2002年4月18日更新
社会学会・公開講演会報告(文責・浅野健一)
「インドネシア民主化とジャーナリズム」〜スハルト体制からメガワティ政権の激変を取材して〜
*講師 フランス・パダック・デモン氏
(「メトロTV」シニア・ニュース・プロデューサー)
<講師プロフィール>フランス・パダック・デモン(Frans Padak Demon)氏
1956年、東部インドネシアのフローレス島に生まれ。レダレロにあるセント・パウルス哲学専門学校で哲学を学び、ジャカルタの国立インドネシア大学経済学部で金融学を勉強しました。大学在学中の1980年、経済日刊紙「ハリアン・ジャーナル・エクイン」の記者として働き始めたが、この日刊紙は当時のスハルト政権に対する批判的な記事を理由に発行禁止処分に。1982年、金融雑誌「インフォバンク」、日刊「ジャーナル・インドネシア」紙「ハリアン・プレオリタス」。1987年6月、経団連の招待で訪日。88〜97年、NHKジャカルタ支局助手、「ムルデカ」編集局長を経て現職。2000年10月、スウェーデンの大学で開かれた「途上国の民主化とジャーナリズム」などの国際的な研究会で発表するなど、インドネシアを代表する記者の一人。「日本の政府も報道機関も政府対政府にばかり力を入れて、人民対人民の関係が薄い」。インドネシアのジャーナリストのフランス・パダック・デモン氏の 「インドネシア民主化とジャーナリズム〜スハルト体制からメガワティ政権の激変を取材して」と題する講演会が2002年3月7日、今出川校地・神学館礼拝堂で開かれた。
フランス氏は大学在学時代から新聞記者の仕事を始め、当時のスハルト軍事政権に対する批判的な記事を書いて、所属する新聞や雑誌が度々発行禁止処分になった経験を持ち、NHKジャカルタ支局で9年間記者として働いた。現在は民放「メトロTV」のシニア・ニュース・プロデューサーを務める。司会は浅野で、通訳は小坂田薫・上智大学講師が務めた。フランス氏は講演で、「スハルト時代、軍と情報省がメディアを掌握し、スハルト大統領や大統領一族に対する批判をするとすぐに発禁になった。記者の電話はすべて盗聴されていた」と報告。インドネシアが1975年に侵略した東ティモール(今年5月に正式独立)での取材ではNHKの取材が軍当局に筒抜けになっていたことも明らかにした。
また98年の民主化闘争でスハルト大統領が退陣し、ハビビ大統領を経て誕生したワヒド大統領時代には、報道の自由が保証され、新聞社が300から1600社に急増したが、初の女性大統領メガワティ氏が就任してから、メディア規制が再び始まっていると述べた。
しかし、軍が再び政治的権力を持つことはあり得ず、インドネシアの民主化は確実に進展すると語った。
イスラム教徒が88%を占める国における9・11事件報道についも解説した。
また、日本の外交官や記者は、インドネシアの支配層とばかり付き合っているから、市民の心が読めない」「日本からの援助で送られた良質なコメが市場に流れ、金持ちに売られていた。また誰も使えない最新鋭の医療機器がODAで支給され、長年ほこりをかぶったまま放置されている。日本の企業がもうかる仕組みになっているのではないか」と指摘した。
講演会には留学生も含む本学学生のほか、専門家や市民も多数参加し、活発な質疑応答が行われた。
講演と質疑応答は以下の通り。
浅野 私が共同通信のジャカルタ支局長のときにフランスさんも一緒に仕事をしました。NHKのジャカルタ支局の記者、実質的には支局の責任者だったように思いますが、当時のNHKのジャカルタ支局は支局長が撮影部の人で、いわゆる記者ではない人だったので、フランスさんが主に取材をして英語で記事を書いていました。今は違います。スハルト体制が倒れてからは大きなニュースがたくさんあるので、今は記者である田端祐一支局長などがいます。そういうことで、当時フランスさんとは一緒に取材をしてきました。ジャカルタ外国特派員協会(JFCJ)という記者組織がジャカルタにはあるんですね。そういう場でも一緒にいろいろなことを話したり企画をしたりしました。今話題になっている東ティモールのほうにも一緒に取材に行ったこともあります。
今回別の用件でたまたま日本のほうに来られていたので、京都のほうにお招きしまして、同志社大学文学部の社会学科の教員で作っている社会学会の主催の講演会で今日はお話していただくということになりました。今日は同志社大学以外の方、一般の方もたくさん見えていらっしゃっていて大変嬉しく思います。まず一時間程度、通訳つきで話していただいて、その後に質疑応答ということにします。フランスさんは英語も話せる方ですが、今回はインドネシア語で話していただきたいと思っています。通訳は小坂田薫さんにボランティアでお願いいたしました。小坂田さんはボゴール農科大学で修士号を取得された方で、上智大学でインドネシア語を教えていらっしゃるほかにも、NHKの翻訳の仕事などのインドネシア関係の仕事をされておられる方です。
それではフランスさんと小坂田さんの最強コンビで、インドネシアのメディア報道と政治・社会ということでお話をお伺いしたいと思います。フランスさんよろしくお願い致します。フランス氏 こんにちは。浅野さんのご挨拶どうもありがとうございました。そして本日来てくださった皆さんにも感謝の言葉を述べたいと思います。わざわざ来てくださって本当にありがとうございました。
数日前に浅野さんから今回話をして欲しいということで招待していただき、嬉しく思う。特に話してほしいと言われたのは民主化とメディア問題ということで、私自身の経験を通じて話してほしいということだった。インドネシアのスハルト大統領時代から現在のメガワティ大統領までに私自身が経験したことを話したい。それ以外に日本の政府開発援助(ODA)がインドネシアでどのような現状にあるかといった問題や、インドネシアの日本大使館の実情といった内容、あと日本のジャーナリストがインドネシアでどのような活動をしているかといったことを話していきたい。
インドネシアが独立する頃には日本のことを兄として慕っていた。だから今回は弟として兄である皆さん、日本人に私自身のコメントを述べたいと思う。今回私がお話することがただ単に情報として伝わるだけでなく、日本にとってもインドネシアにとっても役に立つような中身になればいいと考えている。
最初にジャーナリズムと民主主義ということについて、インドネシアのスハルト時代はどのような状況だったかということについて話したい。特に私自身の経験ということは、1981年から1998年の間のことについて話したい。
まず1966年に、初代のスカルノ大統領から次のスハルト大統領に代わった時点では、メディアというのはスハルト大統領を支持するという姿勢を示していた。スハルト大統領を支持し、スハルト大統領体制というのは新秩序だとメディアも宣伝していた。当時の学生や知識人、メディアは、この新しいスハルト大統領の体制によってインドネシアの発展がより強固なものになること、また、芽生え始めた汚職問題についても克服されることを希望していた。
しかし、このようなスハルト大統領とメディアの蜜月時代は約7年、1973年には終わりを迎える。1973年からスハルト大統領はメディアに対して発行禁止処分を発布するようになったのだ。というのも、その頃からメディア側がスハルト大統領を批判し始めたからだ。その批判の内容というのは、汚職がはびこっているということ、また一部の華人の財閥や陸軍大将といった軍人に利益をもたらすような体制になっているというものだ。こういったことに対して学生たちの不満が最も大きく爆発したのは1974年1月15日のことだったが、当時日本の総理大臣であった田中角栄氏がインドネシアに来たときに学生たちの不満が爆発した。これはマラリと呼ばれる事件となった。スハルト大統領は田中首相のインドネシア訪問の際に、田中氏が大変重要な国賓であるにもかかわらず学生がデモンストレーションを起こしたということに大変怒りを示して、スハルト大統領はその後、12の日刊紙を発行禁止にした。
その後スハルト大統領は、治安秩序回復司令部(コプカムティブ)を陸軍の指導の下に作り、これによってメディアをコントロールするようになった。そしてこのメディアコントロールの中で、二つの事を書いてはいけない、その二つの事を書くことを禁止するということを公表した。ひとつは大統領の家族についてのニュースを書いてはいけない。もう一つはSARAと呼ばれる、宗教や人種、所属するグループの対立に関する問題については書いてはいけないというふうに公表した。その後も、大学内におけるデモンストレーションが続いたので、その後7紙の日刊紙が発行禁止処分になった。その時に発行禁止処分になった日刊紙の中には『コンパス』のような非常に有力な全国紙、もしくは『テンポ』という雑誌、『シナール・ハラパン』という日刊紙なども含まれている。その後これらの発行禁止になった日刊紙や雑誌は再び発行することができるようになるのだが、そのために彼らが情報省のほうに行き、スハルト大統領の家族に関する記事は書かないということとパンチャシラ・メディアになるということを誓ったのだ。スハルト大統領は、パンチャシラ・メディアというのは責任あるメディアのことだと言っていた。パンチャシラというのはインドネシアの国家の五大原則のことだが、パンチャシラメディアというのは何かと言うと、様々な対立を生み出すような記事を書かないメディアのことだ。すなわち、宗教間や人種間による対立、所属するグループによる対立、あるいは大統領の家族の汚職問題について書かないメディアのことを指している。
その後インドネシアのメディアというのは政府体制について非常に気を配るようなメディアになり、政府と協力するようなメディアになってしまっていた。有力紙「コンパス」の編集長は当時のジャーナリズムの状態を「カニのジャーナリズム」だというふうに言っていた。どうしてカニ・ジャーナリズムとその人が言うようになったかというと、穴の中にいるカニを捕まえようと穴の中に手を入れようとするが、挟まれるのが怖いので手を引っ込めてしまう。ちょっと怖いけれども捕まえたい、でも挟まれてしまうのが怖い。メディアと政府の関係がそのような状態にあったのだ。そういう状況をカニ・ジャーナリズムと呼んだというわけだ。
さらに政府は、その記事の内容に関するコントロールだけではなく、出版許可証を得ることに関してもコントロールを行っていた。そのために、出版許可を持ち、何かを出版できる人というのはほんのひと握りの人に限られていた。当時新聞を発行することができた人というのは、5億ルピアを政府に頭金のような形で払うことができた人、もしくは政府に対して株式を提供することができた人に限られていた。またプレスカウンシルというところからの許可も得なくてはならなかった。プレスカウンシルというのはすでに新聞を発行している人たちも入っている委員会であった。そのようなわけで、インドネシアの報道界はカルテル状態、寡占状態になってしまっていたのだ。またインドネシアのジャーナリストというのは全員政府のもとにあるインドネシア・ジャーナリスト協会というところに所属しなくてはならなかった。このインドネシア・ジャーナリスト協会に所属しない記者というのは、新聞や雑誌などで編集局長になることはできなかった。また政府は情報省及び陸軍と共同して「電話の文化」というコントロールを行っていた。この電話の文化とは、毎日夕方頃になると情報省の役人から電話が入って、今日はこのニュースとこのニュースは記事にしてはいけないと言われるというものだ。またインドネシアのジャーナリストが政府と対立する人々にインタビューするということも制限されていた。このインタビューしてはいけない人の中には、共産党員だと政府から烙印を押されたプラムディア・アナンタトゥールという文学者や、元ジャカルタ知事であるアリ・サディキンも含まれていた。もしそのような人々にインタビューした場合は、そのインタビューを許した報道機関に対して非常に強い警告がなされ、インタビューした記者もやめさせるようにという警告も出された。
そういった政府の制限がなされている状況の中で、私は1981年に記者としての仕事を開始した。インドネシアの最初の経済紙である「ジャーナル・エクイン」という新聞の記者になったのだ。「ジャーナル・エクイン」が発行されて2年目のことだが、インドネシアの石油公団であるプルタミナの汚職についてのニュースを書いた。その記事が載った新聞が発行された日の昼過ぎのことだが、治安秩序回復作戦指令部のスドモ氏から呼び出しがあり、「ジャーナル・エクイン」は発行禁止になると通達された。政府と「ジャーナル・エクイン」の間で話し合いがあるということは全くなく、突然私たち「ジャーナル・エクイン」の記者150人が仕事を失ってしまったのだ。また1986年からは「プリオリタス」という日刊紙に参加することになった。経済とビジネスの編集部の副編集局長という立場で仕事をしていた。1987年の5月に、私を含む数人のインドネシアのジャーナリストが日本の経団連に招待され、日本の様々な産業界を見学するという研修に招待された。最初の日は日本に滞在していたインドネシア大使であるウイヨゴ氏のインタビューが行われた。そのインドネシア大使は、当時日本側がインドネシアに対して行っていた投資政策を批判していた。また、政府の経済投資局の長官をしていたギナンジャール・カルタサスミタ氏に対してもインドネシア大使は批判していた。私はこのインドネシア大使の批判というものがインドネシアの経済に役に立つものだと考えたので、記事を書いてジャカルタに送り、その3日後に「プレオリタス」に載った。だが、その一週間後に「プレオリタス」は発行禁止になってしまった。私の書いた記事によって、日本のインドネシア大使館の中にいる情報省の役人と大使の間で対立が起きてしまったからだ。当時私は非常に罪の意識にさいなまれた。というのは、私が書いた記事によって300人もの人が仕事を失ってしまったからだ。当時私はそのようなことを引き起こしてしまったという気持ちがあったので、ジャーナリストを辞めてしまおうかと考えるまでになっていた。そのため経済会社のトーマス・クックで働くようになっていた。
しかしその後、NHKジャカルタ支局の岡本さんから働かないかと話があった。私はジャーナリストという仕事がとても好きで、今後も続けていきたいと考えていたので、NHKジャカルタ支局で働く決心をした。そしてインドネシア政府にNHKのジャカルタ支局だけは発行停止処分にしないでほしいと希望していた。しかし、私の希望とは反対に、外国のメディアに対してもインドネシア政府はコントロールをするようになっていった。最初のコントロールというのは、インドネシアに入る外国のメディアに対する検閲だった。当時中国語で書かれた新聞・雑誌はインドネシアに持ち込むことはできなかった。またスハルト大統領体制に対して批判的なことを書いている新聞・雑誌をインドネシアで販売することはできなかった。またインドネシア政府が危険だと判断した外国人ジャーナリストに対しては取材のビザを出さないということも行われていた。この問題に関しては、浅野さんも様々なことを経験されていると思う。またそれ以外にもインドネシアでは、国外メディアの事務所の電話の盗聴も行われていた。
当時インドネシアでは携帯電話は出回っていなかったので、電話を使う場合は事務所の設置電話を使うしかなかった。しかし、その電話はインドネシア国軍などから常に盗聴されていたのだ。このことについては私自身とても面白い経験をしている。1991年11月12日のことだが、東チモールでディリ事件というのがあった。サンタクルス墓地で東チモールの人々が大量に虐殺されたという事件で、当時私は東チモールに取材に行っていた。私はNHKの取材チームと一緒に取材活動をしていて、その事件の際に銃弾を受けたものの、助かった学生たちや独立闘争を地下で続けていた「フレテリン」の活動家の人たちにインタビューをしていた。インタビュー終了後、日本のほうにこの記事を送ったわけだが、その後最初の東チモール州知事の息子である友人からある情報がもたらされた。当時その友人は東チモールにある銀行の局長クラスのポストについていた。だから彼はとてもインドネシア政府寄りの人間だった。私が東チモールの事件を取材して日本で放送したと言うと、彼は、自分も見たいから放送されたテープをダビングしてくれというふうに言ってきたのだ。私はジャカルタにあったプロダクションハウスに電話をして、ベータカムの映像をVHSにダビングしようとした。最初はプロダクションハウスのほうも2日間で終わるので、その際には連絡するということだったが、2日目になるとそのプロダクションハウスの社長から連絡があって、ビデオのダビングはできない、ビデオはベータカムの状態のまま返すと言われたのだ。後にプロダクションハウスの社長がNHKに来てくれて話してくれたことだが、私がプロダクションハウスとやり取りしていた電話の内容は全て軍に盗聴されていたのだ。そのために、3人の軍人が社長のところを訪れて、このビデオをダビングしてはいけない、もしダビングするのであれば逮捕すると脅迫したのだそうだ。その後私は軍に電話をして、なぜこうなったのかを聞こうとしたところ、私の友人でもあった陸軍のムハビという人はただ笑ってごまかすだけだった。以上がインドネシア政府が外国のメディアに対してもコントロールを行っていたという実例のひとつだ。
その後スハルト大統領が退任し、ハビビ大統領の時代になると、このようなメディアに対する制限はなくなった。1998年5月以降のことだ。その時代には誰でもメディアを発行することができるという時代になり、東南アジアの中ではフィリピンと並んでもっとも民主的なメディアを作ることができる時代だった。大統領を批判することもできたのだ。その後メディア開設ブームが起こり、スハルト大統領が君臨していた32年の間には300種のメディアしか存在していなかったが、一年半の間に1600種ものメディアが誕生した。当時東南アジアを襲っていた金融危機がインドネシアにも影響を及ぼしており、インドネシアの失業率は非常に高い状態にあったが、メディアが爆発的に増えたことで記者の求人は急激に増え、給料もぐんぐん上がっていった。
その後1999年の総選挙の結果、ハビビ大統領はワヒド大統領に代わった。ワヒド大統領が就任した時点では、ワヒド大統領が非常に賢く、宗教問題に関してもイスラム教以外の宗教に対して非常に寛容な心で迎えていたうえ、中国語で書かれたメディアにも許可を与えたこともあり、非常に好ましく思われていた。例えば私が現在働いている『メトロTV』はインドネシアで初めて中国語での放送をした局だ。
しかし、このようなワヒド大統領とメディアの蜜月時代は6カ月程度しか続かなかった。ワヒド大統領は当時インドネシアにはびこっていたKKNと呼ばれる汚職、癒着、ネポティズムを根絶しようと努力していたし、さらにもともと権力に近かった将軍たちも何とか権力から遠ざけようとしていた。ジャーナリストたちはこのようなワヒド大統領の姿勢を非常に支持していたのだが、メディアの所有者というのは、スハルト大統領の家族などといった、スハルト時代の権力者だということが多かったのだ。そのためメディアの資本を牛耳っていた将軍や汚職にまみれた政治家などが、ワヒド大統領を大統領職から引き摺り下ろせるような記事を書くようにと強要するようになった。もちろんワヒド大統領にも欠点はあったと思うが、彼はインドネシアのメディアと友好的な関係を築いている人であり、インドネシアという国家から汚職などを完全になくしたいと心から考えている人でもあったのだ。
しかし、その後ワヒド大統領は現在の大統領であるメガワティ大統領に代わってしまった。このメガワティ大統領はスカルノ大統領の長女に当たる。ワヒド大統領時代の様々な体験から学んだメガワティ大統領はメディアに対してどのような対応を取ればよいのかを考えるようになってきている。スハルト大統領時代に検閲など様々な制限を行っていた情報省はワヒド大統領の時代には廃止されていたが、メガワティ大統領はこの情報省を情報とコミュニケーション省として復活させた。またハビビ大統領及びワヒド大統領の時代には非常に自由になっていた大統領宮殿内の取材も、メガワティ大統領は様々な制限をするようになってきている。数週間前のことだが、メガワティ大統領は「責任あるメディアというのは建設的な批判をするメディアのことだ」と述べた。
このような事情もあり、インドネシアにおける報道の自由というのはまだまだ確立されたものではないのだ。この報道の自由というのがなぜ確立されていないのかという点だが、様々な障害があるのだ。取材の許可を得るにも非常に苦労している。さらに資本を牛耳っている側からの障害も存在する。その上、普通の住民の人々が障害になっているということもあるのだ。これは記者が住民から襲われたり、メディアの事務所が襲撃されるということが起こっているということだ。
1月の末から2月上旬に面白い記事が新聞などに掲載された。例えば、インドネシアのスマトラ島にあるメダンという町にある「アナリサ」という新聞社に対して警察が大勢で押しかけて、警察に好かれていない記者の署名記事を載せてはいけないということを新聞社に強要したのだ。そのメダンの「アナリサ」紙の事件が起こったのが1月28日のことだった。1月27日にはカリマンタン島のバンジャルマシンというところでも同じような事件があった。警察が記者を殴り、持っていたビデオカメラを取り上げたという事件だった。
なぜそんなことが起こったかというと、メガワティ大統領を批判するデモを取材していたからだ。また2月6日のことだが、「ナガール・マドゥーラ」という新聞社に対して住民が襲撃をかけるという事件があった。前日の「ナガール・マドゥーラ」に有力な宗教指導者の子供である2人の若い男女が恋人同士でいるのだが、その付き合いを両親から認められていないという記事が載ったからなのだ。
このようにインドネシアでは、普通の人々がまるで裁判官になったかのような気持ちで人を裁くというところがあり、大きな問題となっている。例えば、泥棒が逃げていたとする。その泥棒を一般市民が見つけたとすると、人々がその泥棒を囲んで殴って、焼き討ちしてしまうのだ。それはジャカルタだけではなく、スラバヤやメダンでも行われていることだ。そのような感情のために、インドネシアでは様々なグループが本当に些細な理由で新聞社や雑誌社を襲撃するということが行われている。さらにこのような襲撃が行われているときでも、警察は何もしようとはしないのだ。
1999年のことだが、朝10時に「シナール・パギ」という日刊紙の編集長から電話があり、今現在「シナール・バリ」の事務所が灯油の缶を持った数百人のタクシー運転手に取り囲まれていると言うのだ。そのタクシー運転手たちは編集室まで押し寄せてきて、ガソリンと古いタイヤを持って編集者たちを脅した。そして「シナール・パリ」に前日掲載されたタクシー運転手によって強盗が行われたという記事について訂正記事を出せと要求してきたのだ。「シナール・パギ」は最終的に彼らの要求を飲み、3回に渡って「シナール・パギ」の最初のページに訂正記事を掲載するということで同意した。そのため「シナール・パギ」社は火事にあわずに済んだ。このように闘争民主党だとか、イスラム団体がグループを作って、様々なメディアを実際に襲撃するということは今現在において非常に広く行われている。例えば、私自身が経験したことで言えば、昨年9月11日のアメリカでの連続テロ事件が発生した際に、抗議の電話を非常に多く受けた。それは当時メトロTVではニューヨークから生中継で放送していたのだが、そんなに大きく報道するなという抗議だったのだ。(ここでテープが切れる)メトロTVでは警察に依頼して爆弾を探してもらうということまでした。というのは、そのような電話の中に「爆弾を仕掛けたぞ」というような内容のものがあり、本当に爆弾が仕掛けられているのかということになったからだ。だからメトロTVとしては、その代わりとして様々なイスラム団体の指導者やテロリズム問題に詳しい専門家を招待して、トークショーを放送した。
このように、現在のインドネシアのメディアに対するコントロールというのは、政府だけではなくて、普通の住民や軍、警察など、様々な方向から行われているのだ。例えば2001年には、ジャーナリストに対する暴行事件というのが95件発生している。その暴行事件の中には、警察官がジャーナリストに対して行ったものや、住民による暴行なども含まれているのだ。そのうち暴行を受けたジャーナリストが死亡してしまった事件のわずか5%のみが警察によって捜査されている。
次に私が日本のODA問題、外交政策に対してどのように思っているかコメントを述べたい。まず日本によるODAで問題だと思っている点は、90年代初頭まで全て日本のODAというのは「G to G」、政府対政府だったということが問題だと思う。政府対NGOであるとか、人々と直接関わっているような援助ではなかったのだ。ここが日本と他国のODAの大きな違いだと感じている。また日本のODA案件というのは、日本企業が参加することというのが条件として入っているように思う。また日本企業というのは、インドネシアでパートナーを探す際に、インドネシアで権力を握っている企業と一緒にやるということがよくあった。例えばスハルト大統領の家族が所有する企業などだ。また日本企業やパートナーとなったインドネシアの企業がまず第一に考えていたことは、企業の利益だと思う。その援助案件が人々のために役立っているかといったことはあまり考えていなかったように思う。またインドネシア政府高官などにも、何でもいいからODA援助プロジェクトは実施されていくべきだという考えがあり、そのプロジェクトが人々の役に立っているかということは考えていなかったのだ。というのはそのプロジェクトの実施によって、インドネシアの政府高官もコミッションを得られるからだ。スハルト大統領の時代においては、スハルト大統領の妻であるイブ・ティンさんは援助案件の10%を得ていたために非難されていた。そのためイブ・ティンさんはマダム・テンパーセント(10%)、10%夫人というニックネームで呼ばれていた。その後シギットさん、トウトウットさん、バンバンさん、トミーさんなどといった、スハルト大統領とイブティンさんの5人の子供たちが成長するにつれてマダム50%、50%夫人と呼ばれるようになった。5人の子供たちに援助案件の10%ずつ与えていたからだ。
大統領夫人でさえそのようなニックネームをもらう国なので、当然日本のODAプロジェクトが貧困層や一般市民にその利益が伝わっていくことはありえない状況だった。例えば私自身の経験で言うと、インドネシアのスラウェシ島にあるマカッサルにある病院では、日本から送られた医療用の機材が錆び付いたまま放って置かれているのを見たことがある。その医療用機材が高い技術を要求するものだったので誰も使いこなせなかったのだ。その医療用機材を販売した企業は利益を得ているわけで、彼らは得をしたかもしれないが、実際に医療を求めている人々にとってその機材は何の役にも立たないものだったのだ。このような問題の原因として私が考えているのは、例えばインドネシアには日本の大使館や領事館があるわけだが、そこに勤務している政府高官というのがNGOや一般市民と直接交流することがあまりないということだ。日本の政府高官はインドネシア政府高官とばかり付き合っているのだ。
ひとつ面白い話がある。ハビビ大統領からワヒド大統領に代わるときの話だ。当時ワヒド大統領が大統領に選ばれた後、インドネシアの日本大使館はワヒド大統領に対して祝電を送らないという事態が起こった。というのは、日本大使館が得ていた情報ではハビビ大統領の後に大統領になるのは、ウイラント氏(国軍司令官)、メガワティ氏のいずれかであるということだったからだ。その日本大使館の対応と非常に対照的だったのが中国大使館の対応だった。中国大使館はワヒド大統領が選ばれる日の夕方には、ワヒド大統領がきっと選ばれるだろうということを感じていて、ワヒド大統領の自宅に大使館から行って、今回は本当におめでとうございますというふうにお祝いの言葉を送るということが行われたのだ。そういうことも影響したのかもしれないが、ワヒド大統領が外交の際に重要視した3国は中国とインドとシンガポールだった。この問題は日本の外交官がワヒド大統領は市民側から出てきた指導者だということで過小評価していたために生じたのだろう。しかしながら日本大使館というのは正確な情報をくれるところだとインドネシアのメディアからも信用を得ていることも事実だ。
またインドネシアで取材活動している日本のマスコミというのも日本の外交筋と同じような問題を抱えていると思う。つまり一般市民との交流に欠けているという問題だ。また日本のマスコミが日本大使館からもたらされた情報というのを信じきっているというのも問題だと思う。日本の新聞や雑誌の中で、インドネシアに関する記事が載った場合に、「インドネシアの西洋の外交官によると」というのを見ることがあるかもしれない。しかしそれは西欧の外交官からの情報ではなくて、日本の外交官からの情報であるのだ。ただ日本大使館は自分たちからの情報だとは言わないでくれと言っているので、そのような書き方をしているのだ。大体以上のようなことが私が伝えられることだと思います。どうもありがとうございました。質問があればどうぞ。質問者 (インドネシア語で自己紹介)インドネシアの大学で日本語教育をしたことがある大学教員です。今日、日本の新聞では、日本のODAによる薬が向こうで安く売られていて、それを日本大使館が認めたという非常に珍しい、今までになかったニュースが出ましたが、このことをどう思いますか。
フランス氏 実際のケースというのが現時点でどうかというのは、今日私は日本にいるので話せないが、そのような薬品が市場で売られているというのは非常に多くインドネシアで横行している問題だ。例えば97年から98年にかけての話だが、日本政府は援助物資として非常に多くのコメをインドネシアに送ってくれた。その日本政府が送ってくれたコメというのは、基本的には収入の低い家庭に与えるべきコメだったのだが、実際にはジャカルタのチピナンにある市場で普通に販売されていた。そして日本のコメは20キロで4万ルピアという非常に安い価格で売られていた。4万ルピアはおよそ500円くらいだ。しかし日本のコメというのは非常に品質が高いのでインドネシアの富裕層に人気になり、彼らが市場まで買い求めに行ったのだ。
コメですらこうなので、薬品に関しても同じようなケースがあるのも当然だと思っている。というのは、問題として政府が流通を行う際に、政府機関を通じて流通を行っていて、市民たちとのパイプがある団体が流通を行うのではないところに問題があると思っている。だから私自身はODA援助物資というのは、政府機関を通じてではなく信頼できるインドネシアのNGOを通じて人々に配給されるべきだと思っている。日本の外交筋はインドネシアの同レベルの政府高官などとしかパイプを持っておらず、村やNGOのパイプに欠けていることが一番の問題ではないだろうか。私自身の印象では、日本大使館というのは、人々のために活動するNGO団体が非常にラディカルな、左側の団体だという印象をもっているために避けているように思える。しかし実際には、インドネシアのNGO団体は貧困層のために活動しているだけなのだ。私が日本政府や皆さんに対して言いたいことは、ただ「政府対政府」というキズナだけではなく、人々と人々の交流も深めていただきたいということだ。以上です。質問者 ありがとうございます。国家対国家ではなく、例えば私個人で言えば、プラムティア・アナンタトゥールさんをアジア文化賞の推薦委員として呼んだのですが、そういう個人でできることを一緒に考えていければと考えています。
質問者 ジュビリー関西ネットワークと、それからコトパンジャン・ダムの被害者住民を支援する会というNGOで活動している内富と申します。私たちは、現在日本とインドネシアの問題を考えるときに、未来に向けて「人民対人民」(P to P)でやるということはもちろんあるわけですが、今鈴木宗男さんで問題になっている、あの数十倍、あるいは数百倍の利権関係が日本とインドネシアの間にあって、現在インドネシアでは大変な債務問題が起きている。しかもその債務の3分の1はスハルトファミリーやその取り巻きに横領されているという問題があるわけですね。そうすると、今ODAなり、日本とインドネシアの間の利権構造を徹底的に追及して、この責任を明らかにしていくことが日本とインドネシアのために必要であると考えています。そのためにインドネシアのジャーナリズムがギナンジャールであるとか、スハルトであるとか、あるいは日本大使館がこれまで犯してきた犯罪というものをどのように追及していけるのか、あるいは可能性があるのかということをお聞きしたいのです。またこの4月にコトパンジャン・ダムの被害者がはじめて日本で、ODAと日本政府の責任を問う裁判を起こしますが、日本政府の責任を追及するということになった場合に、インドネシア国内でそれを支援し日本を標的にするようなジャーナリズム活動が可能な状況であるのか、お伺いしたいです。
フランス氏 非常に重要な問題であると思っている。日本とインドネシアの間の利権構造がどのようになっているのかを明らかにすることは重要だと思っている。インドネシアのスミトル教授の計算によると、外国の援助の30%が利権の中で消えてしまっているという問題があるのだ。
1950年代から1964年までのインドネシアの公務員の生活というのは、自転車を使ってそれぞれの勤務先に向かうような大変質素で普通の生活だった。しかし、1963年に日本政府によって戦後賠償金が支払われると、そのような公務員の質素な生活が突然変わってしまったのだ。現在のインドネシアの経済大臣であるトルジャトン・クンチョロ・ジャクティ氏によると、この戦後賠償金の支払いによって汚職問題が生まれ始めたのだという。日本による賠償金はインドネシアの一般市民には必要のないプロジェクトに使われていた。例えば、ジャカルタのモナスという独立記念塔の建設であるとか、ジャカルタにあるホテルインドネシアの建設。あるいはバリ島にあるリゾートホテルであるサムドラ・ビーチホテルの建設に使われたのだ。従軍慰安婦に支払われている補償金も同じように使われている。そのような戦争の犠牲者に対して支払われた補償金は、犠牲になった人々のために使われているわけではないのだ。例えば支払われた補償金によって老人ホームが建設されているが、そんなものはインドネシアの文化の中では必要とされていないものだ。インドネシアのお年寄りは自宅で過ごしたいと思う人のほうがはるかに多いのだ。しかしインドネシアの政府高官や日本の企業側から考えると、このように大きな建物を建設するほうが、自分たちにとって利益やコミッションを得られるという点で役に立つのだ。浅野 今、会場でチラシを配ってもらいましたが、私も協力させてもらっているコトパンジャン・ダム問題に関するものです。皆さん参考にしてください。典型的なODA問題です。このコトパンジャン・ダム問題というのは、私がイエニ・ロサ・ダマヤンティさんというNGOの人たちと協力して現地調査をして、初めて報じました。私がインドネシアから追放された大きな原因を作った問題です。実は私がコトパンジャン・ダムの運動をしている人三人を、日本とインドネシアの両政府と企業を批判するキャンペーンのために、日本に送り込んだとされたのです。JALのチケット代を新潟大学の鷲見一夫先生が振り込んで、僕が切符を買って渡した。全部当局に電話も盗聴されていますし、為替も全部管理されていました。しかもそのことを告発したのが今青山学院大学の教授などになっている当時の外務省の人たちなのですが。インドネシアにいた日本外務省当局者が、浅野を早く日本に返せと告発したのです。それが事の真相なのですが、その大きな原因となったコトパンジャン・ダム問題です。ぜひ関心を持っていただきたいと思います。他に何かございますか。
質問者 中国からの留学生です。インドネシアのメディアはまだ完全に自由なメディアにはなっていないとおっしゃっていましたよね。では一般市民は報道の自由に対してどう認識しているのでしょうか。
フランス氏 ご質問ありがとうございます。インドネシアの人々というのは、今現在インドネシアのメディアが提供している自由さというものに対してはとても喜んで迎えている。というのは、今インドネシアの人々は実際の情報はどういうものかということを提供される権利を得られるようになったからだ。スハルト大統領時代においては、過去の中では事実と思われることが噂として流れていても、それで終わってしまっていたわけだが、現在はその噂を報道できるようになっている。
でも実際には、母親が子供を産むというときにも、つわりがあるといった苦しみがあるように、インドネシアのメディアも報道の自由を生み出すための苦しみを味わっている。例えば、現在インドネシアでは爆発的にメディアが増える中で、タブロイド紙、つまりポルノやセックスについて書かれているメディアも増えている。現在、インドネシアの報道の自由は過渡期にあると考えている。今後インドネシアの報道の自由はより多くの人の役に立つような形で確立されればよいと思っている。質問者 ネパールからの留学生です。インドネシアの今後の経済発展に向けてジャーナリズムの役割についてどのように考えていますか。
フランス氏 軍がどのような力を持つかということが非常に大切だ。スハルト大統領時代の時のような力を軍が再び持つことがないようにと人々は祈っている。私たちがスハルト大統領を倒したときにはスハルト自身、軍、そしてゴルカルという公務員がみんな参加する政党という3つと闘ったわけだが、スハルトはいなくなり、軍もデュアル・ファンクションという、治安維持と共に政治的・社会的機能を同時に持つという機能をもはや持っていない。しかし問題はゴルカルという、スハルト時代にできた職能団体政党が今も力を持っていることだ。そのため、短期的に見てインドネシアのジャーナリズムが正常に機能するということはあまり期待できない。それはマスメディアを所有している人々に対してゴルカル的なものが強い力を持っているからで、それはワヒド大統領のときに顕著だったわけだが、ワヒド大統領がゴルカル的なものを排除しようとしたときに、ゴルカルが支配しているマスメディアの経営者たちはそれを邪魔しようとした。だからゴルカル的なものをなくしていくことが課題になっている。
軍の民主主義的な改革のもうひとつの問題は、経済危機だ。経済危機の中でこれを解決するには国際的支援が必要だ。軍は再びスハルト時代のような力を取り戻そうという試みをしているが、それを許さないという国際的なプレッシャーというものを私たちは期待している。
また、東ティモールで99年に行われた、インドネシアに帰属しつづけるか否かを決める住民投票が行われた直後に起きたインドネシア軍による残虐な破壊行為を受けて、インドネシア政府は人権法廷というものを開くことを決めた。この人権法廷の行方がインドネシアの新しい民主主義と改革の始まりになると期待している。そしてこれをきちんと遂行することが、メガワティ自身が軍から独立するということにも繋がるのではないかと考えている。
今インドネシアの一般市民の間でよく言われているのは、スハルト大統領時代のほうがワヒド大統領やメガワティ大統領時代よりも良かったということだ。スハルト時代にはコメがきちんとあったし、ガソリンも今ほど高くなかった。生活費も低くて済んだし、仕事もそれなりにあったからだ。それは特に失業の問題があって、22億人のうちの4000万人が失業しているのだ。しかし、スハルト時代の悪い思い出というのを人々は忘れていないので、軍が再び力を持つことを許すとは思わない。現在の文民政権が再び軍事政権に戻ることを許すことはないだろう。質問者 経済学部3回生です。本日はお話ありがとうございました。テロ事件から半年経つわけですが、住民の大部分がイスラム教徒の方であるインドネシアでは社会全体の中で大きな変化というのはあったのでしょうか。先ほどメトロTVが抗議の電話をたくさん受けていることを聞きましたが、社会全体の流れに何か大きな変化はあったのでしょうか。変化があったとしたら、社会を批判していくメディアの側がそれをどう捉えているかを教えていただきたいと思います。
フランス ご質問ありがとうございます。インドネシアというのは住民の9割がイスラム教徒であるという世界最大のイスラム教国だが、そのイスラム教徒たちは穏健派のイスラム教徒だ。その多くのイスラム教徒の大部分はジャワ島に住んでいる人々なのだが、彼らは中東など、他の国々のイスラム教徒とは少し違うと思っている。ジャワ島の場合はインドから来たヒンズー文化などと融合しているイスラム教なのだ。しかし問題なのは、穏健派のイスラム教徒たちがそれほど声をあげて主張しないということだ。その代わりに10%のファナティックなイスラム教徒の人たちは非常に大きく声をあげるので、外国からの印象としては彼らの声しか聞こえず、インドネシアはとてもファナティックなイスラム教徒の国だという印象をもたれてしまっていると思う。この10%のイスラム教徒の中には、例えばアフガニスタン対ロシア戦やボスニア戦に参戦した者、あるいはフィリピンのマニラに送られていて最近逮捕された者などが含まれている。現在は、彼らがインドネシアに帰国した後、インドネシアで戦士として声を上げ力を発揮するという事態になっている。現在のメガワティ大統領が抱える問題に、メガワティ政権がこのような比較的小さいイスラム教徒の団体に対して厳しい態度を取れないということがある。というのは、メガワティ大統領というのはイスラム教徒を代表する指導者ではないと考えられているからだ。これはワヒド大統領とは非常に異なる点だ。ワヒド大統領は、3500万人の会員を抱えるインドネシアで最大のイスラム団体であるナフタトゥール・ラマという団体の指導者だったのだ。もしワヒド大統領と同じような政策をメガワティ政権が採ったとすると、政権の安定度が非常に脅かされるということになるだろう。というのは、メガワティ政権というのは自分の政党だけでなく、イスラム政党や改革派の政党など様々な団体によって支持されているからだ。現在、東南アジアの国々やアメリカがインドネシアに対して不満を持っている。それは、オサマ・ビンラディン氏やアルカイダと関係あるイスラム指導者をインドネシア政府が取り締まっていないからだ。
なぜインドネシア政府が厳しい対応を取れないかというと、そうした場合に政権の安定を損なうからだ。もしメガワティ大統領が厳しい対応を取れば、イスラム政党側がこの問題を利用して、メガワティ大統領は反イスラムだと非難する可能性があるからだ。というわけで、この問題はインドネシアの中でも非常にセンシティブな問題で、メガワティ大統領自身も対応を苦慮しているような状態だ。
さらにはメディア自身もイスラム過激派に対しては非常に気をつけて対応している。警察も恐れている。ハビビ大統領の時代には、このような小さな過激派の団体が民主化を求める学生運動を抑えるために利用されたこともあったくらいだ。以上です。浅野 これで質疑応答を終わります。
最後に今日お話についてコメントさせてください。フランスさんのお話の中で、ジャカルタにいる記者たちの意識が大使館の人たちと同じであるということが印象的でした。私がインドネシアから追放されたときに、次の特派員が来るまでの2カ月くらい、僕は絶対に仕事をしてはいけないというので、毎日プールで泳いだりして待っていたのですが、インドネシアからの追放が決まったと同時に日本大使館に出入りする「記者パス」も取り上げられたんですね。あなたはジャーナリストではない、ジャーナリスト活動はできないのだということを日本大使館から通告されたのです。私は何という国かと思いました。こんなことをアメリカ政府は絶対にしません。昔、南アフリカやポーランドでアメリカ人記者が当局に弾圧されたときでも、その人の思想などと無関係に、アメリカのパスポートを持っている人は守ってくれる。これは例えば日系の人が平壌で捕まったり、韓国で公安調査庁の人が捕まったりしたことがあったけれども、その人が右か左か、体制派か反体制かなどということは関係ない。それが大原則なのに、いったい何という国なんだと思いました。これも記者クラブが国家と同じ論理で動いているというところに問題があるのだと思います。外信部長になるかもしれないので名前を明らかにしますが、朝日新聞の磯松という記者はメコン社から本を出していまして、その中でスハルト大統領を尊敬すると書いています。私は終身大統領としてスハルトさんに頑張ってもらいたいと書いているんですよ。そういう人が今外信部でデスクをしているわけです。東ティモールへ行って韓国軍と一緒になって、国際平和に貢献しなさいということを社説で書いているのです。船橋洋一という論説委員は東ティモールに自衛隊が行くことによって、日本自身が変わるのだとまで書いている。船橋洋一さんという方はかつて辺見庸さんと一緒に仕事をして、毛沢東万歳といっていた人なんですけれども、30年経ったらこんなに変わるわけですね。今は朝日新聞の社説がCIAのエージェントのようになっているわけですね。
先ほど1991年11月12日、ティリで大虐殺があったというお話がありましたけれども、そのときは日本政府はスハルト政権を支持したのです。今度大統領になることが確定的なシャナナ・グスマンさんが山の中に逃げていたときに、インドネシア軍は彼の無線を傍受するためにODAを使っているわけですよ。日本から送った援助が盗聴やシャナナさんが発信していた短波放送を妨害することにODAが使われていたわけです。で、日本にいる東ティモールの人民を支援する人たちは、こっそり物を運んだりして捕まったりしました。殺されることもあった。ですから、怖い思いをしながらも支持してきたわけです。
ところが今度はスハルト政権が倒れると、「シャナナさん万歳」と言って、東ティモールの人を助けますと言って自衛隊を派兵するんです。カンボジアのPKO以上の兵員を派遣する。新しい国ができるのに何でPKOがいるんだと思いますけれども、結局送ってしまいました。で、2、3日前にディリに自衛隊の29人が入ったときに空港でデモがあったわけです。規模は小さかったけれども、ロイターなどはきちんと報道しています。日本の新聞は一切報道していません。みんな歓迎しているとだけ書いています。私が調べた限りでは、共同通信だけが反対の声があがったと書いたようです。
東ティモールの人たちは、本当にぼろぼろになっています。日本軍の侵略が1940年から45年にあり、ポルトガルがまた取り戻し、そしてインドネシアが1975年末に軍を派遣して人口の4分の1が死んだと言われています。インドネシア軍によって人々が強姦され焼き尽くされた。そしてそのインドネシア軍を支持したのが日本、アメリカなんですね。そんな中、東ティモールの人たちは闘ってやっと独立を勝ち取った。その時に過去のことを何も考えないで東ティモールに自衛隊を派遣することはすばらしいと書いている朝日新聞や毎日新聞はいったい何なのかと思います。かつてはPKOに反対と社説で書き、ましてやPKF凍結解除、軍隊派遣なんてとんでもないと書いていた新聞社ですよ。わたしはソマリアやゴラン高原に行く場合は、とんでもないこととまでは言いませんが、侵略戦争の後始末もしないで、東ティモールにあのような形で行くということをメディアが全く批判せず、インターネットでしかそのような情報を取れないという状態を見ると、この国はいったいどうなっているんだろうか、すべてが鈴木宗男さんのように腐敗していると言わざるを得ないですね。
私がフランスさんと話をするときには大体インドネシアのことについて聞きますので、日本のODAや日本大使館についてどう思うかということについて話を聞くのは初めてだったのですが、思っていたとおりの話でした。私が講義でこのような話をすると、あの教師は偏っている、ゲストにも反体制の人ばかり呼んでいるなど言われるのですが、フランスさんは反体制でもなんでもないのです。インドネシア国立大学の経済学部を出て、インドネシアのプレスでずっと頑張ってきた、ごく普通の、インドネシアの人民を代表し、人民のために働いているジャーナリストであるわけです。そのような方があれだけ厳しいことを日本の外交とプレスに対しておっしゃられたわけです。ですから、私を偏っていると言う方は、朝日新聞やNHKを見たりSAPIOなどを読んだりしていて、そういうのが正しいと思っているのではないか、偏っているのは私ではなくそちらではないのかと思いました。
本日の講演とは直接関係ないことですが、フランスさんは1997年10月31日をもって、NHKジャカルタ支局長から不当解雇されました。インドネシアで従業員を解雇するときには適正手続きが必要です。ILOで決まっているし、ましてや外国の企業が現地の人の首を勝手に切ることはできないのに、フランスさんは退職金すらもらっていません。なぜフランスさんが解雇されたのかは私のホームページなどを見ていただければ分かりますので省きます。ですが、フランスさんは現在、産経新聞のストリンガーとして働いています。産経新聞はジャカルタに支局を持っていないので、シンガポールにいる特派員に原稿を送り産経新聞に掲載されているわけです。産経新聞が右で朝日新聞が左だというのは大きな間違いなわけです。朝日新聞の記者はみんな大使館の中で取材をしているのです。今でも覚えていますが、先ほどの磯松さんが「浅野さん、大使館で取材をするのがいちばん簡単ですよ。日本語で取材できるから」と言っていました。労働省や厚生省、経済企画庁から来ていて、みんな専門家なわけですから、そこで取材して記事を書けばいいんですよと言うのですね。後はゴルフやらテニスをして遊びましょうと最初に言われて、この人はいったい何なのかと思いました。それから先ほどフランスさんが西側外交筋と記事に出ている場合は日本大使館だとおっしゃっていましたが、その通りです。新聞に西側と書かれていたらそれは日本大使館のことです。皆さんもそのように読んだらいいと思います。
本日はフランスさんからインドネシアの生々しい情報が得られたと思います。インドネシアと日本というのは非常に大切な関係だと思います。コトパンジャン・ダムの裁判などもぜひ支援していただきたいです。このような小さな試みから大きなシステムが変わっていくのだと思います。最後に通訳の小坂田薫さんとフランスさんに拍手で感謝の意を表して講演会を終わりたいと思います。ご静聴いただきましてありがとうございました。(以上)
Copyright (c) 2002, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2002.04.18