2001年4月7日

イエニさんが日本の治療終えて帰国
日本の「右翼」に「「小学校に入りなおして勉強してこい」

浅野健一

 2000年8月に来日し日本でリハビリ治療していたイエニ・ロサ・ダマヤンティ(Yenni Rosa Damayanati)さんが2001年1月15日にインドネシアへ帰国した。昨年東京に着いたときは、車イスで、手も脚も自由がきかなかったが、松葉づえで歩けるようになり、手もかなりよくなった。
 昨年8月14日、東京に着いた日の午後3時半から、東京新宿・戸山の国立国際医療センターで、整形外科の黒木啓文医師の診察を受けた。診察にはジャカルタから付き添ってきた木村公一牧師のパートナーのオッチョさん、車イス用タクシーで空港まで迎えに行った中村弘子さんと、浅野が同行した。
 約二時間半の診察とレントゲン撮影の結果、現段階での手術は危険性が高く、リハビリ治療が望ましいとの結論に達した。
 「手術は事故後せいぜい十日以内に行うべきで、三週間以上経つと無理だ。いまはリハビリをすぐに始めるべきだ」ということで、リハビリ病院を探してくれた。黒木医師自ら知り合いの医師に電話をかけてくれた。そこで、埼玉県の所沢市にある国立の施設の副院長さんが、「ベッドが空いているかどうか分からないが、外来で診察に来てください」ということになり、黒木医師が紹介状を書いてくれた。14日夜は近くのホテルに泊まった。
 8月15日午前、オッチョさんが同行し、イエニさんは所沢の埼玉県所沢市の国立身体障害者リハビリテーションセンターで診察を受けて、入院を許可された。黒木先生を紹介くださった仁科晴弘医師に心から感謝した。11月末に山梨県にある富士温泉病院に移って治療を続けていた。
 日本にいた間も、12月に開かれた「現代の紛争下の女性に対する犯罪」をテーマにした国際公聴会などにも参加して女性の権利の拡大、戦争犯罪の告発などの活動を続けた。日本の右翼が「日本はアジア解放に貢献した」などと主張したのに対し、「小学校に行き直せ」と言い返した。同感だ。
 イエニさんは私が共同通信ジャカルタ支局長として赴任した1989年にナショナル大学で環境生態学の学士をとり、カリマンタンなどの熱帯雨林とその環境問題で、市民運動を始めた。SKEPHIという熱帯雨林保護ネットワークの中心的活動家となった。
 さまざまな反スハルト政府運動の取材で彼女と出会い、英語のできる彼女と意見交換し、貴重な情報を得た。89年末に私が調査報道した丸紅の融資会社による西パプアでのマングローブ違法伐採でも協力を得た。91年4月に日本の政府開発援助でスハルト独裁政権による開発独裁政策の典型と言われたスマトラのコトパンジャン・ダム開発計画に抗議して、強制立ち退き地域の村に入り込み、3ヶ月間村民と共闘、現地でフィールド調査した。その際、共同通信の臨時助手として働いてもらった。またこの問題では、日本大使館内の会議室で住民代表が大使館の公使・書記官らと対話した際に、インドネシアの軍・警察の情報部員5人が日本大使館の許可を得て入室しているのをイエニさんが発見し、抗議している。その時、軍人を入れた責任者が在インドネシア日本大使館公使だった阿部知之氏で、2001年1月に発覚した外務省室長による機密費流用問題で調査の責任者となった阿部外務省審議官である。
 91年11月、インドネシア軍の無差別発砲によって起こされた東ティモール・サンタクルス虐殺事件に対し、タムリン通りでデモを敢行、逮捕され、警察による4日間の過酷な尋問を受けた。インドネシアの民主化運動で、「インドネシアは東ティモールを侵略した」と公言したのは彼女が初めてだ。このデモを取材していた私も、「パスポート不所持」容疑で1時間以上拘禁された。
 91年にイエニさんが訪日した際も、私は旅行のアレンジをした。私が追放された「罪状」の一つが、イエニの訪日への協力が、違法だということだった。当時の日本国大使、国弘道雄氏が私にそう語ったことがある。
 私が92年7月に追放された後も、イエニさんは活動を続けた。私はジャカルタに行くたびに、イエニさんと連絡をとってきた。2000年8月にはディリでも会った。
 今回の「事故」も単なる事故と考えられない点があります。イエニさんは私にこう語った。
 「5月27日ソリダモール事務所から約一キロのところで、オートバイの後ろに乗って大通りを走行、右に曲がろうとした時に、左側道路から飛び出してきたバジャイ(インド製の三輪車)に衝突された。バジャイに客は乗っておらず、ブレーキをかけるどころか、どんどんスピードを増して突っ込んできたと、バイクを運転していた東ティモール人は語っている。バジャイの運転手は数日間取り調べを受けただけで無罪放免になった。事故の三日前にはソリダモール事務所が暴漢に襲撃されて徹底的に破壊されている。襲撃グループもすぐに釈放されている。証拠はないが、テロの可能性は高い」。
 私は「週刊金曜日」12月15日号の「金曜日で逢いましょう」に次のような記事を書いた。
 ▼イエニ・ロサ・ダマヤンティさん
 一九八九年にジャカルタの大学で環境生態学を学び、熱帯雨林保護運動にかかわって以来、激動のインドネシアで一貫して民主化、女性の権利などの闘いの中心にいる。今年五月、ジャカルタで交通事故に遭い、日本でリハビリ治療中。治療のかたわら、七日から東京で開かれた女性国際戦犯法廷にも参加するなど、アジア各国の人権活動家との交流を深めている。
 九○年に日本の政府開発援助(ODA)で計画されたスマトラ島のダムでは、立ち入り禁止の村に三カ月住み、住民の反対運動を支援し、日本にも二回訪問して支援を訴えた。九一年一一月に起きた東ティモール・サンタクルス虐殺事件に対し、ジャカルタ中心部でデモを敢行、逮捕された。
 九三年一二月には政府転覆罪で逮捕され、一年間投獄された。九五年四月かに西欧に亡命、スハルト退陣の九八年五月二一日に帰国。その後は、市民組織「東チモール連帯委員会(ソリダモール)」の広報を担当し、昨年の独立を決める住民投票にも監視団スタッフとして参加した。
 五月二七日にソリダモール事務所から約一キロのところで交通事故に遭い、左手や腰などを骨折し、八月一四に来日して埼玉と山梨のリハビリ病院で治療を受けている。今後のインドネシアの行方などについて聞いた。
ーー単純な交通事故とは思えないが。
 日本のみなさんに車イス姿で再会するとは思ってもみなかった。病院探しなどをボランティアで協力してくれた方々に感謝している。東チモール人の運転するオートバイの後ろに乗って大通りを走行、右に曲がろうとした時に、左から飛び出してきた三輪自動車に衝突された。車に客は乗っておらず、ブレーキをかけるどころか、スピードを増して突っ込んできた。事故の三日前には事務所が暴漢に襲撃されている。私の「事故」もテロの可能性が高いと思う。
ーースハルト氏の裁判は十月に健康上の理由で終結したが。
 彼が実権を握っていたときには、投獄された労働運動活動家や学生たちが獄中で重い病気にかかっていても、十分な治療も受けられず、保釈もされなかったので、納得がいかない。しかし、我々は司法の正義を大切にすべきで、スハルト氏が民主的な法律手続で裁判停止になったのならやむを得ない。
ーー日本に望むことは何か。
 日本政府はスハルト「開発独裁」体制による非道な殺害、強かん、労働者弾圧を知りながら、「東南アジア諸国連合の優等生」などと称賛し援助で支え、東チモール問題でも独立運動を妨害してきた。こうした過去の罪を反省したうえで、現政権に対応してほしい。
ーーインドネシアの民主化にとって何が一番重要か。
 軍の政治関与をなくすことができるかどうかが鍵になる。数は少し減ったが、軍人が選挙を経ないで国会議員になる仕組みは存続した。文民の力がまだまだ弱い。我々市民が力をつけるしかない。
ーーインドネシアの東チモールとの関係は。
 昨年の住民投票前後に、インドネシア軍と民兵が犯した罪を厳正に裁くことが大事だ。また、西チモール州で起きている民兵たちによる東ティモールからの難民に対する暴力をやめさせることが出発点だ。
ーーイエニーさんの帰国後の計画は?
 今回の女性国際法廷のように、インドネシアでも国家による性暴力の被害を受けた女性たちのことを取り上げる法廷を開きたい。六五年のインドネシア共産党弾圧以降、インドネシアの女性政治囚の多くは、軍当局によって取り調べ中などにひどいことをされてきた。しかし、女性の政治囚の実態は全く問題にされてこなかった。性暴力の被害者は、被害を受けた後にも無視され告発しにくい。性差別をなくすことをライフワークにしたい。
 「天皇ヒロヒトに有罪判決」を聞いた
 2000年12月8日から12日、東京の九段会館でで開かれた日本軍性奴隷制を裁く「女性国際戦犯法廷」(主催「バウーネット・ジャパン」代表・松井やより)のインドネシア代表としてイエニさんも参加した。友人のインドネシア在住の木村公一牧師も出席した。
 私も12月8日、東ティモールの元日本軍慰安婦らが証言した
 木村公一氏が以下のように報告(1月1日)している。
 《「女性国際戦犯法廷」は12月12日、裕仁前天皇と日本政府に対し、「従軍慰安婦」制度は、人間の奴隷化や拷問、殺人、人種的理由などによる迫害等を禁止している当時の国際条約(日本も批准していた)に違反しており、≪人道に対する罪≫として有罪判決を下し、5日間の裁判日程を終えた。
 法廷は裕仁前天皇に対して、「実質的な日本軍の最高統帥権者として慰安所設置などの日本軍の残虐行為を知っていたにも関わらずこれを黙認したという起訴事実が認められる」ことを明らかにした。これによって第二次世界大戦以後、日本軍の戦争犯罪を処罰するために設置された極東国際軍事裁判で、米国の主導下に起訴を逃れる事ができた裕仁前天皇は国際社会から≪戦争犯罪者≫として烙印が押されることとなった。法廷は日本の国家責任についても、「日本軍が女性を戦時性奴隷として動員し、拷問や強姦、性サービスを強要した行為は、当時日本が加入、批准していた人身売買強制労働禁止条約などの国際法に違反するもの」であるとし、有罪判決を下した。
 この法廷が、アジア太平洋戦争を「聖戦」として戦犯を合祀する靖国神社の向かいに位置する「日本遺族会」(日本遺族会は1947年までは正真正銘の平和団体であったが、マッカーサーの恩赦で巣鴨刑務所から出てきた2千名の戦犯たちに乗っ取られ、2千万人の会員を有する戦後日本の保守政治に最大の影響力をもつ政治団体になった)が経営する九段会館で開かれたことは象徴的な意味があると思う。
 この裁判結果を無視する日本政府の厚顔無恥によって、日本国家は国際社会から「性的テロ国家」の汚名をきせれることになった。日本政府の対応は、やがて、ブーメランとなって自らの顔面に襲い掛かってくるだろう。民間の運動を卑下する政府の態度は明治以来の「官尊民卑」の伝統でもあるが、民間の労組連合であるはずの「連合」までが同様の態度をもって国際社会の場で日本政府を弁護するロビー活動をしてきた事実をみると、「官尊民卑の伝統」などと悠長な批評はやめたほうがよいようだ。
 日本のマスコミはどうだろうか。ほとんどの報道機関が「裕仁有罪」判決に沈黙している。「女性国際戦犯法廷」には、連日日本を含む各国の取材陣100名余りが集まり熱い取材合戦を繰り広げたが、朝日新聞を除く読売や毎日、産経などの主要マスコミは報告しなかった。「朝日」でさえも12日、裕仁天皇に有罪判決が下されたことについて社会面で、「昭和天皇にも責任」という題目で簡単に報道されただけだった。天皇への有罪判決に対するマスコミの「自粛」は、日本政府の「無視」よりも恐ろしいものだ。  12日の判決日、会場となった千駄ヶ谷の日本青年館前には「アジア諸国の民に日本国を裁く資格無し」という空疎なスローガンを掲げた右翼団体が押しかけ、法廷の参加者に「論争」を挑みました。特に韓国の代表団は闘争歌でもって対抗しましたが、インドネシア勢は女性運動家のイェニー・ロサが中心になり、「インドネシアへの最高のお土産だ」として論争を交えました。右翼団体は例のごとく、「インドネシアの独立は日本の賜物だ」と歴史的実体の無い空疎な議論を繰り返しました。それに対し、イェニーは「小学校に入りなおして勉強してこい。そうしたら議論してやろう」と反論し、日本文部省の歴史教育のお粗末さが暴露された格好になりました。わたしは通訳をしましたが、通訳に徹しきれず、最後は論争の主役になってしまいました。警備の警官が「彼らを刺激するのは避けて下さい」と言うので、インドネシア女性たちは「ニッポン・ロームシャ、ニッポン・ロームシャ、ニッポン・ロームシャ」の声を右翼らに浴びせながら、迎えのバスに乗り込みました。》

 「小学校に入り直せ」というのは、なかなかすごい発言だ。日本の歴史修正主義者の無知を見抜いている。
 東南アジア諸国の独立は日本のおかげだという荒唐無稽な論理が日本ではまかりとおっている。とくにインドネシアについてそう言われることが多い。インドネシアは日本の全面降伏後に、再び侵入してきたオランダなど連合国軍と四年も戦って独立した。日本の元兵士約二○○○人が参加したが、すべて日本軍からは「脱走兵」として扱われた人たちだ。日本の軍人軍属は、独立闘争の青年たちには武器を渡さないという誓約をして、安全に帰国することを許された。日本の「国体」(天皇制)も存続が許されたのだ。
インドネシアの歴史を勉強すれば、分かることだが、一部の漫画家、歴史「研究者」、元日本軍兵士らによる大うその本や映画しか読まない若者はだまされてしまう。
 京大の生協でも、『国民の歴史』や、「正論」「諸君」「SAPIO」などの出版物がよく売れているという。
 日本では、歴史を改竄しようとする学者とマスメディア企業が組んで、「あたらしい歴史教科書」をつくり、政府の「検定」を通った。学問の自由、表現の自由があり、どういう歴史観に基づく教科書があってもい。歴史の解釈はさまざまな国家や社会で異なるだろう。しかし、正しい歴史認識を目指す努力もまた必要である。また国による歴史認識の違いをできるだけ近づけることも大切だ。
 私は大学に入ってくる一年生に、まず、日本は国連憲章でいまも、民主主義の「敵国」として規定されていることを教えることにしている。日本人のほとんどが、国連憲章にこの「旧敵国条項」があることを知らない。日本はいまだにこの条項を削除できないでいる。このままで「安保理常任理事国」入りは不可能なのに、その事実をほとんどの人が知らないのだ。公教育とマスメディアが教えないからである。
 国連憲章は、日本に再び軍国主義、全体主義〈ファシズム)が復活する恐れがあるときには、国連は安保理決議なしに、武力で介入できると規定している。かつて日本帝国軍の侵略を受けたアジア太平洋の国々と人民が、日本国民の歴史認識を警戒し、全体主義復活に警告を発するのは当然の行為なのである。日本は国際社会でいまだに「保護観察」下にあるのだ。それを「内政干渉」などと叫ぶ人々は、「国連脱退」を選択するしかないであろう。そうなれば「いつか来た道」である。
 日本国民の間でだけ通用する「歴史」をつくって、21世紀の国際社会の中で生きていけるだろうか。侵略という過去の歴史的事実から逃げず、その責任をどうとるかを明らかにする以外に、民族の誇りと尊厳を守る道はないと私は思う。

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