人の生を殺す権利は国家にない
鳩山法相に聞いてほしい
左藤惠・元法相の死刑廃止論
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山口県で1999年に起きた光市事件の被告人の元少年が受けている広島高裁差し戻し審が2007年5月24日に始まるのを前に、「光市事件裁判を考える」をテーマにした市民集会が4月21日夜、広島市まちづくり市民交流プラザで開かれた。「光市事件裁判を考える会」が主催した。
まず、元少年の弁護団の一員である足立修一弁護士(広島弁護士会)が事件の経過説明を行った。
続いて、在任中に死刑執行の署名を一度もしなかった元法相の左藤惠弁護士(大谷学園理事長)が「宗教と死刑廃止運動」と題して講演した。左藤氏は、法務省の官僚たちは左藤氏が司法試験合格者だと知ると非常に気をつかうようになったというエピソードを紹介した。左藤氏は「死刑執行を避ける条件に精神的に健常かどうかがあるが、その基準が明記されていない。死刑は絞首刑で行われるが、残虐な刑罰に当たると考える。国家が命を奪ってはならない」と強調した。
その後、私が「犯罪報道と死刑」と題して講演し、マスメディア報道が死刑を求める市民感情を作っていると訴えた。会場には報道関係者が多数いた。講演の前後、「被害者感情から考えると、死刑は必要だ」と私の意見に反発する記者が少なくなかった。記者たちのレベルが低い。
差し戻し審初公判の前日の5月23日(水)夜には、広島弁護士会館5階会議室で、野口善國弁護士(神戸事件のA少年弁護団長)と原田正治さん(殺人事件被害者遺族)が講演した。 |
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講演者2人の略歴が次のように紹介された。 |
【左藤 惠(さとう めぐむ)】大正13年、大阪市中央区(旧南区)生まれ。昭和20年、京都帝国大学法学部法律学科卒業。在ジュネーブ総領事館領事、松山郵政局長などを経て、昭和44年より衆議院議員を10期。この間、47年浄雲寺住職就任、59年郵政大臣就任、平成2年法務大臣就任、6年国務大臣・国土庁長官就任。12年に政界を引退。18年弁護士開業。現在、学校法人大谷学園理事長・学園長。
photo©長谷川 潤
【浅野健一(あさの けんいち)】1948年、高松市生まれ。72年、慶応大学経済学部卒業、共同通信社入社。社会部記者、ジャカルタ支局長などを歴任。94年から同志社大学社会学部メディア学科教授。著書に『新版
犯罪報道の犯罪』(新風舎文庫)、『「犯罪加害」の現場を歩く』(社会評論社)、『戦争報道の犯罪 大本営発表化するメディア』(社会評論社)、『天皇の記者たち』(スリーエーネットワーク)、『対論
日本のマスメディアと私たち』(野田正彰氏との共著)など多数。
photo©長谷川 潤 |
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以下は左藤惠(さとう・めぐむ)氏の講演の全記録である。末尾に講演後の記者団との質疑応答も載せた。
この記録の作成に当たっては、広島の市民団体の方々、報道関係者ら多数の協力があった。講演テープの起こしは浅野ゼミの学生、私の講義の受講生らが行った。
左藤氏にテープ起こしを送ったところ、10月4日に原稿を修正・加筆して郵送してくれた。左藤氏に心より感謝したい。末尾の注は浅野が書いた。
写真撮影は長谷川潤氏。写真を提供してくださった長谷川氏に感謝したい。
【文責・浅野健一】 |
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[付記:死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山邦夫法相は2007年9月25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べた。鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」「誰だって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」と現行制度に疑問を呈した。
安倍晋三改造内閣で法相に就任した鳩山氏は、福田康夫・新政権での再任はないと踏んで、暴言を吐いたのであろう。鳩山氏は同日夜の再任後の記者会見で、死刑執行の仕組みの見直しについて、省内に「勉強会」を設ける方針を示し、10月5日に第一回の勉強会が開かれた。
鳩山氏は、様々な刑罰の中で、死刑執行だけに法務大臣の命令を要請している理由を考えたことがないのだろうか。死刑が現行の法と制度においても、極めて例外的にしか適用されないことを全く理解していない。国家が市民の生命を奪うという重大な刑罰に関する法相の職責について、あまりに無知で無責任である。「勉強会」の講師に左藤氏を呼んでよく勉強すべきだ。] |
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みなさんこんばんは。
私が法務大臣をやっていた時に、死刑囚に対する執行命令書に判を押さなかったということがありまして、そういうことで、光市の事件につき、なにか参考になることがありはしないかということでお招きをいただいたんだろうと思いますが。
私自身は、大学を出ましてすぐに、前の郵政省なんですが、そこへ入りまして、そして高等文官試験のこの行政の方はとったんですが、そのあとすぐ司法の試験を受けないかと言われて、司法の試験を受けまして、どういう関係か知りませんけども、郵政に入った2カ月ほど後なんですけども、その時に、司法の試験に合格することが出来ました。
司法修習の研修に2年ほど行かなきゃいかんということでしたので、まぁ一回郵政省入ったんだから、そんなに何も裁判官なり弁護士になりたいというんじゃないんだから、試験受けてみろと友達も言うたもんだから受けたんで、したから、棄権しましたといいますかそういうことで、そのまま郵政省にずっとおりまして、24年あまり務めて、最後四国の郵政局長で辞めて、それから国会へ出て、先ほどご紹介いただいたように、10回、当選させていただきました。大阪市内のほうからの選挙ですから、自民党で出るのが大変に難しいところだったんですけども、とにかくこれで落選することもなく10回当選さしていただいて、郵政大臣と、そして法務大臣ともうひとつ国土庁長官と三回大臣をさせていただきました。法務大臣の時に、先ほどの死刑囚の、当時ですね、死刑囚に確定した人が52人、私の記憶するところありました。平成2年(1990年)のことです。そしてもうその前の法務大臣は皆期間が短かったんですけど、病気で辞めたりいろんなことがあったものですから、ほとんどまあそういう判を押す機会がなかったものですから。そういうことで52人ありまして、そのうち女囚というんですか、女性の確定囚が2人。それで、皆さんご承知だろうと思いますけれども、この刑事訴訟法では、6ヶ月以内に死刑が確定すれば執行しなければならないと書いてあるんですけれども、それを反対に、判を押さなかったからといって、別にこれは単なる、学説的にもそれは一つの道徳規定と言いますか、希望みたいな形のものであって、全体的な要素ではないです。で、その刑事訴訟法のことに関連しまして、今度は法務省令というのがありましてね。つまり、省令というのは、その省だけで決めたことであって、大臣が決済すれば決まるとこなんですけれども、その法務省令のなかに、こういうケースの場合は執行を、判を押しちゃいかんと、押すべきではないということがあります。その中に、一つは、健康状態が普通でないという場合。ここが非常に問題がありまして、だいたいそういう犯罪を犯すような人は、何かこう精神的に色んな問題があるから犯罪を犯すという、まあ、決めつけるわけではありませんけれども。この前の、長崎市長選の、市長さんを撃ったような、ああいう人たちは確信犯みたいなもんだろうと思います。これは、精神異常とかなんかではなく、なくても、そういうことやる人は出てくるけれども、何か異常者であることが多いと思います(1)。
それと、もう一つ、死刑が確定、収監されましてね、そしてずっとそのまま死刑の命令が出て、死刑が執行されるまでの間、毎朝コト、コトと、音がしたら、これ今日やられるのかなあと、こう思うわけでして、来られた犯人の確定犯はですね、非常にびくびくしているわけです。このことについて、これで恐怖を与えるというようなことになって、その結果、精神異常を起こしてしまう、というような数が非常に多いんだろうと思います。
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photo©長谷川 潤 |
それで、私が法務大臣の時に、52人になったんですが、一体何人くらいそういう人があったのかということなんですけれども、調べてもまずわからない。それから、だいたいの見当で死刑囚に判を押して下さいといって持ってきたのが2件ありました。その2件のなかで、厚いのがこのくらいありました。これはもう一審からの経過を皆書いてあるわけです。書いてあるんで、私自身がどう預かったらいいかを考えたんですけれども、私自身は判子を押すつもりはなかったんですけれども、そういうことを何も見もしないのはいかんと。
どんなことをどういうふうに書いてあってどういうふうな人たちが裁判を受ける、その今の執行を取るのか、まあ取るというのは変ですけれども、執行されるのかどうか、こういうようなことをやっぱり書類を読んどかなきゃいかんと、それ机の上に置いといてくれと、こういう話をしたんです。その夏、国会が終わる頃、だいたい色んな視察に行ったりするのがおるんですけれども、それでも大臣はだいたい毎日行かなあかんと、行っとらないかんのですけれども、土曜と日曜休みと、そういうこともあったんですが、とにかく情とかいろんなものが多かったんです。毎日行ったらお客さんばっかりで、あまり読むことができなかったんですけれども、それでも溜まっている書類の中で1週間で1冊読みました。2週間ほど読んだうえで、そしたら法務省の刑事局長という人が出しておいた書類に、「決済いただけますか」と言うから、私は決済するつもりはありませんと、致し方ありませんということで局長は持って帰った。法務省というお役所には、私はもちろんそこへ初めて行ったんです。それから国会でも法務委員会とかいうようなところに関連したことがなくて、まあ郵政の関係の委員会とか、地方行政委員会とかずっとそんなことばっかりやってましたから、法務省の仕組みがようわからなかったんですけれども。大臣に就任しましたら記者会見がありまして、まあその時にはこういうことで、こういう質問が出たらこれだけのことは答えて下さいという色んなことが、これは法務省の官房長官あたりが用意してくれるから、それは分かった。
その後は役所へ帰って法務省詰めの新聞記者がたくさんおるんですけども、その人たちに初めてよろしく願いますと挨拶をしたら、法務行政初めてですか、初めてです、という話をしたら、これはもういろんなところで、一番大きな問題は、大臣が判を押さなきゃならない、死刑囚の問題がありますと。こういうことでそれをどうしますかと、これはまあいろいろ勉強しますという返事しただけですけれども。えらいこうなんていうか、そんなことも知らんのかというような新聞記者の扱いを受けたんですよ。
ところがそれから2週間ほどしてから、今度事務次官が、司法試験は通っているということを、なんか、司法試験に通った合格者の当時の官報の号外みたいなのをコピーして、新聞記者に配ったんです。そしたらそれから新聞記者は私に対して質問も何もしないし、何でもよくご存じで、そんな司法試験通っただけで分かるわけはないんですけれども、そういうようなことで、えらい扱いの勝手が悪い。それだけじゃなくて、局長とか課長とかそういう人たちも、非常にまあ自分らの先輩ということになって、とにかくまあ皆さんご存じの方も多いかもしれませんが、司法試験に通っているか通っていないかということで、それで司法修習で何期であったかということで、全部序列ができてるようなお役所なんです。
もうそういうことで、今と違って、民主主義のそういう法務省になる前は、司法省と言ったり、ものすごい古い人が一番いばっているような、ややこしい役所だという感じがしました。私どもも皆入った時は、たとえば終戦直後なんです。昭和20年の9月に私は大学を卒業して10月に役所に入ったんですけども、その時はまだその米軍も何もまだ進駐してなかったですから、とにかく。公務員の、高等官食堂とかね。食堂でも違うんです。その時分は何も食べるものがないから閉めていましたけども。食堂は違うし、もっと言えばトイレも、「高等官便所」と書いてあるんです。そういう時代ですから、いろんな面でこう、お役人のひとつのプライドにもなっている代わりに、また非常にそういうもので、差別してる。もちろん給料もだいぶ違った。こんな時代だったもんですから、とにかく、そういう意味で、私はもうその役所に入ってからの経験からみても、行ってみたら、びっくりするようなことばっかりがあったようなことになります。
話を戻しまして、先ほどの死刑囚の書類の問題につきまして、そういうことであったんで、それから詳しい説明も何にもしないで、これでひとつお願いしますとか、国会がこれだけありますからこういう質問が出ていますから答弁よろしく願いますとだけで、ちっとも説明もしてくれなくって、そこでこっちは困ったわけですけれども、しかし分からんことは聞くということでやってきましたけれども。
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photo©長谷川 潤 |
この国会が終わって、夏休みに入ってから、そういうふうなことで、署名してくれんかということなんですけれども、この署名のことについて、これは私も聞いたんですが、直接、一回、この署名は大臣がなぜしなきゃいかんのかと。そういうことになっていますからでは困る、根拠は何だと聞いたらですね、先ほどお話した、法務省令に書いてある、大臣がサインをしたらその日から5日以内に執行しなければならないと書いてある。で、その時の条件は、これも法務省令に書いてあるんですが、先ほどお話した、まず病気でないということが問題である。精神病を含めまして病気でないことが一つ。それから、もちろんその中で女性の囚人(死刑確定者)が、これもまあそんなケースないだろうと思いますが、妊娠していた場合、これは、子供を出産するまでは執行してはいけない、こういうことになっているわけであります。それで一番数の多いのは何かと言ったら、再審請求をしておく、そういうことですけれども。再審請求いうたら、今度の事件、結局また出てくるのかもしれませんけれども。とにかく、一応、最高裁の判決が出たとします。死刑にしたけれども、もう新しく何か事実が出てきた場合には、再審を請求することができる。こういう規定があります。再審請求はですね、新しい事実に限らなきゃいかん。なんかその解釈の違いだとか、それから、実態の認識の違いだとかそんなもので判決に対してはこれはもう何も言えることはできないんですけれども。新しい事実、例えば、別の犯人が出てきて、名乗り出たという場合は一番大きいケースです。冤罪事件みたいなのはそうだと思います。そういう場合はその判決の再審が決着するまでは執行してはならない。こういうことになっているわけですね。
この規定は、それだけのことが省令に書いてある。これはごらんいただいたら、その問題については、関係のない、一応クリアをしてる事件ですから、判を、サインしてくださいとこういう形で、局長は持ってきたわけです。
ここのとこで一つ問題なのは、私はその、一体精神病とかなんとか、そういうようなあるいはそれでなくてもその他の病気でもですね、病人は執行できないということについて、誰がどんな判断をするのかということが大きな一つの問題だろうと思います。この判断はやっぱり、たとえば、当該の地裁とか高裁とかそういうとこにじゃなくて、どういうふうにご説明したらいいかちょっと難しいんですけれども、とにかく、一応、最高裁で決定した死刑の確定犯のことについては、その執行については、法務大臣の責任においてやるんだと、だから法務省の、まあなんていうのか指定した、そういうような人たちの健康診断なんかした上でですね、これ大丈夫だと、いうことでやっていく。ここんとこにですね、一体どんな手続きでどんな形で、どういうふうにしているかということについて、そこまでですね、確認が我々できないわけですよね。やってやれんことはないわけですけれども。逆にいうと、ほんとは確認してですね、だって判を押すつもりなら確認しますけど、判を押すつもりないのに、確認もどうかと思ったので確認しなかったんですけれども。本当は、どういうことでやらなきゃいかんのかっていうことを確認しなきゃいかんのではないかなというような気が、私はいたしました。
事件を起こして、最高裁で決定して、それで死刑の判決が出た。この人については、それから先、いつどういう形で執行するかということについては、法務大臣の管理下である、矯正局というところがあるんですが、法務省の中で。その配下の人たちっていうのは、つまりは刑務所長(死刑囚は拘置所)なんですけれども、その人たちは全部それを預かってやるわけです。だから、そこへ収容されているのは有期刑の人たち、例えば無期懲役から懲役何年とかいうふうな、確定した犯人の人たちが実際に刑務所へ収監されて、そして作業させられる。こういう人たちの管理は全部法務省の矯正局でやるんですが、一つだけ残っているのがその死刑囚なんですね。だからここんとこはまた非常に問題があるんですけど、死刑囚そのものは、狭い、三畳ぐらいですかね、私もその部屋を見に行ったことがないんでよく知りませんけど、話伺うとそのくらいの部屋があります。とにかく一日中座っておらないかん。で1日に、昼とか夕方とか30分だけ、屋上かなんか開けて空気吸わせたり体操させたりそういうことはするわけですけども、とにかく、死刑囚というのはそういうとこにおらなきゃいかん。そういうことで、先ほどお話したように、いつ、執行するかということについては、法務大臣の判を押してから5日以内に処刑するんですが、今日やるか、あとでやるかということで、その執行については、拘置所の所長の権限みたいな形で委ねられるというか、判を押したからいつでもできますよとこうなるわけです。
それで実際、収監された人が、そういうことになるまでの間は、とにかくなんにもさせないんです。
私はここでひとつ大きな問題があると思うんです。
死刑は反対の理由としていろいろなことがあるんですけれども、私は基本的に、そういうような人たちに、これもですね、被害者の方から言うと、極刑にしてくださいという言葉はよくみんな使われます。で極刑とは何だ、ということになってくると、結局死刑が一番の極刑だろうと思うんです。
で、それを一気に、あっという間に、この前の、大阪の池田小学校の子供を殺した宅間とかという被告、ありました。あれなんかはですね、自分で早く殺して下さいと言うてる、死刑にしてくださいと言ったと、こういうケースはある。そうでなくてですね、なんとか生き延びようという弁護士に期待している人もおるわけです。被害者に対して、申し訳ないという気持ちでおる人と、開き直って、おまえら運が悪いんだと思え、というようなつもりでおる犯人もおるかもしれません。けど、これ一概に言えないんですね。私の家は400年続いてる浄土真宗(大谷派)のお寺なんですよね。そういった訳で、仏教のいろんなことに小さい頃から触れて来ました。私の基本的な考え方はそこからきている。
とにかく、仏教の教えというのは、キリスト教もそうですが、本来、宗教というのは、人間に生まれてくるということはなかなか難しいのに、人間に生まれてきたんだから、その時には、人間社会に生まれてきただけの価値のある行動をして、病気で死んだりしたらやむを得んけれども、とにかく、生き延びれるだけ生き延びる、そして世の中のために何かお返しをすると、そういうことがあって初めて人間というのは生まれてくる意味があるということで、仏教徒でもそういうふうなことです。で、仏教の教えそのものから言いますと、これはお経に説かれていることなんでしょうけど、人間六つの餓鬼、酒乱、畜生、それから地獄、それから人間、天上とこうぐるぐる回る、その中で人間の時にまあ仏様の教えを頂くことによって、それが生まれ変わって極楽に行けばこれはこうずっと極楽にいられると、ぐるぐると回るんですけども、仏教の言葉では、輪廻っていうんですね、回るという、巡ると一緒だと思います。こういう輪廻の思想からみても、人間というのは非常に生まれがたいところに生まれてきたんだと。また人間でやりそこねた人は六つのところをまわってまた人間に生まれ変わって来ることもある。こういうような教えがあるわけなんです。
で、これはやっぱり私は、宗教というのはみんなとにかくですね、キリスト教だったらカトリックでもプロテスタントでも。だから、死刑廃止の問題について非常に熱心なのが、アムネスティー・インターナショナルという団体の人たちが非常に熱心にやっておられます。東京なんか特に盛んにやっておられます。最近のテロ事件なんかをみていると、随分、回数徒の方々で、あんなことやって、爆弾を抱えて、飛び込んできたりすると、こういうことはおかしいんじゃないかなと思う人が多いのですが。私は、これはね過激派のいろんな、また、経済状態が非常に恵まれてないような人たちが、そういうことをやっておられると。一部の指導者であって、マホメッドさん自体の教えというのは、そらやっぱり、人間一人一人の人格を尊んでいます。大切なものであるから。そして生まれ変わったらアラーの神様がおったと。生まれ変わるんだと。こういう教えが、正しい教えだろうと思います。
戦争とかそういうことになってきたら、人間自体がもう考え方が、当面の、勝つか負けるか、生きるか死ぬかと、こういうようなものに振り回されてしまうので、そういうことになってしまうんじゃないかと。本来の宗教というのは、平和な宗教であり、人間というものを本当にですね、一人一人人格を認めて、そしてお互いに認め合ってやっていく。そこに平和が生まれて来る。これが私は正しい宗教だろうと思います。
それはともかくとしまして、そういうことから見て私は、やっぱり生まれがたい人間に生まれてきたんだから、どんな犯罪を犯して、どんなことをしたとしても、ちゃんと罪を悔いて、特にそういう人たちはそのためにですね、一生かかってでも、被害者に対して申し訳なかったということで、お返しする。強盗とかした場合には、お金なんかもうないから強盗するんであって、それで結果殺人なんか生んだ場合には、やっぱり何とかしてわずかなことであっても、自分は金ないですから、働いて、何かそれでわずかなものでもお返しするとかというのが一つの方法であるかと思います。
それと同時に、そういう人たちがたくさん溜まってきたら刑務所一杯になってどうするだろうと。こういうふうな論があると思います。仕事をさせられている人、即ち、懲役刑に服している人、禁固刑の人は仕事されませんけど、これもまたいろいろ問題があるんですけれども、それでいいのか。今はいろんな刑務所がいっぱいでどうにもならなくて、次々と作らねばなりませんし、現に民営化の刑務所も出来つつあります。
それからもう一つは、今まで拘置所というのがあったんです。これは検察で取り調べたり、警察でも拘置所に入れて、そこで調べて、そしてそれを検察というところで初めて起訴とか、起訴猶予にするとか不起訴にするとか、こういうようなことを決定していくわけです。そこから考えてみても、とにかくきちっとしたところでまず収容することが大切なんですけれども、現実問題としては、今定員の、私らの時には1.4〜1.5倍だったと思いますが、いまはもう3倍くらいになっているのではないですか、下手したら。地域によって違うんだろうと思いますが、ものすごく犯罪が多くて、刑務所がいっぱいで、そのために、そんなことあんまり言いたくないですけれども、そのためになんかこう、恩赦で減刑されるようなケースがありゃしないかなと、これはほんとはそんなことおかしいんですけれども、それぐらい刑務所がいっぱいになっているんです。
だから警察でそれを調べるときには代用監獄というのがありまして、これを私の時の国会でも随分そんなものをやったんです。ちゃんと拘置所をつくってやるべきであって、そんな代用監獄でやるから拷問みたいなのが起こるのではないかと、警察を信用しないような先生からそのへんの質問が出てきたりして、そんなことは決してありませんとは言えないし、非常に恐い話なんですが、そういう代用監獄の問題が、今はもうその問題もやらざるをえないという形でやっていて、それでもなおかつ足らないわけなんです。死刑囚のためにもやっぱりわずか三畳であっても、数がおったらやっぱりそれだけの設備はいるわけです。
それからもう一つ、どこの刑務所にも全部つくるわけにはいかないので、何カ所あるか私は正確に知りませんけど、死刑囚だけ収容する施設というのはありませんけども、刑務所の中でそういう施設を持っているところで、そういう狭い部屋に1日中閉じ込めておくというのは一体どのくらいまではいいのかということなんですけれども、裁判所の判例のなかに出てきたもので、これは30年たってもかまわんと書いてあるんです。そんなことが論議されたことがあるらしいです。30年といったらね、とにかく、まあ、簡単にいえば50歳で犯罪を犯したら、80歳まで執行されない。それでなお80歳まで生きていて、その時に執行したら、それはやっぱり有効なんです。そういう何というのか、丈夫だったら損するというか、極端なこと言ったら、そんなような感じがありまして、これはほんとに公平な裁判ができているのかどうか、そういうことで刑そのものについて私は、死刑という制度そのものについて、単に大臣が書類に判を押すか、押さないかとかいうことだけではおかしいんではないかと。何かもっと考えなおしていかなきゃいかんと、第一に死刑というものは、人間のことから考えて、そういう刑はやめたらどうかと、こういうのが、基本的な私の考え方なんです。それではどうしたらいいのかということなんですけれども、精神異常とかそういうことがいろんな問題になる。これについても刑法では、心神喪失、もう身体の具合がゼロみたいな、心身喪失者は、無罪とすると書いてある。そしてもう一つ、心神耗弱者には刑を減軽することができると書いてある。例えば判決でも、刑を軽くすることができる。だから無期懲役だったら有期にする、15年にする、そういうことができると書いてある。このこと自体、論議があるわけです。前の有名な事件で、新宿でバス放火事件があって、子供たちを含めて何人かが殺されたりなんかして、バスの中に火を投げつけて銃でバンバン打ったりなんかした。その犯人は逮捕されまして、裁判にかけられて、結局、確か一審か二審で死刑だったんではないかなと思いますが。身体の具合が悪いとかなんとかいうような、心身喪失じゃなくて心身耗弱者ということで、無期懲役になったと思います。こういうような事件がありました。
こういうこと自体ですね、刑法そのものとして、心神耗弱者、心身喪失者ということですけれども、さっきの話に戻るんですけれども、誰が一体やるのかと。裁判の中で、専門の人たちの証人申請して、その証人が診察した結果を報告すると、こういうようなこともあるんですが、これのなかにいろんな学説的なこともあるんでしょうけども、人によっていろんな見方があるわけでございまして。私も精神病の人たちを一体どうやって判断するかについて非常に疑問があり、というと学者の先生に申し訳ないんですけれども、しかし誰がどういうふうなことで、ひとつのスタンダードといいますか、標準的な、そういうものがあってそれに比べてみて、確かにこの人は精神異常だと分かればいいんですけれども、そういうことが一体言えるのかどうか、これが一つあると思います。
それから、話があちこち飛んで申し訳ないんですけど、その精神異常者のことにつきまして、先ほどの宅間・元被告のような、ああいう、お医者さんが診て精神が心配になったけれども、このぐらいのことはいいだろうということで外出許可を認めた時に、がーっとやってしまうような、こういうことがあるんですけれども、このことにつきまして、一つはですね、戦前は、わりと厳しくやっておったんですが、戦後になってから人権の問題が非常にありまして、そういうことについて、この人は精神病者である、ということを決めつけることについて、みんな嫌がってるというか、精神科のお医者さんも証明を書きたがらないとか、いろんなことがありまして、このへんのところがほんとに公平なことがやれるのかどうかが一点です。
それから、そういう精神病者ということになった人たちを外へ出さないようにする。昔だったら蔵の中に閉じ込めておくということもあったわけですけども、戦後できなくなって、こういうことが出来なくなった時、この人たちが外を歩いたら、何を急にしでかすかわからないと。そしてやらかされたら、例えば心神喪失者だったら無罪なんですよとか。でもう完全に被害者はやられ損であると、こういうものの考え方も出てくるわけなんです。非常に難しいわけです。私は、人権の問題は非常に難しいですけれども、何かどこかでこのことについてこの人たちはどこかで修行して、責任はどこが持つと、こういうことを決めることができないのかどうかと、こういうことを文部省でも検討せいということをしたんですけども、そんなことできませんということになってしまったんですけれども。これも何かやっぱり考えないことにはいかんのじゃないかと思います。一つ私はこういう問題があったんじゃないかと思うんですが、想像なんですけれども、第二次大戦の直後に、ロシアでスターリンはいろんなことで大変な権力をもって、自分のメディアとか仲間内をみんな殺すようなことがありました。そしたらそんなことしていたら友達から、あんたもそのうち殺されてしまうぞと言われたんで、恐くなって、それでそういうふうな自分らに反対するやつを、いわゆるラーゲル送りをした。ラーゲルとは何かと言ったら、シベリアの奥のほうに掘っ立て小屋みたいなものを建てて、そこに収容して。寮があるんですけど、列車に乗るまで三日くらいかかるようなところばっかりだと思います。そこから逃げることはできない。逃げたら死んでしまう。そんなところで日本のシベリアに抑留された方は苦労されたんです。自分に敵対するやつを政治家も経済学者もみんな、そういうのをラーゲル送りして、自分の近くから外したということは言われています。詳しくは私もよく知りませんけど、そういうことを聞いています。
日本ではそういうこともないわけです。北方領土でも返してもらってそこへなんか作って、船もそこに一隻もおかないということになればできるかもしれませんけど。またこれで人権の問題でどうだこうだと言われますが。ここんとこの問題と関係があるので、精神病者とか精神異常者ということに対する扱いというのは、非常に難しいし、公平性の問題としてどうするのか、ということであります。検討せいということは言ったんですけれども、とにかく法務省が、簡単に言ったら、「そんなものできません」だけで逃げてしまう。こういうことだけは実際あると思います。これはしかしやっぱりなんか考えなければいかんなと。刑法にもそういうことは書いてあるし、刑事訴訟法でも、その扱いのことも書いていますから。そういう人たち、今言った死刑の執行できないということに限りませんけども、そういうような人たちに対する扱いというものはどうするかと。例えば、そういう人たちがいたとき、家族が責任を持つのか、当該の市町村長が責任を持つのか、周辺の治安を守っている警察の署長が責任を持つのか、あるいはそれ以外にも、厚生労働省の関係のいろんな施設、介護施設みたいな、そういうところの人が責任を持つのか。この責任はみんな家族を除いてお役人ですからね、責任逃れみたいなことばかり言って、私のところで引き取りましょうとか、責任持ちましょうとか言う人は、誰もおらんような感じがありました。これをなかなか決めていくことは、とにかく内閣一つや二つつぶすつもりでなかったらできないかなと、私はそういうふうに思います。このへんのことが非常に大きな問題であると。
そこでさきほどお話申し上げたような刑事訴訟法、憲法なんですが。実はこの後義輝(うしろ・よしてる)先生、広島の方なんですけれども、後義輝先生から本(『死刑論の研究』、後氏は会場にいた)をいただきまして、読んでみましてね。先生の本は、法律的に、死刑というものが残酷な刑で、これはいけないということで、これは憲法に違反すると。あるいは心理的に刑務所の中へ閉じ込めておいて、いつ執行されるかわからんという恐怖感とか、そういうふうなことにつきまして、いろいろ先生は分析しておられて、私はその通りだと思いますね。
残酷な刑とかいうことにつきましては、これはもうご承知の通り、駐留軍が来てから、日本国の憲法ができたわけです(2)。その憲法の第36条に、残酷(残虐)な刑はやっちゃいかんと。その残酷な刑に、死刑はその代わり絞首刑に限る、昔のような磔(はりつけ)とか、火あぶりとかこれは残酷だろうと(3)。法律で認められているから絞首刑は残酷な刑でないということですね。最高裁の昭和23年からの判決にもそう出てくる。このことにつきましてね、これはもう、そうだとは言えないと、こういうふうな微妙な表現で、まあ最高裁の判決には出ているんですけど。
いずれにしても死刑という刑は、先ほど言いました、生まれがたい人間に生まれてきたんだから、命を全うする、人間いかなる法律によってもそれを断ち切ってしまうことはできない、というふうな意味から考えても、私はやっぱり残酷な刑に当たるんではないかなという気がします。これは、憲法で、残酷な刑の執行の仕方はしてはいけないと書いてあるから、それに該当すると言ったら、今の日本の法律体系はみな崩れてしまうわけです。全部憲法違反になってしまう。こういうことなので、最高裁はそういう意味で、わかったよう、わからんような、それに当たるとは言えないというような判決をしているんだと思います。で、このことにつきまして、その後にもいろいろ、平成10年かなんかに、東京地裁で同じような判決が出ていました。これはもう、問題は私は憲法の問題だと。というのは、日本の今の絞首刑という制度は、明治40年に刑法が制定されてから執行されている刑ですから、戦争中は、海軍刑法とか、陸軍刑法とかありまして、これには銃殺刑があったわけですから。ところが、戦後の日本国憲法によると、陸軍刑法、海軍刑法はなくなってしまいましたから、結局刑法一本でみんな影響されるわけですから。そうするとそこでなんか判断しなきゃいかんというのがあって、今お話したような、最高裁の判決が出たんだとこのように思います。
死刑廃止のことにつきまして、私自身がそういうことでサインをしなかったということが有名になっておりましたので、新聞社は弁護士の資格をとった時にもそのことを取材に来て、記事に載ったりとかしたので、そういうことで有名になったので、ご存じだったんじゃないかなあとこう思うんですけども。
私自身はそういうことで学校の教育のことばっかりやっていまして、今私は学園で理事長をずっとやっているんですが、これは私の祖父が、来年100周年なんですが、最初はまあ高等女学校みたいなものから始めまして、今は大阪で学生全部入れて6000人という、そんな学校の理事長をずっとやっています。大臣の時は兼ねることはできないのでその間は辞めていましたけれども、その後はずっと続けています。理事を60年続けています。珍しいことです。
まあそんなことで、元気な間働かせてもらっています。それから、こういうふうに死刑廃止のことについて、判を押さなかったので、実はその後、国会に、死刑を廃止すると言いますか、死刑をなくす、死刑廃止推進議員連盟というのができまして、これが私が法務大臣をしていたころにはもうそういうのがありまして、それの会長はもう今は引退していらっしゃるけど、田村元先生、自民党なんですけれども。その他にも野党、これはもう共産党までお入りになっている。それで、この推進議員連盟の会長の2代目をぜひやれということになって、私は辞めるまで6,7年でしょうか、死刑廃止の推進議員連盟の会長を、お引き受けしてやっておりました。その次を誰がするかというと、まあこれ亀井静香さんです。亀井さんていうのはだいたい、昔の浅間山荘事件なんかで指揮を取った、チャンバラの好きなような人です。だから、死刑廃止の運動になぜ力をいれるのかについて、僕も聞いたことないんですけど、自民党はやっぱり色んな事で会長を持つとういうふうに決まっていますので。それで、民主党が幹事長をやっているから、そういうふうなことに関連して、今、国民新党ですけど、当時は自民党であるとして、加盟されていたんだろうと思います。
それで、その死刑の廃止につきまして、ちょっと一つだけ。
フランスで、バダンテールという元法務大臣がいる。日本にも来られたんです(4)。この人は、とにかくいっぺんに死刑の廃止ということはなかなかできないということの判断から、とにかく、死刑を当分の間執行しないというような方法をとったんです。これはやっぱり世論のことがある。いろんなことがある。現実に、私の時にもありました。どのくらいこの死刑を支持しているか。被害者の立場から考えたら、死刑もなんもなくしたら治安がもっともっと悪くなるぞと。いろいろなことで、世論調査をしました。私が法相の時に実施した世論調査では、62%でした。今はもっと増えている。67〜8%いっていると、こういうふうな話もあるんですが。
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photo©長谷川 潤 |
しかし私は、これはもう根気強くですね、国民の皆様に理解を求めていく以外ないと思います。この国民の世論をすっかり変えてしまうわけにはなかなかいかないけれども、法律でやるならば国民の代表である国会でやってやれんことはないんじゃないかと。そのための推進議員連盟であることもあるんですけれども、何かそういうことを暫定的にフランスの例を引き合いに出して、当面、そういうことでやると。その場合でも、先ほどお話したような、残虐な刑の執行という問題から考えて、もっといろいろなことで、例えば収容する設備の問題とか、死刑囚は絶対に働かせなくていいのかとか、そういうふうな問題で色いろなことを詰めなければならないのではないかなあということです。法律改正案も、最終的にはそうしてもらいたいけれども、そこまではなかなかいかないんじゃないかと。そういう時には方法として、それをやっていただけたらどうかというふうに思います。私の時にはもう非常に期間が短かかったから、10ヶ月半ぐらいしか法務大臣やっていませんでした。なかなかそんなことも出来なかったし、先ほどお話したように、もうとにかく陳状とかそんなのばっかり読んで、もう振り回されていましたので、なかなかできなかったけれども、今はもう辞めたから、フリーの立場でですね、今後ともそういうことについて、みなさんの活動しやすいような、応援団に加えていただこうかと、このようなつもりでおりました。今日は、そのお話だけで、よかったかどうかわかりませんが、私の経験談というか体験談だけ、ご報告をさせていただきました。どうもありがとうございました。 |
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講演後、講演会場の外の廊下で行われた報道関係者による左藤さんへのぶらさがりインタビューでのやりとりは以下のとおり。
—左藤さんは死刑に反対されているが、死刑は何が問題なのか。
死刑は宗教的な理由からみると、人間という見地からみると、折角生まれ難い人間として生まれて来たものだから、法律で制定しても、執行すべきではない。それから死刑の方法は「残酷刑」だ。
憲法は残虐な刑罰を禁止しているのに、実際問題として、もっと簡単な方法として電気椅子とかアメリカなどで実験してみても、現実問題として非常に痛い、厳しいとかあって、すぐに死ぬというのではなく、何秒間とか何分間とか、心臓が止まるまでそれくらいの時間がいる。その間が残酷だということだ。残酷というのが一つの大きな問題。残酷というのは憲法違反。最高裁は憲法違反をしてはいかんわけだから、ああいうような判決をしていること自体が問題ではないかと。
—光市事件差し戻し審で元少年は死刑になる公算が高いといわれているが、何が問題だと思うか。
光事件の詳細は知らないが、差し戻し審になっているからいろいろなことをやって慎重にやっているが、今後どうなってくるかはわからない。私は死刑に対し全般的に反対だ。
—差し戻し審が始まるが、今回の事件で一般の人に何を考えてほしいか。
死刑という刑そのものの廃止というように国民の世論がそちらに行くべきだと思うが、時間的にそんなことはできない。そういうふうなことについてもっと国民が理解してほしい。そして被害者の極刑に処する概念はどうするかという問題もある。それは人によって違うと思う。被害者に対してもっと同情的な人もいるわけですから。 |
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photo©長谷川 潤 |
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【浅野・注】以下は、浅野の責任で付けた注である。
(1)「精神異常者」とか「精神病者」という左藤氏の表現は、現代において適切ではないと思う。精神障害患者と呼ぶのが普通。私は精神医療のユーザーと呼んでいる。しかし、左藤氏の責任で発言しているので、そのままにした。
(2)左藤氏は日本国憲法と米占領軍の関係について何度か発言したが、この部分は講演の趣旨と離れるので削除した。
(3)日本国憲法第36条【拷問及び残虐刑の禁止】は「公務員による拷問及び残虐な刑は、絶対にこれを禁ずる」と規定している。
左藤氏の講演で、死刑確定囚が刑務所に収容されていると誤解されるような箇所があるが、死刑囚は拘置所に収容される。死刑執行(処刑)のみが刑罰であるから、刑務所には入らない。
(4)ロベール・バダンテール氏(Robert Badinter、1928年生まれ)は、フランスの法律家・弁護士。フランス社会党所属。1981年社会党のミッテランが大統領に当選すると法相に任命され、議会に死刑廃止法案を提出。1981年9月30日に同法案は可決された。1986年2月18日まで法相を務めた。1986年憲法評議会議長に就任。1991年には欧州連合理事会旧ユーゴスラビア和平委員会調停委員会の委員長や、欧州司法裁判所長官などを歴任。
1981年9月17日、フランス国民議会の死刑廃止法案の審議におけるバダンテール法相の演説全文訳は以下のサイトで読める。
http://kihachin.net/tips/badinter.html
(了) |
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掲載日:2007年10月31日 |