2001年1月9日
以下は2000年12月16日に開かれた人権と報道・連絡会第16回シンポ「少年とメディア」で配付した資料である。人権と報道・連絡会 第16回シンポ 資料 00・12・16
アカデミック・ジャーナリスト、人権と報道・連絡会世話人、同志社大学文学部教授 浅野健一
E-mail:kasano@mail.doshisha.ac.jp VZB06310@nifty.ne.jp(メールは、両方に送信を)
1 今も続く「犯罪報道の犯罪」
▽犯人探しの警察取材
ほとんどのメディア記者たちは、捜査段階で犯人探しをしてしまい、裁判がまだ始まってもいない段階で、「ペンを持ったおまわりさん」になってしまっている。被害者感情に左右されない冷静な裁判報道が必要だが、“少年探偵団ジャーナリズム”が警察発表を鵜呑みにして、被疑者を犯人視して実名報道で、法律に基づかない刑罰を執行している構造が最大の問題だ。
一部の週刊誌、テレビのワイドショーだけが悪いのではなく、大新聞の社会部や放送局の報道局にも問題があるのだ。新聞・通信社の記者たちは、報道倫理や表現の自由についての教育を十分に受けないまま、警察の記者クラブに放り込まれる。記者クラブでやることは、捜査官と親密になって「信頼関係」を築いて、情報を非公式ルートで入手することだ。メディアの幹部は、「記者クラブで権力を監視している」(小川一毎日新聞東京本社社会部副部長の二〇〇〇年一一月二四日、三田祭シンポで)などと主張するが、現場の実態を見れば、記者たちの主たる仕事は警察の監視ではなく、警察から情報をもらうことだということがすぐに分かる。
▽犯罪被害者・地域住民まで報道被害に
最近は何の罪もない犯罪被害者のプライバシーまで侵害されている。以前は、「悪いやつを叩け」という社会的制裁を理由にしていたが、今は、ネタになればなんでもいいということのようだ。
京都の小学生刺殺事件では、住民は「マスコミ疲れ」でくたくたになった。人権と報道関西の会編『マスコミがやってきた!取材・報道被害から子ども・地域を守る』(現代人文社)が明らかにしているが、地元の住民代表は「犯人も怖いが、マスコミはもっと怖かった」「ほとんどのエネルギーをマスコミ対策に使った」と話した。被疑者が判明するまで、報道陣は捜査員の数倍の人数で「犯人探し」をした。毎日新聞京都支局は犯人に関する情報を集めるアンケートを配った。最初小学校高学年の児童か中学生が加害者だという情報が流れ、記者たちは、子供たちに情報を聞いてまわった。神戸事件、和歌山カレー事件などでも、加害者がわからない場合、地域全体がメディアの取材・報道で破壊される。
2 匿名報道主義でしか解決できない
▽実名報道は制裁が目的か
「一九歳の強かん殺人犯人が匿名で、二十歳の窃盗犯がなぜ実名なんだ」「被害者は何の相談もなく実名、写真が報道されるのに、加害者の少年は匿名になるのは納得できない」。
「一九九九年七月に起きた全日空ハイジャック事件で、機長を刺殺し、乗客を恐怖に陥れた犯人が、精神科の治療を受けたことがあるという理由でなぜ匿名になるんだ。実名を出すべきだ」。
日本のマスメディアは、犯罪報道において警察や検察の捜査当局に逮捕され、被疑者(マスメディア用語では容疑者)になると、その人の姓名、住所、年齢、職業、学歴、顔写真などが報道される。市民が当局に身柄を拘束されると実名報道される。強制捜索を受けた場合も実名報道される。例外は、被疑者が二十歳未満の少年である場合と、精神障害患者の場合に限られている。また事件の被害者も原則として実名報道される。瓦版からの伝統で、ほとんどの市民がそれを当たり前のことと思っている。お上にしょっぴかれた人間は悪人だという封建的な考え方が、戦後の憲法の下でもそのまま存続しているのである。
最近は凶悪な少年も実名にしろという声が高まっている。政党の中でも、自由党や保守党は党の方針として凶悪事件の少年は実名を公表すべきだと主張している。
朝日新聞によると、二○○○年一二月の森内閣改造で就任した高村正彦法相は一二月八日、閣議後の記者会見で、大阪府堺市で起きた殺傷事件で月刊誌「新潮45」に事件当時一九歳の男性が実名報道された問題が新潮社側の勝訴で確定したことに関して、「可塑性のある少年について、健全育成から更生ということを考えないといけないと同時に、片方では国民の知る権利がある。2つのバランスの問題を法務省としても、幅広い観点から衆知を集めて検討したい」と述べ、実名報道を禁じた少年法六一条の見直しを検討する考えを示した。
また、被疑者となった精神障害患者を匿名にするのは、犯罪と精神障害疾患を根拠なく結びつけることになり逆差別だという意見も出ている。
いずれも、もっともな意見だ。ただし、逮捕された市民や、事件で被害に遭った人は実名報道が原則だというルールが不変のものであればという条件を付けなければならない。悪いことをしたのだから、名前を出して、社会的制裁を加えて当然という前提があって成り立つ論理である。
私たちの国では、逮捕されたら実名報道が当然だが、そうでない国も少なくない。北欧のスウェーデンでは、犯罪報道で一般市民の実名が出ることはほとんどない。メディア全体が取り決めた報道倫理綱領で「一般市民の関心と利益の重要性が明白に存在しているとみなされる場合のほかは、姓名など報道対象者の明確化につながるような報道を控えるべきである」と規定されているからだ。
▽実名報道擁護学者の登場
私の本が一つのきっかけになって、八五年七月には人権と報道・連絡会が誕生、拙著『新・犯罪報道の犯罪』(講談社文庫)などで「顕名報道基準試案」(山口正紀さんが中心になって作成)を発表している。
八七年に熊本で開かれた日弁連の人権大会は「原則匿名の実現に向けて」活動すると決議した。報道される側の権利が社会的に定着し、八九年末にはメディア界が被疑者の「呼び捨て」の廃止を決定、朝日新聞などが被疑者の顔写真・連行写真の不掲載原則を決めた。
匿名報道主義に対し当初は、逮捕された人の起訴率・有罪率が高いとか、犯罪者を社会的に制裁するのは当然、無関係の人が疑われるなどという反論が多かったが、八六年ごろから「逮捕時点で被疑者の身元を明らかにすることによって冤罪を防いでいる」「実名報道主義を止めれば警察は被疑者を匿名発表してくるのは必至で、警察が被疑者を闇から闇に葬り去る暗黒社会になる」という権力チェック論が主流になった。田島泰彦上智大学教授のように、「被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と結論付け、匿名主義では調査報道が難しくなると言う学者まで現れている。
世紀末における反対論の特徴は、匿名報道主義を単に被疑者の姓名を伏せるという報道手法の問題に矮小化することだ。「実名か匿名かが問題ではなく、報道の内容が問題だ」(猪瀬直樹氏)という主張だ。
「実名を書いても、捕まった被疑者の側の主張が公平に伝わればいい、つまり被疑者を犯人扱いしなければ問題ない」(田島氏)という人もいる。
また、警察が犯人と疑っていたというのは、その時の事実だから、後で犯人でなくても問題はないというメディアの言い方は無責任だ。警察の違法捜査や不適切な行為は当然、非難されるべきだが、警察が報道しているわけでないのだから、報道の結果生じる被害については、自らが責任を果たすべきであろう。
例えば私が殺人事件で警察に捕まったということを、実名、写真入りでテレビや新聞に報道されたら、ほとんどの人は私が人を殺したと思ってしまう。そこで私が記者の取材に、「やっていない」と獄中から叫んで、それが正確に公平に報道されても、一般市民はほとんど信用しない。
田島氏は九九年一○月一四日に開かれた日弁連人権擁護大会で匿名報道主義の立場に立つ平川宗信名古屋大学教授の意見に次のように反論した。《犯人視的な報道ということと、そうでない報道のあり方がある。きちんと取材をして言い分も紙面化する。公権力がどれだけ適正に行使されたかというチェックの視点も入れて報道をしていく。あるべきそのような報道の中で名前を出すということが、今の犯人視的な報道の中で名前を出すと同じ意味を持つかということについては、だいぶ違った意味合いがあるだろう。(中略)犯罪の被害や加害に関わる名前の要素というのは、私は単なる符号の問題として出さなくていいということではないのではないか。社会の中で、特に重要な意味を持つことがらについては、単に政治家とか公務員だけでなくて、社会的な事件のレベルでも、誰がという要素が重要なウエイトを占めたり、あるいはそれが社会の中に伝えられることが必要な場合というのも否定できない》。
犯人視しないで被疑者の言い分も公平に報道するようなあるべき報道の中で実名を出すということと、今のような犯人視的な報道の中で名前を出すのと区別すべきだと言うのが田島氏の主張だ。田島氏はかつて、被疑者の実名が出ても、その人を犯人と決めつけないような社会をつくることが大切で、実名報道が悪いわけではないというような論理も展開している。田島教授が夢見るような差別や偏見から解放された社会は、私たちが生きている間には実現しないだろう。
また警察に捕まった人の言い分を、警察の主張と同量報じればいいというのはおかしい。被疑者からの取材はこの国では困難だ。逮捕されたという事実を報じられると、何を言っても、なかなか信用されないだろう。
日弁連のシンポで田島教授と同席した松本サリン事件の被害者の河野義行氏は、田島氏の発言を聞いて、次のように語った。
《今の話なんですが、学者の方らしいお話だなと、私はそういうふうに感じる。まず、実名報道されるということがどういう意味合いを持つかということを是非考えていただきたい。それは実名報道された人のみならず、その人の家族、あるいは親戚、こういう人みんな取材対象になる。そして、例えば、私の実家の兄が取材対象になりまして、わずか小さい村なんですが、中継車が入ってきて大騒ぎになる。まさにそれだけで、あの弟が犯人なんだというような印象を持ってしまう。そういうことで、実名報道というのは、本人だけでなくて、親戚家族まで報道被害を受け、また社会的には制裁されるという現実があるということを知っていただきたいと思うし、それから実名報道というのは、ある意味で制裁報道、そんなふうに私は感じている。だから、あれだけ悪いことをやったんだからそれくらいの制裁されてもしようがないんだというものが世の中にあるから、実 名ということがなされているんじゃないかと思う。
それから、今、紙面の問題ですけれども、例えば双方の言い分がきちっと載ればという話がありましたが、この紙面化も、例えば、フィフティー・フィフティーで載るということはまずないと思う。警察側情報というものが、例えば八割、九割、その中で弁護士側が一割とか二割、そういう割合で載るのがほとんどですよね。それを受けて、見る人はどちらを信用するかという話になる。おそらく量の多い方が言い分として通るんじゃないかと思う》
メディアが被疑者の実名を出しているのは、悪いことをしたんだからこらしめて当然という、理由しかないと私も思う。実名を出すということは、犯人扱いすることにつながってしまう。
田島氏らは、犯罪被害者の視点に立って取材報道することは当然だとも述べている。繰り返すが、メディアが犯罪者に社会的制裁を加える権限はない。放送局や新聞社の定款に、犯罪者を懲らしめることを業務内容にしているところはない。実名を出すことで、犯罪者に制裁を加えている現状は、法律に違反したメディアのリンチである。
「悪いやつはやっつけて当然。被害者の悔しい思いを代行する」というメディア幹部には、被疑者が犯人ではないと分かったときに、誰がどう責任をとるのかということを、明確にしてほしい。実名報道される人には、本人のみならず、社会的に抹殺されるような被害がある。相手にリスクを負わせながら、自分は警察の見方をそのまま事実として客観的に伝えただけだから問題ない、という逃げ方は卑怯だ。記者を辞めろとまでは言わないが、賃金の一部を一生払い続けるくらいの覚悟は持っていてほしい。
「誰が」はニュースの基本で不可欠だという言い方もよくされる。これは被疑者を犯人と断定しているからこそ言えるのだと思う。被疑者が犯人でなければ、「誰か」を詳しく書けば書くほど真実から離れてしまう。被疑者が犯人だとしても、犯罪の背景や原因を知るためには、必ずしも実名は必要ない。むしろ、被疑者、被害者を匿名にすることによって、事実関係を詳しく追うことができる。はじめに名前が出ると、事件の内容をかえって報道しにくくなることもある。事件報道から名前が消えると、絵にならないとかいうが、少年事件や、生活情報・医療関係のニュースでは匿名報道で十分伝わっている。
3 少年事件とメディア
▽実名・顔写真を出すのが「調査報道」か
大阪府堺市で一九九八年一月、幼稚園児ら三人が死傷した通り魔事件で殺人罪などに問われた当時一九歳の男性被告(21)=一審懲役一八年=が、月刊誌「新潮45」で名前と写真を掲載したのは実名報道を禁じた少年法六一条に違反しプライバシーの侵害だとして発行元の新潮社(東京)と当時の編集長らに二二○○万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁(根本眞裁判長、鎌田義勝裁判官、島田清次郎裁判官)は二○○○年二月二九日、新潮社側に二五〇万円の賠償を命じた一 審・大阪地裁判決を取り消し、訴えを棄却する男性被告側逆転敗訴判決を下した。根本裁判長は「少年法六一条は罪を犯した少年に実名で報道されない権利を与えるものではない。記事は社会の正当な関心事で、内容は真実であり、表現が不当でない場合は違法性を欠き、プライバシーなどの侵害とはならない」と判断した。
原告の少年は最高裁に上告していたが、二○○○年一二月六日、上告を取り下げた。
産経を除く主要新聞各社は高裁判決を批判して少年の匿名報道の大切さを訴えた。ここで検討すべきは、二十歳を過ぎた私人による私的な犯罪事実について、官憲による逮捕に連動して実名報道している実名報道主義の見直しである。逮捕されたら実名にするという安易な報道基準ではなく、「表現の自由」が、報道される側の名誉・プライバシー権を上回るケースでは顕名報道するという北欧型の匿名報道主義を導入することだ。
朝日、毎日、読売の社説は、報道が社会的制裁機能をもつべきではないと、判決を批判している。しかし、各社は「一九歳は匿名で二〇歳は実名」の基準をもっている。殺人を犯した一九歳の人が匿名で、お賽銭を盗んだ二〇歳の人が実名で報道されれば、誰だっておかしいと思う。朝日の社説などでは、この矛盾を説明できていない。
犯罪報道では大人も子どもも私人の場合匿名が望ましい。子どもに公人はほとんどいない。事件の公益性と、事件を起こした人の公益性は違う。大人と子どもとの整合性をどうするか。やはり、改めて匿名報道主義を高らかに提唱していきたい。
▽実態のない「少年犯罪の急増」
犯罪白書など各種の統計や大阪弁護士会の調査によると、少年犯罪は「急増」も「凶悪化」もしていない。戦後三回急増したが、九〇年代後半の一時的増加は、そう顕著ではない。凶悪化しているとか、動機なき不可解な殺人が増えているというのもデマである。戦後すぐから、理解不能な事件はあった。
警察は少年犯罪摘発に力を入れているし、単なる引ったくり事件に強盗罪を適用するのにも熱心だ。「科学」(岩波書店)二○○○年六月号の長谷川寿一・長谷川真理子論文「戦後日本の殺人動向」は、日本ほど若者の犯罪が少ない国はないこと、日本だけ母親による嬰児殺しが極端に多いことや、十代後半から二十代前半の殺人が激減していることを指摘している。少年の殺人率は低下し続けている。
ところが、メディアがつくりあげた「世論」を背景に、与党提案(政府案ではない)の「改正少年法」が一一月二八日成立した。加藤紘一氏らの森首相不信任騒動の渦中でも、野中自民党幹事長は「少年犯罪に対応するための少年法改正案が成立しなくなってもいいのか」と何度も強調していた。本当に少年犯罪が今、日本で最も重要な議題なのだろうか。無実の人に自白を強要したり、盗聴をするなど無実の市民を苦しめてきた警察・検察にさらに権限を与えようとしている。官僚、政治家、大企業の大人たちの「犯罪」「反市民的行為」こそが最大の問題ではないか。説明責任を果たさず、情報を封鎖する公人の犯罪にこそ厳罰が必要ではないか。
衆議院は「改正少年法」を可決した際、「悪質重大な少年事件で社会的に正当な関心事であるものにつき、少年法六一条に例外規定を設けることについて、司法判断などの動向も踏まえ、検討を行うこと」と付帯決議している。
▽被害者を晒し者にするメディア
少年の実名掲載を容認した二月二九日の大阪高裁判決で、少年も実名にせよという世論が強まったように思える。
山口県光市で九九年四月に起きた母子殺害事件で、殺人罪などに問われた少年(当時一八歳)に対し、山口地裁は三月二二日「矯正の余地がある」として無期懲役(求刑・死刑)の判決を言い渡したが、マスメディアは被害者の夫である会社員(二三歳)を全面に押し出して、「加害者の権利ばかりが擁護されている」というデマ宣伝を展開している。
この夫は判決後の会見で、「司法に絶望した。早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺す」と述べた。彼はその後もメディアで、「裁判で罰せないなら(死刑にしなければという意味だろう)自分が殺す」と予告し、二○○○年一一月に発行された『日本の論点』(文藝春秋)でも、同じような主張を展開している。
愛する妻と生後十一カ月の長女を突然惨殺された彼の気持は痛いほどよく分かるが、誰にも人を殺す権利はないはずだ。これは殺人予告の疑いが濃厚であり、近代法で禁止された仇討ち思想を肯定しており、公共の媒体で無批判にそのまま伝達していいのだろうかと疑問に思う。
夫は判決当日夜のテレビ朝日系「ニュースステーション」にも生出演して、妻に対する犯罪内容の詳細も明らかにしたうえで、加害者が死刑になるまで闘うと決意を語った。妻子の写真を何度も画面に出して、「刑事裁判になった段階で、被告人も被害者も実名報道すべきだ」などと強調した。彼は次のようなこともを言っていた。「被害者は何の相談もなく実名報道されているのに、犯人の少年は人権擁護ということで守られる」「少年法があるから匿名報道するというのは、思考停止だ」。
最近の犯罪報道で、被疑者や被告人が被害者や社会に対して、謝罪の言葉を発しているかどうかを報じていることが多い。加害者が自らの犯した罪を真摯に反省し、被害者に心からのを謝罪を行うのは、いくら強調してもいいことだ。国家が犯罪被害者に対して、精神的、経済的ケアを行うような法整備を行うべきだ。この点でも外国から学ぶべきことは多い。
しかし、被害者が置き去りにされているからといって、メディアが「まだ謝っていない」とか「謝罪の言葉がない」というのは不適切ではないか。とくに捜査段階では、被疑者が犯人でない可能性がある。真犯人であったとしても、法廷やメディアに対しての謝罪では意味がない。神奈川県警・新潟県警や薬害エイズのミドリ十字の幹部たちの「土下座」謝罪のようなものでは意味がない。自分が犯した罪によって、被害者の尊厳を傷つけ、相手がどんなに苦しんだかを自覚したうえで、被害者の心に届くような謝罪でなければ意味がないと私は思う。
メディアの実名主義者は「被害者の視点に立った取材・報道」というが、犯罪は千差万別で、被害状況も一律ではない。被害者感情もそれぞれ異なっている。記者や研究者が自分勝手に被害者のイメージをつくりあげて、「被害者の視点」に立ってもらっても困る。ジャーナリストは、市民の知る権利を代行する職業人として、事実を報じることが仕事ではないか。
日本では被害者の人権も、被疑者の人権も共に十分守られていない。被害者の人権を持ち出す新潮社や文藝春秋は、東京渋谷の会社管理職殺人事件、新潟の少女監禁事件などで被害者の女性のプライバシーを暴く報道を展開するなど、社会的弱者への人権侵害記事を載せる常習犯である。
また、少年は凶悪事件を起こしてもメディアに名前が出ないから簡単に犯罪を犯す、という言い方もされる。しかし、逮捕されると名前が出ると決まっている成人の犯罪が絶えない。実名報道にそもそも犯罪抑止効果があるかどうかは科学的に証明されていない。殺人などの凶悪事件を起こす前に、「ここで人を殺すと新聞に実名が出る」とか「二人以上殺すと死刑になる」とか考えるだろうか。
殺人や強かん事件などの悲惨な事件は、事前に事件が起きないように社会全体で努力をするしかない。起きてしまったら、被害者の人権回復は非常に難しい。現在の加害者を晒し者にして、社会的に葬り去るような実名報道主義の犯罪報道は、本当に犯罪を防ぐために役立っているのだろうか。
むしろ、加害者の匿名性を徹底的に守って、なぜそのような悲しい残酷な事件が起きてしまったかを、加害者本人、被害者・家族、専門家らが力を合わせて考えていくことが重要ではないか。加害者も人間であり、更生の可能性がある。加害者と被害者が同じ人間として向かい合うことができる道を模索するのが記者たちの仕事だと思う。外国ではそうした実践が行われている。
名前や顔写真が出ることで、事件の内容がわかったと思うことは単純すぎる。事件の社会的背景を探るには、北欧型の匿名報道主義がいま考えられる最善の方法だと思う。
▽日弁連までが法規制を容認
日本弁護士連合会は九九年一○月の人権大会で、報道界に対して、匿名報道原則の採用とメディア責任制度の設置を提言した。日弁連は八七年にも同じような決議を行っている。この大会での公開シンポジウムでは、松本サリン事件被害者の河野義行氏が基調講演し、平川宗信名古屋大学教授、田島泰彦上智大学教授、原寿雄元共同通信編集主幹、池口和雄毎日放送報道局専任局長、野村務弁護士が討論した。
しかし、その日弁連は二○○○年一○月五、六日の人権擁護大会で、マスメディアによる名誉・プライバシー侵害も対象にした公的な人権機関を設置するよう提言した。メディアに対する法的規制に反対してきた日弁連までが、法規制に言及するほどメディア状況は悪化しているのだ。
一○月五日に開かれたシンポジウム「一人で悩んでいませんか?ー21世紀を開くために 『独立した人権機関』を創ろう」では、人権機関がマスコミをも調査対象とすべきであるという執行部の試案に対して「表現の自由を侵す危険なものである」という議論が梓澤和幸弁護士らからなされた。
「政府から独立した調査権限のある人権機関の設置を求める宣言」案に関しては、「報道の自由など重大な問題については、その分野の先議を尊重するかどうかも含めて慎重に検討する」などの修正がなされたが、内容的にはほとんど変わっていない。
日弁連がメディアに対する公権力の介入を容認するかのような動きを見せたのは、前年の大会宣言を新聞協会などが黙殺してきたからだ。
九九年の大会でのシンポジウムの会場を交えての討論で、会場から二人の現役記者が発言した。その一人が、東京新聞の飯室勝彦編集委員である。飯室氏は会場からこう発言している。「こういう情報は知らせる必要のない情報であるとか、知らせる価値のない情報であるという記述、あるいは言葉が盛んに出てくる。平川先生は、報道の自由というものは民主的な自治を担うために必要な情報を伝える自由なんだということを言われたが、それのみに頼ることは、かえって報道が官報になりはしないか。そのときの声の大きいものが選んだものが知らせる価値のある情報ということにもなりかねない。我々は、報道というのは、民主的な自治を担うための情報というのは優先的に伝えていかなければいけないが、その前に、私どもは、報道というものは、事実を伝えることが我々の使命であると思っている。その意味で、犯人あるいは容疑者という問題もそうだと思っている。犯人視報道をしている人もいるとは思うがも、基本は、むしろそのことではなくて、誰がこの事件を起こしたのかということが事実であるからという形で報道するという姿勢をとっている」。(発言ママ、以下同)
続いて、TBS報道幹部が上田豊樹氏は次のように述べた。「一般的に、事実の報道ということで言えば、匿名が増えるというのは事実が薄まるものである。一つ事実が抜け、二つ事実が抜けということで、報道というものが非常に水っぽくなっていくという恐怖を私は個人的にいつも持っている。考えるべきは実名報道ということ、これはもちろん考えるが、順番にこだわると、正確さと公平だ。河野さんの、非常に我々のしでかしたよくないケースをちょっと振り返ってみても、あれは匿名だったから、実名だったからというよりも、正確さという原則に照らしてどうだったか。そこで非常に大きな過ちがいくつも続いた。あの報道自体、あの取材に基づいた報道自体に正確さの原則に照らしてどういうことが言えたのかというところが非常に大きな教訓として残ったんだというふうに私は思っている」。
これに対して、甲山事件で無罪が確定した山田悦子さんと大分・みどり荘事件で犯人にでっちあげられた沓掛良一さんらが「逮捕時に実名報道されると、家族もろとも社会的に抹殺される」「匿名報道してほしいというのは、我々のささやかな要求だ」などと訴えた。
河野さんは最後に、「それぞれの立場で皆さん言っていただいたわけだがも、私が感じることは、例えば、知る権利に対して、命とどっちが大切ですかとこういうことを考える。人間の命の大切さを上回る知る権利というのはあり得るのか」と述べた。
飯室、上田両氏は、結局、被疑者・被告人を犯人と決めつけて、「事実を伝える」とか「正確、公平」などと論じている。「犯人あるいは容疑者」を「誰が事件を起こしたか」という意味で重要な事実だというところに大きな問題がある。
上田氏は「匿名報道」であっても報道被害が起こるというが、河野氏はTBSなどにより自宅の周辺を何度も放送されている。塀に上ってカメラを回した報道陣が多数いた。新聞は自宅周辺の地図を載せた。だから、河野氏に関する報道は匿名報道では全くなかった。
日本のマスコミは巨大企業になった。メディアが強く大きいことは、対権力の関係ではいいことだが、市民に対する誤報・虚報、名誉・プライバシー侵害報道の傷口も途方もなく大きくなるのだ。後で訂正、修正してもらっても一度受けた傷はほとんどの場合修復できない。情報の送り手と受け手は「ライオンとウサギ」以上に力の格差がある。
日本のジャーナリズムに欠けているのは、人間としての最低の倫理性だと思う。きれいごとを言いながら結局は、自らが権力を濫用する。権力を持つとだれもそういう危険性があるが、そうならないように自覚して努力すべきであろう。
新聞やテレビに被疑者や被害者として「実名」が出るということは、その人の生死を左右する場合さえあるのだ。犯罪報道による加害を防ぐには、個人の名前の扱いを慎重にすることだ。「匿名」というと何か暗い卑怯なイメージがあるようだが、近代市民社会成立の歴史は人民が王や国家から匿名でいる権利を獲得してきたともいえる。権力者にはいつも「実名」で情報を開示してもらう。スウェーデンでは一七六六年に「印刷出版の自由」「公文書へのアクセスの自由」「匿名の自由」を三本柱とする憲法を制定した。市民は匿名であることで、自由に意見を述べるようにしたのだ。「誰が」よりも「どういう意見」「どんな情報」なのかを大切と考える。(了)
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.12