2001年1月9日
寺沢有氏の「記者クラブ裁判」で意見書
浅野健一
盗聴法反対運動などを活発に行っているフリー・ジャーナリストの寺沢有氏が一九九九年九月一七日に起した国家賠償法一条に基づく損害賠償請求事件を注目して見てきたが、私は二○○○年一二月一一日、
東京高等裁判所第一四民事部に意見書を提出した。
寺沢氏は、私も所属する「アジア記者クラブ」の仲間であり、日本の警察や司法制度について最も詳しく取材・報道しているフリー・ジャーナリストだ。松山地裁が警察官の違法行為に関する刑事事件で、地裁の「司法記者クラブ」のメンバーではないというだけの理由で、判決要旨の交付を受けることができなかったことについて、国を訴えている事件だ。記者クラブ解体のために、寺沢氏の裁判勝利を心から願っている。
以下は意見書全文である。
東京高等裁判所第一四民事部 御中平成一二年(ネ)第五二七九号 損害賠償請求控訴事件
意見書
平成一二年一二月一一日
同志社大学文学部社会学科教授
浅野健一東京高等裁判所第一四民事部 御中
はじめに
私は同志社大学文学部社会学科と同大学大学院文学研究科博士課程で新聞学を教えている。一九七二年から二二年間、共同通信記者を務め、社会部、外信部、ジャカルタ支局に勤務した。入社二年後の七四年に冤罪事件(九一年東京高裁で無罪が確定した小野悦男さん)に出会って、人権と犯罪報道の問題に積極的にかかわるようになった。九四年四月から同志社に移った。九九年三月から一〇月まで、厚生省の公衆衛生審議会臓器移植専門委員会の委員(メディア論)を務め、医療の透明性の確保と患者のプライバシー保護について意見を表明した。専門は「表現の自由と名誉・プライバシー」で、特に人権と報道に関心を持っており、報道において「取材・報道の自由」と「取材・報道される側の権利」などの人権をどう調整・両立させるべきかなどについて研究・教育している。
私の経歴などは末尾を見ていただきたい。・ 本件裁判の特徴と記者クラブ制度
1 なぜ本件に関心を持ったか
「私たちワシントン・ポストの特派員は、日本の記者クラブには加盟しない。クラブに加盟すると当局を批判できなくなるからだ。新聞は政府の敵として存在しなければならないから、官庁が用意するクラブを利用できない」。これはワシントン・ポストのトーマス・リード東京支局長が九四年四月にテレビ朝日のインタビューに答えて発言したものだ。
日本で取材している外国の報道機関の記者たちは、日本のマスメディアが抱える最大の問題は「記者クラブ」だと口を揃える。記者クラブが解体されれば、もっとまともなジャーナリズムがこの国にも誕生するだろうともアドバイスする。
私も同感である。
私が尊敬するフリー・ジャーナリストである寺沢有氏が一九九九年九月一七日に起した国家賠償法一条に基づく損害賠償請求事件を注目して見てきた。寺沢氏は、私も所属する「アジア記者クラブ」の仲間であり、日本の警察や司法制度について最も詳しく取材・報道しているフリー・ジャーナリストだ。私は彼の書く記事をいつも読んでいる。東京地裁が本年一○月五日に言い渡した請求棄却判決のニュースを聞いて怒りを感じた。なぜなら、松山地裁が警察官の違法行為に関する刑事事件で、地裁の「司法記者クラブ」のメンバーではないというだけの理由で、判決要旨の交付を受けることができなかったことについて、寺沢氏が一審で敗訴したからだ。
東京地裁は、日本における「記者クラブ」の実態を厳しく吟味することなく、記者クラブを管理している日本新聞協会の建前的説明を鵜呑みにして、「我が国の報道分野において一定の役割を果たしている」などと評価したうえで判断していたからだ。 東京地裁は「記者クラブ」の実態が、国際的に見ても前世紀の遺物としか思えぬ非民主的、反市民的システムであることを完全に見落としているとしか思えない。
そこで、私は控訴審において貴裁判所が、記者クラブの歴史と現在の活動内容を詳しく検討したうえで、判決を言い渡すよう強く要望し、メディア研究者として、本事件に関する見解を明らかにしたいと考える。2 原判決はどうだったか
原判決は記者クラブをこう規定している。
「公的機関などを取材対象とする報道機関に所属し、その編集責任者の承諾を得て派遣された記者によって構成される組織であり、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする取材拠点として、機能的な取材、報道活動を可能にし、国民にニュースを的確迅速に伝えることを目的とするものであって、これまで我が国の報道の分野で一定の役割を果たしてきた〈公知の事実)」。
次に、原判決は争点1に関し、報道のための取材の自由は、「報道機関の取材行為に国家機関が介入することからの自由を意味する」と解釈している。また裁判は公開され傍聴が認められ、「原告は現に本件事件の判決公判を傍聴しているのである」「判決要旨自体は、判決の内容の理解を容易にするという補助的な役割を果たすものにすぎない」と書いている。
広報事務を担当する松山地裁の総務課長が原告に対していったん、判決要旨を渡すと約束したが、その後、上司と相談した結果、やはり司法記者クラブ加盟の記者以外には交付できないと伝え、判決要旨を交付しなかった点について次のように述べた。「本件発言はすぐに撤回されたことを考えると、取材活動上、原告は結局判決理由要旨の交付を受けられなかったということ以上の不利益を被ったとは認められない。本件発言は好意からなされたもので、本件発言とその撤回は、原告の取材活動を混乱させるとか、妨害するという意図でなされたものではない」。
争点2においては、憲法一四条一項の規定は、「合理的な理由なくして差別することを禁止する趣旨」で、裁判所による判決要旨の交付は、「何らの法的な義務に基づくものではなく、司法行政上の便宜供与として行われているものであるから、そもそも判決要旨を作成して交付するか否かについては裁判所の裁量にゆだねられているというべきである」と述べている。そこで、判決要旨をだれに交付するかの区別が著しく不合理なものでなく、裁量判断の合理的な限界を越えていないと認められるか否かという観点からなされるべきだと述べる。
原判決は、報道機関を「その内容を精査検討する時間の十分ある報道機関」と「迅速な報道を要求される報道機関〈速報性のある報道機関)」とに分けて、「松山地裁の司法記者クラブに判決要旨を交付し、それ以外の報道機関には特に交付しないという取り扱いをすることが不合理なもので、裁量判断の合理的な限界を越えているとは言い難い」と認定した。
最後に、本件発言により、「原告の法的地位ないし法的な状態が変化するというものではない(本件発言により、原告に対し、司法記者クラブ加盟の記者と同様の法的利益が保障されたことになるなどとはいえない。)」と述べて、「憲法一四条一項の平等原則に違反し、違法であるとの原告の主張も理由がない」と断じた。
原判決は結論として、「原告の本件請求には理由がないからこれを棄却する」とした。
3 原判決を批判する
原判決は原告が受けた差別的扱いと精神的苦痛などについて全く理解していない。裁判の冷酷さ、非人間性を強く感じる。
原判決の記者クラブの定義は、日本新聞協会が九七年一二月、記者クラブを、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」とした見解の丸写しである。新聞協会は四九年以来長く、記者クラブを取材機関であることを頑強に否定して、記者同士の親睦団体であると説明してきたが、内外の記者クラブ批判にこたえて解釈を大幅に変更したもので、市民の間で定着していない。そもそも記者クラブがどういうものか、外国のプレスセンターなどとどう違うかなどは、市民の間でほとんど知られていない。
後で詳しく述べるように、日本の記者クラブは、その排他性、独占性が常に問題にされてきた。「日本の報道の分野で一定の役割を果たしてきた」ということが、公知の事実とはとても言えない。むしろ、国民の知る権利を阻害し、記者を堕落させてきたという負の側面を強く持っているのである。
主要メディアは記者クラブの実態と問題点について市民に伝えない。マスコミ企業ほど情報開示を拒む企業はない。報道の基準さえ開示しない。社内で社員に配付する文書は、ほとんどが「社外秘」である。社員が社外で行う言論活動も厳しく制限されている。マスコミの問題を取り上げるマスコミはほとんどない。
原判決は、原告が判決要旨の交付をめぐって差別された理由を、記者クラブ加盟の社の記者ではないからだと、さらっと言明している。原判決を言い渡した裁判官たちは、ジャーナリストという職業について理解していない。記者はどのような報道機関に属していようが、また全くメディア企業に属さない記者であろうが、記者は記者である。報道企業の社員である前に、一人のジャーナリストである。医師とか看護婦、薬剤師という職業がそうであるように、所属は問題ではない。原判決は、「報道機関」とか「報道」を大新聞とか放送局ととらえているようだが、「取材・報道の自由」はそうした大マスコミ企業にだけ与えられているものでは絶対にない。
取材・報道の自由は、国民の知る権利を代行して行うものであり、すべてのジャーナリストの権利である。報道メディアを「速報性のある報道機関」とそうでないものに分けるなどは、ジャーナリズムの役割と現状についてあまりにも無知だと思う。そういう論理で行けば、締め切り時間のない通信社だけに要旨を渡せばいいということになる。クラブ加盟の新聞社には週刊誌や月刊誌のセクションもある。放送局にも企画特集番組もある。
裁判は公開で傍聴が認められ、「原告は現に本件事件の判決公判を傍聴しているのである」「判決要旨自体は、判決の内容の理解を容易にするという補助的な役割を果たすものにすぎない」と書いているが、原告が傍聴できなかったときは、どうなるのか。記者クラブ所属の記者は、判決公判を傍聴しなくても判決の内容を知ることができる。実際に判決要旨を入手した記者は、判決を聞かずに記事を書くことが多い。原判決がイメージする「迅速な報道を要求される報道機関」には複数の記者がいる。原告のように現地に出張して取材する記者にこそ、要旨の交付は必要なのである。
原判決を読むと、判決要旨自体は補助的な役割を果たすものにすぎないと述べている。判決要旨の交付はあってもなくてもいいように見なされているが、そういう無価値なものに、裁判所の総務課長がなぜかかわるのであろうか。このような「司法行政上の便宜供与」は税金のむだ遣いということになるのではないか。
総務課長の「好意」の有無で要旨の交付が左右されるのは、理解できない。課長が相談した「上司」は、何を根拠に記者クラブ以外への交付を禁じたのかを明らかにすべきだろう。
結局、松山地裁は原告を司法記者クラブのメンバーではないという理由だけで差別した。
原判決は、報道のための取材の自由を「報道機関の取材行為に国家機関が介入することからの自由を意味する」と解釈している。また、憲法一四条一項の規定は、「合理的な理由なくして差別することを禁止する趣旨」と規定している。
松山地裁は、判決公判の取材に駆けつけた記者の取材行為に対し、記者にとって重要な判決要旨を一部記者には渡さないという差別的な扱いを行うことによって、「取材の自由」に介入したのである。原告には要旨を交付しなかったことに、合理的な理由は見いだせないはずだ。
原判決は、記者クラブに所属するメディアに便宜供与を与えれば、国民の知る権利にこたえることになるという思い込みがある。これは記者クラブの現実を知らないからこそ導きだされた結論だろう。
4 犯罪報道の病気
日本のマスメディアはハード面では世界有数のレベルにある。新聞購読率は世界一で、記事も概ね正確だ。放送局もニュース報道に力を入れている。雑誌も元気だ。しかし、犯罪というか刑事事件にかかわる新聞、放送、雑誌の取材と報道は国際的な水準から見ても、最低の部類に入ると思う。
ほとんどのメディア記者たちは、捜査段階で犯人探しをしてしまい、裁判がまだ始まってもいない段階で、「ペンを持ったおまわりさん」になってしまっている。被害者感情に左右されない冷静な裁判報道が必要だが、“少年探偵団ジャーナリズム”が警察発表を鵜呑みにして、被疑者を犯人視して実名報道で、法律に基づかない刑罰を執行している構造が最大の問題だ。
一部の週刊誌、テレビのワイドショーだけが悪いのではなく、大新聞の社会部や放送局の報道局にも問題があるのだ。新聞・通信社の記者たちは、報道倫理や表現の自由についての教育を十分に受けないまま、警察の記者クラブに放り込まれる。記者クラブでやることは、捜査官と親密になって「信頼関係」を築いて、情報を非公式ルートで入手することだ。メディアの幹部は、「記者クラブで権力を監視している」(小川一毎日新聞東京本社社会部副部長)などと主張するが、現場の実態を見れば、記者たちの主たる仕事は警察の監視ではなく、警察から情報をもらうことだということがすぐに分かる。
メディアの社会部系幹部は、被疑者の実名を報道するのは、警察に拘禁されている人が冤罪ではないかとか、当局が適正な捜査をしているかどうかをチェックするためだと主張するが、警察官の自宅に「夜討ち朝駆け」をする記者たちに、そんな視点はほとんどない。むしろ、捜査官と同じ視線で事件を見て一体化している。九八年一○月四日に和歌山毒カレー事件で夫妻が詐欺容疑などで別件逮捕された後、和歌山県県警記者クラブの幹事社の記者が、刑事部長らの会見の冒頭で「長い間の捜査、ご苦労さまでした」と頭を下げたことでも明らかだ。和歌山事件では朝日新聞が別件による強制捜査の開始をスクープして、新聞協会賞を受賞した。和歌山毒カレー事件報道は朝日新聞の「アサヒ芸能」化を象徴している。
記者クラブの記者たちが警察をきちんと監視していれば、神奈川県警や新潟県警などの反市民的な行為を事前にキャッチできたはずだ。
日本のジャーナリズムは瀕死の重体だが、原告の寺沢氏のようにフリーで活躍する記者たちは、記者クラブに所属していないメリットを生かして、捜査当局の不正、腐敗などの犯罪や反市民的行為を暴いている。フリージャーナリストが、本来のジャーナリストとしての任務を果たしている。寺沢氏は、「大マスコミの記者は、クラブで発表ものだけを垂れ流していればいい」と共同通信労組の機関紙で皮肉っぽく書いていた。そこまで言われても記者クラブに固執するのは、一社だけでは変えられないという情けない横並び意識である。
鎌田慧、本田靖春、立花隆各氏らまともなジャーナリストは『記者クラブ」の仕事をしてきた。最近の中川前官房長官スキャンダルなど政財界の不正を告発しているのは、記者クラブに入っていない記者たちだ。
5 記者クラブとは何か
日本の取材の特徴は記者クラブ取材にある。その中でも、古典的なパターンが警察記者クラブである。記者クラブは日本の官庁・大企業など主要なニュース・ソースの記者室に置かれている排他的な記者集団である。日本独特で、「キシャクラブ」としか表現できない。
記者クラブは一八九〇年、第一回帝国議会で「議会出入記者団」を結成、当局に取材許可を要求したのが始まりだ。戦前の記者クラブは記者たちの連帯の拠点ともなったが、一九四一年に新聞統制機関「日本新聞連盟」の発足に伴い、クラブの自治が禁止された。治安維持法下で新聞が一県一紙に制限され、記者クラブも統合された。この点については、鈴木和枝氏の「法学セミナー増刊 人権と報道を考える」〈日本評論社)の論文が詳しい。【資料1】
戦後も記者クラブ体制はほぼそのまま存続した。米占領軍は日本国民を統治するために、記者クラブ制度を利用した。
記者クラブのメンバーは、日本新聞協会加盟社とこれに準ずる報道機関の記者に限られ、クラブに常駐できることが条件になっている。新聞協会は四九年の「記者クラブに関する方針」で、「記者の親睦社交を目的として組織するものとし、取材上の問題には一切関与せぬこと」と規定した。しかし、実際は取材機関で、報道協定を結んだり、除名や資格停止の措置をとってきた。新聞協会は九七年一二月、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と見解を改めた。
九三年から外国報道機関を準会員として認めるようになり、首相官邸クラブなどにAP、ロイターなど外国通信社を準会員とした。また首相や官房長官の会見に外国人記者をオブザーバーとして参加させるようになった。外国メディアに門戸を少し広げたわけだが、これとて正会員ではないし、質問はできないなどの制限がある。国内のメディアは新聞協会加盟のメディアの記者に限定されたままだ。
実は記者クラブというものが、日本にいくつあるかは分からない。データがないのだ。西山武典氏が八六年に調査したところによると、共同通信記者が加盟している記者クラブは六一二(このうち東京に九九)あった。朝日新聞がが九六年に行った調査〈未公表)では七八一あったという。
6 京都の記者クラブ裁判
記者クラブに公然と挑戦したのは、山口百恵さんだ。三浦友和氏との婚約を発表する際、NHK内にある「放送記者会」など三つの芸能・文化関係のクラブで会見を求められたが、これを断って、ホテルの宴会場に報道陣を集めて記者会見した。「仕事上のことならまだ分かるが、プライベートなことでどうして何回もクラブで話さないといけないのか」と言って拒否したという。拙著『犯罪報道と警察』【資料2】
「記者クラブが使った電話代を市が負担したことと、市側が懇親会などで記者接待を行ったことは行き過ぎた便宜供与。京都市長と京都市政記者クラブは、京都市にこの費用を返すべき」。京都市伏見区の農業、藤田孝夫氏は九二年六月一九日がこんな訴訟を京都地裁に起こした。同様の住民監査請求を棄却された末の住民訴訟だった。
藤田氏は京都市の情報公開制度を利用して、九一年度の記者クラブへの電話料負担額と記者接待費を調査した。電話料は約九三万円。記者接待は九一年五月から一○月まで七回あり、合計約二○二万円で、一回の出席者一人当たりの平均費用は約一万八千円だった。
藤田氏は九○年四月一二日に、「京都府が京都府政記者クラブに記者室を無償提供するなど数々の便宜供与をしているのは違法」という訴訟を起こしている。これは当時の荒巻禎一知事が八七年九月一日、定例記者会見で、沖縄を襲った台風被害に触れ、「台風でサトウキビが倒れたから、〈過激派の)警備がやりやすくなって良かった」などと話した。これを聞いた記者クラブの記者のうち、記事にしたのは共同通信の若い記者だけだった。これに疑問を持った藤田氏が記者クラブと府庁の癒着を問題にしたのだ。【資料3】
この裁判については元毎日新聞記者、木部克己著『犯人視という凶器』(あさを社)が詳しい。
二件とも最高裁まで争ったが、いずれも原告敗訴となった。
裁判所の判断は、市や府にとって。記者クラブは広報機関としての役割を果たしているとして違法性はないとした。一人二万円近い豪華宴会が、社会的常識の範囲内として認められた。記者クラブは親睦を目的とした任意団体で被告としての当事者性がないと認定した。
藤田氏は京都府警による京都府警記者クラブへの便宜供与、接待についても資料を請求したが、既に償却しているとか、知事部局ではないなど理由で、入手できていない。。
藤田氏は私が担当する講義にゲストとして来てもらっている。
藤田氏は寺沢氏が起している裁判について、「記者クラブ員でないからという理由で裁判所が資料を配付しないのは不当だ。警察と記者クラブの関係について調べているが、警察の方がまだ話してくれる。記者は逃げ回っている。私の裁判の後に、新聞協会は、記者クラブを親睦団体から取材機関だと認めた。記者クラブに当事者能力がないとした裁判所の判断の根拠が崩れたので、再提訴を考えている。いずれにせよ、私の裁判以降、派手な接待はなくなり、各社も電話を自分で引くようになった。市民が記者クラブを監視する必要がある」と述べている。
一方、鎌倉市(竹内謙市長)は九六年四月、鎌倉記者会に便宜供与していた記者室を廃止し、広報メディアセンターを開設した。鎌倉記者会は新聞協会加盟の六社がメンバーだったが、センターにはマスメディアであればどこでも利用登録できる。ただし企業広報紙、政治団体・宗教団体の機関紙やミニコミ紙は除外。鎌倉ケーブルテレビ、鎌倉エフエム放送など計一六社が登録(九九年五月現在)している。拙著『無責任なマスメディア』(現代人文社、1996年)を参照してほしい。【資料4】
参考文献は、新聞労連新聞研究部編『提言 記者クラブ改革』、1994年。北村肇『腐敗したメディア』現代人文社、1996年。・ 体験的記者クラブ論
1 私が記者を志した理由
記者クラブが記者の自由な活動を妨害し、結果として、国民の知る権利を妨害しているということをメディア以外の人たちにはなかなか理解できないと思う。
そこで私の記者経験を通して、その実態を明らかにしたい。
「米国から初めての衛星生中継で最も悲しいニュースをお伝えしなければなりません。アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が今日、テキサス州ダラスで暗殺されました」。一九六三年一一月二二日午前五時一〇分から、NHKテレビでワシントン特派員が伝えた。この日、日米間の初のテレビ中継が始まった。リレー衛星を使った放送で、NBCとABCの共同制作。大統領の日本国民へのメッセージも録画で放送された。その記念すべき放送で、二〇世紀最大のニュースの一つとも言える出来事が報じらえた。 日本中の人が見ているニュースでこんな大きい事件を伝えるなんてすごい仕事だと思った。
国連人権宣言と日本国憲法が施行された年に生まれた私は、平和で差別のない社会をつくるにはどうしたらいいかについて思索した。戦争がない民主主義的な社会をつくるためには、教育とマスメディアの役割が重要だと考えた。私はジャーナリストの道を歩もうと決心した。
高校三年の時にAFS国際奨学生として米国ミズーリ州スプリングフィールドへ留学。米国はベトナム戦争の真っ只中だった。クラスメートが戦死した。米国型民主主義のすばらしさと、その限界の両方を学んだ。
大学では社会福祉国家を目指す経済体制を学びたいと思い、慶応義塾大学経済学部へ進んだ。先輩が社団法人共同通信に入ったこともあり、通信社に入って特派員になろうと決意。NHK、朝日新聞も考えたが、リベラルな社風の共同通信にあこがれた。当時は朝日、毎日、読売、共同、NHK、TBS六社が同じ日に試験を行っていた。私が受験した七一年七月の統一試験は、経営不振のため毎日とTBSが入社試験を取りやめたため、大激戦だった。英語はトップ、一般教養は最低で、共同通信に合格した。
2 毎日警察に出勤する矛盾
共同通信は日本を代表する通信社で、新聞、放送各局に二四時間ニュースを配信している。外国の通信社のニュースを選択して日本語にし、日本の出来事を外国に伝えるのも通信社の仕事だ。
通信社に入ったのに、すぐに毎日、警視庁上野署に出勤した。警視庁の本庁には「七社会」という老舗のクラブがある。その下に、方面担当という記者が配置される。私の担当は六方面。台東、荒川、足立の三区が「管内」だった。上野署に六方面担当の記者が詰める上野署記者クラブがあった。朝日、毎日、読売、東京中日、産経、共同、時事、NHKが一人ずつのクラブだった。台東区には日雇い労働者のの街、山谷があった。労働運動に新左翼活動家が参加して、警視庁公安部に逮捕される事件が頻発した。ある窃盗事件では、犯行時間に別の場所で私と一緒にいた活動家が逮捕された。私がアリバイ証言をして無罪になった。この事件については、『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、87年に講談社文庫)93頁に書いた。
朝九時半ごろにクラブに到着。管内の警察署の当直主任や副署長に電話する。メディア内部では「警戒電話」という。クラブに所属する記者の中で、比較的若手の記者がこの仕事をすることが多い。事件や事故があると警察署の広報担当を務める副署長から電話で連絡がある。ニュース価値があると思えば、現場に出掛けた。警察が青焼きのコピーを配る。刑事課長が見出しを用意することもあった。被疑者の顔写真(逮捕直後に撮影されたもの)も配布された。
警視庁の六方面担当を二年二カ月務めて、千葉支局に転勤した。記者三年目だった七四年九月に警察・検察による典型的なでっちあげ事件「首都圏連続女性殺人事件」に遭遇して、思いもかけずに「人権と報道」が専門になった。
現在の警察取材では市民が逮捕されると呼び捨てで実名報道されるが、これは無罪を推定され裁判を受ける権利を侵害するのではないかという問題提起を組合内の雑誌で展開した。警察官から情報をとり、もう一方の当事者から取材もしないのは客観報道の原則に違反しているとも思った。警察取材の記者は「ペンを持ったおまわりさんではないか」という問い掛けを行った。
組合での活動で、本社の社会部出身者が支配する会社の総務・人事当局ににらまれて一二年間、いわゆる冷や飯をくった。八一年に東京本社のラジオ関係の職場に移った。一〇時から六時の仕事だった。八二年五月に年休をとって北欧を取材、スウェーデンとフィンランドの犯罪報道匿名報道主義を日本人で初めて調査研究した。八十四年八月に『犯罪報道の犯罪』を出版した。この本が社会的に評価されて、「いつまで浅野を閑職に置くのか」という批判が出てきた。世間体を考えた幹部の判断で87年にやっと入社以来希望していた外信部記者になった。
八九年二月からジャカルタ支局長として三年半、東南アジアを取材した。カンボジア問題、PKO、「大東亜」戦争の傷跡、熱帯林の破壊などを徹底的に取材した。現場に行って人と会って書くことを心掛けた。人権・環境問題、政府開発援助(ODA)などで、日本がやっていることを報道した。
日本の商社がつくった木材会社がニューギニア島の西部のビントニ湾でマングローブを違法伐採している事実を、現地で取材して報道。一年後に、商社も現地政府も非を認めた。
ジャカルタの三年半で、アジアの多様性を知った。インドネシアだけで二五〇の言語、異なる人種、宗教、文化があり、お互いの違いを認め合い協調して生きる姿から多くを学んだ。スハルト政権と日本人社会から危険人物とされて、九二年七月に事実上追放処分を受けた。
ジャカルタには「ジャカルタ外国特派員協会」という記者のクラブがあり、私は二年間、副会長を務めた。日本の記者クラブとは全く違い、記者なら誰でも参加できた。
帰国して外信部でデスクの仕事をした。世界中から集まるニュースを取捨選択して約八〇の新聞社、約一八〇の放送局へ配信する仕事で、やりがいがあった。引き続き、ジャーナリズムのあり方を模索。本や論文を発表してきた。
共同通信の中では、「マスコミの悪口を書いている男」「特派員として現地の日本人社会、大使館、現地政府とうまくやれなかった」というレッテルを貼られた。
共同通信では私を外信部から私の行きたくない職場に追放する人事がすすんでいた。そんな時期に、公募で同志社大学文学部社会学科新聞学専攻の教授になった。国立大学(研究所を除き)には皆無の新聞学がコースとしてしっかりある大学だ。報道(表現)の自由と個人・団体の名誉・プライバシーの両立をどうはかるか。報道被害をどう防止し、被害があった場合にどう救済するのか。マルチメディア時代を迎えて、国境を越える課題としての人権とジャーナリズムを調査研究してきた。
外国では主要大学にジャーナリズム学部、学科がある。高校・中学でメディア・リテラシーを教育している国も多い。
3 理想と現実
最初は小田実氏が書いた『何でも見てやろう』などを読んで、好奇心からジャーナリストを志望した。大事件にしてもオリンピックにしても実際に現場に立ち会うことができるのは、当事者とジャーナリスト、一般の目撃者である。普通の人は行けないところへ、出かけることができ、自分が見て調べたことをニュースとして伝える仕事が、格好いいと思った。ジャーナリストの醍醐味は、時代の第一線の目撃者、記録者であることにあると今も考える。
実際にジャーナリストとして働いて気付いたのは、ジャーナリストとして真面目に働こうとすると権力(マスメディア企業内部の幹部たちという権力も含め)との緊張関係や軋轢が常にあるということだ。最初に現場に行って見たこと聞いたことを、取材して、一般市民のために報道するという単純にみえる作業に、実は、様々な面倒臭い回路が潜んでいることを知った。しかし、そこにこそジャーナリストの生きがい、やりがいがあると確信をもって言える。
国際新聞編集者協会(IPI)などのジャーナリスト団体は、毎年、戦争や紛争、抑圧で殺されたジャーナリストを発表する。九七年度は世界全体で三○数人が犠牲になった。ジャーナリストはその職業ゆえに殺されるというリスクをいつも背負っているのである。
私がいたインドネシアではスハルト体制が崩壊寸前だが、少なからぬジャーナリストが行方不明になっている。投獄される記者も多い。その他の全体主義、軍事体制の国でも記者は激しい弾圧を受けている。
日本では報道の自由が保障されている。しかしジャーナリストが、本来やるべき仕事をしているかどうか疑問だ。とくに「記者クラブ」をベースにしている企業内記者は、警察や検察庁に疑われた弱い立場の市民や団体の人権や公正な裁判を受ける権利を守っているとは思えない。
・ 警察取材の現場
私の警察取材経験は4年だ。新聞・通信社の記者はシフト勤務で、担当記者がいない場合は何でもやらされる。泊まり勤務などでは一人になることもあり、事件事故の取材をすることが多い。海外特派員になったときもそうだ。従って記者生活22年はある意味で、いつも事件事故の取材をしていたと言ってもいい。
『犯罪報道と警察』(三一書房)228〜240頁に書いたが、私は七二年四月から七四年六月まで上野署クラブに所属。七四年七月から七六年八月まで千葉県警記者クラブ(社会部記者会)に所属していた。七六年八月から八一年二月までは千葉県政記者クラブに入っていたが、支局の記者は七、八人しかいなかったので、県警クラブもカバーした。
空港反対派の支援者が乗っていた車のハンドルを警察官に奪われたという訴えを県警クラブで行おうとしたが、県警が庁舎管理権を理由に、庁内にあるクラブに入れなかった。共産党の機関紙であるしんぶん赤旗の記者が共産党の国政選挙立候補表明の記者会見に入れなかったこともあり、おかしいと感じた。
警察記者クラブには結局警察のいやがるような記事は書けない雰囲気がある。個々の警察官の不祥事(とくに仕事以外の)については報道するが、警察が組織として行った違法不当な捜査などについては消極的だ。自白の強要、代用監獄の悪用、接見交通件の妨害などの事実や容疑があってもなかなか報道できない。警察から情報をとれなくなるというリスクがあった。
首都圏連続女性殺人事件では被疑者の小野悦男さんに獄中会見した記者が徹底的にいじめられた。その会社は半年は警察記事で他社に抜かれ続けた。「あんなことをするからだ」というのが警察のキャップ記者のせりふだった。NHK・FM放送で記者が捜査批判をしたら、県警幹部が千葉放送局まで出向いて抗議した。この点については『犯罪報道の再犯』134頁前後に詳しく書いた。
1 若い記者たち
捜査当局を取材するメディア記者を、「口をぱくぱく開けて餌を待つ金魚みたいだ」と言った先輩がいた。あるいはまるで御用聞きのようだと自嘲気味に話した友人もいる。
警察担当の記者は大学を出てすぐの記者が多い。一方の警察はだいたい副所長や刑事課長が対応する。若くても四〇代である。
私の同志社大学のゼミから九八年三月に七人がメディアに就職した。新聞社は朝日一人、毎日二人。三人とも簡単な研修を受けて、すぐに警察担当にされている。九九年に地方紙、地方局に入った学生も二人いる。彼や彼女らは午前六時半に起き、支局に午前一時すぎまでいる生活だ。私のゼミにいたので法律や人権について理解しているが、他の新人記者は法律の勉強をほとんどしていないという。メディアの倫理やジャーナリズムの在り方について勉強したこともないそうだ。大学からストレートに警察記者クラブに放り込まれて、先輩の仕事ぶりを見て学べというのである。現在は警察署で名刺を配って人間関係をつくっているところだ。
官庁がメディア記者に情報を提供する経路としては 共同通信の元編集主幹原寿雄氏は「記者クラブの発表、懇談会という名の非公式発表で、そこから出るニュースが報道全体の九○%を占めている」(『新聞記者の処世術』13頁)と繰り返し強調した。原氏は共同通信の編集局長時代に統計をとったという。
県警本部の記者会見を取り仕切るのは県警の広報課である。記者クラブとの窓口だ。記者室と隣り合わせのところもある。記者クラブの方には、幹事社がいる。通常は二カ月交代で二社がペアになっている。
記者会見するのは、原則として、逮捕または家宅捜索など強制捜査に着手した場合だ。警察が報道してほしい内容の事件。たとえば公安労働事件などで、強引な捜査(別件逮捕、微罪逮捕)をしているときは、逮捕事件でも発表しないことが多い。六〇、七〇年代の爆弾事件ではほとんど発表がなかった。
記者発表するかどうかは当局が一方的に決める。記者たちに相談は全くない。ただし警察幹部が気心の知れた記者に非公式に相談することはある。
検察は起訴の段階までほとんど発表しない。地検の次席検事が対応する。
当局の発表の根拠は、刑法第二三〇条の二第2項で「未だ公訴の提起せらざる人の犯罪行為に関する事実はこれを公共の利害に関する事実と見做す」と明記されている「見なし規定」である。本来は名誉毀損しても、厳しい要件を充たす場合だけ免責されるという規定だが、「当局が発表すれば、そのとおり書いても名誉毀損にはならない」とメディア現場では受け止められている。著名な法学者も執筆している『法と新聞』(日本新聞協会、1972年)もこの見なし規定を各所で引用、「警察が発表した事実」に反していなければ問題ないと言い切っている。
見なし規定の免責の条件として公共性、公益性は問題ないと考え、「真実の証明」については気を使えと指導している。私が七二年春に受けた新人記者研修でもこの点を教え込まれた。最高裁大法廷の「夕刊和歌山時事名誉毀損事件」の判決で示された「真実と信じるに足る相当の理由」があればよいとされている。発表資料や取材メモは「真実の証明」になるから、必ず保存しておけと言われた。
2 当局に偏った取材
警察ニュースほど、偏った取材報道はない。報道される側からの取材はほとんどない。野球で言えば東京ドームで観客も記者も入れずに行われた「巨人対阪神戦」の結果を、ゲーム終了後に、巨人の広報担当者と監督・主力選手からだけ取材して報道しているようなものである。
司法当局が被疑者・被告人のプライバシーを守るために、メディアとの接触をさせないようにするのは当然だろう。日本では逮捕段階での公選弁護士派遣制度がないので、逮捕直後はとくに被疑者の外部との接見交通の権利が十分に保障されておらず、逮捕、捜索された側の報道機関は「被疑者の取材はできない」ことを現在の報道のあり方を肯定する根拠にするのは不当だろう。
九州における当番弁護士制度の発足がきっかけになって、西日本新聞が九一年から「容疑者の言い分」を報道し始めた。
警察の留置場(または代用監獄)に拘束された被疑者の声を聞くのは不可能だ。拘置所においても記者は取材をしないという誓約書を書かされるのが普通だ。それも一五分以内でしか面会できない。裁判になって初めて被告の側の話を聞けるのだ。問題は犯罪報道の大半が初公判前には終わっているということだ。
3 夜討ち朝駆け取材
ジャカルタで一緒だった朝日新聞記者(現在パリ特派員)は、一橋大学を卒業して入社し、九州の支局と西部本社にいたが、「今日逮捕」をという特ダネを2本書かないと、希望の東京本社に転勤できないと言われて、とにかく必死でサツ回りをした。これが何の役に立つということなど考える余裕もなくやらされていた」と話していた。
毎日新聞の北村肇記者は『腐敗したメディア』(現代人文社)で、無意味なゲーム競争と指摘している。毎日新聞の松山支局長は九四年六月、「サツの中に入ったら、警察官になりきれ。支局に戻ったらまた記者に戻ればよい」と支局員に指導した。
二○○○年四月に入社した記者たちも「警察官とお酒を一緒に飲むのが仕事」「一年目記者のサツ担当には人権はない」と通告されている。
ある女性記者は、警察幹部の男性と「不倫」関係を結んで情報をとっていることを同僚の男性記者に注意されて、「女の武器をつかってどこが悪い」と言い放ったという。
長野支局次長から聞いたが、長野県警と長野地検では、幹部たちの自宅を訪問する夜回り記者を順番に家に入れて、一社一五分前後と決めて対応しているという。これでは連続の個別会見だ。
4 各社のサツ回り入門書
『犯罪報道と警察』(三一新書)111頁で、読売新聞の「警察回り入門」の全文を紹介した。入門書の発行責任者の了解を得たうえで載せた。そこには警察官といかに仲良くなるかが書かれている。自動的にこちらへ情報が流れてくるように買収することだ。「壇家の間柄になること」「奥さんや子供に好かれること」「手土産がダルマクラスのウイスキー。スーパーの紙袋に入れた果物などが効果的。帰省したときの土産物などは最適。費用は請求できる」「警官の学歴は記者より低いから、学歴をひけらかすな」などと書かれている。こういうことを活字にしていいのだろうかということがいっぱい載っている。賄賂や守秘義務違反に当たるのではないかと思われることも少なくない。
また『別冊宝島72 ザ・新聞』(JICC出版局)254頁では、毎日新聞の「取材入門読本」を紹介した。「警察官の家族に心暖まるプレゼントを」など読売とほぼ同じだ。他社も同じような警察取材の手引きを記者に配っている。これでは警察とメディアが癒着するのは必然だろう。【資料5】
私たちがこうしたサツ回り入門書を公表したこともあり、冊子を記者に配るのはやめて、先輩記者が口頭でサツ回りの方法を伝えるようにしている社もある。
5 警察官とメディアの「信頼」関係
九五年五月二〇日に放送されたTBSテレビ・「ブロードキャスター」で常田照雄・毎日新聞東京本社社会部副部長は、オウム報道についてこう語った。「人の口を通じてしか情報は伝わらないのです。そのお巡りさんが信頼してどこまで話してくれるかと、その人間関係、信頼関係の絆がね、どこまでできてるか、それがその記者の掛け値なしの力です」。「国民を人質に取った事件、それをマスコミがですね警察頑張れと、まあそういうふうには書きませんけども、少なくとも、いわゆる微罪だとかですね、そういう色々な緊急避難的な措置について、普段なら批判的キャンペーンやりますよね。しかし、半年後になったら、国民全部が殺せた、そういうサリンが製造されていたかもしれないという、こういう事件の特質でそれを押さえながら見守った、これは警察にとっては大きな支援だったと思う」。
この副部長は「報道する前に裏を取っている」と述べていたが、ここでいう「裏取り」とは複数の警官から同じネタをとってダブルチェックするということだ。「捜査当局頑張れ」は言論機関が言うべきことだろうか。
6 警察はメディアをどう見ているか
警察当局は記者クラブや個々の記者を、自分たちの広報機関として重視している。
『警部 全国出題 論述集』(警察時報社、1987年)88頁には、報道機関との付き合い方を問う設問に対する模範回答が載っている。マスコミ関係者との信頼関係を確立するために次のようにすべきだと述べている。「発表に際しては、必ず幹事社を通じて事前調整を行うなど、記者クラブとの良好な関係保持に配意する」「平素から心やすく大人の対応をするよう心掛け、記者の取材した記事に関心をもち、対話の際の話題に取り上げるとか、警察が国民に訴えたいことが記事になった場合には、電話又は口頭で謝意を述べるなど配慮する」「夜討ち、朝駆けに対して対応を嫌い、避けてはならない」。
模範回答はメディアを警察当局の一広報機関と呼んでいる。
佐藤忠志・警察庁捜査一課課長補佐は『警察学論集』第四六巻第九号(1993年)で「『捜査と取材』対応について」と題して、警察と報道機関の関係について論じている。「『言うわけはいかない』ことの明確な一線を保ちながら、対応できる点は心易しく対応し、疑心暗鬼を幾分解消してやることが、記者との信頼関係を築くもと」「平素からの記者との信頼関係の構築が大切」などと強調している。
警察庁が全国の警察本部に指示しているようだが、各警察本部で誰が記者にどういう情報を流したかをすべて報告させる一元管理を実施している。リークも管理されているのだ。
報道機関は競争で分断されているが、警察は組織的に対応している。警察側が報道機関(つまり警察記者クラブ)との接触の仕方を組織的に研究してきた。七〇年代から警察の広報体制が強化された。とくに公安警察の場合は、捜査官が独自の判断で重要な情報を流すことはほとんどなくなった。警視庁は前からリーク情報を幹部が一括してコントロールしていた。どこの社の誰が夜回りに来て、何を話したかを幹部に報告させている。
6 田島教授のクラブ論
日本弁護士連合会は九九年一○月の人権大会で、報道界に対して、匿名報道原則の採用とメディア責任制度の設置を提言した。日弁連は八七年にも同じような決議を行っている。この大会での公開シンポジウムでは、三宅弘弁護士が「人権と報道」の第一のテーマとして「権力機関と報道」を取り上げ、その冒頭で、「記者クラブ制度」を検討したと次のように報告している。
《公権力側は、施設の使用、記者室の維持、その他の経費の支弁などの便宜供与について、報道の自由に対する恩恵と考える傾向がある。国旗・国歌法が制定された直後から、官庁の記者クラブに了解なしに、大臣や事務次官の記者会見の場に国旗が置かれる省庁も現れましたが、この事例はまさに、公権力側が記者クラブを権力機関の公表の場としか理解していないことの現われだ。検察庁による出入り禁止処分や取材拒否の問題もある。情報公開制度が、行政機関に説明責任を全うしなければならないという趣旨を貫くものであるとすれば、記者クラブ制度についても、その排他性、独占性は説明責任を全うする情報提供サービスの場としては不十分なものであるといわざるを得ない。》
三宅弁護士らの基調報告の後、松本サリン事件被害者の河野義行氏が基調講演し、平川宗信名古屋大学教授、田島泰彦上智大学教授、原寿雄元共同通信編集主幹、池口和雄毎日放送報道局専任局長、野村務弁護士が討論した。
田島泰彦氏は犯罪報道のあり方をめぐって私とはかなり異なる意見を持った研究者だが、実名報道の問題を論じる中で次のように述べた。
《今の犯罪報道の中で問題になっているのは、今まで議論されてきたような、非常に一方的な情報のソース、しかも、それは非常に限 られたソースですね。しかも操作されているかもしれない情報源、端的に言ってしまうと、警察というところですけれども、警察の情報ということですね。ここは非常に、一面的に依拠して、ある状況の中で特定の人を被疑者、あるいは、逮捕されたことだけで、端的に一方的な犯人的な扱いにしてしまう。それは表現の問題というよりも、先程、指摘されてますけれども、もちろん断定的な表現を避けるという、そういう表現上の問題もあるんですけれども、一番の根源は、やはり取材の体制がそれを必然化させるような、すなわち、警察サイドには記者クラブ制度を通して、日常的にそこに張り付いて、常に情報が入ってくる回路があるわけです。他方で、その逆の対立する当事者である被疑者とか、被告人の側には、必ずしもそういう回路がない。》
田島教授が理想とする犯罪報道の実現のためにも、記者クラブの大胆な改革が必要である。現状の記者クラブでは、逮捕された側の言い分は、なかなか社会には伝わらない。・ 記者クラブをめぐる最近の事例から
1「開かれた警察」言う前に記者クラブの「システム疲労」解決を
「さきほど幹事社から退席してほしいとの要望があったので、出てください」。二○○○年三月二日夜、田中節夫警察庁長官の記者会見に出席しようとしていた新聞記者二人が、警察庁長官官房総務課広報室室員に腕を軽く引っ張られ、外に出さされた。田中長官の会見場から排除されたのは、ブロック紙の西日本新聞東京支社の記者たちで、理由は「クラブの常駐社ではないから」だった。
会見は、新潟県警の女性監禁事件をめぐる一連の「不祥事」について、人民の怒りが頂点に達する中、国家公安委員会が三月二日、田中長官に対し、減給100分の5(一カ月)の懲戒処分を行った直後に行われた。
西日本新聞記者によると、同社のX記者とY記者は二日午前九時五○分ごろ、警察庁広報室を訪れて、「国家公安委員会など今日一日の動きを取材したい」と申し入れた。二人は広報室員から「記者クラブ幹事さんに、一応ことわってほしい」と言われたので、記者クラブに出向いて、クラブの一番手前にブースのあるA社の記者に、加盟社と同じように取材したいと申し入れた。A社の記者はクラブの奥に入った後、すぐ戻ってきて「いいです」と答えたという。
X、Y両記者は午前一○時から始まった公安委員会終了後のぶら下がり取材、午後五時二五分からの第二回の公安委員会も公安委員会室前で待ち、午後八時五○分から警察庁五階の会議室で始まった公安委員長と公安委員主席の記者会見(公安委員も出席)も取材した。
公安委員会の記者会見後に引き続き,午後九時二○分すぎから、同じ会議室で開かれた田中長官の会見に先立ち、警察庁広報室員が出席している社名と人数を確認する作業を行った。その際、会議室にいたX記者に、警察庁広報室員が「どちらの社ですか」と質問。X記者は「オブザーバーの西日本新聞です」と回答した。広報室員は幹事社のB社記者に伝えた。B社記者は「長官の記者会見は記者クラブの主催であり、常駐社以外は参加できないことになっており、事前に申し入れもなかったので、出ていってもらいたい」と要請した。X記者が「幹事のA社記者に午前中伝え、了解をもらっている」と反論したが、「私は聞いていない」と言われて、会見時間が迫っていることもあり、退室した。
X記者は会議室を出て、会見場の外にいたY記者に伝えた。二人は会見が始まると会議室に入った。ところが、二人に気づいた警察庁広報室員に「出てください」と腕を軽く引っ張られ、退去させられた。二人は別の広報室員から「さきほど幹事社から退席してほしいと言われたでしょう。なんで入ったんですか」と詰問された。
Y記者は「私は幹事社から聞いていない」と答え、X記者が「聞いたのは私だ」と答えた。
二人は「後ほど事実関係を調べたいので、B社の幹事の記者の名前を教えてほしい」と要請した。広報室員はしぶしぶ名前を明らかにした。
警察庁長官が在任中の不祥事に絡んで処分を受けたのは初めてだった。察当局にとっては、「広報」したくない不名誉な記者会見だったのだろう。しかし、記者たちにとっては市民を代表して長官に、「市民に開かれた民主的警察」のあり方を質す重要な機会だったはずだ。権力監視の同志であるジャーナリストを、警察庁広報の意を汲んで、排除した記者クラブの責任は重い。
警察と二人三脚で犯罪報道の犯罪を続けてきた「警察記者クラブ」も解体、再編されなければならないと思う。
私は三月二二日、警察庁広報室に電話をかけた。問い合わせ先とファクス番号を知りたかったのだが、電話を回された後、電話に出た室員に、記者会見で西日本新聞記者が締め出されたことで聞きたいと伝えたが、「会見のことは記者クラブに任せてあるので、クラブに聞いてくれ」と言うだけだった。私が「目撃者によると、警察庁広報室員が、常駐社以外の記者がいると幹事社に告げて、物理的に排除したということなので、警察庁にも聞きたい」と言うと、「それは、警察庁と記者クラブの間で、取り決めがあるからだ」と語った。「取り決めがあるということなら、クラブに聞いてくれというのはおかしいのではなですか」と指摘すると、「質問書は郵送してください」と言った。「雑誌に書くので、急ぐのですが」と話すと、「それならファクスの番号は・・・」と教えた。
この件の事実確認をするために、私は二二日夕、警察庁記者クラブと小谷渡・警察庁広報室長に、それぞれ質問書を送り、二四日正午までに文書回答するように求めた。
記者クラブに聞いたのは次の五点である。
・警察庁記者クラブの常駐社、オブザーバー加盟社のそれぞれの社名と記者の人数、会費を教えていただきたい。
・警察庁記者クラブにおける常駐社とオブザーバー社の違いは何ですか。それぞれの入会資格などを教えてください。、あた、記者会見など取材上でどう違うかなど何でも教えてください。クラブの規約、警察庁との取り決めなどの文書があればどういうものか教えてください。また慣行として行われているのであれば、その慣行の実態について説明してください。
・警察のあり方が厳しく問われた三月二日夜の長官会見に西日本新聞記者二人が入れなかった経緯について、上記経緯の中で違うところや不正確なところなどがありましたら、ご指摘ください。
・この件について西日本新聞社から警察庁記者クラブに質問や意見表明があったでしょうか。あればその内容と回答内容を教えてください。
・日本新聞協会は九七年一二月、「記者クラブ」を、それまでの親睦団体で取材上のことには関与しないという立場から、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と見解を改めました。また、鎌倉市(竹内謙市長)は九六年四月、鎌倉記者会に便宜供与していた記者室を廃止し、広報メディアセンターを開設しました。新聞労連も記者クラブ改革に取り組んでいます。市民に開かれた記者クラブにするために、警察庁記者クラブが取り組んでいることなどありましたら、お知らせください。
警察庁記者クラブ幹事社(三社の社名入り)は二三日午後、「ご質問には幹事社限りで回答できるものではなく、クラブとしての考えを取りまとめなければならない都合上、ご要望の二四日正午までの文書回答は困難な情勢にあることをご理解いただければと存じます。(中略)また、当方よりご連絡申し上げますのでので、いましばらくお時間を頂戴したく、お願い申し上げます」というファクスを送ってきた。
また小谷警察庁広報室長には四点聞いた。三月二四日午後六時すぎ、ファクスで回答があった。括弧内が回答。
・警察庁記者クラブの常駐社、オブザーバー加盟社のそれぞれの社名と人数を教えていただきたい。
「記者クラブに関する事項でありますので、お答えする立場にはありません」
・警察庁と記者クラブの間には「取り決めがある」と先ほどの電話でお聞きしましたが、常駐社とオブザーバー社の違いは何ですか。会見など取材上でどう違うかなど何でも教えてください。
「例えば、毎週木曜日の定例の警察庁長官記者会見には、常駐社の記者が参加されております」
・三月二日夜の長官会見に西日本新聞記者二人が入れなかった経緯について、上記経緯で違うところや不正確なところなどがありましたら、ご指摘ください。
「西日本新聞社の記者に対してましては、当庁広報室が退席を願った事実は承知しておりますが、それ以外の詳細につきましては承知しておりません」
・この件について西日本新聞社から警察庁に質問や意見表明があったでしょうか。あればその内容と回答を教えてほしい。
「報道各社記者との個別のやり取りの有無や、その内容につきましては、お答えいたしかねます」
警察庁記者クラブ幹事社は西日本新聞東京支社編集長の質問書には、オブザーバー加盟社が会見に参加するためには、その都度、クラブ幹事の承諾を得るという慣行があり、今回のケースは事前の申し出がなかったために遠慮していただいた、などという見解を示したという。
日本の記者クラブは、官庁・大企業など主要なニュース・ソースの記者室に置かれている排他的な記者集団である。記者クラブのメンバーは、日本新聞協会加盟社とこれに準ずる報道機関の記者に限られ、クラブに常駐できるることが条件だ。新聞協会は四九年の「記者クラブに関する方針」で、「記者の親睦社交を目的として組織するものとし、取材上の問題には一切関与せぬこと」と規定。しかし、新聞協会は九七年一二月、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と見解を改めた。鎌倉市(竹内謙市長)は九六年四月、鎌倉記者会に便宜供与していた記者室を廃止し、広報メディアセンターを開設した。
私は、日本型の記者クラブは廃止、解体すべきだと主張してきた。
外国メディアは古くから記者クラブ制度を厳しく批判してきた。このため外務省、首相官邸、大蔵省などはオブザーバー加盟の報道機関にも会見などへの参加を認めて、質問も自由にできるようにしている。
日本の「記者クラブ」(kisha club)について、ニューヨーク・タイムズのハワード・フレンチ東京支局長は三月二三日、私の取材に対して次のように語った。
《記者クラブは、言論の自由という概念そのものと相入れない。記者クラブが、記者と取材源との癒着を促すものであることは、実に明白である。つまり、記者に怠け心や取材対象寄りの偏りを植え付ける役割を果たすのである。
日本の新聞が健全倫理感を持たず、これらの「クラブ」を廃止しないのならば、せめて記者個人がプロとしての誇りを持ち、記者としての仕事および職業像が記者クラブによっておとしめられていることを自覚し、記者クラブを非難するべきだ。
しかしながら、そのようなことは起こらない。というのも、マスコミは、国民に仕えることが一般的使命であるという意識を喪失しているようだからである。むしろ、マスコミは、日本社会によく見られる、ある種の論理に捕われているようだ。すなわち、よきジャーナリズムの本質であるところの客観性より、チームの一員として調和を保つことに重きを置く論理である。》
田中長官会見の翌日、新聞各紙は警察機構の制度疲労についてあれこれ論評した。毎日新聞東京本社の清水光雄社会部長は三月三日、「立て直しは情報公開から」と題した署名記事を載せ、「システム疲労」した警察の「解決策の一つは徹底した情報公開で警察の姿・形を国民の目にさらし、諸批判の中から自らを鍛え上げていくことだろう」と提言している。また朝日新聞東京本社の松本正社会部長も《責任感忘れた「警察一家」》と題して、「キャリア制度を含めて体質、体制の根本的な改革を急ぎ、組織の再生のための道筋をいかに示しうるか。そこに外部の知恵や力を借りる勇気を持ちうるか。警察に課せられた責任は、きわめて重いものがある」と述べている。
マスコミ人には、二人の社会部長が書いた「警察」を「マスコミ」または「記者クラブ」に置き換えて自問してもらいたい。2「神の国」発言と官邸クラブ「指南書」
内閣記者会(官邸クラブ)といえば、日本で最も大きく重要な記者クラブであろう。その内閣記者会が、市民の知る権利を代行して権力を監視しているのかどうか、疑わしい「事件」が起きた。
森喜朗首相は森首相は、二○○○年五月一二日の神道政治連盟の集会で、「日本は天皇を中心とする神の国」と発言した。首相は「教育勅語には日本の伝統、文化の継承などが含まれていたが・・・本当にいけなかったのか」とも発言していた。森氏は三月、石川県加賀市の講演で「君が代斉唱の時、沖繩出身の歌手の一人は口を開かなかった。学校で教わっていないのですね。沖縄県の教職員組合は共産党支配で、何でも国に反対する。沖縄の二つの新聞もそうだ。子供もみんなそう教わっている」と語っていた。
「神の国」発言は、公明党の反発もあって、政治問題になった。内閣記者会は首相に会見を要求し、五月二六日に「釈明会見」が行われた。
六月二日の西日本新聞は「直言 曲言」と題したコラムで、「記者室に落ちていた首相釈明会見の”指南書”というタイトルの記事を載せている。記事の末尾には「(彰)」という署名。また、五日発売の日刊ゲンダイもほぼ同様の記事を、より断定的に書いた。
これら記事によると、森首相が「神の国」発言の釈明記者会見を開く前日の朝、首相官邸記者室の共同利用コピー機のそばに、「明日の記者会見についての私見」が落ちているのを見つけたということで、首相側近に宛てた文書のようだ。その内容には、「総理の口から『事実上の撤回』とマスコミが報道するような発言が必要」「いろいろな確度から追及されると思うが、準備した言い回しの繰り返し、質問をはぐらかす言い方で切り抜けるしかない」などと助言している。筆者は文書の中身とさまざまな状況から、「官邸に常時出入りしている記者の一人が書いたと考えるのが自然」と指摘している。
そもそも森首相の就任には法的に問題があるのではないか。首相官邸と政権党は、小渕首相の入院を二3時間隠した。首相秘書は四月二日、共同、時事両通信社への「首相動静」連絡で、「書類を整理」などとをウソ発表した。日本新聞協会の代表取材に対して虚偽の情報を提供したわけで、絶対に許せない。青木官房長官の会見での数々のウソも発覚した。
昔のソ連以下の情報非公開である。それを正面からほとんど批判しなかったマスメディア。五人組と公明党首にしか知らせず、青木官房長官の首相代理就任が決定し、後継首相が決まった。なぜ森首相なのか。これは談合政治であり、メディアは厳しく批判すべきなのに、森氏が有力、森氏が後継などと予測報道していた。
NHKが小渕氏の入院先を「都内の病院」としか言わなかったのも漫画だった。脳死移植第一例目では、病院名からドナー家族の住む自治体名まで明らかにしたのに、おかしい。「主治医、院長の会見」を要請し、リアルタイムの情報開示を叫んだマスメディアは、公人中の公人の首相の病気についての情報閉鎖を厳しく批判しない。
順天堂医院は小渕氏が死亡するまで病状について一切公表しなかった。家族の要望を理由にである。
首相への「指南書」問題は、六月六日夜の「ニュース23」「ニュースステーション」でも取り上げられた。週刊誌も取り上げた。
当初、クラブ内では怪文書だとか、個人の問題だという「反発」があったようだが、他メディアが報道し始めたため、クラブでも対応策を協議することになった。
内閣記者会、そして日本新聞協会は、事実関係を調査し、市民に真相を明らかにすべきだと思う。そうしなければ、日本の報道機関は警察以下ということになる。
私は六月五日に内閣記者会に対して次のような質問書を送った。首相官邸記者会の幹事社は共同通信、東京新聞であった。
《この文書が、両紙のいうように、官邸記者会のメンバーによるもので、それが実際に首相側に渡っているとすれば、明らかに報道倫理に反する行為と思われます。
森首相の釈明会見は、貴記者会の度重なる要請を受けて、首相が同意したと聞いています。
日本新聞協会は四九年の「記者クラブに関する方針」で、「記者の親睦社交を目的として組織するものとし、取材上の問題には一切関与せぬこと」と規定していましたが、九七年一二月、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と見解を改めています。
今回の「指南書」問題は、事実であれば、一社・一記者個人の問題にとどまらず、人民の知る権利にこたえて行われているジャーナリズム活動への背信行為であり、市民のメディア不信を招くのではないかと危惧します。
そこで貴記者会に以下のような質問をいたします。1 貴記者会は、両紙に報道されたような事実があったかどうかについて、独自に調査していますか。あるいは、調査する予定はありますか。
2 貴記者会は、クラブ全体の問題として、クラブの代表者会議を開いて、対応を協議するつもりはありますか。
できましたら、六月八日までにご回答下さい。》
七日夕、幹事社に電話で聞いたところ、「いろいろなところから問い合わせが来て、仕事にならない。対応策を検討している。明日(八日)に回答する」ということだった。
二〇〇〇年六月八日、内閣記者会幹事社(共同通信・東京新聞)から以下の回答が、電子メールであった。
《官邸記者クラブ内に落ちていたという文書(以下、「文書」)についての件
「文書」には筆者の記入はなく、現在(六月八日)、筆者を名乗る人物も現れていません。
「文書」の内容はご指摘の通り、記者の本分を大きく逸脱したものであることは、間違いありません。
内閣記者会に加盟しない雑誌などからいくつかの問い合わせがあったため、記者会の代表者には、問い合わせ状況を報告するとともに、西日本新聞からも報告を受けました。その結果、記者のモラルの問題であり、各社ごとに対応することが妥当ということとなり、記者会全体としての対応の集約はしませんでした。このため内閣記者会としての対応はありません。
内閣記者会幹事社(共同通信・東京新聞)》
内閣記者会は、「記者のモラルの問題であり、各社ごとに対応することが妥当」という形で逃げた。これでは、記者クラブが人民の知る権利を代行するという看板は下ろして、官邸近くの貸しビルにクラブ室を移してもらうしかない。こういうクラブには税金を一円も使ってほしくない。
内閣記者会は、この問題をうやむやにせず、この文書が森首相の手に渡ったのかどうかなど、真相を明らかにしてほしい。内閣記者会として対応できないなら、内閣記者会は即時解散すべきであろう。・ むすび
渡部恒三衆議院議員は九四年にテレビ朝日のメディア番組で、「自民党の番記者とは女房以上に長い時間付き合っているから、情がうつるよ」と語っていた。
小沢一郎氏は同年、「記者会見をやめて、自分から会見する。記者クラブ以外の雑誌社記者も入れる」という画期的な試みを行ったが途中で挫折した。
榊原英資慶応大学教授は 一○月一日の毎日新聞の「時代の風」で、「カルテル体質 改革を 日本のマスメディア」と題して、日本の政治・行政システムあるいは民間大組織が極端に時代遅れになってきているが、「何といっても、規制と日本語という非関税障壁に守られ続けてきたマスメディアの特殊性は群を抜いている」と書いている。「メディア批判はある種のタブーになってきた」と指摘し、「特に記者クラブの存在は極めて異常で、さまざまな日本的現象を引き起こしている」と断言している。
教授は「記者クラブの古いカルテル体質が、日本の公的セクターに近代的広報システムを採用することを妨げている」「記者クラブ等によるマスメディアのカルテル体質は、他方で優秀かつ専門的ジャーナリストを育てることの障害になっている」とも書いている。
元大蔵官僚の榊原教授は、父親が今の共同通信と時事通信の前身である同盟通信の外報部記者だったという。「それ故か。筆者にも多少、ジャーナリストの血が流れているのかもしれない。厳しいマスメディア批判を展開したのも、メディアを自分のより近いところに感じているからであろう」。
マスメディアの構造改革こそ日本の最も重要な改革の柱だという榊原教授の提言を真剣に受けとめたい。
日本の心ある市民、記者は本訴訟の判決を期待を持って見守っている。まるで暴力団のように、勝手になわばりをつくり、そこにメンバー以外の人間をいれないのが「記者クラブ」である。組織暴力団だって官庁の一室に居座ることはない。
原告、寺沢有記者のうしろには無数のジャーナリストがいる。この国のジャーナリズムの再生のためにも、正義に基づいた判決をお願いしたい。
2000年12月11日現在のプロフィール
浅野健一(あさの・けんいち)
1948年7月27日、高松市生まれ。66ー67年AFS国際奨学生として米ミズーリ州スプリングフィールド市立高校へ留学。72年、慶応義塾大学経済学部卒業、共同通信社入社。編集局社会部、千葉支局、ラジオ・テレビ局企画部、編集局外信部を経て、89年2月から92年7月までジャカルタ支局長。帰国後、外信部デスク。77ー78年、共同通信労組関東支部委員長。94年3月末、共同通信退社。
93ー95年慶応義塾大学新聞研究所非常勤講師。
94年4月から同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)、同大学大学院文学研究科新聞学専攻博士課程教授。
96年12月から97年12月まで、同志社大学教職員組合委員長。
99年3月から厚生省・公衆衛生審議会疾病部会臓器移植専門委員会臨時委員。
共同通信社社友会準会員。人権と報道・連絡会(連絡先:〒168-8691 東京杉並南郵便局私書箱23号、ファクス03ー3341ー9515)世話人。日本マス・コミュニケ−ション学会会員。
著書 主著に『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『犯罪報道は変えられる』(日本評論社、『新・犯罪報道の犯罪』と改題して講談社文庫に)、『犯罪報道と警察』(三一新書)、『過激派報道の犯罪』(三一新書)、『客観報道・隠されるニュースソース』(筑摩書房、『マスコミ報道の犯罪』と改題し講談社文庫に)、『出国命令 インドネシア取材1200日』(日本評論社、『日本大使館の犯罪』と改題し講談社文庫)、『日本は世界の敵になる ODAの犯罪』(三一書房)、『メディア・ファシズムの時代』(明石書店)、『「犯罪報道」の再犯 さらば共同通信社』(第三書館)、『オウム「破防法」とマスメディア』(第三書館)、『犯罪報道とメディアの良心 匿名報道と揺れる実名報道』(第三書館)、『天皇の記者たち 大新聞のアジア侵略』(スリーエーネットワーク)、『メディア・リンチ』(潮出版)。
編著に『スパイ防止法がやってきた』(社会評論社)、『天皇とマスコミ報道』(三一新書)、『カンボジア派兵』(労働大学)、『激論・新聞に未来はあるのか ジャーナリストを志望する学生に送る』(現代人文社ブックレット)。共編著に『無責任なマスメディア』(山口正紀氏との共編、現代人文社)。
共著に『ここにも差別が』(解放出版社)、『死刑囚からあなたへ』(インパクト出版会)、『アジアの人びとを知る本1・環境破壊とたたかう人びと』(大月書店)、『派兵読本』(社会評論社)、『成田治安立法・いま憲法が危ない』(社会評論社)、『メディア学の現在』(世界思想社)、『検証・オウム報道』(現代人文社)、『匿名報道』(山口正紀氏との共著、学陽書房)、『激論 世紀末ニッポン』(鈴木邦男氏との共著、三一新書)、『松本サリン事件報道の罪と罰』(河野義行氏との共著、第三文明社)、『大学とアジア太平洋戦争』(白井厚氏編、日本経済評論社)、『オウム破防法事件の記録』(オウム破防法弁護団編著、社会思想社)、『英雄から爆弾犯にされて』(三一書房)『「ナヌムの家」を訪ねて』(浅野ゼミ編著、現代人文社)などがある。
『現代用語の基礎知識』(自由国民社、1998・1999・2000年版)の「ジャーナリズム」を執筆。
監修ビデオに『ドキュメント 人権と報道の旅』(製作・オーパス、発行・現代人文社)がある。
資格 1968年、運輸相より通訳案内業(英語)免許取得
E-mail:kasano@mail.doshisha.ac.jp
VZB06310@nifty.ne.jp
(電子メールの場合は、お手数ですが、両方に送ってください。VZBの後は数字の0です)
浅野ゼミのホームページ (以上)
Copyright (c) 2001, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2001.01.12