視野の狭い日本のマスメディア

元毎日記者の研究者、大野俊さんゲスト講義

 大野俊元毎日新聞社記者は5月12日、浅野ゼミでゲスト講義した。大野氏は記者時代、主に東南アジアで取材活動をし、マニラ支局長、そしてフィリピン外国人特派員協会会長を務めた。講義当時はオーストラリアに留学中で、6月から国立フィリピン大学の客員教授として勤務している。海外経験を活かし、「海外から見た日本のマスメディア」という題で講義した。

 大野氏は、「日本のメディア全体の傾向からして、一点に集中した報道が多く、グローバルな視点が少ない。その原因は利益目的が優先なりつつある巨大新聞社の構造と、政府側に寄りすぎるメディアの体質と考えられる」と述べた。

 全国紙が国内全体発行部数の大半を占める実態などが他社との競争主義を生み、より多くの購読者を獲得しようとするために、記事全体の内容がセンセーショナルになりがちである。そして一つの新聞社が朝・夕刊を発行するシステムは日本独特のものである。記者・編集者は締め切りに追われ、つなぎのための記事が多くなる。よって、新聞全体が“横並び”の記事で埋められてしまう。

 「海外の新聞と日本の新聞を読み比べてみると、海外の新聞はいろいろな主題が含まれており、市民の考えや世界の状況など、様々な分野のニュースが分かる」。それに比べて日本の新聞は、トップニュースを社会面、解説、写真特集など何面にも亘って記述する方式、いわゆる一点豪華主義が主体であるそうだ。よって、広い範囲の知識が得られないという。

 イラクで昨年4月に起きた日本人人質事件に関し、メディアが人質を「自己責任」といって責めたことにつては「これはもともと政府の見解であり、メディアが伝えるべきものであるかという疑問が残る。人質になった人達の意見を全く聞き入れず、政府の会見をそのままメディアに流すだけでは、ただのプロパガンダである」述べた。

 JR脱線事故に関する過度のメディア報道については、「一日の新聞の内容がすべてこの事故についてだったこともある。その記事の中で事故の犠牲者の生い立ちなどが、細かく記載されていたりする。この様なセンセーショナルな内容だけを載せたものが全国紙として発行されるべきなのだろうか」と問題定義した。「日本のメディアは国内だけを見るのではなく、世界の中の日本という広い視野をもって報道していくべきである」と締めくくった。
【12期生・大窪理恵】

 大野 俊(おおの・しゅん)経歴

 徳島市生まれ。九州大学理学部卒業。フィリピン大学アジアセンタ−で修士号取得。78年に毎日新聞社入社後、長野支局、大阪社会部、東京社会部、外信部を経て、90年12月から95年9月までマニラ支局長。

 この間、東南アジア、オセアニアの15カ国で取材活動にあたる。94年から1年間、フィリピン外国人特派員協会会長。大阪経済部編集委員を経て、2000年9月まで同部副部長。98年4月から10月まで四天王寺国際仏教大学非常勤講師(現代アジア論)。毎日新聞社を早期退社後、オ−ストラリア国立大学アジア学部に留学。2005年3月、同大学博士課程(歴史社会学)修了。

 現在、フィリピン大学国際研究所客員教授、ミンダナオ国際大学客員教授、帝塚山学院大学国際理解研究所研究員。著書に『ひとのグローバル化が進むアジア太平洋の中の日本』(中尾茂夫監修「日本経済再生の条件」(筑摩書房)、「観光コースでないグアム・サイパン」(高文研)、「観光コースでないフィリピン」(高文研)、「ハポン?フィリピン日系人の長い戦後」(第三書館)、「赤い川」(第三書館)、「動物たちはいま」(日本評論社)など。英語論文に「Shifting Nikkeijin Identities and Citizenships: Life Histories of Invisible People of Japanese Descent in the Philippines」(The Australian National University), 「Japanese-Filipinos in Davao: A Preliminary Study of An Ethnic Minority」(University of the Philippines) などがある。共著では、「アジア30億人の爆発」(毎日新聞社)、「アジア衛星スター・ウォーズ」(岩波ブックレット)、「カンボジアの苦悩」(勁草書房)、「フィリピンの事典」(同朋舎)、「ピースボート出航!」(第三書館)、「どのくらい大阪」正・続(インテル社)など、共訳に「証言内側から見たペレストロイカ」(毎日新聞社)がある。

 大野俊さんは3回生対象の授業では、記者としての体験、オーストラリア留学ついて話した。また、日本の国民国家意識の強さ、日本のマスメディアの特徴など、海外から見た日本のマスメディアというテーマを中心にして、多岐にわたる分野について語った。
4回生のゼミでは「海外から見た日本のメディア」という共同研究テーマに沿って、皇室報道や記者クラブ、歴史認識、イラク報道、デジタル放送について学生の質問に答えてもらった。

 大野さんは本文中の経歴にもある様に、フィリピンで修士号を取得、オーストラリアで博士課程を修了した。記者経験を持つアカデミックな国際派である。
マニラでの特派員生活やオーストラリアでの留学経験についての話、ジャーナリストとして、また研究者という二つの視点による講義は、我々が日本のメディアの問題点とその改善策について考えを深めるために実に有意義な内容だった。

 以下は、講義の記録である。大野さんは多忙な中、私たちが編集した文章に、加筆修正を行ってくれた。
【11期生・石橋佳奈、12期生・清水さや香】


               
                    右から大野俊さん、浅野健一教授、12期生粟飯原理くん ©2005


 

       大野俊さん講演会(4限) まとめ:清水さや香(12期生)





 毎日新聞社にトータルで22年半、記者として在籍しました。最後は経済部副部長を務めましたが、自己退職して、オーストラリア国立大学アジア学部博士課程に勉強に行きました。この3月に博士論文を提出して、日本に帰ってきたところです。修士課程も海外(フィリピン大学)です。戦前へのフィリピンへの日本人移民とその末裔の日系2世、3世のアイデンティティと市民権の変遷をテーマに博士論文を書きました。

 私みたいに日本のメディア企業に長いこといてから、海外で博士号を取るっていう日本人はまだ珍しいと思います。ジャーナリズムとアカデミズムの両方の世界での経験から、最初はジャーナリスティックな書き方とアカデミックな書き方とか、作品の違いなどを考えていましたが、皆さんの多くがマスコミへの就職を考えているということなので、私のジャーナリストとしての体験を踏まえての「海外から見た日本のマスメディア」をテーマに話していきたいと思います。また、私の場合、東南アジアやオーストラリアを中心としたオセアニアの暮らしが長いので、これらの地域のメディアとの比較も話していこうと思います。準備不足で、レジュメはありませんので、ご了承ください。

 新聞記者時代にはいくつか本を書きました。経歴を見たら変わっているように、もともとは理学部の生物学科出身です。学生時代から新聞記者にとてもなりかったわけではありません。大学卒業まえは霊長類学と人類学を勉強したくて、一度、京都大学大学院を受験したこともありましたが、落ちてしまいました。結局、入社試験の遅かった毎日新聞に拾ってもらいました。大学の理科系から新聞社に入るというのは、多少はいます。特に今はいくつかの新聞社が科学部を作っていますが、まだまだ少数派です。しかも私の様に動物生態学などという実社会からかけ離れた勉強をしていた人間が新聞記者になるのは非常に稀でした。このような経歴からしても、私はティピカルな新聞記者ではありません。だからこそ退職して、また海外で博士論文を書くという、突拍子もないことをやっています。典型的な新聞記者ではなかったということは前提にしながらお話させてもらいます。

 著書の処女作は、『動物たちはいま』(日本評論社)です。初任地は長野支局で4年ほどいました。3年目に信州の野生動物の記事連載を1年やりました。これはその連載をまとめたものです。それから、長野北部・須高地方で鉱毒問題の記事連載を、翌年、1年やらせてもらいました。これは、行政を動かすための一種のキャンペーンです。その連載は、自分が博士課程でやったのと、そう多くは変わりません。アカデミック用語でいう「オーラルヒストリー」です。全然フレッシュなトピックではありませんでしたが、よく調べていくと、結構面白い問題に突き当たってきました。その須高地方に流れる赤い川があるんですが、その歴史を辿っていくと、上流に鉱山で戦時中、戦略物資調達のために活発に採掘が行われ、戦後もそこからずっと鉱毒水は流れ出していることが分かりました。それが戦後40年近くたっても続き、下流域に住む住民に健康被害を与えていたのです。その鉱山の歴史を辿っていくと、朝鮮人の強制連行・労働など日本の負の歴史が垣間見えてきました。その連載記事をまとめたのが『赤い川』(第三書)です。

 フィリピンには、1985年頃から取材で関わっています。戦後40年記念の連載の取材で、戦時中、日本軍に協力したマカピリというフィリピン人の部隊がありました。戦後は対日協力者として非常な負のスティグマを背負って生きてきた人達で、彼らのライフヒストリーを取材しました。このような経緯でフィリピンに関心を持ち始め、フィリピン大学の先生との交流もあり、86年6月から87年7月まで、アキノ政権誕生まもないころから一年間同大に留学しました。これは会社を休職して行ったんですけれども。そのときの修士論文のテーマが、フィリピンの日系人でした。各地で大勢の日系人にインタビューし、彼らの戦前、戦中、戦後の歴史を辿ったノンフィクションが、91年に著した「ハポン?フィリピン日系人の長い戦後」です。90年末から95年9月までフィリピンの特派員をやりました。特派員は、政治、経済、文化、社会などあらゆることを一人でやらなくてはならない職種です。ホーリスティック(全体的)にその国を捉えるというのが特派員ですから、フィリピン諸島の北から南まで歩きました。フィリピンという国はそれぞれの地域に歴史があり、日本とも深い関わりのある国です。特に日本と絡みの深い地域を歩いて、現在の問題も踏まえながら書いたルポが、「観光コースでないフィリピン」(高文研)です。そのときにマニラも特派員やりながらグアム島、サイパン島などミクロネシア地域もカバーしていました。「観光コースでないフィリピン」が3刷と意外に売れたので、毎日を退職後、同じ出版社から「観光コースでないグアム・サイパン」(高文研)を4年前に著しました。これはグアム・サイパンだけではなくて、広島・長崎に投下された原爆が搭載されたテニアン島、戦後すぐアメリカの核実験場となったマーシャル諸島、そこで日本軍の虐殺事件があった小島など、太平洋の小さな島々の問題を、歴史を踏まえて書きました。「観光コースでない」の2冊は、比較的読みやすいジャーナリスティックなものです。

 最近、4年がかりでやっと書き上げた博士論文は、質も量も違います。これを英語と日本語の両方で出版するのが夢です。こういう分厚くてデータがびっしりの本は日本では余り売れないので、出版社を探すのも大変ですが、これから努力していきたいと思います。
本題に入ります。みなさんはおそらく日本のメディアの会社に入って、新聞記者とか、放送記者とか、出版の編集者とかをめざしているでしょう。日本のメディアは、日本を飛び出して、海外で暮らしながら日本のメディア状況を眺めると、ちょっと違った面が見えてきます。それは、海外の地元メディアの状況や報道が日本とは結構、違うということです。そこから相対的に、日本の報道が見ることができます。

 日本という国家を飛び出している在外日本人と、国籍を問わず日本人の血を持っている日系人を合わせると、世界で300万人以上いると思います。人のグローバリゼーションがいろんな面で進んでいます。アカデミック用語でいうと、ディアスポラ(祖国離散)現象です。中国人や韓国人らのディアスポラは、日本人・日系人以上にいます。中国人(華人)は1000万人単位です。海外で暮らしながら、在外日本人・日系人が、日本のメディア状況をどういう風に見て、あるいは消費しているかという問題を興味深く見ていました。
私がオーストラリアで留学生活を始めた2001年は、インターネットがもう発達していましたので、海外にいても、日本の情報に飢えることはそうありませんでした。日本の各新聞社のホームページはますます充実しています。以前はストレートニュースだけでしたが、最近は新聞によっては、社説やコラムも、海外でパソコンを使って読むことができます。今読めないのは解説記事、連載もの、読者欄、オピニオン面などです。朝読などは社説を読むことができるので、論調の違いは海外にいてもわかります。
世界的なニュースは、どこの国でも大きく報道されます。例えば、この前、尼崎で起きた列車事故は、オーストラリアでも大きく報道されました。それから世界的なトピックでいえば、日本にいるより海外にいた方がニュースがよく分かる場合もあります。例えばインド洋沿岸での大津波災害は、オーストラリアの場合、インドネシアが非常に権益のある国なので、被害者の様子などが連日報道され、情報もよく入ってきました。

 オーストラリアで暮らしているときは、唯一の全国紙『ジ・オーストラリアン』を読み、インターネットで日本の主要紙に目を通していました。朝日、読売、日経、毎日の社説が読めれば主張がどの様に違うかが分かります。それから中国での反日デモをどう報道しているかは、日本のメディアだけではなく各国のメディアがどう報道しているのか、興味を持って読んでいました。シンガポールの『ストレイツ・タイムズ』、フィリピンの『フィリピン・デイリー・インクワイラ―』など、各国の主要紙がどういう風に報道しているのか。日本以外のアジアではどのように捉えられているのか、日本人の理解や常識とどうかけ離れているのか、などを知るためです。
戦前、日本の移民が集中して住んでいたミンダナオ島の主要都市ダバオで発行のローカル紙もずっと見ています。というのは、今でも日本人や日系人絡みの記事がけっこうあるからです。インターネットで探すと、例えば『ミンダナオ・タイムズ』とか,『サン・スター・ダバオ』などのローカル紙が読むことができます。だから、アジア各地で、辺境と思われそうな所でも、地元のローカル紙が頑張っていて、自社のホームページを開設しています。私が新聞社でデスクやっていた頃は、常に日本の主要紙を3紙ぐらい購読し、会社で他の新聞や、さらにスポーツ紙も読み、ニュースをもれなくチェックいくという作業を連日していました。このようにして読み流すニュースは、時間を要して目を酷使し、実は時間がたつと、頭には何も残っていなかったりします。新聞記者は相当、無駄で無益な情報に振り回されています。デスクを辞めて、改めてその感を強くします。

 研究者として読めば、新聞で大事なのは第一次情報です。スクープ記事はもちろん大事ですが、ストレートニュース、つまりオピニオン面や解説などで記者の味付けをしてない、主観が入ってない記事の方を保存しています。日本の新聞のストレートニュースは、インターネットで見えるので、海外にいても不都合はありません。それから、海外には各地にエスニック・メディアというものがあります。オーストラリアの様な多民族国家では、それぞれのエスニックごとに小さなメディアが地元にあります。邦字誌でいうと、月刊の『日豪プレス』を始め、他にもいくつか出ています。そういう雑誌の一つに私もコラムを書いていました。意外にそういうメディアにも面白いネタは転がっていますし、特に日本人絡みの記事はかえってそういうのにしか載っていないケースもままあります。

 マニラには『まにら新聞』という日刊紙があります。日刊の邦字新聞っていうのは、世界中探してもそうありません。しかもこれは報道中心で、広告にそれほど頼っているわけでもなく、スクープが結構多いです。全国紙のマニラ特派員が、まにら新聞のスクープ記事を追いかけたこともままあります。このまにら新聞を発行しているオーナーは元共同通信の記者の野口裕哉さんで、「アジア人によるアジア人のためのアジア発のメディア」といった志を持ってやられています。長く日本のメディアで勤務されただけあって、調査報道など、権力側の発表だけじゃなく、自分で掘りおこすというスタンスを持っている新聞です。インターネットは会員制なので、全部は読めませんが、見出しくらいなら『日刊まにら新聞』で検索したら見る事が出来ます。これはなかなか読みがいがある新聞です。日本の新聞だけじゃなくて、特に国際的な問題の場合は、いろんな国のメディアのホームページを開いて読むといいと思います。日本の新聞を読むのはもちろん大事ですが、そればかりに時間を費すよりは、いろんな国の新聞の記事を読んで、グローバルな視点から物事を見るという癖をつけた方がいいと思います。

 オーストラリアのように国土の広いところで暮らしていると、全国紙は影が薄く、まともな全国紙は『ジ・オーストラリアン』だけで、それも部数は少ないです。確か20万部くらいだと思います。州ごとに有力紙があります。シドニーのあるニュー・サウス・ウエールズ州だと『シドニー・モーニング・へラルド』、もうひとつの大都市メルボルンのあるビクトリア州では『ジ・エイジ』という野党・労働党寄りの新聞があります。私が住んでいたキャンベラには『キャンベラ・タイムズ』があります。これは首都圏にしてはちょっと中身が薄いです。その他の地方でも、それぞれの地域でローカルメディアが頑張っています。例えばキャンベラから300キロぐらい離れたところにあるカウラという町では、戦時中、収容されていた日本兵が大脱走して、200人以上が射殺されるという事件がありました。日本とオーストラリア絡みのイベントがよくここで行われていて、日本とは関わりの深い町です。ここにも小さな地元紙があり、数万人ほどの地元住民は、『ジ・オーストラリアン』よりも『カウラ・クロニクル』のような地ダネ中心のローカル紙を読んでいます。

 オーストラリアのど真ん中にアリス・プリングスという小都市があります。そこはみなさんよくご存知のセカチュー(『世界の中心で愛を叫ぶ』)の舞台になったところです。オーストラリアの内陸っていうのは本当に何もない火星のような地帯で、赤茶けた岩と土の世界がバーッと広がっています。先住民族のアボリジニも多い2万数千人くらいの町でも、地元ノーザン・テリトリー州の地元紙が数紙、販売されています。全国紙は大体、配達が一日遅れるので、ニュースとしての価値がほとんどない。地元紙のネタは、大体、地元のイベントや出来事、有名人の動き、冠婚葬祭が多いです。全国紙は影が薄く、どちらかというとメディアは、テレビやラジオの方がインパクトがあります。ハワード豪首相がプレス発表するのはおおむねラジオで、ラジオで意見を言っている姿を撮影してテレビで放映するという場面がよくあります。

 そういう面では、日本のメディアは非常に特異です。どこが特異というと、読売の1000万部や朝日の800万など、とんでもない部数を毎日出している商業紙は、世界中見渡してもどこにもない。人口10億近いインドには「タイムズ・オブ・インディア」という100万部単位の部数の英字新聞がありますが、それも日本の全国紙には及ばない。『ニューヨーク・タイムス』にしても『ワシントン・ポスト』にしても100万部にも満たない。そういう意味では、日本の全国紙は、売上部数から見るとモンスター的な存在です。

 その巨大部数は、どういうプラス・マイナスがあるのでしょうか。一つは一社あたりが抱える社員の数がかなり多いことです。いま朝日、読売では1000人単位で記者がいます。毎日はすでに記者が1000人を切り、私がいた頃にはもう700人ぐらいになっていました。相当リストラが進んで減ってきていますが、それでもその数は世界を見渡して他のメディアから見たらとんでもなく多いです。新聞社には、社員に人気の職場がいくつかあります。反対に人気のないポジションもあります。人気のあるポジションは競争率が高くみんな手を挙げて行きたがる、しかしその反対のポジションはとても少ない…。だからほとんどの記者は心ならずもセカンド・チョイスやサード・チョイスで配属されます。人事のあやで、自分の希望とはまったく違うポジションにつくのは、しょっちゅうあると考えた方がいいと思います。逆により小さなメディアにいると、記者の分担がわりとあいまいで、一人あたりのカバーエリアが広く、若くても実力を示せば自分が考えた企画などが、全国紙よりは通りやすく、チャンスもあると思います。地方紙も捨てたものではないということを主張しておきたいと思います。それともう一つ難しいのは、編集という仕事は社全体から見ると小さいことです。社員が1万人いたとしても記者の数は1000人とか2000人弱です。販売、営業など、それ以外の部署のほうが多いです。そうすると、どんどん昇進が進んで部長職とか局長職になっていくと、編集局ではポストが限られます。編集部門にいても、やがてそれ以外のポジションに心ならずも異動せざるを得ないということもよくあることです。私の同期や先輩も、編集にいるのもかなり少なくなってきました。広告、販売、子会社に移るとか・・・。今は記者になりたいという方はその志はとてもいいと思いますが、記者のポジションからはずされたときにどうするのか、記者としてやりたかったことと、それができない職場でどう折り合いをつけながら、メディアの企業に身を置いて中年あるいは定年を迎えていくのかということも、頭に置いていた方がいいと思います。

 この4年、オーストラリアにいましたが、当初は日本から朝日新聞、フィリピンからフィリピン・デイリー・インクワイラーを親族や友人に頼んで宅急便で送ってもらっていましたが、送料がとても高いんです。それと発行されてから半月ぐらい経ったものを読んでも、切り抜いて保存に値する記事はそんなにありません。連載とかで問題を深く切った記事の方が切り抜きの価値があります。そういう面では、何日か置いて読むと、一日でごみになっていく記事が多いなと感じます。コストが合わない感じがして、購読はやめました。
日本の新聞の特徴の一つは、一点豪華主義がままあるという点です。もちろん大事件が起きたときはどこの国の新聞もそうです。ただ、日本の場合、特にすごいなと感じるのは、まず一面で本筋の話を報道し、社会面でヒューマンストーリーを中心に載せます。三面で大体識者の考えや解説記事を載せます。事件が大きいと、次の面で写真特集や時間を追ってのドキュメントを掲載したりする。大事件の場合は、そういう展開が必要なときはあると思います。しかしそれほどでもない事件の場合でも、毎回、一面、社会面で扱うという展開が多く、ここまでやらなくてもいいのにという印象を受けます。それによってボツになる記事もたくさんあります。
海外のメディアと比べると、日本の報道はくどいという印象です。そのくどさも地域によって濃淡があって、大阪本社の新聞は東京本社よりくどいですよね。例えば尼崎のJRの事故にしても、毎日、延々と、夕刊・朝刊と続いています。被害者一人一人のストーリーが手を変え品を変え、次々出ていて、ここまでつながなくてもと思えます。世界でも例がないというぐらい、くどい感じがする。もちろんその中に面白いストーリーもあるし、読ませる話もあります。私は新聞社で紙面を作っていたからわかるんですが、何か大事件が起きると「つなぎは、つなぎは」・・・という感じです。デスクは「今日はつなぎ記事ですわ」って本音を言ったりもしますが、読者の関心があるうちは常に何か記事を提供しないといけないという意識があります。私はそのような必要はないと思いますが、特に社会部ではその意識がとても強いです。自社の新聞に載ってなくで他紙に載っていると「抜かれた」といったことが言われるので、もう義務として載せているというところがあります。やはりその原因の一つは、日本の新聞の「横並び意識」の強さだと思います。例えば大阪は他紙をウォッチするために梅田で新聞の交換をします。このような制度は東京ではありません。各新聞が刷り上って最初の新聞を、大阪市内で各紙交換します。それが大体、午前3時前です。新聞の記事しめきりは大体、午前2時前、仕上がるのが2時半すぎ以降です。交換紙が届くのを大阪本社の各部のデスクは会社でずっと待っています。他紙にスクープされるのを「抜かれ」と言いますが、抜かれがあると、担当記者を夜中でも叩き起こして、関係者への「朝駆け」を指示するのがデスクの仕事の一つです。本当によく働かされる、またよく働くのが、日本の新聞記者です。

 世界の中で異例だと思うのは、日本の新聞社は、同じ新聞社が朝刊と夕刊の両方を出している点です。夕刊紙と朝刊紙は会社が分かれて発行しているのが欧米やアジアの文化です。一つの新聞社が朝刊も夕刊も出しているとどういうことが起きるか。担当記者はまず夕刊のニュースからカバーに入ります。だから朝9時ごろまでには持ち場に行かないといけない。夕刊の締め切りが午後1時とか2時ごろです。それから今度は朝刊の締め切りをにらんで仕事をするわけです。ということは、午前9時から午前1時ぐらいまでずっとウォッチしている、働いていることになります。よほど何もなさそうだと早く帰ったりすることもありますが、何かあれば、朝も夜もなく、すぐに飛んでいかないといけない、カバーしないといけない。他の国のマスメディアに比べたら本当に気が抜けないです。朝から深夜まで会社の中にずっといるわけではないですが、四六時中、ニュースを気にしないといけない。自分の持ち場で何かないか、あるいは他紙に何か先駆けて報道されないかと、常に気にして未明や場合によっては明け方までゆっくり眠れないのが、事件など突発ニュースのある持ち場の新聞記者です。特に大阪、東京などの夕刊と朝刊と両方出ているセット地域はその傾向が強いです。

 日本のマスメディア界の記者とか編集者は、他の国のメディアマンに比べて、極めて過酷な労働を強いられているというのは間違いない。日本の報道現場から見ると、オーストラリアとか東南アジアの記者はラクだと思います。1994年から1995年、フィリピンで外国人特派員協会の会長をしたことがあります。マニラをベースにした特派員が入会していて、他の国のメディアマンとの交流も色々ありましたが、一番働いているのは日本のメディアマンだと思いました。

 例えば9.11事件。その時、私はキャンベラにいました。テレビでは夜中も現場中継をしていましたが、次の日の朝刊を見たら驚くことに、この大事件について一字も載っていない。『ジ・オーストラリアン』みたいな全国紙でもね。なぜかというと、オーストラリアの新聞は締め切りがとても早いんです。おそらく午後10時―11時には記事を締め切っています。こういう大事件や大問題が起きると、日本だとまず、新聞を印刷する輪転機を止めて降版延長をします。普段は同業者間の協定があって、何時に降版というのは決まっています。ただ、大事件や大問題が起きたとき、例えば天皇が亡くなったときなどに、降版のあとに発生したからといって、何にも載せないわけにはいかないので、降版延長の協定を解除します。また、号外を出します。ところがオーストラリアは降版延長や号外と出す習慣がない。9・11の翌日の朝刊を見れば、さすがに大騒ぎをしていましたが。このような新聞社の割り切りの背景には、ストレートな生のニュースでは速報性という面で新聞はテレビには勝てないという現実があります。そういう面では一種の「住み分け」がはっきりしています。もう一つ、オーストラリアは非常に労働組合が強く、労働者の権利を優先する国です。しかも夜間の残業手当が日本に比べて格段に高く、昼間の2倍とか3倍に跳ね上がります。記者を会社に引き止めておくというカルチャーがないです。

 それから日本のメディアの特徴、これはある程度は他の国のメディアもそうですが、非常に「日本国民」ということへのこだわりが強いと思います。例えば、海外で大きな事件や災害、事故が起きた際、まず社会部のデスクが気にするのは、被害者の中に日本人がいるかどうかです。だからイラクで人質になっている日本人がいるかいないかでニュースの扱いがまったく違います。スマトラ島沖の大地震でもその中に日本人がどれぐらいいるかによって社会面の展開が変わってきます。もちろん十万人単位の死者が出て、前例のない事故や災害が起きると、日本人がいなくてもそれなりに大展開します、その場合は1面や外信面が中心になります。

 社会面に限っていえば、その中に日本人がいるかいないないかで、ニュースとしての価値が変わります。日本のメディアは非常に「国民国家」の枠にとらわれている。例えばオーストラリアでは二重国籍、三重国籍、人によっては四重国籍も持っている人がいて、エスニックの血は三つも四つもあるわけです。英国系だけどアイルランド人の血も入っていて、オーストラリアに移住してきてオーストラリアの国籍も取っている。アイルランド国籍もあり、イギリス国籍もあり、それで日本人と結婚したらその子供は日本国籍も加わって四つの国籍を持っている。では、そのような四重国籍の「日本人」がイラクで人質になったら、日本のメディアはどういう報道をするのか。私の想像では、日本人の血が半分、または四分の一の場合、その分、ニュースの扱いが小さくなるのではと想像します。現にフィリピンで日本人の子供が誘拐・拉致された事件を見ると、お母さんがフィリピン人で日比の混血児だと、明らかに「純日本人」の子供が誘拐されたときより扱いが悪いです。日本人だけどマイノリティーのジャパニーズというパーセプション(認識)が混血児に対してはある。私はそれが現実だと思います。

 イラクでの人質問題でも、日本の報道は「国民国家」の枠にはまっていて、そういう面で面白い研究素材と思っていました。他の国ではなかったのは、人質バッシングです。一番ひどかったのは去年の4月の高遠奈穂子さんら4人の日本人NGO関係者やジャーナリストが拘束されたとき。あれが一番ひどかったです。人質になっている最中から読売新聞は政府幹部の言い分同様に、「(4人は)危険警告を無視して冒険をし、自衛隊派遣に支障をきたすようなことをしてけしからん」という論調でした。この論調は、戦時中、軍人や特高らがよく使った「非国民」という言葉を思い起こさせました。「自己責任論」がうたわれ、保守系週刊誌は被害者のプライベートな家庭事情までスキャンダラスに報道しました。高遠さんらは、人質としての体験以外に、日本のマスコミによるバッシングを受け、二重の被害を受けた。これは、他の国では起きなかったことです。

 他方、フィリピン人の運転手がイラクで人質になった事件では、アロヨ・フィリピン大統領は武装グループの要求に応じて、自国の小さな軍隊の国外撤退を命じた。その決定によって解放された運転手はフィリピンのメディアで「国民的英雄」扱いされ、マニラには「凱旋帰国」することができました。このフィリピン政府の決定に対しては、米豪の政府要人から批判がありましたが、オーストラリアの新聞には、政府の比政府非難を批判する読者の声も載っていました。

 日本政府が危険地域に指定して警告を発するような地域には「ニュースの宝庫」のような所があり、いち早く入って報道すればスクープです。だからこそ、日本の大手メディアは、危険地域には自社の記者を派遣しなくても、フリージャーナリストと契約を結んで行かせている。倫理上、大手メディアに、人質になったジャーナリストを非難する資格は全くありません。

 日本のメディアの幹部や日本国民の中にグローバルな感覚が育っていない。日本国内、あるいは社内と、常に「内向き」に仕事をして会社の幹部に上りつめた人が多くて、感覚がドメスティック、地球市民としての意識が薄いのが問題です。

 アジアでの調査報道についても報告しておきます。調査報道といえば、アメリカのニクソン大統領を追い詰めた「ウオーターゲート事件」の報道が有名ですが、東南アジアにも調査報道はあります。東南アジアの中で一番、報道の自由のあるフィリピンでは、結構、盛んです。2001年初め、当時、大統領のエストラダが汚職嫌疑で、大統領の座を追放されましたが、その政変劇にマスメディアの独自報道が貢献しました。彼の汚職疑惑を独自取材で報道したのは、マスコミの記者ではない調査報道グル―プで、その代表の女性ジャーナリストは「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞を受賞しました。この国では、一方で、ジャーナリストの活動には危険がともないます。昨年1年間、殺害された記者の数は、フィリピンは戦後の混乱が続くイラクについで2番目に多かった。地元有力者の汚職などスキャンダルを報道するのに、口止めや報復の殺害が横行しているからです。

 最後に、新聞社の採用試験で、面接官が重視するポイントを、面接官としての自分の経験から話しておきます。まず、記者になりたいという、しっかりしたモチベーションを持っているか。入社してから、どんな仕事をしたいのか、そのために学生時代、何をしてきたか、などは尋ねられるでしょう。あと、上司の指示ですぐに現場に飛んでいくフットワークの軽さを重視する面接官も多い。結構しんどい、長時間労働の仕事なので、忍耐力がありそうかどうかも大事です。また、英語はもちろんですが、第二外国語ができれば、その言語の地域の特派員になれる可能性も大きいでしょう。面接のまえには、ぺーパー試験がありますが、中でも作文を書く力は最も重要です。

<質疑応答>

Q)JR福知山線脱線事故についてマスメディアの報道の仕方は矛盾している。基本的に確信たる情報がそろっていない。事故後にマスコミの批判が起きている。日本のメディア紙は事故を予測できなかったのか。メディアは次の事故を防ぐような報道はできないのか。
A)マスメディアといっても、すべての問題で多くの情報を蓄えているわけではない。事故の発生を予見したり、警告をすることは現実には難しい。メディアは事後に大騒ぎをして、問題を起こした役所や企業を叩くといったように、後手にまわりがちだ。
       




        大野俊さん講演会(5限)まとめ:石橋佳奈(11期生)

●経歴

 新聞社で22年半働いていた。うち1年は海外留学していたので、実質は21年半、記者をやっていた。地方の長野支局から始まり、社会部を東京・大阪でやり、外信部、マニラ特派員を務めた。特派員の時には東南アジアやオセアニアまで広い地域をカバーしていた。その後、大阪に戻り、最後は経済部副部長(デスク)を3年半やった。その後、自己退職をし、オーストラリアに4年近く滞在して、このまえ博士論文を仕上げたばかりだ。研究テーマは、フィリピンへの戦前の日本人移民とその末裔(日系2世、3世)のアイデンティティと市民権の変遷。アイデンティティとは、自分はどこの国や国民に所属しているのかという帰属感を指す。論文では、アイデンティティと市民権のそれぞれの変化に関係があるのかないのかなどを、インタビューと文献を駆使して書いた。こういったテーマは、自国の外に飛び出して暮らしている人には関心を持たれている。移民社会のオーストラリアでは、アイデンティティと市民権のかかわりは研究のはしりでもある。

 この授業では、日本のマスメディアでの仕事や、特派員を含め海外で10年余り暮らしてきた経験をもとに、日本のメディアの特異性や問題点を話していきたい。

●日本の新聞の異様性

 日本では朝刊・夕刊ともに同じ新聞社が出しているので、その両方の記事をつくる記者はきわめて過酷な労働状況に置かれている。朝日の800万部とか読売の1,000万部という巨大な部数を持っている新聞社は世界のどこを探してもない。
 
 問題点は、日本の報道が日本という国民国家の枠組みにとらわれすぎているという点にある。たとえば、海外で1,000人、2,000人が死ぬような事故があっても、日本人がいるのか否かで全くニュースの扱いが変わってくる。

 イラクの日本人人質問題では、読売新聞を中心に保守系の週刊誌が、世界のメディアでも特異な「人質バッシング」を行った。フィリピン人が現地で人質になったが、彼は解放されて帰国したときは、地元メディアで英雄扱いだった。人質解放のため自国軍の撤退を決断したフィリピンのアロヨ大統領に対して、オーストラリアの外務大臣が「マシュマロ(いくじなし)」と批判的なコメントをしたが、それに対するオーストラリア人の批判が、オーストラリアの全国紙にも載っていた。日本のメディアは、海外で活動する日本人をどこまでも「日本国民」ととらえがちで、「地球市民」としての見方が弱いと思う。

●共同研究テーマに対する意見

1 皇室報道班

 皇室報道にはトラウマがある。昭和天皇が逝去したときは社会部にいた。このときは、天皇が入院してから毎日のように「下血報道」がなされたが、いつなんどき亡くなるかわからないとのことで、社内のオフィス部屋で寝泊りをさせられた。亡くなったときには、夜中でも号外を出す必要があったからだ。

 イギリスなど海外のメディアの皇室報道に比べると、日本のメディアの皇室報道にはまだまだタブーが多い。いわゆる「雅子さま報道」にしても、まだ腫れ物にさわるようなところがある。イギリスやオーストラリアの新聞は、彼女の病名を「depression(うつ病)」とズバリ書いて報道していた。敬称の多い日本語の問題でもあるが、皇族に限っては名前に「さま」をつけなければならない決まりになっている。記者をしていた頃も皇室がらみの記事を書いていて、なぜ皇族は例外なく「さま」をつけなければならないのか、といつも疑問と抵抗感があった。戦時でもあるまいし、今でもまだこういう必要があるのかどうか、一度、世論調査をして国民の意見を聞いた方がいいと思っている。皇族だけ腫れ物に触るように「さま」づけて報道を続けなければならないのかどうか、若い記者は疑問を持たないのだろうか。天皇の戦争責任も、メディアではタブーのままである。それがらみの記事を書くときは外国の知識人やジャーナリストのコメントを載せるという当たり障りのない手法をとっている。

 オーストラリアでも皇室報道に対する議論はある。オーストラリアの国のトップは今でもエリザベス女王である。自国民から元首を出す共和制の移行の是非を問う国民投票が数年前に実施されたが、否決された。しかし、チャールズ皇太子が国王になってほしくないというのが国民の大多数の意見である。いま、皇室で人気があるのは、デンマークの皇太子妃のマリア。彼女はタスマニア出身で、オーストラリア人の間で圧倒的人気がある。今、オーストラリアで皇室報道の主役は彼女である。この皇太子夫妻へのインタビューの番組がテレビで報道されたが、インタビュアーは皇太子夫妻を気軽にファーストネームで呼んでいて、日本の皇室報道と大変な違いを感じた。日本の皇室報道状況と「雅子さま」の病気は無関係なのかどうか。宮内庁の「開かれた皇室」というのは、言葉だけが踊っているという印象を受ける。

2 デジタルテレビ班

 日本のテレビ番組を一言で言い表すのは難しいが、吉本興業の芸人を中心としたお笑い番組が多いと思う。もちろん、オーストラリアでも時の人物をよんでインタビューするという番組はある。日本のアニメ、漫画、テレビ番組などが台湾や韓国などでウケ、韓国のテレビ番組が日本ではやる、といったポップカルチャーの越境や相互作用などがメディアや文化研究の流行りになっている。オーストラリアなどの白人圏では韓流ブームが起きない理由を探るのも面白いだろう。

 日米のデジタルテレビを比較するとのことだが、放送のどのような部分に的をあてて研究するのか。なぜデジタル放送にこだわるのか。デジタルに絞るからには、その理由づけが必要だと思う。ただ、新しいからというだけではなくて、おもしろそうな結果や結論が出てくるの見通しを立ててから、調べ始めた方がいいと思う。

 オーストラリアはデジタル放送があまり発達していない。東南アジアや香港のほうが衛星放送やケーブルテレビが発達している。有料だが、割安で、ケーブルテレビで80チャンネル以上見える所もある。オーストラリアは全国チャンネルは5局くらい。東南アジアの方がグローバル化が進んでいる。

3 記者クラブ班

 私自身、記者クラブの恩恵を受けてきた立場だが、記者クラブは日本にしかないようだ。「横のものを縦にする」という言葉がある。役所や警察の広報が配る横書きの資料を縦書きの記事にして「縦にする」ということだ。これでは、各社の報道が画一的にならないはずがない。記者クラブは「他社見合い」を強化する。霞が関の省庁のクラブなどではいつ発表があるか分からないから、記者クラブにずっとはりつきがちだ。1社だけ記者クラブにいないときに大事な発表があると、他社に遅れをとり、「特オチ」(特ダネの反対)になることもある。だから、記者は朝から夜まで記者クラブにはりついている。東京の官庁など、毎日、発表の多いところでは、発表に振り回されて、オリジナルの取材や報道がほとんど出来ない。その点、大阪は比較的、「記者クラブ張り付き」から解放されている。大阪市、大阪府庁などでいろいろな発表はあるが、ローカルすぎて、ネグってもいいような発表もあるし、張り付かなければいけない官庁も少ないので、どこの記者クラブにも属さない「遊軍」(社会部では今でもこの言葉を使う)が調査報道をできる余裕がある。私が大阪本社にいたころは、当時の編集局長が「記者クラブを離れよう」と音頭をとって、クラブ離れを奨励していた。しかし、東京ではまだまだ記者クラブ制度が強く、海外メディアの批判の対象になっている。

 記者クラブ制度は、海外の日本人特派員社会にもある。日本人記者会がマニラ、バンコクなどにもあり、日本大使が一ヶ月に1回くらい記者会との懇談会を開く。日本人記者会に入っていない赤旗、統一日報などの特派員は入れない。外部から批判の声が上がらないと変えようとしない、マスメディアの特権意識がある。マニラだと、日本大使の懇談会の昼食の費用はかつては大使館が出していたが、今はさすがに折半している。日本国内でも、記者クラブの電話代は以前はすべて役所負担だったが、外部からの批判を浴びてメディアが実費で払いようになったところも多い、と聞くが、まだ健康的な姿とはいえない。

4 歴史認識班

 フィリピンの場合、日本の軍政支配が3年半あった。その評価をめぐって、フィリピンメディアで大きく分かれるということはまずない。日本支配期は、フィリピンの歴史教科書では「歴史上、最も暗い期間」とされている。日本の支配のおかげで、米国の植民支配から解放された、といったポジティブな見方は全くない。アジア諸国はどこも、ネガティブな捉え方だと思う。アメリカのフィリピン植民地支配も、当初は武力行使してのもので、50万人ぐらいのフィリピン人が殺されたといわれている。このことはフィリピンの歴史教科書にはほとんど載っていないため、アメリカに「隠された」と主張するフィリピン人歴史家もいる。「隠された歴史」をフィリピン人が自らの手で取り戻す、という新しい動きである。欧米の植民勢力がアジアなど第三世界の植民地化を始めたときには、どこでも紛争があり、大勢の死者が出ている。アメリカ支配の時は明るい時代で、日本支配のときは暗い時代というのはバランスが取れていない。「白」と「黒」には分けることは出来ない、として、アメリカの植民地支配もネガティブな視点で捉えようという動きがフィリピンの研究者やジャーナリストの間にある。かといって、日本の軍政支配を肯定的に捉えるということはまずない。

 小林よしのりの「台湾論」は論争を呼ぶ漫画。日本の台湾植民地支配を美化している。親日派の台湾人にいろいろな話をさせているが、とんでもない話だという台湾人はたくさんいる。どこまでバランスをとって書くかということが大切だ。アジアの国々はどこも、日本の支配期にはネガティブである。韓国では特にそうだが、ベトナム戦争参戦時の韓国兵によるベトナム人虐殺を調べている研究者も出てきて、自国の歴史の汚点を洗い直そうとの動きもある。どこの国も戦争体験世代が減少し、少数派になっている。日本の敗戦日は、アジアでは解放記念日にもなるが、それに合わせて地元の新聞社やテレビ局で特集を組んだり、記事連載をしたりしている。それをずっと見ていくと、大東亜戦争の捉え方の変化が分かる。

 例えばフィリピンでは、アメリカ軍が日本軍からフィリピンを「解放」する際に過剰にフィリピン人を虐殺した、との見方が出てきた。マニラが日本軍とアメリカとの激戦地になった際に市民10万人が犠牲になったといわれている。戦後50年記念の新聞記事やコラムでは、日本軍の住民虐殺はあったが、アメリカの無差別攻撃でも大勢の市民が亡くなったこと報道された。こうした見方は、戦後10年、20年ではなかった。そういった面では、歴史をめぐるアジアの報道はじょじょにバランスが取れつつあるのではないか。アジア人の歴史認識やそれをめぐる報道の変化を研究する際は、その国のメディアの戦後10周年、20周年・・・・と追っていけばいいと思う。

5 イラク報道班

 今井さんたちが人質になったときは、キャンベラにいた。現地のテレビ、新聞報道はもちろん、インターネットで朝日新聞や読売新聞などの記事や社説を読んでいた。人質の自己責任論が大きく騒がれたのは日本だけだと思う。あれだけ政府が警告を発しているのに危険な場所に行って人質になったのは自分に過失があるといったような、読売や保守系雑誌の論調は、海外のメディアでは見たことがない。あまりにも日本政府にスタンスがくっつきすぎた報道が多い。イラク戦争の遂行そのものに多くの疑問や反対意見があり、自衛隊のイラク派遣も「憲法違反」との意見も根強くあった。自衛隊を派遣すること自体ナンセンスだと思っている人が日本政府の言うことを十分に聞かずにイラク入りすることがそんなに悪いことなのか、といった印象を受けた。人質になった人たちは、少なくても善意の市民である。「日本国民は彼らを誇りにすべきだ」と明言したのは、皮肉にも、開戦当事者のアメリカのパウエル国務長官(当時)だった。日本のメディアはどこもそんなことは言わなかった。戦争を起こした国のトップの人がそう発言しても、日本のメディアにはあまり擁護論がなかったように思う。人質の家族への電話など嫌がらせも日本独特だと感じる。善意で現地に足を運んでいる点が見落とされすぎている。フィリピンの場合、デラクルスというトラック運転手がイラクで人質になり、比政府は拉致武装グループの要望に応じて自国軍を撤退させた。これによって開放された運転手は国民的英雄としてマニラの空港で出迎えられていた。

 デラクルスの場合、善意というよりは家族を食わすため、自分の生活のためにイラクに出稼ぎに行っている人だ。本当であれば、イラク市民のために善意で行っている人のほうが心配されてもいいはずだが、結果は逆になった。自己責任論は今の日本人を考える上でおもしろいテーマであり、特異な現象だといえる。日本人の横並び意識の強さやお上の言うことは絶対だという戦時中の日本を想起させるような部分が表面化した現象だと考える。横並びから一歩外れたものはバッシングという感じである。

 フランスの元傭兵で、イギリスの警備会社に雇われた日本人が最近、またイラクで人質になった。彼の場合、ペイがいいので敢えて危険を覚悟で自分からイラクに入っている。リスクを百も承知の人が人質になった訳だが、これこそ自己責任だと思う。この場合は何故か日本のメディアの間で自己責任論が出ていない。彼のこれまでの動きからして、日本人というよりはグローバル市民として動いている、日本政府がどうこういう話ではないと感じる。日本政府も全力で人質を救済すると言っているが、一番最初に日本人3人が人質になった時、政府要人のコメントが異様にきつかった。「けしからん奴」だという風に言っていたのは、小泉政権の基盤が揺らぐ状況で起きたからだ。万一、人質が3人とも殺されれば「小泉人気」はガタ落ちで、自衛隊のイラク派兵は失敗だったということになりかねなかった。今回の場合は、人質が殺されても小泉政権になんら影響がないし、批判も受けない。このような要因もあって、ゆとりのコメントをしているのだと思う。

 人質解放問題は政権基盤と結びついている。フィリピンはアロヨ大統領がフィリピン国軍の撤退を決断し、人質解放を実現できなかったら、間違いなく彼女の政権基盤は揺らいでいた。ライバル候補と拮抗差の大統領選挙が終わった直後で、政権基盤が安定していないし、野党の絶好の批判の材料になる。国民世論は人質に同情的で、数十人のフィリピン軍がイラクにいても大して役に立たない認識があるので、早く軍を撤退して、国の経済を支えるOFW(海外フィリピン人労働者)の一人である人質を解放すべきだという意見だった。国民の10人に1人は、出稼ぎ労働者などとして海外に飛び出している。その人達の送金でフィリピン経済は持っているという現実がある。OFWの身辺保護は、海外出稼ぎという「国策」に関わる。それを一歩誤ると、政権は倒れかねない。同じ人質でも、その拝見は日本とは全然違う。比政府とアメリカとの関係は、軍の撤退で最悪になったが、意外と早く修復された。

6 JR脱線事故

 オーストラリアの新聞でも1面で大きく写真付きで報道された。先進国で100人以上が鉄道事故で亡くなるというのは、そうないことである。中面に識者の談話があると思うが、社会面のウケというのがある。第一社会面が読者に読まれるという意識があり、テレビ欄のすぐ裏に来ている。フレッシュなニュースは第一社会面に持ってくるがすべて同じニュースで埋めるわけにはいかないので、見開きで第二社会面を活用する。内容は概ね被害者の家族や近所の人など、市民の声を使って情緒的な紙面づくりをする。フィリピンでもその様な紙面づくりをしているが、ほとんどが一面の記事からの続きである。それに対し日本では一応、面ごとに話は完結している。中面に来たらまた新たに前文から始まっている。締め切り前の事件の場合、だらだらと情報を何でも追加で付け足していく。2面、3面に解説記事や識者の談話や過去の事故の一覧表を載せている。派手にやるときは、1〜3面、第一、二社会面、更に中面に写真を載せたりする。

 9・11のような大事件はともかく、ニュースバリューが落ちる事件事故の時でもこのようなド派手な紙面になることがある。新聞社内における各部の紙面取り争いや縄張り意識があり、より広く紙面を取ったほうが勝ちという意識が強く働いて、場合によっては読者のニーズにあっていないときがある。くどいなというのが本音。JR事故の場合、犠牲者のさまざまなストーリーが手を変え品を変え、出ている。続報が何日も延々と続くというのは、英語圏の新聞ではあまりないことである。数日報道すれば熱が冷めてくる。その後は事件原因究明や関係者がどの様な刑罰を受けるかという記事が中心になってくる。大阪本社版は地元なのでしつこいが、同じ新聞社でも東京本社版では紙面構成が違っている。ただ、全国放送のテレビ報道も結構、長々と続報が続いているという印象を受ける。この事件に取って代わるような大きなニュースがその後ない事が一つの要因に挙げることが出来ると思う。大きな事件があれば、メディアはそちらに人員を割いて、また集中豪雨的な報道を始める。        

 東京が比較的、続報に淡白なの、次から次へと色んなニュースが地元で出てくるからでで、続報をねっちり追いかけている余裕がない。大阪は大ニュースが少ないので、同じ事件を延々と追いかけている。九州なんかではもっと事件がないので、続報が続き、大阪以上にしつこくなっている。こうした紙面づくりが果たして読者のニーズに合っているのかどうか、疑問に思うところもある。


7 フィリピン国民の日本人に対する意識

 フィリピン政府の公式発表では、日本占領下のフィリピン人の死者の数は111万人。当時、フィリピンで亡くなった日本人の数は50万人余り。日本人の海外での犠牲者は、中国と並んでフィリピンが最も多い。これは日米の激戦地になったうえ、アメリカ軍に加わったフィリピン人のゲリラが多く、犠牲者もほかのアジアの国に比べて一桁以上多い。フィリピンのどこに行っても戦時中に親族をなくしたという人はいる。1995年までマニラで特派員をしたが、そのころでも日本人とは一切口をききたくないという年配のフィリピン人がいた。ただ、今ではそういう人の数はぐんと減ったと思う。戦争を体験した人たちが次々亡くなっているからだ。フィリピン人の平均寿命は、日本人に比べ10年以上短く、70歳まで生きれば長生きと言われる。今の若い世代は、日本軍へのトラウマというよりは、世界第二の経済大国・日本への憧れの方が強い。私はフィリピン大学で教えるのは、日本の文化や社会だが、大学が「日本文化」を設定したところに、アニメなど日本のポップカルチャーが溢れているフィリピンの若者の関心の移ろいを感じる。(以上)

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