元日本軍「慰安婦」 
学生二百人を前に証言集会


 韓国の元日本軍「慰安婦」イ・ヨンスハルモニを迎えた『元日本軍<慰安婦>ハルモニ証言集会』が二十一日、同志社大学寒梅館で開かれた。会場には二百人を超える学生や市民が訪れ、七六歳の「生きた証人」の声に耳を傾けた。
 証言集会は二部構成で行われた。第一部は元日本軍「慰安婦」たちの日常をドキュメンタリーで綴った映画『ナムヌの家』(製作・監督:ピョン・ヨンジュ)が上映され、第二部からイ・ヨンスハルモニによる証言講演が行われた。
 ハルモニとは韓国語で「おばぁちゃん」の意味である。また、かつて日本軍「従軍慰安婦」としての扱いを受けた人たちを「ハルモニ」と言う場合がある。
 イ・ヨンスハルモニは一九二八年韓国の大邱(テグ)に生まれる。一六歳の時に日本軍に強制的に連行され、連行途中と連行後に性的暴力を繰り返し受けた。台湾に連行された後は日本軍「慰安婦」としての生活を三年間強要された。
 証言講演では「今から話すことは、皆さんが知らなければいけないことです」と、「慰安婦」としての体験をありのままに話し始めた。どのようにして連行されることになったのか、同じような状況下で自分を助けて励ましてくれた女性のこと、台湾で受けた「慰安婦」としての扱いなどを語り、時には涙を見せながら聴衆に訴えかけた。また、日本軍の特攻兵との出会いを、当時教えてもらった日本語の歌を交えながら話した。
 中国や韓国の反日デモや、日本人拉致問題でアジアの国際情勢が注目されている今日、学生を中心に会場が埋まったのは、それぞれの問題意識の高まりを示すと言えよう。イ・ヨンスハルモニは朝鮮民主主義人民共和国の諜報機関による日本人拉致問題にふれ「日本政府は、戦争中に数十万の人々を性奴隷として連行した罪を先に認めてから、拉致問題に取り組むべきだ」と話し、会場の一部からは拍手も起こった。
 集会に来ていた学生たちは「韓国と日本の双方の立場をよく理解することが重要ではないか」と感想を述べた。また「学生を中心にして開かれたこの集会は、これからのアジア各国を結びつける架け橋になればいいのではないか」と男子学生は述べた。
 証言集会は同志社大学の他にも、京都教会や京都精華大学でも開かれ、多くの学生、市民が参加した。
 【粟飯原理・浅野ゼミ11期生】

証言会場の様子 ©2005

以下、証言集会の記録【整理:新垣統子・浅野ゼミ】

  
  李容洙(イ・ヨンス)さん証言集会
  日時:2005年4月21日(木曜日)午後
  場所:同志社大学今出川キャンパス・寒梅館(クローバーホール)


    司会:森 類臣
    通訳:李 其珍


森:私の方からイ・ヨンス・ハルモニを紹介したいと思います。ヨンス・ハルモニは、1928年、韓国の大邱(テグ)に生まれました。1944年・16歳の時に日本軍に連行されて、台湾の方へ行きました。移動中の船の中で、兵隊たちに繰り返し犯されるという悲劇に見舞われました。ハルモニは1992年6月に名乗り出た後に、現在この日本軍慰安婦の問題に積極的に行動されて、証言なさっています。では、イ・ヨンス・ハルモニに登場していただきたいと思います。


李:今日通訳を務めさせていただきます、李と申します。大学院生です。私は日本語のネイティブではないので、少し日本語が聞き取りづらいかと思いますが、どうかご理解の上、お聞きください。それでは、ハルモニの話の会を始めたいと思います。


ハルモニ:皆さんサランハムニダ(「愛しています」の韓国語)。こんにちは。こういう風に学生の皆さんと会えて、本当に嬉しいです。私がこれから話すことは、皆さんが本当に知らなければならないことです。私は皆さんを憎んでいません。罪は憎んでも、人は憎んでいません。

 私は韓国の大邱(テグ)というところで二人目の子供として生まれました。上には兄がいました。下には弟が三人いて、その中の二人は双子の弟でした。我が家は貧乏ではありませんでした。農業をやっていて、金持ちではなかったけれども、ご飯を豊かに食べていける、そういう家庭でした。
 しかし日本は、韓国・朝鮮に来て農業をやって作ったものは全部奪っていき、人も全部連れて行きました。なぜそんなことがあったのか、私はわかりませんでした。
 なぜ日本が朝鮮に来て人をも奪い、物も奪っていくのかとてもわからなかったのですが、その時私は韓国の年齢で16歳でした。日本の年齢で言うと14歳か、15歳です。私は1928年12月13日生まれです。
 証言するイ・ヨンスさん
 ある日、友達が来て「川のところにヨモギを取りに行こう」と言いました。それでヨモギをたくさんとって、川の砂のところに隠しておいて、タニシという貝類を採っていました。その時、堤防のほうで、軍服を着た人と、白い服を着た人2人が、私たちのところを指差して、何かを話していました。それで私はとても怖くて、その時採った貝やヨモギなどを全部捨てて、堤防の方に上がって、その時父はいなかったのですが、まるで一緒にいるように「お父さん、一緒に行こう。一緒に行こう」と叫びました。堤防に上がりながら見ると、軍服を着た人が、友達がいるところに向かっていました。その時私は、 何が起きたのかもわからず、私は何も考えず走って家に帰ったんです。
その後1ヵ月か2ヵ月が経った頃でしょうか。私たちの家はわらぶき屋根だったのですが、その家の裏に小さい道があって、その道に向けて小さい丸い窓がありました。
 私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。その時軍人が、私の背中に何かを突きつけていました。そういう風に私は連れ去られていきました。

 その日の夜はとても月が明るかったのですけれども、連れ去られて行った先には、上は汽車が走って、下は車が走る、両端には人が通れるようになっているトンネルがありました。その中を見ると、女性が3人と軍人が1人いました。そこに私も行きました。すると、女性の1人が私に風呂敷をくれました。それを触ってみると靴や、ワンピースのような洋服が入っているように思われました。私の家と駅は近かったんですが、そのまま駅のほうに連れて行かれて、汽車に乗せられました。その時、韓国の年齢で16歳でした。初めて汽車に乗ったので、酔ってわけがわからなくなって、「お母さん、お母さん、お母さんのところに行く」と言ったら、軍人が「朝鮮人」と言ったか「朝鮮ピー」と言ったかはっきり覚えていないんですけれども、一つにくくっている5人の女性の髪をつかんで、椅子のところに打ち付けて、暴力を振るいました。
 その時、その汽車の中に人がいたかどうかはっきり覚えてないのですが、その汽車の中で、そういう風に人が連れられていくのを見たのか、どうやって連れてこられたのか今でもよくわかりません。
 
 そういう風に汽車に乗って、京州(キョンジュ)というところに降りて旅館に入りました。入るとみんな「手と足を前に出せ」と言われました。そして棒で手と足の裏を何度も叩かれました。なんでそんなに手と足の裏を叩くのかわからなかったのですが、今思うと逃げられないようにするためだったのかと思います。そこに3日間いたのですが、毎日叩かれましした。そこで、一緒に連れられてきた、お姉さんたちに「怖くてここにはいられない。私はお母さんのところに帰りたい」と言ったら、軍人たちが来て「朝鮮語を使うな」と言ってまた暴力を振るわれました。次の日になると、女性がまた2人連れられてきたのですが、彼女たちも同じように手と足の裏を叩かれていました。
その翌日、なぜか白いご飯とご馳走がたくさん用意されていたので、「なんでこんなものがあるの、どこか行くの」と聞くと、お姉さんが「お母さんのところに行くんだよ」と言うので、とても嬉しくてご飯も食べずに、「お母さんのところに行く。お母さんのところに行く」と飛び跳ねていました。
 そこで朝、顔と手でも洗おうと思って、小川のところに行って手を洗おうとすると、痛すぎて洗うことができませんでした。そんな風に手を洗おうとしていると、目の前に紫の小さい花が小川の中に咲いて揺れていました。まるで人が震えるように花が咲いていたので、私は思わず「あなたも誰かに暴力を振るわれているの、あなたの名前は何。」と声をかけました。その時隣に大きい黒いゴムの靴を履いた男の子がいて、彼は「お前はそれも知らないの、バカヤロウ。それは桔梗の花だよ」と教えてくれました。
 私は、男の子の履いていた黒の大きいゴムの靴を奪って、その靴を履いて汽車に乗りました。
汽車に乗って、お母さんのところに行くと思って私はとても嬉しかったのです。しかし汽車は私の家を過ぎていきました。汽車には窓はあったのですが、ガラスがなかったので、私は体を乗り出して「お母さん、お母さん。この人たちが私のことを殺すよ、私のことを殴るよ、助けてお母さん」と泣いて叫びました。すると軍人がまた来て、髪の毛をつかんで中に入れて、頭をこぶしで殴りました。足でも蹴られ、私は気絶してしまいました。
 どれくらい経ったか、どこまで行ったかわからなかったのですが、どこかに着いたらトラックが置いてありました。そのトラックに乗っていくと、平壌(ピョンヤン)に着きました。
 
 ある家に行ったのですが、そこには頭にタオルを巻いたおばさんがいました。その家には水を汲むポンプがあって「それをやれ」と言われたのですが、私は一回もやったことがなかったので出来ませんでした。それができないということで、また連れて行かれて、5人の女性がまた殴られました。その時はとても寒い季節で、手が荒れて痛かったです。
 それで、白菜と大根を採りにトラックに乗ってどこかへ行きました。「大きい大根を採れ」と言われたのですが、力がないので、上の部分だけ折れて、大根が採れませんでした。すると、白菜の畑に連れて行かれて、白菜を採ったその土の上へ5人の女性を投げて、土を掘る道具で頭を殴りつけ、血まみれになるまで殴りました。
 白菜と大根を採る作業が終わって帰るとき、私は遅れてしまい、トラックが出発してしまい乗れなかったのです。私が「私も行く、私も行く」と言ってお姉さんたちをつかんで、やっとトラックに手をかけることが出来たと思うと、そこを軍靴で蹴られて、私はそのまま丘の下に落ちてしまいました。それでも血まみれになってトラックを追いかけて、白菜が乗ったトラックにやっと追いついて、お姉さんたちに助けられて血まみれになったまま帰った記憶があります。
 帰ってみると、その白菜と大根に塩を振って、塩漬けにしていました。それを大きい袋に入れて、トラックに乗せて、またどこかへ持っていくんです。ご飯が出て、「食べなさい」と言われたんですけど食べられませんでした。
 ずっとご飯が食べられない状態だったのですが、「今度は本当にお母さんのところに行くから、最初に貰った風呂敷の中身に着替えて」とお姉さんに言われました。中を見ると、赤いワンピースと靴が入っていました。ワンピースは着られたのですが、靴は足が浮腫んで入らなかったのです。今回は本当にお母さんのところに行くと言われたので、嬉しくてついていくと、今回もまた汽車に乗りました。
 
 そして降りたところが大連(ダイレン)でした。海があり、船が浮かんでいました。そこの港に船が11隻ほどあって、その最後の船に乗ろうとすると「ちょっと待って」と言われました。そこで立って待っていると、海軍の軍人が300人位その船に乗りました。その時私は、本当にお母さんのところに行けると思っていました。正座をして「お母さんのところに行かせてください」と天の神様にお祈りをしていたら、軍人が近づいてきて、私を軍靴で蹴りました。海に落ちそうになったところを、他の4人のお姉さんたちが私の足をつかんで助けてくれました。
そして私たちも「船に乗れ」と言われたので、「これに乗るとお母さんのところに行けるの」と聞くと「本当に行くから。行くから」と言われました。その時逃げようと思って、一緒にいたお姉さんに「ちょっとあっちに行ってくるわ」と言うと「あんたそっちに行くと殺されるから、もう船に乗りましょう」と言われて乗りました。
考えてみると、どうして軍人が300人乗っている船に幼い女の子を5人乗せるのかわからないのです。その時は本当にもう死にたいということしか考えなかったのですが、死ぬことがどういうことかということもあまりわからない年齢だったのです。

証言会場の様子
証言会場の様子

 
 ある日、船で「今日が日本のお正月だ」という放送がされました。そこで、女性が一人船の上に上がって、歌を歌えと言われました。私は小学校の3年生まで勉強をしていました。弟が多くて、「女の子は勉強しなくていいから、弟を勉強させなければならない」と隣のおばあちゃんが話しているのを聞いたことがあります。それを聞いて私は、夜間の学校に通っていました。その学校は正式の学校ではなく、いろんな大人が来て、子供を教えるというもので、そこには日本人の先生がいました。その先生が歌を教えてくれました。
 
 “何にも言えず 靖国の宮の木 交わしきれふせば 熱い涙が出るときは そうだ 感謝のその気持ち そろそろ気持ちがこり守る”

 という歌でした。船の上に上がってこの歌と、他にもう1曲を歌いました。そして、歌を歌ったということで、お正月の餅を箱にたくさん詰めたものを2つくれました。それで、一緒にいたお姉さんたちのところに行って、「歌を歌ってこれをもらったの。今日が日本のお正月だって」と言いながら、分けてあげると、お姉さんたちは泣きました。
 そうしているうちに、ここがどこか、いつなのかもわからなかったので、聞いてみると、上海(シャンハイ)だと言われました。平壌から大連に行って、大連から上海まで行ったんです。

 そういう風に時間が過ぎて、そのときが何年か何月何日だったのか、今でもよくわからないのですが、確かなのは、私がその時、韓国の年齢で16歳だったことは覚えています。
 ある日、船がとても揺れて、おなかの調子が悪くなって酔ってしまったので、吐いてトイレに行きました。その時、トイレに行って立ち上がろうとしたら、目の前に軍人の靴が見えました。そして私が出られないように道を塞いでいました。それでも、私が立ち上がって出ようとすると、さらに出られないように覆い被さってきたので、私は腕に強く噛み付きました。するとその人はとても強く私の頬を叩き、私はそのまま気を失ってしまい、そのままどうなってしまったのか覚えていません。私が帰って来ないので、お姉さんたちは心配になって探しに来てくれたのですが、私は全身血まみれになって倒れていたそうです。4人のお姉さんたちが私を引きずって、連れ戻してくれました。
 その時お姉さんたちが私の血を拭いたりしてくれていたら、軍人たちが4人に襲い掛かったんです。私は男と女という意識はあったんですけれども、それが何を意味するのかもその時はわからなくて、いたずらをして遊んでいるように見えて、お姉さんたちに「噛み付け、噛み付け」と言いました。

 その時はそれがどういう意味かもわからなかった私ですけれども、本当に今思います。皆さん考えてみてください。船に300人の男の軍人が乗って、その船に幼い女性を5人乗せたのです。それがどんなことを意味するのか、考えてみてください。とても辛いことでした。

 そうしているとある日、とても大きな爆撃音がして、外から人が「助けて、助けて」と言う大きな声がしてきました。ものすごい爆撃音で、私たちが乗っている船も先頭の部分が爆撃でなくなってしまって、これ以上行けないと言われました。その時「救命ジャケットを着ろ」と言われて、5人でそれをつけて、「死んだとしても、生き残ったとしても一緒だよ」と言って私が5人を紐で結びました。
 次の日明るくなって、紐をはずして窓から外を覗いてみたら、帽子や靴も浮いているという状態でした。そして船の中の軍人たちもいなくなっていました。
そして閉まっていた扉を壊したと言われて、またたくさん殴られました。

 そこでいけないと言われたんですけれども、無理やり船から降りて、陸についてみると、またトラックが準備されていました。そこに5人で乗りました。そのトラックに乗っていったら、三角屋根の高い家がありました。その家の前で降りました。その家の中は、小さい間に分かれていて、扉の変わりに毛布がかけられていました。大きい部屋には10人くらいのきれいなお姉さんたちが、きれいな着物を着けて正座をして座っていました。
 私はそこに一番最後に入ったんですが、きれいなお姉さんの一人が、私の腕を引っ張って「あんたは幼すぎるから、ここにいたらだめだよ。私がかくまってあげるから」と言って私を連れて行きました。そして私を、とても狭い押入れの中に入れて、隠してくれました。

 そんなある日、そのお姉さんが私に「平壌にいってきたの。その家にタオルで頭を巻いたおばさんがいたの。」と尋ねました。そして「そのおばさんが、私のお母さんだ。そこが私の家だよ。」と言いました。
 ある日軍人がきて、そのお姉さんにひどい暴力を振るい、刀で斬りつけました。目からはすごく血が出ていました。そして軍人は「お前が隠した朝鮮ピーを出せ」と言いました。それで私はすごく怖くなって、押入れから出てしまいました。すると髪の毛をつかまえられて、刀で服を全部脱がされ、その服を切り刻まれ、その布で口をふさがれました。
 そしてお姉さんと私に毛布をかけて、軍靴で踏みつけながら、「この朝鮮ピーはもう死んだだろう、死んだだろう」と言いながら殴りました。しかしその中でもお姉さんが、足の指を使って、私の口の中に入っていた布を出してくれました。そして毛布も少しずらして、呼吸が出来るようにしてくれました。
 軍人が去った後布団から出てみると、お姉さんは血だらけの目に服を破った布を当てて、包帯にして応急処置をしていました。そして私の血を拭いてくれながら「あなたは言うことを聞かなかったら殺されるから、これからは言うことを聞きなさい」と言いました。

 2、3日経ったあと、その軍人が戻ってきて、お姉さんと何かコソコソ話していました。するとお姉さんが着物を持ってきて、私に着せてくれました。そしてまだ残っている傷を隠すようにして、化粧もしてくれました。
 私はその時いったい何が起こっているのか、考えることすら出来ない状況にいて、その軍人に会うと殴られるというただ怖いという思いしかなかったのです。見ると、小さい部屋の中に軍人がいました。外から見ると軍人が立っていて、お姉さんがわたしの背中を押しながら「言うことを聞かないと殺されるから、言うことを聞きなさい」と泣きながら言いました。怖くて、震えながら少しずつそこへ歩いていくと、毛布を取って「そこへ入れ」と言われて、見るとそこにまた軍人が座っていました。
 私は嫌だったので「部屋には入らない。何で入らなくてはならないの」と言って戻ろうとすると、後ろから髪をつかまれて、引きずって倉庫に連れて行かれました。

 倉庫の扉を開けてみると、大きい丸いテーブルと小さい丸い椅子がありました。そしてそこへ、私を押し込みました。
 入った途端に髪をつかまれて、椅子に座ろうとすると、石よりも硬い軍靴で私の腰を蹴飛ばしました。蹴られたときに内臓がえぐられたように痛くて、床に横たわっていると、また髪の毛をつかまれて、椅子に座らされて、刀で太ももの肉をえぐられました。今でも大きな傷跡が残っています。また、足のすねを軍靴で蹴られました。そしてその足を火であぶられました。そして私の両手をテーブルの上にのせて、何かをかけました。
 痛いのか何かもわからなくなって、されるがままでいると、急に全身に強い痺れがきました。そして「お母さん」と大きく叫んであとの記憶がないのです。そのときの自分が叫んだ声が、今も耳に残っています。
 どうして人の大事な娘を連れて行ってそんなことをするのですか。私が言うことを聞かないからですか。どうして私が日本人の言うことを聞かなくてはならないのですか。 軍人の部屋に入らないからってどうして、刀で斬られたりしなくてはならないのですか。昔韓国は、夜中に泥棒が入って女性に「命を出すか、体を出すか」と言われると、命を出すという国でした。それなのに、なぜ私が夜中に連れ去られて、日本人の言うことを聞かなくてはならないのですか。
 その時、入ることを拒否した部屋にいた軍人が、他の4人のお姉さんたちに「とても幼い子が、部屋に入らないといって、連れて行かれた。死んだかもしれない。殺されたかもしれないから、探してみてくれ」と言って懐中電灯を渡したそうです。そして「もし死んでいたら、裏の山に私が埋めてあげるから」と言ったそうです。
 お姉さんたちは「この子が死んでいたら、私たちも死ぬしかない」と言って、夜中に懐中電灯を持って私を探しに行ったそうです。

 私を見つけたとき、お姉さんたちはやかんにいれた水を持ってきて、自分の口に含んで、私に水を与えてくれました。私が水を飲み込めないのを見て、もう死んだと思ったそうです。そしてお姉さんの一人が、指を噛んで血を出して、その血を私に与えました。すると、他の3人のお姉さんも指を噛んで血を飲ませてくれたのですが、私は飲むことができませんでした。
 すると、探して来いと言った軍人がきて「お前たちの部屋に連れて行ってくれ。もし死んだら、私が埋めてあげるから」と言ったそうです。その軍人は、3日間栄養薬を持ってきて、自分の口に溶かして飲ませたり、自分の指を切って血を飲ませたりしたそうです。
 ある日、私はやっと目を覚ますことができました。するとお姉さんの一人が私に鏡を見せてくれました。鏡を見ると、顔の肉がほとんどなくて、このように小さい私の目が、大きく見えました。「お姉さん、どうして私はこんなことになってしまったの」と聞くと、お姉さんは「あなたは病気だったのよ」と泣きながら言いました。
 すると、その軍人がやってきて、「ここにいてはいけないから、この子の部屋に連れて行こう」と言って、私の部屋に連れて行ってくれました。
 その時は、そこがどこなのかわからなかったのですが、とても暑いところでした。食べ物もなかったので、家の前にあるサトウキビをとって食べたりしました。またその軍人は、袋にいっぱいの血を持ってきて「注射ができないから、これを飲め」と言いました。それを少しずつ飲んだこともあります。

 ある日その軍人が来て「あなたの名前は」と聞きました。私は「知らない」と首を振って伝えました。すると「苗字は」と聞きました。当時、李という苗字だったのですが、日本名で“安原”と名乗っていました。「名前はないのか」と聞かれたので、「ない」と言うと、「私があなたに名前をつけてあげよう」と言って“トシコ”と名づけてくれました。彼は21歳の特攻隊だと言っていました。「特攻隊って何」と聞くと「飛行機に2人が乗って、敵に向かって突っ込んで死ぬのが特攻隊だよ」と教えてくれました。
 その軍人はいつも私に乾パンなどの食べ物を持ってきてくれて、「ご飯を食べなかったりしては駄目だよ。僕が君を助けてあげるから」と言ってくれました。

 ある日飛行機が飛んできて、私は家の下の防空壕に行きました。外に出ている人もいました。すると、私の隠れていた家が爆撃で潰れてしまいました。その家が木造だったので、助かったのだと思います。その時友達が、外が見えるように土に小さな穴を掘っていました。外を見ようと思って穴を覗こうとすると、煙か何かを吸ってしまい、体中から血が噴き出しました。口からは血の塊が出ました。外に出ると、爆撃のあとが残っていて、私はその穴に滑って落ちてしまいました。すると人が集まってきて私を助けてくれました。
 穴から抜け出すと、友達の新井さんという人と、昔私を隠して助けてくれたお姉さんが、土の上に横になっていました。死んだかどうかもわからず、「お姉さん起きて、起きて。ここにいたら危ないよ」と言って上に乗って体を揺さぶったのですが、起きませんでした。周りの人が「もう死んだのよ」と言って私を連れてきました。
彼女は9人のお姉さんの中で、私より1歳か2歳くらいしか変わらないお姉さんだったんです。本当に可愛い娘さんでした。北朝鮮の平壌から来たあのお姉さんも死にました。
 なぜ、何も知らない人の娘を強制連行して、「爆弾に当たって死にました」と言えるのでしょう。
 その後、私は血が止まらなくなってしまったのですが、以前私を助けてくれた軍人が、薬をくれたり、注射をしたりして、面倒を見てくれました。

 ある日の夜、川の堤防のところでその軍人と話をしました。彼は私に「僕は明後日死にに行く」と言いました。夜だったので、月ととてもたくさんの星がありました。私は月を見て「私の国の月はとても明るいのに、ここの月は小さいね」と言うと、軍人が「それは違うよ。月はこの世に一つだけだよ」と言いました。そして彼は持っていた洗面用具を全部私のところに持ってきて、星を見ながら「トシコの両親も僕の両親も、そして君も僕もあの星の中にいるよ。明後日僕が死ぬと、星が一つ落ちるんだ」と言いました。そして歌を教えてくれました。

 “還幸離陸よ台湾離れ 金波金波の苦も乗り越えて 
 誰でも見送る人さえいなけりゃ 泣いてくれるはトシコ一人だ
 還幸離陸よ新竹離れ 金波金波の苦も乗り越えて
 誰だって見送る人さえいなけりゃ 泣いてくれるはこの子一人だ”

 私はこの日を境に彼を見なくなりました。
 私はこの歌を聞いた事も特に覚えたこともなくて、その夜にたった3回聞いただけなのですが、50年以上が過ぎた今でも、3回聞いただけの歌を覚えている。今歌うことができる。本当に自分で考えても、すごいと思います。
私は1992年6月25日に名乗り出ました。名乗り出てから、こうしてどこかで証言する時、私はこの歌を歌います。何の歌かも知らずに、証言をしてこの歌を歌いました。

 私が18歳の時に日本が敗戦して、今年が60周年です。私は韓国の年齢で今年78歳になりました。どうして私は70歳を超えてまで、皆さんの前で泣きながらこんな話をしなくてはならないのですか。
彼は私に「天上に上がって、トシコを必ずお母さんの所に戻してあげるから、どこかに隠れて、人の目に触れないようにして必ず生きてくれ」と言ってくれました。
 私はこの話を韓国ですると、「どうして日本人を良く言うのですか。何で日本人を褒めるのですか」と言われます。しかしその軍人が「自分も被害者だ」という風に話したことを覚えています。

 以前防空壕が潰れたときに、私がその小さい穴から煙を吸って、血の塊を吐いたり、体から血の塊が出たりしたのですが、そんなはずが無いじゃないですか。今思えば妊娠だったと思います。その軍人が私に「トシコに赤ちゃんがいるよ」と言ってくれたことがあります。その時はどういう事かも私はわからなかったです。今ここでこの話をして良いかもわからないのですが、韓国でその話をすると、気違いとか、頭がどうかなっているという風に言われます。日本に来たときはこんな話もします。日本は良いと褒めるのではなく、あの軍人が私の、本当の命の恩人なのです。
 あの軍人が私の初恋の相手だったと思いますが、初恋が何かはよくわかりません。それでも私は本当に待っていました。ずっとその軍人を待っていました。私を可愛がってくれたその人を待っていました。その軍人一人しかいないです。可愛がってくれるし、いつも抱いてくれた、名前をつけてくれたし、歌も教えてくれました。
 
イ・ヨンスさん 
   イ・ヨンスハルモニ ©2005

 そして戦争が終わってから、私と同じくらいの歳の男の子が来て「収容所に行かないとだめだ」と言って収容所に連れて行ってくれました。収容所にいるとご飯を貰えるのですが、すごく虫に食われたご飯が出てきて、お姉さんたちが虫を全部とって白いところを私にくれました。
 そうしているとある日船が来ました。私は「船に乗ったらまたどこかへ連れて行かれるから嫌だ」と言って乗ろうとしなかったんです。しかし「乗らないと死ぬから」と言われてその船に乗って行きました。その船に乗って行くと、釜山(プサン)という韓国の南の港湾都市に着きました。そこでは、DDTという殺虫剤を体にまいてくれました。そしてお金を300ウォンくれたんですけど、私はお金が何かもわからなかったので捨てました。そしてやっと自分の家に向かったのです。また汽車に乗ったのですが、家に帰るのが嬉しくて、酔ったかどうかもわかりませんでした。
 駅から家は近かったのですが、駅から走って家に行く途中で転んだりして、口やひざやひじから血が出ました。家の門の外に立っていましたが、門の外から母が何かを拭きながら、泣いていて、独り言を言っているのが見えました。そして私の弟のチョングンにお母さんは「チョングン、豆腐を買って来て」と言いつけました。「豆腐は何に使うの」と弟が聞いたら、お母さんは「今日はあなたのお姉さんの法事じゃないか」と言いました。

 その当時、私の家には人に貸していた部屋がたくさんあったんですけど、そこに住んでいたおばちゃんたちが私を見て、幽霊だと思って、裏の門に逃げて行きました。私の父は、私がいなくなってからお酒ばっかり飲んで、体が半身不随になっていました。立っている私の姿を見ると父は、何もしゃべれずにそのまま後ろに倒れてしまいました。  
 韓国の法事では、木の根からとった油を二つ皿に入れて、扉の両方に置いて火をつけておくと、魂が来る、その幽霊が来るといわれているんです。その日もその火をつけていたんです。私が来る途中に転んだりして血を出したりしていたので、みんなが私を幽霊だと思ったわけです。私が母に近づいて「お母さん」と言ったら、母は怖がって部屋に入ってしまいました。すると隣に住んでいたおばさんが戻って来て、「違いますよ。これ本当のチョングンのお姉さんですよ」と言ったら、母はそのまま気を失ってしまいました。私も母が気絶してしまったので、母を抱えて、米をすってそれを飲ませたりしました。母は信じられない様子で、「肌をつねると痛いから、痛ければと本当だ」と言って私の手の肌をつねって、「痛い」と聞きました。私が「痛いよ」と言うと、「お母さんもつねって」と言って痛かったので、次は「噛んで」って言われて、何回も何回も噛んで、母の手首が傷だらけになりました。それで、母がそんなに傷だらけになってからやっと、「これは本当だ。よく帰ってきてくれたね」と何も聞かずになでてくれました。
 帰ってきたら、父も母もいて、何もなかったように暮らしていても、この胸の中には、何で私は連れて行かれたのか、何で連れて行かれなければならなかったのか、そういう事がずっと胸の中にありました。私は何か罪を犯したのか、それとも私の父と母が何か罪を犯したのか、何かを間違ったのか。どのような理由で連れて行かれたのかという痛みがずっと、胸の中にありました。

 私が強制連行されたその夜、いつもなら一緒に寝ているはずの母が隣にいなかったのです。私は実は今まで、この日本に来る20日位前まで、何でその時母が私の隣にいなくて、私の側にいなくて、父のとこにいたのか、ということをすごく恨んでいました。
 私の下には9歳下の4番目の弟がいます。ここに来る20日前にその弟から、何で母が私の側にいなかったのかという話を聞きました。その当時、母は一番下の5番目の弟を産んだばっかりだったんですね。その赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていたということを、こっちに来るわずか20日前に初めて聞いたのです。

 皆さん、本当に本当に日本は悪い。私は両親の大事な娘でした。大韓民国の大事な娘だっただけです。それが罪ですか?私はその時日本に連れ去られました。すると私は日本の物になるんですか?現在竹島、独島について何か話が出ています。私は無知です。何も知識がありません。しかしこういう私も、竹島と独島は違うということをわかっています。しかしあの時日本が侵略して来て、何でも自分の物だと言いました。今は、大韓民国という国が、ちゃんと存在しています。大統領がいて、国民もいて、大韓民国という名前もあります。その当時の罪に対して、日本は必ず償うべきではないでしょうか。私は歴史の生きた証人です。日本は、私を強制的に夜中に連れて行って、性奴隷にしたその罪を反省もせずに、未だに暴言を吐いています。

 あの特攻隊の軍人が教えてくれた歌を、私は一人で考えてみました。その軍人が教えてくれた歌の中に台湾の新竹という言葉があったので、自分で新竹を探しました。そこには、1944年から日本の特攻隊の部隊がありました。知り合いの新聞記者が、ある大学に行くとそこにそれに関する本があると教えてくれました。今はその台湾の新竹というところは、台湾の空軍基地になっています。私は97年と98年にそこへ行ってその軍人の慰霊祭をやって来ました。そこに海もありました。男と女の人形を買って、結婚させました。その霊だけでも天に行って、幸せに結婚して幸せに過ごして欲しいと思ったからです。
 98年にそこへ行くと、ちょうど戦争が終わったときに私を収容所に送ってくれた人がいました。その人は17歳か18歳の時に特攻隊の部隊で、労務者をやっていたと言いました。その人たちによると家が一つあって、そこに女の人がたくさんいたそうです。それが特攻隊の部隊の中だったのです。その人が全てを証言してくれました。台湾の国会議員と台湾の大学、台湾のその空軍基地で、全てを調査しました。日本の東京の中・高校の女性の先生4人と、昨日の夜友人(浅井さん)の家に行きました。浅井さんの家には、以前映画で見た“蛍”の本がありました。その本の中に、特攻隊の初恋という話が出ているのを見て、本当にたくさん泣きました。特攻隊の軍人が夜でも服を脱がないという姿が、今でも目に鮮やかに焼きついています。
 私は、その軍人が教えてくれた歌が軍歌かどうか、ちょっと人に聞いてみましたが、この当時特攻隊をやっていた方たちは「日本にいた人は生きていても、他の地域に行っていた人はみんな死んでいてわからない」ということでした。沖縄で特攻隊だった人も、それが軍歌かどうかわからなくて「軍歌にちょっと歌詞を変えてそういう風にしたのかも」という話をしていました。

 た、浅井さんの知り合いに上杉さんという方がいますが、上杉さんの出した小さい本には、“還幸”という飛行機のことが載っていました。二人乗りの、戦闘機だったのです。私はそれを読んでから、一晩眠れず、いろんなことを思い出しながら泣きました。
 本当に今更ですが、その軍人が私をどんなに愛してくれて、どんなに思ってくれたのかを感じます。全部見守ってくれて。本当に命の恩人です。
 
 私は、皆さんが悪いとは思っていません。日本の政府が、皆さんに被害を与えているのです。私は歴史の生きた証人です。こんなに明白にこんなにはっきりと調査しています。私は右翼が何かもよくわからないんですけど、彼らはあらゆる暴言を吐きました。私たちを「北朝鮮のスパイ」だと言いました。北朝鮮は同じ民族です。同じ同胞です。スパイなんてとんでもありません。私たちは、韓国だけでこういう被害者の声を出しているのではなくて、北朝鮮にいる被害者も共に、協力して声を出しています。2002年に平壌に10日間会議に行きました。同じ声を、同じ被害者が、南北共に声を出そうという話をしました。2003年には上海でやりました。2004年にはソウルでやりました。こういう風に一緒に声を出しているのにどうしてスパイだと言えるのでしょうか。今こういう風に生きた証人がいるのに、どうして違うと言えるのでしょうか?日本政府は、まだ遅くはありません。よく考えてみて下さい。
北朝鮮が、日本人を拉致したと言ってものすごい騒ぎがあったでしょう。それも勿論間違った事です。可哀想です。だから先にですね、昔数十万人を連れて行って性奴隷にしたその罪を認めて、反省して、それから北朝鮮を相手取ってやりなさい。それが筋だと思います。

 日本政府は、将来のある学生たちに被害を与えてはいけません。私は韓国と日本の、両方の若者たちを本当に大事に思っています。愛しています。だから若者に被害を与えないで、両方が平和的に仲良くできるように、解決して欲しい。被害を与えてはいけません。

 日本の政府や、罪は憎いけれども、人間は絶対に憎くないです。愛していますので、皆様一緒に頑張りましょう。日本政府が早く解決をするように。ありがとうございました。(了)
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