HP掲載:2006年1月2日
映画「バッシング」上映会・小林政広監督講演会

2005年10月28日、
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて、映画「バッシング」上映会が開かれた。
上映会後は、作品の監督である小林政広さんが講演し、来場した学生と熱心に語り合った。
「バッシング」は、2005年のカンヌ国際映画祭に公式出品され、
日本での上映は今回が初めてであった。
作品は一般公開を控えており、上映会は学内限定で行われた。
企画は同志社大学社会学部メディア学科の学生が全員加盟する公的な研究団体、
同志社大学新聞学研究会と実行委員会(個人参加)との共催で行われた。
新聞学研究会の了承を得て、浅野ゼミHPで報告する。 
      

なお、小林監督がブログ『ボクの映画渡世帖』(http://diary.jp.aol.com/jqmmwd9hztq/)で、
同志社での上映会・講演会について書いています。是非ご覧下さい。 

(まとめ:ゼミ11期生、中嶋美紀 )

「自己責任」報道を振り返る
映画「バッシング」上映会

 「描きたかったのは『なぜ、自分は何もしていないのに非難されなければならないのか』という主人公の内面と、弱いものを叩くという、日本全体が病んでいるこの社会―――。」         
 
 2005年10月28日、同志社大学寒梅館ハーディーホールにて、映画「バッシング」上映会および小林政広監督講演会が開催された。映画「バッシング」は2005年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に公式出品された作品で、日本での上映は今回が初めてである。中東へボランティアとして赴き武装グループに監禁された主人公が、無事解放され帰国した後社会からのバッシングに遭う様子を描いており、昨年のイラクでの日本人ボランティア人質事件で、暴走した自己責任論により人質たちが受けた誹謗・中傷の問題を取り上げ、現代日本を痛烈に批判している。
 講演会では小林政広監督が、監督になった経緯や監督になってから直面した映画業界の問題、そしてなぜこの「バッシング」という映画を制作することになったのかを語った。その後の質疑応答も、現場で撮影協力を断られたこともあったという話から、音響やカメラワークなどの細かい演出にいたるまで様々な話題が展開された。
 充実した内容で、参加者にはイラク日本人拘束事件と報道を振り返り、それぞれが日本の現状について考え、意見を持つきっかけになったのではないだろうか。(1回生、川崎 悠介)










写真:小林広監督 〔撮影細川卓(浅野ゼミ11期生)
小林政広監督講演会
(文責・11期生、松村紘明、12期生、大窪理恵)
 最初に、映画見てくれて本当に有難うございました。映画も出会いですから、多分ここに居るお客さん達は今までの僕の映画も多分見ていないんだろうなと思いますので。僕は普通の劇場でかからないような映画ばっか作ってるもんですから、割とマニア、本当にマニアックな人がたまに見るぐらいで、そうじゃない普通の感覚を持ったというか、普通の人達に僕の映画を見てもらえる機会がなかなかないものですから、今回は本当に主催してくれた学生さん達に感謝したいと思います。どうも有難うございました。

 この映画はご覧になって分かったというか、あとは皆さんがどういう風に受け取るかってのは、僕がこう説明するようなことはないので、なるべく早い時間で僕が話すのは終わらして、皆さんと何か質疑応答って言うか、何か会話をしたいなと思ってます。

 その前にどうしてこういう映画を僕が作ったかというのは、学生さんもこれから就職されたりする人達もいると思いますので、僕の今までこう、どういう風に映画を作ってきたかってのを話したいと思います。

 この『バッシング』というのが僕の8本目の映画になるんですけども、最初に僕が映画を作ったのが42歳の時で、10代の頃から映画監督になりたくて、それまで8ミリで2本ぐらい映画を作ったんですけど、どうしてもやっぱり劇映画が作りたくて、そうするともうどのようにしたら映画監督になれるのかってのが、どこにも書いてなかったし、知り合いに聞いたり、いろんな人から聞いても、ちゃんとした答えが出てこないんですね。なりたいと思ってもなれない職業ってのがあるのかなぁって不思議に思ってたんですけれど、2つ方法があると。で一つは映画の助監督になることだと。もう一つはシナリオライターになれば映画が作れるんじゃないかと言ってくれる友達がいて。当時、じゃ助監督になろうと思ったんですけれど、せっかく助監督になるのだったら、自分の尊敬すると言うか、自分の好きな映画を作っている監督の助監督になりたいなと思って、2年間くらいですか、まとめていろんな映画を見たんですね。
 
 ただその頃の日本映画というのは日活ロマンポルノが出てきた頃で日活の映画っていうとロマンポルノで。東映は『仁義なき戦い』の後ぐらいで、割りとやくざ映画っていうか『極道の女たち』とか、ああいう映画が多くて。あと、東宝とか松竹はまぁ『寅さん』とか。

 僕はトリュフォーっていう監督が好きで、作家性がある監督の一人なんですけれども、そういう監督が、自分の中でこの人のためだったら10年とか、助監督で働きたいなっていう人がいなかったんです。それでやっぱりなるんだったら、トリュフォー監督の助監督になろうと思いまして、そのためにはフランス語を勉強しなくちゃいけないと。それで4年間日仏学院っていうところに行って昼間は郵便局で郵便配達の仕事をして、夜、そこに行ってフランス語の勉強をしたりして。それから4年後にフランスに行ったんですけれど、まぁ、4年間勉強したんですけど、なかなかフランス語も喋れないし、もともとあまり人と話したりなんかするのが上手い方じゃなかったんで、向こうへ行ったとたんに自閉症みたいになりまして、もう3日で帰りたくなっちゃって、まぁなんとか我慢してというか、1年近くいたんですけど、監督に会いに行くこともできないで、そのまま帰って来ました。     

 それで、日本に帰ってきてから今度はシナリオを書き出したんですけど、その年に木戸賞っていう賞を取りました。その前の年だか、その何年か前に大森一樹さんっていう監督が木戸賞を取って『オレンジロードエクスプレス』というシナリオ、自分の書いたシナリオで監督になってるんで、僕も木戸賞取ったから自分で監督ができるなと思っていたら大間違いで、そのまま野村芳太郎監督とかの事務所に呼ばれて、シナリオのお手伝いとか、そういうのをやらされて。また○○っていうか業界誌の記者とかやりながら、シナリオを書くようになって。いつの間にかテレビのシナリオライターになってたんです。どんどんやりたいことから遠ざかっていって、まぁ、お金は稼げるようになったんですけど、このままだと全然違った人生になっちゃうなぁって思ったんで。40もすぎて、もういい年なんで。じゃぁ、どっからも声がかからないんだったら自分で一本映画を作ってみようと思って。それで、自主映画、自分のお金だけで作った、『Closing Time』という映画を作ったんです。それで、もう一本でもう終わりにして、と思ってたら、それが、夕張のファンタスティック映画祭っていうので上映されて、グランプリっていうのを取りまして、辞めるわけにいかなくなっちゃって。ただ、普通、自主映画を一本撮ると、業界の人達と知り合いになって、次は商業映画を撮るっていうのが当たり前というか、普通になってるんですけども、僕の場合は頑固っていうのもあったんですけど、そういう自主映画ていうか、自分の書いた本で、自分の考えたストーリーで、自分で本を書いて、自分で監督してっていう作り方じゃないと、嫌だったんですね。それで、トリュフォーのまねをしてというか、ああいう映画を作っていきたいと思ったんで、次もまた何とかお金を集めてすぐに『海賊版=Bootleg Film』という映画を作ったんです。もう駄目だろうと思ったんですが、クリスマスの日にそのビデオテープを、駄目もとでカンヌ映画祭に送ったんです。年が明けて、1月の5日だか6日に、まぁ、僕の誕生日なんですけど、その日に、いきなりフランス語で電話がかかってきて、何言ってるのか良く分からなかったんですけど、何か、カンヌの事務局の人で、「お前の映画が映画祭にかかる」と、そう言ってるみたいだったんですね。「これからファックスでエントリーフォームを送るから、それに書き込んで、すぐに送り返せ」っていうのと、一応「かけます」という書類をこれからファックスで送るからと。同居人と一緒にいたんで、同居人と、夜に電話がかかってきて、なんだかわかんないけど、いたずら電話だろうぐらいにしか思ってなくて、電話を待ちながら酒を飲んでたんですけども、一向にかかってこなくて、夜中の2時3時くらいになって、やっと電話が鳴って、「ああ、やっぱりあれは本当だったんだ」と。

 そこからがまた大変で、2本目でカンヌのオフィシャルセレクションっていう部門の中の「ある視点」という部門に自分の映画がかかったんですけど、何にも分かんないんですね、どうやって行ったらいいのかも。それで行ってみて、いきなり一番大きな映画祭に行って、自分の映画がかかっちゃって、また、辞めるわけにいかなくなっちゃって。ただ、もう自分で自主制作で映画を作っていくお金もないし、初めて「お前が本を書いていいから、こっちから企画をだす」という初めて他の会社のお金で作った映画、『殺し』という映画をつくったんですけど、その辺りから、いわゆる自主映画というんじゃなくて、少ないお金なんですけども、ある会社からお金をもらって、それで制作をするという映画の作り方を何年間かしてきて、企画とかは自分の物なんですけど、やっぱりお金をだしてくれる人の意見も聞かないと、なかなか作りにくくなってきて、そうすると、女の人の裸を出せだとか、暴力、バイオレンスシーンを作れとかっていう、注文もあって、それも、まぁ、ある程度は聞かないと、仕事として成立しにくくなってきて。

 そういう中で、カンヌにも続けて3回ぐらい行ってて、業界の中で、僕がすごく孤立してきちゃったんですね。注文を受けても、そういう仕事をしにくくなってきたり、ちょっとちがった、いわゆるスポンサーっていうか、お金を出す人達の求めているものと違うものを作るようになっていって、そんな中で、すごく追い詰められた状況に去年はいて、映画作りも、もうこのまま辞めてしまおうかという意識だったんです。そんな中で、そのくらいコマーシャルな物と自分のやりたい物っていうものの狭間にいて、どっちの方向に進んでいいのか、分からない中で、うちの上さんと相談して辞めようかと、それこそ、北海道に移住して別の仕事をやりましょうという話をしてたんです。

 そんな中で占部房子という女優に、何の気なしに、「お金の事は一切考えないで、小さいビデオカメラでもいいから、何か一本、初心に返って、とにかく低予算で自主映画をもう一回作ってみたい、作ってみようか」というメールを送ったら、彼女が「是非やりたい」と言ってきたんで、じゃぁ、いわゆる売る売らないとか、お金の事を一切考えないで、もう一回その『Closing Time』、僕のデビュー作なんですけど、それを作ったような気分で、もう一回、ほんとに少ない人数で映画を作ってみようと。そう思って作ったのが、この映画なんです。

 だから最初にイラクの人質事件とかが、最初からあって、このテーマでこの話をやりたいというんじゃなくて、僕自身の映画の原点に返って、あんまりお金とは関係ないところで、自分のリハビリのためにやりたいなと。それに浦辺さんていう女優さんが乗ってきてくれて。そっからどういう本を書こうかなというので探していった所に、たまたまなんですけれど、テレビで人質事件があって、その後、僕はあんまり最初は興味が無かったんですね。テレビで流れているぐらいで、それほど新聞とかを追いかけて読んで追跡したりしたわけでも、何でもないんです。

 ただ、小泉さんが自衛隊を撤退しないと平気で言った時は、ちょっと呆然となりましたけどね。なったけど、それ以上に何か思ったわけでもないし。ただ、映画作りというのは、政治とかとは切り離して考えるべきだという風に僕は思ってるんで、なるべく普遍的なものじゃないと、というのが映画だと思ってるんで。映画にはならないという風に思ってたんですね。

 ただ、そういう状況の中で、今までやってきたことをまた繰り返しても、あんまり僕にとって意味がないだろうと。もう一回立ち返ってみて、占部さんと、高遠さんが年齢の差もあるし、姿形も違うんですけども、占部さんをヒロインに使った時に、例えばイラクの人質の女性の、その後の話を、浦辺さんが表現してくれるかと、そう思ったときに、もしかしたらいけるかもしれないなと、まだ手答えもなかったんですけどね。そこから本つくりに入っていって、そんなに時間がかからずに、第一項はあがったんですけど、それから30回は直して、まぁいつものことなんですけど、直しながら、段々ヒロインの高井有子という女の子に自分が感情移入していって、映画の主人公に感情が入っていかなければ、映画として成立しないわけで、それは本作りの一番最初のしなければならないことなんです。何十回か直していく中で、段々、ヒロインの女の子の役に対して、すごく愛しくなっていったんですね。これはもしかしたら、面白いものになるんじゃないかと。

 いわゆるデジカメでちょこちょこっと撮るような映画じゃなくて、回りにある程度の人を集めて35ミリで撮りたいなと。段々また、お金のかかるようなことを考え出しちゃって、まぁ、結果的に、いつもの様に35ミリで劇映画の作りで作って行きました。作りながらも、今まで、わりと絵作りとか何かに、すごく神経を使ってたんですけども、そこらへんも全部取っ払って、ハンディーカメラで担いでもらって、撮影していくと。照明もほとんどノーライトに近いかたちでスタッフ4人、カメラマン入れて4人。3人か4人で撮影照明はやったんですけど、あと録音部1人。後いたのは、助監督兼制作、いつもやってくれてる川瀬っていうのがいて、その人が一人。後、僕と。応援で何人かがいたぐらいで、10人たらずで一週間ちょっとで撮影したんです。

彼女が映画の最後で日本を捨てて去っていくわけですけど、僕も、これを撮り終わったら、「もう辞めてもいいや」という風に思って作って。まぁ結果的に今年のカンヌにまた選ばれて、その後『幸福』という映画と、もう一本、続けて作ることになって、今編集をしてるところなんですけれども、また違った映画を、まだ、辞められずに映画作りを続けてるんですけど、

この『バッシング』を作ったおかげで、自分の中で開き直れたというか、「もう嫌な事はどんなにお金積まれてもやらないぞ」というところだけは変えないで生きていこうかなぁと思ってます。
何と言うか、そういう意味でこの映画ってのは僕にとってすごく大事な映画になってきたなという風に思うんですけど。
まぁ、そんなわけで、大した事は話せませんが、何かありましたら気楽に感想でも何でもいいんでお願いします。

             

質疑応答

司会:では、ここからは質疑応答へ移らせていただきます。質疑は映画に関するもののみでお願いいたします。

質問:本日はお忙しい中ありがとうございます。監督の作品は以前1999年の『海賊版=BOOTLEG FILM』をみました。その時に思ったのが、監督はトリュフォーが好きなんだと思いました。今講演を聴いていて、映画の内容と監督の撮っていた時の状況がシンクロしているように感じました。主人公高井有子の追い詰められる姿と、監督が追い詰められていく感じがそうなのかなと思いました。見て感じたのは、高井さんが実際の高遠さんより視界が狭くなって自分勝手すぎるのではないかと思っています。あと気になるのが、イラクが単なる逃避先でしかないというのが引っかかりました。そういう意見に対してはどのように思われますか。

監督:作っていく中で最後終り方をどうしようかと、一応、台本では別の終り方にしていました。去って行くという終り方になっていたのですが、最後で逃げていくんではないかと、今いったように逃避してイラクにただ逃げていくだけではないかと。そういう風にお客さんがとらえたらこっちの責任だよね、と主演の女優や回りのスタッフとも話していました。その前に彼女と義理の母親とのやりとりの中で、彼女は逃げるのではなくて、日本を捨てていくんだと。だから彼女があそこでやっと笑えるんだと。あきれ果てて捨てていくという風に僕らは作ったつもりです。だから決して逃げていわゆる逃避先としてつくったつもりはないです。そう見えたら演出力が足りなかったのかなと反省しています。

質問:ありがとうございました。もうひとつ質問なのですが、ボランティアは割の合わない仕事だというセリフがすごく印象的なのですが、映画を作ることも割の合わない仕事だと思われますか。

監督:そうですね。やはり劇映画である程度の予算がある場合は別なんですが、自主映画というのはボランティアですから、みんな嫌がります。

質問:こんにちは。監督はトリュフォー監督のファンであると先ほど聞いたのですが、トリュフォー監督のどの作品が一番印象的だったのかと、どの作品の影響を受けたかを教えてください。

監督:中学2年の時に『大人は判ってくれない』という彼の1本目の長編映画を見て、その頃僕は家出なんかしていたりして、友達の家に泊まり歩いていたり、親父とあまり仲がよくなくて、その時にたまたまどっかの名画座にいって見て、どうしてこの人は俺のことをよく知っているんだとびっくりしました。名画座ができたのが1957年ぐらいだと思いますが、10何年後に彼の作った映画を見て、上映されていたら必ず見に行っていました。その後『おこづかい』という『トリュフォーの思春期』という映画も何回見たか、かかるごとに見ていました。20代になって、僕が32の時トリュフォーは亡くなったんですけど、年取ると自分も年をとり、好きな映画、その頃わからなかった『柔らかい肌』が、最近見たら面白いなと思ったりします。年とともにいいなと思う映画が違ってくるんです。その頃はアントワーヌ・ドワネルの『夜霧の恋人たち』とかあのシリーズが好きでした。

質問:僕は北海道出身で、撮影現場が北海道ということもあり、よく印象に残っています。僕が印象に残ったシーンは父親が自殺するシーンで、飛び降りではなくてあえて海をずっと見せているシーンとか。何回も何回もあったので印象に残ったのが、階段をやたらと上るシーンが多くて、何も音楽もかけずにただ階段を上って音が「カタカタ」としているところが、すごく彼女の心理状態を表しているのかなと思いました。質問が一つあります。カンヌ映画祭で上映した時の外国の聴衆の反応と、日本ではこれが初めての公開だと聞いているので比べ様がないのですが、日本で公開して違いがあれば教えてください。

監督:一般のお客さんの反応というのはカンヌでも決して悪くなかったです。ただ、映画にびっくりしたというのは事実で、カンヌの場合は公式上映というのが1回あって、その前日にプレス向けの試写を行います。公式上映が終ってその後から各国のプレスやジャーナリストからの取材依頼がものすごい数きます。その割に聞いてくることは全部同じで、同じ事を4,50回言いました。まず最初に、この映画のどっからがほんとの話で、どっからがフィクションなのかということを聞かれて、毎回同じ事を言ったんですが、この映画はフィクションですと。イラクで人質にあった何人かの人たちがいて、それが日本に帰ってきたらバッシングされたというこの映画の始まる前までの段階のことが実際にあったことです。ここで描かれている事は全部僕が勝手に作った話で、取材をして何かをしたということではないんですと答えていました。彼らが、すごく不思議だったのが、どうしてイラクで人質になって無事解放されて帰ってきたら、そういう風にいじめにあわないといけないのかと聞かれました。答えとしてそれは僕には分からないし、日本は村社会で、人と違う事をする人をいじめたり、村八分にしたりするんだと言っても、外国人にはそれがどうしてなのかという風になってくる。そうなると何も答えられなかった。この映画はそういう話ではないということを話す事で、毎回取材が終ってしまうんです。この映画に関してどう思ったのかということよりも、日本はイラクで人質になった人に対して、なぜバッシングをするのかと。その質問しかなかったことはすごく悲しかったです。それは僕が答えることじゃないんじゃないかと思って終わりました。3日間ずっと取材を受けて、同じ話をずっとしていました。
公式上映の時、普通のお客さんというのは、あまりそういう風には見ないです。終ってからこの前のハンブルグ映画祭にもかかったんですけれども、ドイツ人の人たちも映画が終って随分残っている人がたくさんいたと聞いています。カンヌの時もそうでしたね。

質問:監督の曲だったと思うのですが、エンディングの曲が印象的でした。監督はミュージシャンでもあられるのですが、本編のところに音楽がなかったと思います。それには何か理由があったのでしょうか。

監督:音楽をつけることはすごく難しいことです。今回の場合この映画がいわゆるドキュメンタリーではないんですけど、ドキュメンタリータッチでつくろうと思っていました。なのでなるべく客観的なつくりにしたかったので、最初から音楽は入れないでおこうと思っていました。最後に自分の歌なのですが、30年ぐらい前に吹き込んだ音楽を入れたのは、単純にお金がなくて、他の人にお願い出来るお金がなかったんで、苦し紛れに入れたんです。でもやはり聴けないですね。

質問:本日は『バッシング』の映画を見まして、まずは感想なのですが、アンケートが配られてないので今言おうと思います。作中で高井有子が元恋人に対して「分かったから」と何度もいう姿が、私にとってはすごく心に残っています。私自身も『バッシング』という映画が伝えたかった事に対してもう分かったから、分ったからという気持ちで一杯でした。私が正直イラク日本人拘束事件の時にこの流れがおかしいと感じていましたが、自分の中にも自己責任論という感情があったことは否定できないので、自分が意識していなかった潜在的な自分を抉り出されたような気がしました。
質問が一つあります。作中で高井有子を批判する人が何人も出てきましたが。監督は彼らを現実社会の誰だと思って、作中のような高井有子に言葉を投げつけるキャラクターに置いたのですか。メディアなのか、現実にこの日本に生きている一部の人々なのか。一体誰を具体的に想像して批判者達を撮られたのかお聞きしたいです。

監督:有子を攻める人たちは具体的に誰ということは難しいですね。ただ物言わぬ人たちがああいう風に思っているんだろうなと僕は理解していました。当時起こったような直接そういうことを言う人は、ひょっとしたらいないかもしれないです。黙して語らず、知らん顔っていう人の心の中はみんなああいう風に言っているんじゃないかなと思います。
質問:監督がそのように想像されてということでしょうか。

監督:そうです。僕自身がそうですから。

浅野健一教授:監督、今日はありがとうございました。私のゼミの学生が映画『バッシング』の上映会を是非やりたいということで、新聞学研究会に提案し、それが認められて、今日催される事になりました。小林監督が言われたように、一般公開の前に同志社で上映をやっていただく事については、本当は途中で諦めていました。私がゼミの延長という形で学生たちのためにやって下さいとお願いして、今日来ていただき、しかも次の作品の最終段階の作業でお忙しい中、おいでいただきありがとうございました。
 さきほどの質問に対して私は言いたいのですが、自分の中にある自己責任論を追及すると言われたのですが、そこをもう少し正直に監督に言うべきでないかなと思います。というのは、私の学生の中にもやはり勝手に行ったとか、そう言う人がすごく多くて、昨年今井紀明さんに6月30日に同志社大学にきてもらい、チャペルで学生限定ということで講演していただきました。彼の唯一の講演で、その後イギリスへ留学しました。実際に今井さんに会ってみると、ごく普通の人で、なぜ彼がイラクに行ったかも理解できる。だからおそらく自己責任ということを追及していた日本の多くの人々というのは、やはりテレビのコメント、新聞の論調、近所の人の言っていること、そういうことを信じて彼女達を責めたのではないかと私は思います。そのことが世界中でユニークである。これは日本だけです。2004年6月22日に人質男性の殺害が確認された韓国、2004年7月3日に男性が無事解放されたフィリピン、特にフランスではクリスチャン・シェノとジョルジュ・マルブリュノの2人のジャーナリストが同じようにイラクで人質になって2004年12月21日に解放され帰国した際、シラク大統領が空港まで迎えに行っていました。「ご苦労様、無地に帰ってきてよかったね」というそういう素直な気持ちというものが日本にはなくて、税金を使うのはけしからんとか、そういう論調になったのは、まさに日本の社会が歪んでいる証明だったと思うので、もっと素直に世界の人たちから日本が非正常な国だと思われていることを、きちんと受け止めた方がいいのではないかと思います。だから監督に外国の記者からそういう質問があるのは、映画の作品の評価よりも、彼らが日本社会の状態をなかなか理解できないのでそう聞いたのではないかと思いました。
今井さんが言っていたのは、今井さんを目の前にして「お前は生意気だ」とか、「気にくわねぇ」とか、今井さんのお父さんは学校の先生で、お母さんは病院に勤めているんだけれども、今日見た監督の作品にあったような情景があっちこちにありました。監督の中の想像かという質問がありましたが、そういうことを知らないで、今井さん達が関西空港に着いたときに「非国民」だとか無茶苦茶なことを言う人たちが数十人いて、罵倒され、脅迫電話がかかり、そういう事実があったことを私達は忘れてはならない。
 今日の映画の一番最後にいろいろ協力してくれたお弁当屋さんとか、苫小牧市のいろんなコンビニとか、おそらくこの映画をつくるときに、タイトルを聴いたりしただけで拒否反応をおこしたり、あるいは俳優もおそらく関わりたくないという方もいたのではないかと思います。しかし、結果として多くの人が努力して、カンヌで上映することもできた。逆にいえばそういう人間もたくさんもう一方にはいたんだという風にも思いました。
作品をつくっていく過程で、どんなご苦労があったかを監督にはお聞きしたいと思います。

監督:苫小牧で映画をつくるのはこれが3本目になります。最初に『女理髪師の恋』(2003年)という作品をつくり、そのあと『フリック』(2004年)という作品をつくりました。次に今回の『バッシング』をつくったのですけれども、今まですごくよくしてくれていたスタッフが、今回や札幌のスタッフとかも当然一緒にやってくれると思っていて声をかけたら、「今回は遠慮したい」と随分いろいろな人から敬遠された。東京の方ではイラク人質事件に関する話題がある程度消えていたので、あまり抵抗する人はいなかったです。それでも抵抗がないことはなくて、その前にこの作品をつくって大丈夫なのかと、大変な事になるよと言われました。特に北海道は千歳に高遠さんがいて、そのとなりの市の苫小牧では高遠さんを応援している人がたくさんいて。そういう人たちが最初の本を読んだ段階だと、内容がどっちにも取れるシナリオになっていて、彼女を応援しているようにも読めるし、否定しているようにも読めるし、どっちにも取れる本なんで、本を読んで立場上参加できないとかというのは結構ありました。なんで、キャスティングでは高遠さん的な人が出てくるので、余計に配慮するようにはしました。高遠さんを応援している人はどうしても否定的に見てしまうんだろうなと、またそれは仕方ないと思います。
 話は変わりますが、この映画がカンヌ映画祭で上映された後に、フランスのパリに住んでいる日本人の女性が、フランス人から「カンヌで『バッシング』という映画が上映されているみたいだ。日本ではイラクで人質になった人に対して、(フランスではバッシングの事をハラスメントというらしいが)ハラスメントしているらしいじゃないか。日本はそんなにひどい国なのか」という風に言われたらしいです。また「日本の悪口を映画にした人がいて、私達フランスに住んでる日本人はとても迷惑だ。せっかく名誉が回復されてきたと思っていたら、また私達が住みづらくなってきた」と言われた。とても困りました。そういう風に作ったわけではないし、いろんなところに飛び火するもんだと思いました。

質問:本日はありがとうございます。質問なのですが、主人公の有子がおでんを食べているシーンで気になったことがあります。なぜ有子はおでんを2つずつ3つのお皿にいれて、しかもお汁いっぱいいれたのですか。それは監督のあれなのか、何なのかすごく引っかかりました。

監督:僕がそうだったのですが、変に極度の緊張状態になると眠れないでしょう?で、食欲がなくなり、物が食べられなくなって、水分しか取れなくなるんです。なので、汁をたくさん飲みたいために2つに分けたり、3つに分けたりしました。やはり、愚痴っぽくなってきたり、精神的なものになってくると人はそうなってくるみたいです。

質問:質問したい事があります。映画自体が淡々としていて、新聞記事とか、テレビとかそういうメディアに直接触れていなくて、人から自己責任論とかイラクとかそういう話がでてきたのですが、それはなぜでしょうか。

監督:まず劇映画にしたくなかったということがあります。新聞記事が出てきたり、テレビで言っている事を撮ったりすれば、それは分かりやすくなると思います。しかし、そういう作りにはしたくなかったんです。それと彼女の置かれている状況を家族も含めて閉ざされたある特殊な状況をつくりたかったので、実際とは違う映画の世界であること。いわゆる家族があんながらんとした家に住んでいるって事自体もリアルではない。それは狙いで作っているわけで、彼女達がどれくらい孤立した状況なのかという精神的なものを証明したくて、なるべく日常のものは削いでいって、無くしていきました。

質問:感想を述べさせていただきます。日本に住んでいます在日朝鮮人です。今わが祖国、朝鮮民主主義人民共和国と日本との関係が極度の緊張状態で、日本に住みながらも窮屈な思いをしています。今回の映画を見まして、主人公と自分が重なる部分がありました。メディアであったり、報道であったり、孤立していく主人公で日本のメディアのあり方を監督の映画を通して世界にこれからも発信していっていただきたいと思います。本日はありがとうございました。

監督:こちらこそありがとうございました。


質問:助教授です。1年半前に起きた斎藤さんたちの誘拐事件の時に日本人の反応はすごく強かったです。これから映画をレビューすると強い反応をされますか。それとも日本人は変わったと思いますか。

監督:映画に対する事でしょうか。この『バッシング』は去年の5月のカンヌの時に、新聞やテレビではでていたので、あの頃もし上映していたら興味本位で見に来る人がいたかもしれないです。これから上映しても、客さんから逆に無視されてしまうのではないかと怖さがあります。人質事件が起きたときに、皆が寄ってたかってしていたのと同じように今度は無視するんじゃないかという気がします。だから日本人はあんまり変わらないですよ。

司会:ありがとうございました。では最後に監督から学生へのメッセ−ジをお願いします。

監督:先ほど在日朝鮮人の方が言っていましたが、やはり今回描いた世界はなにもイラク人質事件で帰ってきた人だけの問題ではないのです。僕自身もいろいろ何かあるとたたくのが日本人の悪い癖で、人と皆同じじゃないと気がすまないという。特に田舎に行くと皆、そうですよね。自分の意見を言わない。うちの親もそうなんですけど、なにか言うとすぐに戦争に負けたんだから仕方ないと言います。だから、もっと自分の意見を言うようにして、議論を恐れずにしていかないとつまらない国になるんではないかと思います。えらそうには言えないんですが、やはり議論は大切だと思います。対立を恐れずに自分の思っていることをどんどん言って生きていってください。そうでなければ風通しの悪い生き方になってしまうと思います。本日はありがとうございました。                    
                                             
司会:以上を持ちまして質疑応答を終了させていただきます。それでは最後に本企画の共催者であります新聞学研究会会長より挨拶があります。

新聞学研究会会長:本日はお集まりいただいてありがとうごじました。この企画に共催者として参加させていただいた新聞学研究会会長の森脇です。イラクの人質事件であったり、私にとっては正直、そんなに深く考えた事のない問題です。先ほど監督がおっしゃっていたようにニュースで見て少し考えて流すという問題でしたので、今日の映画を見てちゃんと中心にいる人のことを考えるということがあまりなくて、ニュースで見るということで他人事だと思います。その他人事を考えるというきっかけに今日はなりました。いろんなことを深く考えるというきっかけは必要だと思います。ですので、今日は監督に来ていただいて映画を見せていただき、いい機会を与えてくれたと思いました。本日は本当にありがとうございました。

司会:それでは以上を持ちまして映画『バッシング』の上映会、ならびに小林監督講演会を終了させていただきます。本日はお忙しい中足を運んでいただきまして誠にありがとうございました。最後に改めて小林監督に拍手をお願いします。

上映会・講演会に参加した学部生の感想文 (まとめ 1回生、川崎悠介)



映画「バッシング」を観て            川崎 悠介

 今回初めて小林監督の映画を観させていただきました。自分はハリウッドの大作映画ばかり観ているので、「バッシング」のような静かで淡々とした小規模の作品はかえって新鮮に感じました。キャストも大塚寧々さん以外ほとんど知りませんでした。

 映画の感想としては、正直暗かったです。音楽がないかわりに物音が大きく響いて、バッシングに苦しむ主人公の気持ちが生々しく伝わって来たからだと思います。それに観ていて人間が嫌になりました。相手のことも考えずこんなにもひどいことができるものなのかとも思いましたが、やはり強者・多数の意見に同調してよってたかって弱者・少数を叩くのが人間というものです。楽なほうを選んでしまうのです。とくに日本人はその傾向が強いと思います。自分自身、もし近くに高井有子みたいな人がいたら、サポートではなくバッシングする側にまわってしまうのではないかと心配になりました。彼、彼女の味方についたら自分まで非難されるんじゃないかという恐れに負け、多数の中に混じって皆と同じようにしてるほうが楽だし安全だからと逃げてしまいかねないと思います。しかし、その強者と弱者、多数と少数を決めてしまうのはメディアの力なんですね。怖いです。また、救いを見つけられなかった主人公は日本を捨てていきますが、独り残された継母のほうこそ救いがなくてかわいそうだと思いました。

 最後に監督のおっしゃった「思ったことを自由に発言できる社会になってほしい」という願いが心に残りました。多くのことを考えさせられた上映会、講演会でしたが最も印象に残ったのはやはりおでんでした。



「バッシング」を見て考えたこと            田中 茜

 「バッシング」を見て一番に感じたことは、「主人公、荒んでるなー」ということだった。立ち居振る舞いは荒々しいし、家族や恋人に対する態度も最悪。主人公の住むどこか寂しい街や荒涼とした海はまるで主人公の心の様子を表しているかのようだった。正直、こんな卑屈な人にはなりたくないと思いながら映画を見ていた。

 父親が自殺したことを重く受け止めるそぶりを見せず「お父さんは弱虫。」と言い放ち、挙句の果てには「私にもお父さんの保険金をもらう権利がある。」とまで言い放つ主人公を見ていると、物語の最後で彼女が再びイラクへ飛ぶことを肯定的に捉えることは私にはとてもできなかった。というのは、そんな親不孝かつ周りの空気を読まない発言や行動が私には理解できないからだ。

 しかし、主人公をここまで追い詰めたものはなんなのかを考えたとき、彼女を頭ごなしに否定することはできないと気づいた。
 実際にイラクで日本人が人質になったとき、日本では「自己責任」が謳われた。「命を捨てる覚悟でわざわざ危険な地へ赴いたのだから死ぬのはそちらの勝手だ」と、人命救助に税金を使うことを渋り、帰還した人質たちを責めた。ここで気をつけなくてはならないことがある。多くの日本国民は、テレビや新聞で「自己責任」が謳われるから、イラクで人質になった人たちに対して否定的になってしまう。それに対して人質たちには、「イラクでボランティアをしていただけなのになぜこんなに責められなくてはならないのか」という意識がある。両者の間でいろんなことが噛み合っていないのだ。

 この不一致こそが、主人公を傷つけ追い詰めた原因である。そしてそれは、同時にマスメディアと、それに踊らされた我々日本国民の罪であると私は感じた。
 主人公の心がどんどん蝕まれていく様を見て、マスメディアに半ば意識を操られ、日本の多くの人がイラクで人質になった人たちに対してつらく当たってしまったことを今すごく残念に思う。
 
 「私、そんなに悪いことしたの?」という台詞が胸に響いた。



映画「バッシング」感想文                上地 裕貴子

 イラクで日本人人質事件が起こった時、日本では「自己責任論」が展開され、政府・マスコミ共に、被害者であるはずの3人をバッシングした。今思い出すと、ボランティアというものが理解できない私も、冷ややかな目で見ていた一人だと思う。正直、世で言われているボランティア精神は理解できない。他人のために何かをしてあげる、ということが私にはできないからだ。

 しかし、映画を見て、主人公・ゆうこが言っていたように、「誰かに必要とされたい」という想いは誰にでもあると思った。誰かに尽くすため、助けるためではなく、自分の存在価値を見出したいためにボランティア活動をしている人も大勢いるのではないかと思った。

 私は四月に高遠さんの講演会に参加した。イラクの現状を高遠さんが撮ってきた写真で見た。沖縄で幼いときから受けてきた戦争教育同様、腐乱した死体がそこにはあった。戦争で幸せになる人なんて、一人もいない。それでも悲劇を繰り返す人間を愚かな存在だと思う。高遠さんは、戦場に飛び込み、困っている市民に食料や薬を届けたりしている。高遠さんも、映画のゆうこ同様、「私を待っていてくれる人がいる」と言っていた。

 善意や自分の意志で行動している人を責める権利は誰にもない。その結果がどうなったとしても。あの時から、この国は病んでいるのだ。国民のぶつけようの無い不安の標的になってしまった。誰かを責めることでしか、それを解消できないようになってしまっていた。

 映画を見て、将来マスコミ業界を志すものとして、気をつけなければならないと思った。記事一つで、人の人生を左右することができてしまう。マスコミは速報性ばかりでなく、もっと考えてから記事をだすべきだ。受けて側も考えて情報を受けるべき。しかし、それが今の日本では難しいのが現状だ。少しずつでも変えていかなければならない。こんな日本ではいけない。そう思った。



映画「バッシング」上映会感想文             藤野有美子

 「この国じゃ、みんなが怖い顔をしてる。私も、怖い顔をしてるんだと思う」
 中東へボランティアとして赴き、武装グループによって監禁され、人質となったが無事開放され帰国した主人公・有子。しかし、周囲の目は冷たく、日本全国からバッシングを受ける日々が始まった。バイト先をクビにされ、毎日電話で罵声をあび、町で襲われ、父の仕事まで辞職を余儀なくされる・・・。

 昨年4月にイラクでおきた、日本人拘束事件で被害者三人に対し、「自己責任論」を持ち出し非難した日本政府、三人を悪者扱いする日本メディアの報道、政府とメディアが正しいといわんばかりの、一般の人々の冷たい反応を思い出す。

 なぜ拉致された被害者は、有子は、このような目にあわなければならないのか。なぜ政府をはじめメディアや国民は被害者を冷遇するのか。この映画を見て、日本の社会情勢に疑問を抱いた。

 有子が笑いながら母に、亡くなった父の保険金をせびるシーンがとても強く印象に残る。有子を見て背筋がゾクッとした、おそろしい、異様だ、と。父のお葬式の直後に中東へ行くお金を母に要求する有子におそろしさを感じたのではなく、中東しか居場所がないという状況をつくりあげてしまった日本の社会におそろしさを感じた。このシーンに日本社会のゆがみを感じずにはいられなかった。

 この映画を日本国民はもちろん、世界のひとに見てほしい。一人でも多くの人が周りに振り回されず、一度振り返り客観的に物事を見るように、そして自分自身を見つめなおすきっかけになることを願う。



映画『バッシング』感想           梅村 香奈

 「自己責任」という言葉が日本中に広まって久しい。昨年4月に起こった日本人拘束事件の報道に端を発するこの言葉は、いつしか“イラクでの日本人拘束事件の被害者に対する非難の言葉”という性格から離れ、“自分の行動には自分で責任を持ちましょう”という意味合いで、安易に、時に冗談めかして、半ば流行語のように用いられるようになっていった。かくいう私も、安易に「自己責任」を連呼していた一人だが、これはやはり、事件の原因そのものに関する議論を十分になさず、必要以上に「自己責任」を強調した、被害者非難の報道を行ったメディアにも責任があると思う。

 もちろん「自己責任」の本来の意味は、平たく言えば“自分の行動には自分で責任を持ちましょう”ということなのだから、そういう意味で軽く使っても間違いではないのだろうが、マスコミによる連日連夜の「自己責任」報道のために、「自己責任」という言葉が安易に使用されるようになったのだと思えてならない。

 今回、もはや人々の間で忘れられかけた日本人拘束事件の「自己責任」報道をモチーフとした映画『バッシング』が、日本での公式公開に先立ち、学内限定企画として上映されると聞いて、事件を忘れかけていた者の一人として、またメディア学を学ぶ者として、是非観ておかねばと思い、上映会場に足を運んだ。

 正直に言うと、実際に映画を観るまでは、もっと派手なものを想像していた。だが、物語はあくまで直接的な表現を避け、淡々と進んでいく。その淡々とした調子から、主人公・有子の追い詰められていく様や恐怖、憎しみ、諦め、そして絶望的な日々を送る有子をかろうじて支える悲愴なまでの一筋の「光」――再び中東を訪れ、自分を必要としてくれる人達のもとへ戻るという希望が、刺すように伝わってきた。ラストシーンは、祖国である日本を捨てるというもので、一見救いの無いように見えるが、どこか吹っ切れたような有子の表情から、ある種のすがすがしさが感じられた。

 中立の立場にあるべきで、誰かを傷つけることなどあってはならないはずのメディアの行いひとつで、一人の人間の人生がめちゃくちゃになるという現実。日本人拘束事件に限らず、これまでメディアは、心無い人々による誹謗中傷の原因を生み出し、多くの人々の人生を狂わせてきた。それでいて、事件・事故の風化を十分に食い止めることも出来てはいない。こうしたメディアの体質は、簡単に変えられるものではないと思うし、メディアの永遠の課題であると思う。

 『バッシング』は、イラク人質事件と「自己責任論」そのものを振り返ると同時に、病んだ現代の日本社会やメディアのあり方を改めて見つめなおす機会を与えてくれた。
       


映画「バッシング」を見て              中嶋美紀

 「みんなだよ」誰に迷惑をかけたのかと問う主人公有子に、恋人が告げる一言だ。「バッシング」を見て、私が最も印象に残った場面だ。それはこの台詞が日本社会を鋭く描写していると思うからだ。

 有子が「みんなだよ」と言われて言葉を失うように、私もこの一言を聞いて考え込んでしまった。迷惑をかけたという「みんな」とは、一体誰なのか。誰でもあるようで、実は誰でもないのではないか、そんな考えが浮かんだ。普段の生活でもよく使う「みんな」という単語、責任を曖昧にして誰かを非難するときにはとても便利な言葉だ。

 イラク日本人人質事件の際、世間で多用された「自己責任」は「みんな」に迷惑をかけた、と理由づけられて展開された。「みんな」という言葉でひとまとめにすることで、政治や社会の責任が曖昧にされていなかったか、改めて考えることは大切だと思う。

 講演の最後に、「もっと自分の意見を言うようにして、議論を恐れずにしていかないとつまらない国になるんではないか」と、小林監督がメッセージをくださったように、「みんな」でひとまとめにされようとするときに抵抗する姿勢が日本の社会、そして私自身にも必要だと感じた。



この映画で日本の報道が変わるかもしれない


 浅野健一(社会学部教授)

 「昨年四月イラクで高遠菜穂子さんたちが拘束された際に、小泉純一郎首相が自衛隊を撤退しないと平気で言った時は呆然となった。しかし、それ以上に何か思ったわけでもない。政治とは切り離し、なるべく普遍的なものではないと映画にはならないと思っていた。ただ、イラクで拘束された女性のその後の話を、占部房子さんが表現してくれるかと思ってつくった」。
 
 今年五月に開催されたカンヌ映画祭コンペティション部門に公式出品された小林政広監督の『バッシング』が十月末、同志社大学で上映された。『バッシング』が日本で上映されたのは初めてで、小林監督も駆けつけて講演、学生たちと対話した。
 『バッシング』は一一月二〇日、東京フィルメックスで上映され、グランプリに輝いた。

 占部演じる主人公、高井有子は街の中でいじめ抜かれる。バイトもできない。父親も職を失う。コンビニ店員の暴力は「新聞を見たよ」という言葉から始まった。

 「占部に、何か一本、初心に返って自主映画をもう一回作ってみたい」というメールを送ったら、彼女が「是非やりたい」と言ってきた。お金の事を一切考えないで、もう一回、ほんとに少ない人数で映画を作ってみようと。そう思って作ったのが、この『バッシング』という映画だ。

 「有子が映画の最後で日本を捨てて去っていくわけですけど、僕も、これを取り終わって、『もう映画づくりをやめてもいいや』と思って作ったら、今年のカンヌにまた選ばれた」。

 映画には、イラクという言葉も出てこない。新聞記事も映像もない。しかし、世界中の人たちが、日本の為政者と報道機関が拘束された三人と家族を「自己責任」という言葉を用いて非難、中傷した経過を知っている。

 カンヌ映画祭では上映の前日にプレス向けの試写会がある。公式上映が終ってから各国のプレスの取材がある。小林監督は三日間で約五〇人の取材を受けた。「どうして人質が無事解放されて帰ってきたら、そういう風にいじめにあわないといけないのかと聞かれました。日本はムラ社会で人と違う事をする人をいじめたり、村八分にしたりするんだと答えても、外国人にはそれがどうしてなのかと言う風になってくる。そうなると何も答えられなかった。この映画に関してどう思ったのかということよりも、日本はイラクの人質に対してなぜバッシングをするのかと。その質問しかなかったことはすごく悲しかった」

 しかし、ハンブルグ映画祭も同じだったが、一般の観客は映画作品として見てくれたという。

 カンヌ映画祭には日本の報道記者や映画評論家も多数来ていたが、映画についての論評記事はほとんどで出ていないという。「みんな様子見のようだ」と監督は言う。

 米国人のマリー・トーシュテン社会学部助教授が「映画が一般公開されるとどういう反応が日本であると思うか。元人質を叩いた日本人は変わったと思うか」と監督に聞いた。監督は「昨年五月のすぐ後に上映していたら興味本位で見に来る人がいたかもしれない。これから上映しても、お客さんから逆に無視されてしまうのではないかという怖さがある。人質事件が起きたときに、みんなが、寄ってたかって、バッシングをしたのと同じように、今度は無視するのではないかという気がする。日本人はあまりか変わっていないと思う」。

 映画製作の過程でも、「自己責任」報道の影響があった。監督が苫小牧で映画をつくるのはこれが三本目だったが、今まで協力してくれていた東京や札幌のスタッフの中に「今回は遠慮したい」と敬遠する人たちがいた。「この作品をつくって大丈夫なのかと、大変な事になるよ」と忠告もあった。特に北海道は千歳に高遠菜穂子さんがいて

 「僕のシナリオは彼女を応援しているようにも読めるし、否定しているようにもとれる。本を読んで立場上参加できないとかというのは結構ありました。キャスティングでは高遠さん的な人が出てくるので、余計に配慮するようにはしました」「有子をバッシング受ける対象、バッシングをする対象、両方から見られる映画にしたかった」

 ある在日朝鮮人三世の女性が「朝鮮民主主義人民共和国と日本との関係が極度の緊張状態で、日本に住みながらも窮屈な思いをしている。映画の主人公と自分が重なる部分があった。メディア報道で孤立していく市民がいることを映画を通して世界にこれからも発信してほしい」と感想を述べた。

 監督は「在日朝鮮人の方が言っていたが、やはり今回描いた世界はなにもイラク人質事件で帰ってきた人だけの問題ではないので、僕自身もいろいろ何かあるとたたくのが日本人の悪い癖で、人と皆同じじゃないと気がすまないという。自分の意見を言わない。もっと自分の意見をいうようにして、議論を恐れずにしていかないとつまらない国になるんではないかと思います。議論は大切だと思います。対立を恐れずに自分の思っていることをどんどん言って生きていってください。そうでなければ風通しの悪い生き方になってしまうと思う」。

 小林監督は高田渡らと共に林ヒロシの名前でフォーク歌手として活動。京都の各大学や円山公園などでも歌った。「懐かしい京都で、学生たちと話ができてよかった」と監督は私に語った。

 監督は私への手紙で「学生たちから生の声が聞けて、とても参考になった。『バッシング』のシナリオを書く際、先生の「犯罪報道の犯罪」を読ませていただきました。すばらしい本だと思っています」と書いてくれた。

 監督はネット上で「僕の映画渡世帖」という連載を持っている。一一月一九日のページに「同志社の学生さんたちから、『バッシング』について、沢山の感想文が送られてきた。

 隅から隅まで、読ませていただいた。唸ってばかりいた。ちゃんと見てくれてたんだなと思ったら、何だか、泣けてきた」「『バッシング』のホンを書く時、参考にさせていただいたのが、『犯罪報道の犯罪』と言う、浅野さんの、著作だったからだ」

 「ボクは、彼の著作に触発されて、『バッシング』を書いたのかも知れない。判らないが、エネルギーを貰ったことは確かだ。その人と出会えるなんて、思いもよらぬことだった」。

 「あの映画を見たあるマスコミの人が(彼女は、あの時、事件の報道をし、バッシング記事を書いた人だった)、この映画で、日本のマスコミは、変わるかもしれないと言っていた、あの一言。変わる訳がないと思いつつも、思わず口から出た、あの一言が、ボクには、痛烈だった」。

 小林監督にゼミ一回生の学生たちの感想文集を送った。11月初旬に返事が来た。

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前略
先日は同志社での上映会で、大変お世話になりました。誠にありがとうございました。
映画について、学生さん達から生の声が聞けて、とても参考になりました。
11/20の東京フィルメックスでの上映会で、どの様な展開となるのか…楽しみでもあり、不安でもあります。
また、機会ありましたら、声を掛けて下さい。
「バッシング」のシナリオを書く際、先生の「犯罪報道の犯罪」をひろい読みさせていただきました。すばらしい本だと思っています。僕はこの本からインスピレーションを浮かべ、ひとつシナリオを書き上げました。同封させていただきます。男の方は香川照之君でいこうと考えています。来年12月に撮影に入れればと思っています。
御読みいただければ幸いです。
「バッシング」では本当にありがとうございました。
お礼かたがた。

浅野健一様
小林政広
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小林監督からの手紙には新しいシナリオのコピーが同封されていた。私の本からインスピレーションを浮かべて、最近書き上げた少年事件の加害者と被害者の親をテーマにしている。来年一二月に撮影に入る予定だという。新作が楽しみである。

(終わり)
    

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