか、学校や行政機関などに落ち度はなかったのか、こういったことについて一切情報は与えられない。 すべては加害者とされる少年の「保護」のために、である。 これではまるで少年事件の場合、被害にあった側が何か悪いことをしたかのようである。》
《少年法に対する不満が、少年犯罪が増加しているとか、凶悪化しているという認識と、少年法が適切に
機能していないのではないかとの認識 ーそれについては異論があるー だけでなく、少年法のもとで少年はいかに他人を傷つけても一切責任を問われず、もっぱら保護される点にあり、》
《少年に自己の行為の結果に対する責任を自覚させるためにも、審判の公開や少年の氏名が公開は意味があるかもしれない。 というのは、審判が公開され、少年の行った行為の事実が報道され、少年の氏名が公表されるかもしれないということになれば、少年に自己を自覚させるというもっとはっきりとした効果をもたらすかもしれないからである。また、そうすれば、被害者およびその家族の立場からも、加害者である少年が一切責任を問われないですむという不合理はまぬがれうることになろう。》▽すべて匿名ではなく権力者は顕名
私が八四年から提唱してきた匿名報道主義とは、被疑者・被告人・囚人すべてを匿名にすることではない。桂敬一氏が『現代の新聞』(岩波新書、一九九一年)などで、「報道されるものをすべて匿名扱いせよといういわゆる『匿名報道』」と紹介しているのは完全な誤りだ。松井茂記大阪大学法学部教授が『少年事件の実名報道は許されないのか〜少年法と表現の自由〜』(日本評論社)で、《少年の氏名の報道に反対する立場の学説のなかには、すべての刑事事件の容疑者の実名報道に反対するものも見られる。この立場は「匿名報道主義」にたつものである》と論じている。しかし、「すべての刑事事件の容疑者の実名報道に反対する」人はいないと思う。
相手の主張を正確に紹介してから批判を加えるが常識だと思うが、実名主義者には、自分勝手な「匿名報道」解釈をでっちあげて、それを非難する人が少なくない。
匿名報道主義の下では、公人、準公人の権力犯罪や不適切な行為まで匿名にするわけでは全くない。捜査当局の逮捕・強制捜査などのアクションと連動して名前を出すのではなく、その姓名が知る権利の対象であれば、各メディアは顕名にして客観的に報道するという考え方である。一般刑事事件において、「警察が誰を逮捕するか」などに向けられている取材と報道のエネルギーを、主に権力監視などの調査報道に向けようという主張でもある。
犯罪報道の主たる目的は、警察、検察、裁判所が法律に基づき適正な捜査や審理を行ってるかどうかを監視することである。二○○○年三月二三日に愛媛で、全くの冤罪で一年間勾留されていた人のことが載っている。高知で真犯人と思われる人が現われて、たまたま無実が晴れたのだが、当局が冤罪と気付いてから一カ月間秘密にされていた。真犯人が現れなかったら絶対有罪になっていたと司法関係者や記者たちは言う。こういう人が無数にいるのだと思う。ジャーナリストはやはり、この種の権力犯罪が起こらないように全力を尽くすべきだと思う。
私は反匿名報道主義を主張する研究者、法律家たちとの直接論争を呼びかけている。田島氏らによる共編著(田島泰彦・右崎正博・服部孝章編『現代メディアと法』三省堂など)では、山口正紀読売新聞記者や私の名前や著書名を完全に「匿名」にし、参考文献として紹介もしない。私たちの本を読んだ都内の学生たちが、田島氏と私との公開討論を企画しても、「やりたくない」と断っているという。
▽精神論だけでは無理
先に述べたように、政府与党はさまざまな方法でマスメディアの法規制を狙っている。「報道評議会などの自主規制機関を設置しなければという最後通告を突きつけている。
こうした動きを阻止し、報道被害をなくしていくためには、^匿名報道主義を軸としたメディア界が守るべき統一報道倫理綱領を制定し、_倫理綱領を守っているかどうかを監視する市民参加型のプレスオンブズマン・報道評議会の仕組みをつくるしかない。
ところが日本新聞協会などのメディア業界団体は、各社で対応するとかいうだけで、業界を網羅するメディア責任制度をつくろうともしていない。
研究者の中にも無責任に報道評議会に敵対する人が現れた。松井茂記大阪大教授は前述の『少年事件の実名報道は許されないのか』の後書きの中で、「メディアの苦情救済機関の確立を」という小見出しでこう書いている。
《プライヴァシー保護の観点から、導入を考えるべきだとすれば、それはメディアの自主的な救済機関である。この点、現在のように、マス・メディアによる報道被害に対する人権救済を求める声の高まりに応じて、プレス・カウンシルのような業界の自主的な救済機関の設置の提案がなされている。たしかにそのような救済機関の構想にはうなずけるものがあるが、新聞、雑誌、書籍その他の多様なメディアが混在し、しかも新聞メディアと雑誌メディアの間に一種のライバル関係が存在する現在、すべてのメディア横断的なプレス・カウンシルの実現は困難であろう。そのうえ、業界横断的な自主規制機関の存在は、情報統制の手段となり、自主規制という名前の情報流通談合組織となる可能性ももっている。
それゆえ、まず早急に整備すべきは、個々のマスメディア内部の救済機関である。この機関が、たとえ報道等が違法でなくても、苦情や批判を受け付け、きちんとそれを報道の現場にフィードバックさせることによって、救済の役割を果たすべきである。それが、責任あるマス・メディアのとるべきみちだというべきであろう。》
各社ごとに誠実に対応すると何十年も言ってきたが、ほとんど効果がないから法規制が迫っているのだ。
報道評議会ができたあとにも、各社の記事審査室も苦情承り部門も大切だ。「社内オンブズマン」「オンブズマン的組織」などの紛らわしい名前はよくないが、そう自称したい職制は何らかの役に立つと思う。しかし、それらがメディア責任制度を代替はできない。お互いに異なる機能で複合的に補完すればいい。
河野義行氏は「メディアの人たちには加害者意識が欠如している。報道被害は市民を社会的に抹殺するということを分からせなければならない」と訴えている。記者たちが、自らの信条に従いジャーナリズムの大道を歩むかどうか。それを支えるのは一般市民のメディアへの積極的参加である。おかしな記事、番組があったらすぐに抗議し、いいものがあれば誉めること。市民がメディアを監視しているという緊張感を持たせることが今絶対に必要だと思う。
参考: 浅野健一・山口正紀『匿名報道』学陽書房、1995年。浅野健一『犯罪報道の犯罪』学陽書房1984年。浅野健一『新・犯罪報道の犯罪』講談社文庫、1988年。浅野健一『犯罪報道とメディアの良心』第三書館、1997年。(浅野健一)
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.12