2001年3月1日

大阪の弁護士が暴徒化した報道陣を一喝
三田佳子さん二男第2回公判

浅野健一

 2001年2月21日には第2回公判が川崎支部で開かれた。「週刊金曜日」芸能班、早稲田、慶應、上智の学生有志とともに、二男報道の取材陣を取材した。報道陣は200人を超えていた。裁判所前の道路には約40台の報道関係車両が違法駐車。車をすべてチェックしたが、神奈川県警の駐車違反除外指定票を掲示している車は数台だった。神奈川県警交通部の車両が警備に当たっていたが、何も注意しない。
 傍聴券を求めて行列をつくったのは、99%がマスコミが動員したアルバイトだった。傍聴人のうち一般市民は1人だけで、あとはすべて報道関係者。3000−5000円で買い取っていた。甲山、オウム、和歌山毒カレー事件などでも同じだが、これは市民の傍聴の権利を侵害する行為だ。アルバイトから傍聴券を買うのは、法律上も問題がある。
 裁判所と川崎社会記者会加盟の協議で、加盟17社に17席が「記者席」として用意されて、一般傍聴席は38だった。記者席が用意されているのに、イラストレーターやコメンテーターのための席をとろうとしてアルバイトを動員した。テレビ局は同じ局でも午前と午後のワイドショー、報道局の取材班がそれぞれバイトを雇っている。
 入廷するときも二男は揉みくちゃにされたが、閉廷後に玄関を通って裁判所前の歩道〈幅約3・5メートル)を約30メートル歩いて三田事務所の車に乗り込むまでが大変だった。小川三代治弁護士が先頭になって二男を脇に抱えて、この日の証人だった谷澤忠彦弁護士、三田事務所の小沢英理人マネージャー、
弁護人の佐々木英雄弁護士が続いた。報道陣は二男をサンドイッチ状態にして、身動きができなくなった。一部の報道陣が佐々木弁護士を突き倒した。「恐縮ですが・・・」の梨本勝氏が転んでしまい、二男が助け上げた。取材集団の包囲で二男が身動きできないときに、リポーターたちが質問を浴びせる。監禁だ。弁護人の佐々木弁護士の書類袋が破れて、この日の証人だった谷澤忠彦弁護士から預かっていた本や書類がこぼれて路上に散乱した。本と書類は報道陣に踏みつけられてぼろぼろになった。携帯電話も踏みつけられた。 私は「マスコミは暴力をやめなさい」「被告人から離れなさい」と何度も叫んで制止しようとした。しかし暴徒と化した報道陣は、車のところまで集団で追い掛け、二男が車に入ったときには、カメラをドアの中に突っ込んで撮影しようとした。窓ガラスにカメラをくっつける週刊誌記者もいた。一般市民が見守る中での暴力の数々だった。
 二男と佐々木弁護士の乗った車が、暴漢たちから脱出して去ったあと、谷澤弁護士は道路の真ん中で叫んだ。「これはいったいどういうことだ。マスコミの暴力を許さない。各報道機関の責任者は出てこい。話をしよう」。これまでの取材で顔を見たことのある、テレビ局のプロデューサーやディレクターがいたが、さっと逃げてしまった。残ったのは若い報道関係者だけだった。
 私も「これは取材・報道という名の暴力だ。政府与党がメディアを法規制しようとしているときに、こんなことを白昼堂々と市民の目の前でやっていいのか」などと批判した。
 BROの大木事務局長も現場で視察していた。
 谷澤弁護士と私は裁判所玄関まで戻り、報道機関の代表が集まるよう求めた。それを聞いた梨本さんが、「分かりました。私の責任で集めます」と言って、各社を回った。テレビ朝日のクルーに声を掛けると、「報道(局)だから関係ない」と言う。梨本さんのおかげで約20人の報道陣が集まった。谷澤弁護士は「あんたらは何をしてほしいんや。二男の更生、犯罪の防止が大事なんや。二男をこんなふうに晒し者にして、何のためになるのか。あんたらメディアじゃない」などと厳しく批判した。私も約5分演説した。みんな静かに話を聞いてくれた。
 谷澤弁護士は「今日中に各社の代表と話し合いの場を持ちたい。このままでは4月25日の次回公判には二男を出廷させない」と申し入れた。梨本さんが仲介の労を取ると約束した。
 谷澤弁護士は日本新聞協会、日本民間放送連盟、NHKなどに電話を入れた。弁護士は午後7時から麹町会館で会見すると通告した。大阪の事務所からファクスを報道各社に送った。
 会見には約50人が出た。谷澤弁護士が約40分話し、私も30分ぐらい話した。主に、二男は保釈中の刑事被告人で、入退廷を妨害することは公正な裁判を受ける権利の侵害であり、被告人を晒し者にしてはならないことを訴えた。ロス疑惑の三浦和義さんが警視庁に逮捕された際、警視庁が三浦さんを歩かせたことについて、違法だという判決が確定している。「引き回し」は禁止されているのだ。
 我々は新聞・通信社、雑誌社、放送局が一緒になって対応してほしいと強調した。質疑になって、共同通信社会部の記者が「川崎や横浜のクラブはこの会見を知らない。川崎の方に要望してほしい。新聞協会に言っても効果がないだろう。私もいきなり言われてここに来た。川崎の記者によると、地元のクラブでは、混乱が予想されるということで、裁判所とも相談して刑事弁護人(佐々木弁護士ではない)に何度も電話を入れたが、電話に出てもらえなかった」と述べた。私は「被告人弁護人の側に責任があるかのような言い方はおかしい。報道陣による暴力の問題は報道関係者の責任ではないか。社会部だ、川崎支局だとかいうことは関係ない。各社の代表で相談してほしい」と述べた。
 谷澤弁護士は10日以内に、もう一度報道関係の代表者と話し合いたいので、それまでに対応策をまとめてほしいと要請した。新聞・通信、スポーツ紙、雑誌、放送の各責任者(暫定)を決めて、それぞれが
会社の責任者を通じて業界団体にも報告することになった。
 川崎社会記者会の現在の幹事は共同通信。共同の山脇記者は私の電話取材にも「混乱が予想されたので対応策を相談したかったのに、弁護士が対応しなかった」と話した。山脇記者は谷澤弁護士に「私も現場にいたが、怖かった」と話したという。
 横浜地裁川崎支部(羽淵清司支部長)の庶務課職員は「報道の問題を弁護士に言うのは筋違いではないか。裁判所としても対応したい」と話した。職員によると、当日は寒さが厳しく、裁判所内のトイレを使った報道関係者が多かったが、トイレは非常に汚くなっていたという。裁判所前の道路には吸い殻がいっぱい落ちていた。
 佐々木弁護士によると、弁護人側は、二男の迎えの車を裁判所玄関前に停車させてもらうように求めていた。そうすれば玄関から車まで数メートルしかなく、混乱を最小限におさえられると考えたのだが、玄関前の道路にはテレビ中継車など報道車両が駐車していたため、無理と言われたという。
 小川弁護士はこう語る。「私の留守に、共同の記者から何度か電話があった。事務員の電話記録にある。二男の共同記者会見をしてくれるのなら、場所を設定してみんなを仕切れる。そうしなければ混乱する。それでもいいのかという申し出のようだった。二男のケースは共同会見するような刑事事件ではない。両親が有名人であるということは関係ない。弁護人がまだ二一歳の青年を引きずり出すわけにはいかない。共同の記者の言い方は一種の取引と感じた。報道のことは報道で責任を持って対処すべきだ今大事なのは二男の更生だ。二男の犯した罪について、ある程度批判するのはいいが、度を越しているのではないか。民衆裁判になってはいけない。裁判で決めるのだから、裁判官、検事、弁護士にまかせてほしい。報道の彼らには正義がない」。第1回公判でも混乱し、報道機材がサイドミラーにあったて壊れたり、フロントガラスにカメラを叩きつけるパパラッチもいた。「父親の顔の写った写真を撮らないと帰れない」と懇願したといいう。
 谷澤弁護士と私の現場での抗議と夜の記者会見を報じたのは東京中日スポーツ紙だけだった。あれだけ記者とカメラが来たのに、報道陣による暴力があり、それに弁護士とメディア研究者が抗議の記者会見を行ったのに、すべて黙殺した。翌日のテレビでも一切無視だった。これは独裁政権や全体主義国家のメディアと変わらない。
 一時期、新聞社やテレビ局の中には報道にかかわるトラブルについて積極的に報道する姿勢を見せていた。それもなくなった。
 大谷昭宏氏らの「コメンテーター」は、「実刑4年になる」などと判決を予測している。国民が裁判に参加するという司法改革が進んでいるが、マスコミ報道を変えないと冷静な判断を持つことは無理だろう。

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