2003年2月19日
日本のODAの犯罪 コトパンジャン・ダム住民の裁判闘争
浅野健一
日本のODA(政府開発援助)などの海外援助は多くの非難を集めています。インドネシアの、ある人権擁護の活動家は「援助はAIDSだ」――ようするに問題を解決するのではなく、むしろ創出している――と表現しているくらいです。人権を侵害し、環境を破壊しています。
例えば、インドネシアのスマトラ島にあるコトパンジャンで、日本のODAによってダム建設プロジェクトが行われました。私はプロジェクトに反対する、地元インドネシア人住民について、記事を書きました。一九九一年九月四日、コトパンジャンの住民代表が、日本大使館員と話し合いの場を持つことになりました。しかし、大使館内で行われた協議の席には、インドネシア軍関係者が6人、同席していたのです。軍関係者たちは協議に参加した人々の写真を撮り、協議を聞くなどしました。当時、ジャカルタに駐在していた、他の日本のメディア関係者たち、5人もこの話を知っていましたが、当時の日本大使館の阿部知之公使(21)が全国紙の支局長に頭を下げて、書かないでくれと懇願し、結局私以外は誰も書かなかったのです。阿部氏は私が追放されたときに、その主犯だった人で、田中真紀子前外相に強く批判された人です。また「兵補問題」でも冷酷な対応でした。
今年9月5日にコトパンジャンの住民たち約三八〇〇人が原状回復と補償を求める訴えを東京地裁に起こしました。その夜のテレビ朝日のニュースステーションに、短い時間でしたが、私はロンドンからVTRで出ました。
3月末に新たに4000人近い住民が提訴するということです。
大使館内で行われた住民と日本大使館員との協議の部屋にインドネシアの軍人がいた話をインタビューで語りました。コトパン問題は私が共同ジャカルタで最初に問題提起しましたが、日本のODAが一〇年たったいまも住民を苦しめているわけです。コトパンジャン・ダム問題では、ジャカルタに住む小松邦康氏というNHKや朝日新聞の支局でパートの助手をしていた元日本人留学生がめこん社から出した『インドネシア全二十七州の旅』という本で、コトパンジャン・ダム予定地の住民はダムに反対などしておらず、私や活動家があおっているだけなどと不当に非難した。『日本大使館の犯罪』(講談社文庫)の279pから後に、この「怪しげな留学生」について詳しく書いている。
ところで、コトパン問題では、外務省の体質が何も変わっていないことがよく分かる。9月5日に放送したテレビ朝日の担当者が9月1日に外務省有償資金課を通じて阿部知之氏に取材を申し込んだところ、「阿部は多忙のためインタビューにお答えできません」という旨の回答を書面で受け取った。担当者は、阿部氏に直接「有償資金課からお話が行っている件ですが・・・」と電話したところ、阿部氏は「取材の申し込みなんて聞いてないぞ」と返答。つまり、有償資金課が勝手に「阿部は多忙でインタビュー不可」と、テレビ朝日に言って来たことが分かった。
担当者は改めて有償資金課にとぼけて聞いてみたところ、次のようなやりとりになったという。
「やっぱり阿部さんは忙しいから無理なんでしょうか?」。
「ええ。申し訳ございません。阿部本人に確認したところ『忙しいので断ってくれ』と言っているものですから」。
「あのぅ、今から30分ほど前に阿部さんに電話したら、『取材の話なんて有償資金課からも、報道課からも来ない』と言っていましたが・・・」。
「いや、それは、その、あの・・・」
「答えさせたくないから、嘘をついたと言うことですね?」「いえ、そういうわけでは・・・」。
「じゃ、阿部さんが嘘をついていると言うことでしょうか?」。
「ちょっとお待ちください。上司に代わります。
二日の夕方、有償課責任者は「阿部氏に連絡をとっていなかった」と認めたという。
コトパンジャン・ダム問題については、ノーム・チョムスキー教授との対談の本『抗う勇気 チョムスキー・浅野対談』(現代人文社、3月中旬発売)でも取り上げています。
コトパンジャン・ダム被害者の訴訟を支援してください。
コトパンジャン・ダム被害者住民を支援する会(〒534-0024 大阪市都島区東野田町4-7-26-304 なかまユニオン気付、電話 06-6242-8130 Fax 06-6242-8131
http://www2.ttcn.ne.jp/~kotopanjang/
kotopanjang@mx9.ttcn.ne.jp以下は私が2000年2001年7月25日、エル大阪の集会で講演した内容だ。ちょっと古いですが、参考までにお読みください。
《みなさんこんばんわ。今日は特別に私に話させていただいて大変光栄です。最初にインドネシアから来られた3人の方を心から歓迎したいと思います。私まさかこのコトパンジャン・ダムの問題がこんなに長引いている事を知らなくて恥ずかしいのですが、私は89年から92年まで3年半、共同通信のジャカルタ支局長をしておりまして、そのときに書いた記事をコピーしてきました。もう一つはイェニーさんというインドネシアの人権活動家・環境活動家の人のことを書いた「週間金曜日」のコピー、後はおまけみたいなものですが「週刊現代」の私の本の宣伝です。資料は四種類ありますが、それを見ながら報告させていただきたいと思います。
私の居た時代はスハルト政権が最も強い時期で、スハルトの家族が企業をやるそれが最も行動していた時期で、日本のODAや日本の民間投資が最も盛んだった頃でした。そこでODAの一つのプロジェクトとしてこのダムの問題が出てきて、私は先ほどありましたように日本経済新聞で、これは東京の記事ですが環境破壊と言うことで、スマトラ象がいてこれを何とかしないといけないみたいな難しい問題が出てきたという記事でした。そのころインドネシアのNGOの人にいろいろ聞くと反対運動が起きているということを聞きました。私は先ほど紹介したイェニーさんなどが熱帯雨林の保護のために「スケティー」(インドネシア熱帯雨林保護ネットワーク)というNGOをやっていまして、そこと相談して何とか実態をまず調べないといけないということで、ジャカルタからイェニーさんに現地に行ってもらいました。インドネシアのNGOの人たちが現地に行ったりするとコピーとかしてパンフレットを作ると非常にお金がかかるということで、私がイェニーさん達に共同通信の臨時助手ということで、破格の通訳料というか破格の翻訳料みたいなのを出しました。これは別に非合法ということではないと思うのですが、取材そのものが現地実態調査ということになって、インタビューをしたり聞き取り調査をしたりということをイェニーさんたちのグループがやりました。その結果をこういう記事にして問題提起していったという調査報道の典型みたいな形でやりました。当時ジャカルタには6人特派員がいたのですが、ほかの人はほとんど関心を示さないで、読売新聞の鶴原特派員も一緒に行ったのですが、そんなに記事にはしなくて私一人でこれが問題だという記事を書き続けたということでした。
その中で当時外務省の中にもこれを何とかしないといけないという「外務省内良心派」みたいな人がいました。今みんな飛ばされているみたいですけれど、そういう人たちはODAが外国の人権や環境を破壊してはいけない、そういうガイドラインを作るべきだという気運が出ているのがちょうどこの時期だったのですね。日本政府の4条件というのはここにありますように住民の同意、ボランタルな同意ですね。強制された同意ではなくて。それから移転先をちゃんと確保する。そして補償されたお金はちゃんと必ず届くようにする。途中で消えないようにする。これはジャワのダムなどでいろいろ問題になったことの教訓から、三分の二位を途中役人が取っちゃうみたいな。どっかの国の外務省もそういうことをやっているみたいですけれども。そういうことのプロセスをあるいは象の移転先を確保する。あるいは寺院みたいなものもあって、それも傷つけないとかそういうことをちゃんと日本が監視をする。そのプロセスをインドネシア政府だけに任せるのではなくて。今まではODAは相手の政府を信用する、環境問題は大丈夫か、人権問題ないかといったことは内政干渉になる相手の国に対して失礼だいう理屈です。こういうときによく出てくるのが、かつて侵略した、いや植民地支配したあるいは戦時中に占領した軍事占拠したことで迷惑かけたから、そういう簡単に相手国の主権を脅かすようなことをしてはいけないという理屈です。外務省はそういうことで逃げてきたんですね。これはもうそういうことを言っておれないということで4条件。そのあと経団連がODAに関するチャーターみたいなものを作り、日本政府がODA大綱というものを作っていく過程で、このダムの問題を解決するプロセスでそういうものができたといってもいいと思います。そういう意味でこのダムくらいはちゃんとやるだろうということで、こういう集会が日本でやられるということはあまり想像できなかったということなのです。今千葉県知事になっている堂本さんなんかも現地に行きましたし、鷲見さんたちも来たりして、あと日弁連の人たちも現地に入りました。そういう意味でみんながこのダムを造ることによって環境が破壊されてはならないと言った。それで日本がコミットするということを外務省やOECFとかがきちっと明言していましたから。そういうことをしいても、こういったとんでもないことが起きています。現地で裁判なり日本でも裁判もということです。非常に象徴的という事態だと思います。(中略)もう一つ、91年9月に日本大使館で警官隊を導入したというのがあるんです。これはコトパンの住民の人たちがジャカルタに来て、日本大使館で外務省から派遣されている伊藤書記官たちと話し合いを求めたんです。ジャカルタのタムリン通りで「会わせろ」「大使は出てこい」とかやって、やっと2日目か3日目に経済協力担当の1等書記官が会うことを同意しまして、中に入ったんですね。5人だったと思うんですけど。その会議室みたいなところで阿部友之公使、この人はアケミなんとかいう馬を買った松本さんの上司に当たる人で、いま田中外務大臣に一番嫌われている 仮病を使ったと言われている阿部友之さんなのですけど。あの人が全部指揮しまして、なんとその会議室にインドネシアの公安を入れたのですよ。5人のうち3人が警察で陸軍が2人だったと思いますけど、それをイェニーさんたちが発見しまして、インドネシアの軍人が入っているじゃないかということで、大使館はそれを認めまして、大変なことですよね。そこは日本の主権が及ぶところですから。そこへ住民が安心して入って「インドネシアのスハルト政権がこんな大変なことをしている、私たちを助けてください」ということを日本政府に言っているわけですよね。私はこれを70行くらいの記事にしました。インドネシア大使館は住民との話し合いに軍人を入れたということ、これは一面トップに行くだろうなと思ったのですが、日本の新聞で使ったのは沖縄の2つの新聞だけです。ほかは私が見た限り全然使ってない。その事を知ったほかの新聞社も全然書かない。今日まで1行も書いてないです。なぜ書かないかというと阿部公使が支局を回って、あれを入れないと混乱するからとかいろんな理屈を言ってとにかく書かないでくれと頭下げて回るんですね。私とこは頭下げてもだめだと思っているから来なかったのですけど。そういう形で外務省と記者クラブ、まあ特派員が癒着している構造があるということの象徴だと思います。
それから当時このコトパンジャンプロジェクトについてあるいは日本のODAについて日本の外務省がそこまで懸念を持った、つまりインドネシア政府に対して非常に信用してなかったということを示すエピソードがあります。国広大使がこのダムの補償の問題、補償がどこまで進んでいるかあるいは住民の同意の取り方とかが任意で行われているかどうかということを調査するために、メダンにある総領事館で最もインドネシア語ができる、外見上もインドネシア人と変わらないような日本人のスタッフを選んで、その人に2ヶ月くらいお忍びで身分を偽って村に入ってちゃんとインドネシア政府やインドネシア電力公社がちゃんとやっているかどうかを監視させたのですね。これを記者懇談会で国広大使が得意げに言うんですよ。「私たちもちゃんとやってるんですよ浅野さん。そういうのを送り込んでですね」と。と言うことは、当時の日本大使館というのはスハルト政権を信用してなかった。片一方ではアセアンの優等生、経済成長、開発を持ち上げていながら信用してなかったということがありました。それほどまでに心配しながらケアしながらやったのがこういう結末になっている。(中略)それからここに私の朝日新聞の記事が載っていると思うのですけど、移転に同意した住民の人の所にはペンキで同意したというのを書いてあるんですね。つまり書いてない所はまだしてないという、そういうプレッシャーをかけている。それが同意したことの実態だということも現地から私は報告しました。それからODAにも住民の同意を日本外務省が要請することも書いています。共同通信の記事を朝日新聞が載せるということはきわめて異例なのですね。自分の所がいるわけですから。それが4段組で全文載せてくれたということです。こちらは信濃毎日新聞です。信濃毎日新聞は共同通信をよく使うのですが、その同じ記事を朝日が使ってくれました。わたしはこの約束を日本政府が全然未だに守ってないということについて、私たち日本の国民・市民がきちんとこれからそれに対して抗議して、約束を守らせるということが重要です。私もずっと気にはなっていてイェニーさんたちにいろいろ聞いてはいたんですけれど、これほど事態が深刻だということは内富さんから話を聞くまで知らなかった。そういう不明をわびながら、これから協力していきたいと思いますので、みなさんODAのほんとの意味での改革のモデルになるような市民運動を一緒にやっていきたいと思います。
<浅野講演 コトパンジャン・ダム裁判被害者住民代表団 日本縦断キャンペーン大阪報告集会2001年7月25日 会場:エル大阪
テープ起こしの責任はコトパンジャン・ダム被害者住民を支援する会で、パンフレット「インドネシア コトパンジャン・ダムは告発する」(2001年12月7日発行)の16p〜18pに掲載>
Copyright (c) 2002, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 2003.02.19