2001年1月25日
「女房役」は味のある表現?
上智大学教授の田島泰彦委員の言語感覚
毎日新聞に2回目の質問毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一六日に「『開かれた新聞』委員会」からを掲載してるが、その報告の中で、「首相の女房役の官房長官」との表現についての苦情に対して、上智大学教授の田島泰彦委員は「時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ」などと指摘している。毎日新聞社は、田島委員の見解についてどう考えるのかなどを質問した。
2001年1月12日
同志社大学文学部社会学科新聞学専攻教授 浅野健一毎日新聞東京本社社長 斎藤明様
毎日新聞「開かれた新聞」委員会・平沢忠明事務局長
毎日新聞「『開かれた新聞』委員会」委員
中坊公平様
吉永春子様
柳田邦男様
玉木明様
田島泰彦様
前略
昨年12月15日に質問書を送らせたいただいた同志社大学文学部社会学科の浅野健一です。
私はファクスと電子メールで、下記のような私の疑問と見解(資料2)を伝え、斎藤明社長と各委員に本年1月10日までに回答を求めました。
12月27日付の郵便で、平沢忠明事務局長から次のような手紙が届きました。
《読者と毎日新聞との間に立った委員に「第三者」の視点から毎日新聞の報道をチェックしていただくシステムとして、弊社が創設しました「開かれた新聞」委員会につきましては、様々な方からご意見をいただいております。
弊社は、そうしたご意見を参考にしながら、この委員会を充実させていきたいと考えております。》
毎日新聞社と各委員の方々は、これを回答としているのでしょうか。私はこれは回答ではないと考えます。
恐れ入りますが、1月17日までにこの件についてお答えください。また追加で質問があります。
A 毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一六日に「『開かれた新聞』委員会」からを掲載していますが、その報告の中で、「首相の女房役の官房長官」との表現についての苦情に対して、上智大学教授の田島泰彦委員は「時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ」などと指摘しています。毎日新聞社は、田島委員の見解についてどう考えるのでしょうか。B 人名基準で言う「過度の制裁」とは何を指すのでしょうか。制裁が「過度」かどうかは誰がどのような方法、基準で判断するのでしょうか。毎日新聞は報道による「制裁」を肯定するのですか。以上の二つのことに関する私の見解をご参考までに送ります。
C 朝日新聞が設置した「報道と人権委員会」について、朝日新聞は一月三日付の紙面で、「人権問題に絞った本格的な社外組織を持つのは国内新聞社では初めて」とうたっています。これは毎日新聞の貴委員会が、人権問題に絞った本格的な社外組織ではないという評価と思われますが、これについてどうお考えでしょうか。
以上三点については1月20日までにご回答ください。なお、この三点に関する私の見解をお送りします。参考にしてください。
草々浅野健一
(資料1)
1「女房役」は味のある表現か
毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一六日にも「『開かれた新聞』委員会」を掲載した。同年一一月度に寄せられた読者からの苦情と本社の対応に関する委員会の意見のうち、「旧石器発掘ねつ造」以外の四つのテーマについて報告している。
そのうちの一つが一○月二一日朝刊政治面にあった「首相の女房役の官房長官」との表現について、「政治家のポジションを言うのに『女房役』は不適切で、違和感を覚える」と女性読者からの投書が東京本社にあった。
この意見について「社内組織・紙面審査委員会の「紙面審査週報」で社内議論の材料とするとともに、こうした対応を女性に回答した」という。
テレビプロデューサーの吉永春子委員は「指摘通り『女房役』という言葉を軽々しく使うべきではないだろう」とコメントしている。ところが、上智大学教授の田島泰彦委員は「『女房役』が『古い男女関係の観念』とか『男性優位の見方』を示すとは必ずしも考えない。時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ。言葉には敏感であるべきだし差別的な表現は吟味すべきだが、抗議を受けて直ちに『女房役』という言葉を紙面から消す前に、社内外の議論でどうするか模索すべきだ。言葉を抹殺するのは最後の手段だ」と指摘している。
不思議なことに大阪本社版では「時に立場や役割のニュアンスを伝える味のある表現だ。」という一文が削除されている。
田島教授は、六○年代から米国の女性たちが中心になって、性差別を助長するような表現をやめようという運動を起こした結果、性による区別をしない言葉(non−sexist language)が考案され、日本でも女性差別をなくすための努力が積み重ねられてきたたことを知らないのだろうか。「処女作」「女史」「婦人」 その代わりに、「第一作」「さん(氏)」「女性」に使うなどの工夫がなされている。詳しくは拙著『客観報道』(筑摩書房)第四章を参照してほしい。
マスメディアにおける性差別表現には@女性を性的対象・モノとして見て商品化するA男性が標準で女性は特別・下位という視点B女性への固定観念・「女らしさ」の押し付けC性別役割分業を前提とし、それを固定化するーなどのパターンがある。「女房役」という表現はCに当たり、「補佐役」などに言い換えるべきである。
そもそも「女房」という言葉をマスメディアは使うべきではない。「内助の功」とか「奥様」も不適切だ。私が共同通信の記者やデスクをしていた時から、「女房役」という言葉は使わなくなっていた。
田島教授が個人の趣味で、女房という言葉を使うのは自由だ。自分の論文や日記には書けばいい。だれもそういう言葉を抹殺せよとか消せとは言っていない。まして毎日新聞は「社内議論の材料とする」とのんびりしたことを言っているわけで、なぜ言葉狩りのような話に発展するのか全く理解できない。
2 被害者実名も不変の毎日新聞の人名報道基準
毎日新聞(東京本社)は二○○○年一二月一九日には、新聞製作にあたる際の報道基準の主要部分である「事件・事故報道における人名表記」を公開した。
「追跡 メディア」というタイトルの記事は、こううたっている。《事実を正確に伝えて国民の「知る権利」に寄与し、民主主義を維持する報道機関の使命から、あくまで実名を原則とし、未成年者、精神障害者、性的暴行の被害者などのケースはそれぞれの理由から例外的に匿名扱いを定めている》。
囲み記事で載った「人名表記」は「人名報道にあたっては、実名を原則とする」と明記、「容疑者・被告」については、「実名を原則とする。特に、政治家・高級官僚・法曹・捜査関係者ら公的立場にある人物が、その職務に関する容疑で捜査対象になった場合は、実名扱いとする。微罪事件について報道する必要があり、実名を掲載すると過度の制裁になる場合は、匿名も選択できる」と書いている。その他の事例として未成年者と精神障害者を挙げている。未成年については従来通り匿名を原則にしている。
精神障害者に関しては、《捜査段階あるいは公判で、容疑者・被告が心身喪失により「刑事責任能力」が全くないと判断されたとき(不起訴処分、無罪判決の場合)、または、そう判断されることが確実なときは、本人を特定する名前、住所などは記載しない。判断に際しては、精神鑑定の結果など科学的・客観的データや、捜査内容等の取材結果を総合的に検討して結論を出す。精神科への入・通院歴がある、または現在も入・通院中である場合でも、それだけで匿名の理由とはせず、あくまでも刑事責任能力の有無を基準とする。》と決めている。
次に犯罪の被害者についても、性的暴行の被害者、二次被害の危険のある場合を除いて実名原則にしている。
今回の報道基準は、精神医療ユーザーの匿名基準を「より明確にした」のが唯一の変化で、被疑者・被告人も「あくまで」実名原則を貫いた。私は『犯罪報道の犯罪』を出版した際、毎日新聞が北欧型の匿名報道主義を採用することを期待していた。毎日新聞は八九年に被疑者の呼び捨てを廃止した際、無罪推定の法理を根拠としていたことも評価していたが、今回の基準には何の新味もない。
犯罪被害者の実名原則ぐらいは見直すと思ったが、被害者も実名だ。「被害者の人権やプライバシーに配慮して事件報道に当たる」というが、被害者側に匿名を希望するかどうかも聞かずに、実名が原則だと言い切っていては、人権を尊重した取材・報道は望めない。
この基準で最大の問題は、「微罪事件について報道する必要があり、実名を掲載すると過度の制裁になる場合は、匿名も選択できる」と書いたことだ。朝日新聞もかつて同じような表記があったが、二○○○年三月の新基準には入っていない。毎日新聞は「適度な(社会的)制裁」は容認するようだが、「過度」か「過度でない」かをどういう基準で決定するのだろうか。読売新聞は容疑者呼び捨て廃止を決めた際、新聞報道による社会的制裁機能を否定した。毎日新聞は憲法三一条(法定の手続きの保障)で禁止されている私刑を肯定するであろうか。
国民の「知る権利」に寄与し、民主主義を維持する報道機関の使命から、あくまで実名を原則と言うのだが、なぜ被疑者・被害者の実名掲載が必要なのかが論証されていない。被疑者・被告人が犯人でなかった場合には、その犯罪について正確に伝えたことにはならない。新聞が全体として実名報道を原則にするのは当然だが、事件・事故にかかわる報道では、実名報道は深刻な報道被害をもたらすという現実がある。捜査当局に嫌疑をかけられているという事実を報道されると、自殺に追い込まれたり、家族も含めて生活が破壊されるのが実態だ。捜査当局に疑われた市民の姓名が、市民の「知る権利」の対象かどうかを吟味すべきである。報道される市民のいのちを奪うかもしれないというリスクをおかしても、伝えるべき事実かどうかを考えて決めるべきであり、「あくまで実名が原則」という基準では、深刻な報道被害は防止できない。
「特に」以降に書かれている公人を顕名(私は匿名報道主義下で姓名を報じる場合は、顕名報道と呼んでいる)にすればいい。毎日は次のような基準を採用すればよかったのである。
「匿名を原則とする。ただし、政治家・高級官僚・法曹・捜査関係者ら公的立場にある人物が、その職務に関する容疑で捜査対象になった場合など、その姓名が市民全体の権利と関心に深くかかわることが明白なときは、原則として顕名とする。公的立場にない一般市民の事件について実名を掲載すると取り返しのつかない被害がおよび、法律にもとづかない制裁になるからである」
毎日新聞が力を入れた精神医療ユーザーの報道基準も問題がある。一九九九年七月二三日、東京・羽田発新千歳空港行の全日空機が男性にハイジャックされ、機長が刺殺された事件で、逮捕された男性の姓名の扱いの混乱などをあげて、精神科への入・通院歴がある、または現在も入・通院中であるというだけで、匿名の理由としてきたことは間違っている。あくまでも刑事責任能力の有無を基準とする捜査段階あるいは公判で、容疑者・被告が心身喪失により「刑事責任能力」が全くないと判断されたときは匿名とするいうのもいいだろう。しかし、「そう判断されることが確実なとき」とうのは、極めてあいまいだ。また、「判断に際しては、精神鑑定の結果など科学的・客観的データや、捜査内容等の取材結果を総合的に検討して結論を出す」という作業を毎日新聞のだれがどういう手続で行うのだろうかと疑問に思う。捜査当局や裁判所でも長い時間をかけて判断するのに、精神医療の専門知識も薄い記者やデスクが「総合的に判断」できるとは思えない。
メディア各社は、被疑者本人の社会復帰と家族の人権保護を、「精神障害者の匿名報道」の根拠としている。朝日新聞社の新・報道基準(二○○○年三月)は、精神障害者の匿名報道の根拠として@刑法三九条に「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」とあり、刑事責任不能力とされているA社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるB本人が社会復帰した場合への配慮のためーーの三点を挙げている。ここで不思議なことは、@の理由はともかく、非精神「障害」者の場合もAとBは適用されるべきではないかということだ。警察に逮捕されているという事実が報道されれば、社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるし、本人の社会復帰の妨げにもなる。拘束されている被疑者の氏名、写真は基本的には不要なのだ。問題は少年と精神「障害」者しか匿名にならないところにある。
朝日や毎日の「新基準」では、まず実名が掲載されて心神喪失であることが報道されるケースが増えるだろう。精神医療ユーザーの匿名報道基準の根拠の問題はあるにしても、匿名で報道されてきた精神医療ユーザーの多くが実名報道されたうえに、精神疾患と関連づけられることになる。これは改悪である。
精神障害と事件報道の混乱を解決するには、犯罪報道の匿名主義を導入するしかない。匿名原則として、刑事責任能力に関して必要に応じてそれを取材し報道すればいいのだ。「あくまで実名が原則」という因習に捕らわれているから、いびつな基準になるのだ。
新年の二○○一年一月三日の毎日新聞には、青木彰筑波大学名誉教授ら「識者」たちが「開かれた新聞」委員会を持ち上げるコメントを掲載している。桂敬一東京情報大学教授は「ゆくゆくは」活字メディア全体の報道倫理を扱う機関を設けてほしい、と書いている。自民党議員だけが「新聞界として取り組んでほしい」と正論を述べている。
(資料2 2000年12月15日付の質問書)
毎日新聞「『開かれた新聞』委員会」委員
中坊公平様
吉永春子様
柳田邦男様
玉木明様
田島泰彦様
毎日新聞東京本社社長 斎藤明様
毎日新聞「開かれた新聞」委員会・平沢忠明事務局長
拝啓
師走のあわただしい季節となりました。貴職におかれましてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
突然のファクスで失礼します。
私は同志社大学文学部社会学科で新聞学を教えております。1972年から22年間、共同通信記者を務め、社会部、外信部、ジャカルタ支局に勤務しました。94年4月から同志社で教鞭をとっています。 1999年3月から10月まで、厚生省の公衆衛生審議会臓器移植専門委員会の委員(メディア論)を務め、医療の透明性の確保と患者のプライバシー保護について意見を表明しました。専門は「表現の自由と名誉・プライバシー」で、特に人権と犯罪報道に関心を持っており、刑事事件報道において「報道の自由」と「被疑者・被告人の公正な裁判を受ける権利」などの人権をどう調整・両立させるべきかなどについて研究・教育しています。
毎日新聞社は先に、「『開かれた新聞』委員会」の設置を発表し、五人の委員の姓名も公表されました。 社告の中で次のように書かれています。
《読者に開かれた新聞作りを目指す本社の基本姿勢をさらに具体化する一歩になると考えたからです。本社は報道による名誉・プライバシーなどに関する人権侵害だとして当事者から寄せられた苦情、意見の内容と本社側の対応を、委員に開示します。委員は必要なケースについて意見を述べ、報道を検証します。読者と毎日新聞の間に立った委員が「第三者」の視点から毎日新聞の報道をチェックするシステムで、毎日新聞の「オンブズマン」といえます。さらに、報道をめぐるさまざまな課題についても委員から参考意見をいただき、新聞報道に生かしていきます。》
発足から二カ月たちましたが、毎日新聞社が、この委員会を毎日新聞の「オンブズマン」と自称していることについて、各委員のみなさま、そして毎日新聞社の責任者の方が、どう考えておられるかや、なぜいまだに当事者からの苦情申し立てが一つもないのかなどについて、関係者のみなさんの見解をお聞きしたく、ファクスを送らせていただきます。
質問1
五人の委員のみなさんは、ご自分が「毎日新聞のオンブズマン」だと呼ばれていることに同意されていますか。
「報道された側」から一件の苦情も届かない制度がオンブズマンとは言えないと私は思います。読者・市民はこの委員会が「報道によって傷ついた市民をオンブズ(スウェーデン語で代理するという意味)する」オンブズマン制度とはほど遠く、毎日新聞社のための機関であることを見抜いているからこそ、報道被害者から電話の一本もかからないのはないでしょうか。毎日新聞の二カ月間にわたる膨大な量の報道に放送に、一件の名誉・プライバシー侵害の取材や記事はないとは考えにくいのです。
質問2 メディア界(活字媒体)全体のメディア責任制度との関係について、どうお考えですか。
毎日新聞は、報道評議会の設立は当面無理だから、この委員会をつくったと説明しています。この委員会はないより、あったほうがいいのは当然のことで、その努力には敬意を表したいと考えます。しかし、この制度が、報道評議会・プレスオンブズマンの替わりには絶対になりえないと思います。毎日新聞労働組合などとの社内議論も不十分で、このままでは、かえって報道評議会の設立を妨害する結果になる懸念さえあると思われます。一部のジャーナリスト、学者や法律家の間でも、報道評議会は日本になじまないとか現実的には無理などの主張がされてきました。
政府・与党が活字媒体の業界にも自主規制機関をつくるように提言し、もし十分なシステムができなければ法的規制もやむを得ないという方針を公言している中で、業界全体でメディア責任制度をつくるのは「非現実的」とか「今は無理」などとのんきなことを言っている場合では絶対にないと思います。
質問3 委員会の設置と運営に、毎日新聞労組がほとんど関与していないことについてどうお考えですか。
毎日新聞労組は一九八○年代後半から、新聞労連とともに犯罪報道や記者クラブ改革に取り組む一方、日本にも報道評議会を設置するための運動を展開してきました。その蓄積を生かすべきではないでしょうか。
この委員会の二カ月を経験されたみなさんが、以上の私の意見についてどう考えておられるかを、どうか2001年1月10日までにお答えください。
私の以下の見解をお読みいただいたうえで、ご回答いただければ幸いです。
敬具浅野健一
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.26