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訪朝報告

浅野健一教授が宗日昊(ソン・イルホ)大使と会談

報告者:森 類臣(同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻)
 日本のメディアでは、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮という)を扱うとき、これ以上ないほどに歪曲し、悪のイメージを固定化し、時にはおもしろおかしく茶化すような報道をする。また、一部の“朝鮮専門家” “識者”と言われる人たちの中には、朝鮮問題に対してたいして詳しくないにも関わらず、検証もしていないウソを堂々とテレビでコメントするありさまである。特にテレビにおいて、このような傾向は顕著である。
 日本の人々の間では、2002年9月17日に、日本と朝鮮の間で採択された画期的な「日朝平壌宣言」は、完全に忘れ去られている。メディアではほとんど言及もしない。
 様々な問題が横たわっている日朝間においては、まず「日朝平壌宣言」に基づいた精神に立ち返り、国交正常化を目指すことが第一だ。国交正常化をすることで、問題が解決し始めると考える。
 07年2月8日、北京で6者協議が再開された。6者会談の行方は、国際社会・特に東アジアにおいて非常に注視されることだが、日本の企業メディアからの情報だけでは、朝鮮を理解・把握することは難しい。
 そこで、私と浅野教授が06年5月に訪朝した記録を以下に載せる。企業メディアには映らない朝鮮像を知ることによって、より正確な朝鮮理解につながると考える。


 06年4月30日から5月5日まで、私と浅野健一教授は、「日朝友好のつばさ」(主催:「日朝国交正常化の早期実現を求める市民連帯・大阪」)の一員として、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)を訪れた。
朝鮮では、平壌市内をはじめ、世界遺産である高句麗遺跡、妙香山、開城工業団地などを見て回った。特に、開城工業団地については、日本人としては始めて見学に入れた。朝鮮・韓国の思った以上の歩み寄りに、非常に驚き、統一も時間の問題ではないかという実感を持った。

 5月4日(木)午前十時から約1時間半、浅野健一教授と宋日昊・日朝国交正常化大使が朝鮮外務省で会談した。私も幸運にも同席できた。この会談で、宗大使は「拉致問題は日朝2国間の懸案だと日本側は主張してきたが、横田さんらによる訪米は、問題を国際化させる目的で行われた」と日本の動きを批判した。また、「日本政府は、事実をあるがままに家族に伝えるべき。日本は、既に死亡した拉致被害者があたかも生きているように世論に流布させているし、また横田めぐみさんの遺骨もニセモノであるといって、家族に期待感を抱かせている。横田夫妻を米国まで行かせていることについては、横田夫妻を政治的な目的に利用している。結局かわいそうなのは家族側だ。このようなことをする勢力は誰なのかを、日本の社会で明白にされなければならない」と述べた。拉致被害者の一人である横田めぐみさんの両親である横田夫妻が、4月28日(米国時間)にアメリカブッシュ大統領と拉致問題で会ってから、初の朝鮮の公式発言であった。

※ 浅野教授と宋大使の会談の全記録はこちら

  

 また同日午後、日本帝国主義の被害者である全龍福(ジョン・ヨンボク)さん、朴文淑(パク・ムンスク)さん、金元經(キム・ウォンギョン)さんにインタビューすることができた。全さんは「私は1943年10月に徴用令によって日本に強制連行された。まだ10代だった。連れて行かれた所は日本の富山県の昭和電工株式会社だった。飛行機に使う色々な部品を作るために、朝鮮人の徴用者たちは、一番暑い電気溶解炉で仕事をさせられた。当時、現場には、日本人の監督が私たちを監視していた。作業は2交代で行われ、日に18時間も仕事をさせられた。食事は、大豆から油をとった残りかすなどで、おかずはたくわん一切れだけだった。賃金も戦時貯金という名目で奪われた。しかし、もっとも辛かったのは、民族的な差別と蔑視だった。祖国が解放され、帰る時には最初連れて行かれた仲間の半分ぐらいが死亡していた」と経験を述べた。

 また、1945年8月9日、長崎で爆心地から4キロ地点で被爆した朴文淑さんは、家族全員が被爆者である。家族の中で現在残っているのは朴さんだけであるが、日本政府から何の補償もされていない。幼い頃から後遺症に悩み、40代をすぎてからは、高血圧・不整脈や心臓系統の病気によって薬を常用しなければ生活できない状態だという。「99年に亡くなった母と兄は、『日本から何の補償もなく死んでいくのは悔しい。お前は最後まで戦って必ず日本政府から謝罪と補償をもらってほしい』と遺言を残した」「朝鮮では被爆者たちに対して、被爆者手帳を出し、手厚い配慮をほどこしてくれる。一方、日本は何もしてくれない。自分の故郷でもない他国で、自分が原爆の被害まで被ったことを考えると、日本の朝鮮侵略に対して怒りを感じる」と涙ながらに訴えた。

 金元經さんの父ジョンピョさんの遺骨は、東京・祐天寺に仮安置されたまま返還されていない。ジョンピョさんは、1944年に強制連行された。解放後、行方がわからなかったが、04年になって、44年12月30日にインドネシアセレベス島(現在のスラウェシュ島)で「戦死」しており、遺骨が東京の祐天寺にあることがやっとわかった。亡くなってから60年が経っていた。「母は父が生きていると信じ続け、再婚もせずに1984年に亡くなった。父はいつか戻ってくると思っていたので、法事は一度もやったことがない。」「(祐天寺に遺骨があることがわかった後の)04年の11月末に日本に行く予定だったが、通訳などの随行員は日本政府からビザの発給を拒絶された。理由の説明はなかった。私も結局行くことができなかった」「一緒に行く予定だった金ヨングルさんの父の遺骨はなかった。骨箱はからっぽだった。箱はあって名前も書いてあったが、中には何も入っていなかった」と金さんは続けた。金さんは、06年8月2日に、日本の市民団体の招きで来日する予定であったが、またもや日本政府に阻まれ入国することができなかった。
日本のメディアは横田めぐみさんの家族の動きや「救う会」の動きをトップニュースで報じる。しかし、過去日本が40年間の植民地政策で朝鮮民衆に対して行った強制連行・日本軍慰安婦なども朝鮮(韓)民族を大規模に「拉致」したことにほかならない。

※ 日本帝国主義被害者の全記録はこちら


 訪朝の報告は、『朝鮮新報』にも詳しく書いた。こちらも参照していただきたい。
(webで閲覧可能。http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/04/0604j0614-00001.htm


画報:開成工業団地
 開成の街風景©浅野ゼミ
 開成工業団地のコンビニ©浅野ゼミ
開成工業団地の労働者たち©浅野ゼミ 

掲載日:2007年2月10日
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