Asano Seminar:Doshisha University
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法律・メディアは何のためにあるのか
―冤罪被害者の体験と思索から―


山田悦子さん講演とゼミ・ゲスト講義の記録
講演会「法律・メディアは何のためにあるのか」

 山田悦子さんの講演会が2006年10月12日午前10時45分から12時30分まで、同志社大学今出川校地新町校舎臨光館208番教室で行われた。【13期生・鄭聖希】

 
●講師・山田悦子(やまだ・えつこ)さん略歴は次の通り。

 1951年生まれ。富山県出身。72年徳島文理短期大学卒業。72年4月、社会福祉法人・甲山学園保母。無罪確定後も、各地の弁護士会に招かれ、司法についての講演を行う一方、日本の警察・司法のあり方から、日本の過去における侵略に対する「無答責性」についても疑問をもち、日韓の研究者、ジャーナリスト、政治家に呼びかけ、答責会議設立に尽力。1991年からシンポジウムを重ねる。
寿岳章子・祖父江孝男編『無答責と答責』(お茶ノ水書房、1995年)に日本の朝鮮半島などへの戦争責任問題を論じた「無答責から答責への道」を発表。

 
●「冤罪・甲山事件」とは

 兵庫県の知的障害児の入所施設「甲山学園」で1974年3月に起きた園児2人(男女)の死亡事件(事故)に端を発した事件。2人は連続して行方不明になり、その後施設内の浄化槽から溺死体で発見された。捜査当局は「殺人事件」と断定、施設内に「犯人」がいると思い込み、4月7日保母の沢崎悦子さん(当時22歳、後に山田悦子さん)を男児の事件で逮捕。神戸地検尼崎支部は4月28日処分保留のまま釈放。75年9月23日、同支部は不起訴。76年10月28日検察審査会が「不起訴不当」を議決。78年2月27日神戸地検によって男子殺害の疑いで再逮捕される。3月9日、殺人罪で起訴。3月24日保釈。
 当局は、再逮捕と同時に、山田さんが起こした国家賠償請求訴訟で山田さんのアリバイなどを証言した荒木潔・園長、同僚の指導員のTさんを偽証で検挙・訴追した。
 85年10月17日神戸地裁が無罪判決。90年3月23日大阪高裁が一審無罪判決を破棄し、審理が神戸地裁に差し戻される。92年4月7日最高裁に上告を棄却される。差し戻し審(吉田昭裁判長)は異例の速さで審理を進め、98年3月24日、2度目の無罪判決。知的障害を持つ園児の証言が争点だった。神戸地検(堀川和夫検事正)は同年4月6日、大阪高裁に再控訴。第二次控訴審の大阪高裁は99年9月29日、山田さんに対して、3度目の完全な無罪判決を言い渡した。10月8日大阪高検が上告断念を正式に発表。四半世紀ぶりに山田さんの無罪が確定。
 また10月には偽証罪に問われていた荒木さん、Tさんにも相次いで無罪判決がなされ、11月4日大阪高検が荒木さん、Tさんに対する上告を断念。これで、「冤罪・甲山事件」の刑事裁判のすべてが無罪で終結した。
 甲山救援会は無罪終結に当たって、次のように表明した。(冤罪甲山事件救援会HPより  
 http://www.jca.apc.org/kabutoq/toppage.html
 《この、当然な無罪確定までに、事件から25年以上もの歳月が費やされた。何故、このような誤った裁判がなされたのか、何故、3度の無罪判決が出されるまで長期にわたる裁判が続けられたのか。被告とされた人たちの取り返しのつかない人生を思うとき、怒りと無念を禁じ得ません。 この甲山事件・裁判を機に、冤罪という公権力の犯罪とその悲惨を、二度と起こさせてはならないという思いを強くします。》

    
    資料画像:甲山事件裁判(支援者たち) ©浅野ゼミ

    
    資料画像:甲山事件裁判(無罪判決) ©浅野ゼミ

 ●以下は講演の記録である。

 私が勤めていた甲山学園で二人の子どもが浄化槽のマンホールから、今から32年前遺体で上がってきました。世に言う「甲山事件」が発生しました。警察はきちんと捜査することなく、すぐに殺人事件として断定してしまったわけです。しかも、内部犯行ということをマスコミを通じて世間に公表しました。警察発表をマスコミは信じ、大々的に報道してしまいました。マスコミに一度、登場させられてしまうと、それがあたかも事実、真実であるように社会に固定化されてしまいます。甲山事件というのが殺人事件として社会の認識もマスコミを通じて認知され固定化されてしまいました。
甲山事件が何だったのかっていうと、子どもが子どもをマンホールに落とした、これが真相です。これは裁判の過程で関与した子どもが自ら証言して明らかになったことです。しかし、こういう証言が出ても、マスコミは甲山事件が何であったのかっていうことを洗い直さないわけです。当時、警察発表を鵜呑みにして殺人事件と断定してしまったことを、そのまま放置し、継続して報道し、私が犯人であると書き続けていきました。

 それまで私は報道されることもなく、読む側の立場であったわけですけれども、自分の書かれた体験からマスコミが真実を伝える、そういう役割を持っていると信じていた思いが覆されてしまいました。それからはマスコミに対して、これは本当なのかなと疑問を持つような見方をするようになりました。報道するっていうことは社会に知らせるということで、それは嘘を知らせてはダメですね。新聞記者も私たちと同じ人間ですから、私たちと同じく限界というものがあります。人間が完璧に調べあげて、これが絶対に動かない事実だというようなものは、なかなか書くことができません。しかし、最大限人間を書くに当たっては、書くことによって1人の人間の社会的地位、またその後の人生を奪ってしまう可能性のある限り、どんな困難を配しても新聞記者は最大限の調査をして書くべきなのですが、日本の報道陣のあり方は、警察の発表を正として、それをもとに報道調査をしますから、途中で警察発表と違ったことが出てきても、マスコミは警察発表を前提とした調査目的を実施して、報道調査をしていますから変更をしないんですね。このあり方は警察と一緒なんです。逮捕して、そしてマスコミが報道します。しかし、被疑者に対する取調べの過程で、自分たちが想像していたストーリーと全然違うストーリーが出てくる。しかし、それを軌道修正するような仕方はしません。逮捕=犯人というのが日本では定着していますから、是が非でも犯人にする方向で取り調べをしています。起訴できなければ、釈放なのですが、たいがい大事件では起訴するわけです。なぜなら、警察の面子がかかっているから、それで釈放されたという事件はよっぽど警察が取り調べても、警察の思うような証言や証拠を取れなかったからだと思います。

 ある人が逮捕され、取調べられ、起訴され裁判となり結果が無罪であるという結果が出たときは、私は100%冤罪だと思います。でも一般の人は上手く警察の取調べを潜り抜けていったという意識が大概だと思います。なぜなら、マスコミの権力チェック、何も政治家の権力チェックだけがマスコミの使命ではありません。政治家の権力チェックをするためには、日々、私たち市民が警察権力を通じ、逮捕されているという日常犯罪において、警察が権力の行使を法手続きに乗っ取ってやっているのかどうか、このチェックを日常的にやっていないと政治権力のチェックはきちんとできないと思うのです。本当にこの人が犯人なのかなと、仮に新聞記者が思ったとします。では、その疑問を持って自分が警察の捜査をチェックするためには、法というものを知らないとチェックできません。

 みなさん、人権思想、人権思想と言いますけれど、私たちは人権思想を何によって導き出すのかと考えたときに、私たちの国の憲法、これによってしか導き出せないのです。これを盾に私たちは何かがあった時に闘うわけです。みなさんが、何か裁判を起こすときに、必ず憲法を盾に闘うことになるでしょう。そういうことからして、私たちは法を持たない限り、人権思想を持つことができないわけです。それはもう世界の共通の意識です。人権思想を私たちは、どう社会に育てていくのか、どういう生き方をしたら良いのか。

 私は短大を卒業するまで小学校からずっと一貫して、日本国憲法は、人権尊重が明記されたすばらしい憲法だと教育されてきました。そして、同時に教師は私たちを守ってくれるのは、人権尊重が明記されている日本国憲法だと私たちに教えてきたわけです。みなさんも、そうやって育ってきたでしょう。同じでしょう。しかし、日本国憲法は私を守ってくれませんでした。無実の私を二度も逮捕し、起訴し、21年間の刑事裁判を私に強いることになりました。そういう中で、何故、無実の私が日本国憲法の下でこのような目に遭わなくてはならないのか。このことについて、私はずっと考えてきました。私の物事を考える原点はここにあります。

 みなさんにレジュメを渡しておりますけど、レジュメどおりに話すかどうかはわかりませんが、トータルしたら、この内容を話していた、そういう風に解釈してください。順番どおりにならないかも知れませんので、前もってお断りしておきます。
戦前がどれほど人権がなかったかと私たちは教育され、そう思ってきたわけです。戦後は人権が尊重されていると思って暮らしているわけです。みなさんもそう思われてますでしょう。しかし、レジュメの2番目ですけど、日本国憲法と背離する日本の刑事司法の実態があるわけです。人権尊重の日本国憲法下で、無罪率が0.1%。戦前で、3・4%、少ない時でも、1%はあったわけです。この人権尊重の日本国憲法の下で、これほど無罪率が低い、つまり0.1%は無いに等しいわけです。無いに等しい刑事司法の裁判において、無罪が出るということは、並々ならぬ闘いをしないと無罪がとれないわけです。だから、みなさんも犯罪報道がされていて、新聞に無罪が掲載されたときに、どれほど大変な努力をして、本人も含め、周りの人たちが戦ってきたのかを判断して、肝に銘じて、これからご覧になってください。そうすると日本の刑事司法について無関心ではいられなくなると思います。

 無罪率が低い実態をマスコミは知っています。でも決してマスコミは実態を書きません。マスコミのあり方として、とても問題なんですけど、マスコミは権力チェックを唱えている限り、憲法に背離する刑事司法の実態があるなら、警鐘を鳴らして、私たちにその実態を知らせ、国民の意識を裁判のあり方の方にむけるように導かなければならないわけです。しかし、日本のマスコミはそうはなっていないということを、特に私は21年の裁判で痛感したわけです。

 みなさん考えてみてください。逮捕され、釈放され、一度不起訴が出て、再逮捕される。普通ならば一度無罪に匹敵する不起訴が出ている、それでも再逮捕する。これはどういうことなんだと。本来ならば、マスコミに勤める記者は誰よりも国民の一人として考えなければいけないわけですけれど、そうはしないわけです。22歳であった私が、このように逮捕されて、世間に報じられたわけです。これを見たら、知らない人も犯人だと思ってしまいます。まして、私は福祉施設の保母でした。日本社会における福祉という重要な立場の一職員として働いていたわけですから、とてもセンセーショナルに書かれたんですね。本来なら子どもを守るべき職員が命を奪ったとされたわけですから、大変な大騒ぎになりました。それも連日テレビで報道され、連日一面トップなんですね。そういう報道がずっと続いたんです。そういう報道のなかで、私が犯人視されていきました。

 人間が受ける第一印象というのは、人間の脳裏に強く残り、後々修復するのは容易ではないといわれています。しかも、新聞報道という国民が信頼を寄せる報道機関が発表してしまうと、真実に反することでも、私たちは受け入れて深く脳裏に刻み込むことになります。後からそれを払拭するような事態がでてきても、なかなか元の何もない記憶状態にはできないんですね。新聞の恐ろしさというのは、ある地域の人たちだけじゃなくて、日本国民全体をそういう風にしてしまう、つまり社会全体に刷り込みが図られてしまいます。ここにマスコミの力の偉大さと同時に恐ろしさがあります。

 一国の刑事裁判を見れば、その国の文化水準が分かります。携帯電話を持って、欲しいものが溢れんばかりに日々の暮らしの中にある。これが文化ではありません。確かに物が豊かであるということは、とても人間を幸せにすることに間違いはないが、私たちは知性というものを持っています。それを持ちながら生きています。人間が誇れるのは知性があるということです。その知性の豊かさが文化の水準を決定する、これが人間社会の真骨頂だと思います。確かに、日本は世界第2位の経済・軍事大国ですけれど、刑事司法の実態というのは先進国に比べると惨たんたるものです。何故かというと一審で無罪が出る、しかし検察官控訴が限りなく許されているのです。みなさん、無罪が出るということがどういうことなのか、あまり想像できないと思いますけれど、絶大なる警察・検察権力が何の力も持たない一個人を逮捕する。国家予算を使って、山のように警察官を調査に行かせ、逮捕した人の人間関係すべてを調べ上げるわけです。小学校から中学、短大。私の場合は、私の友人のところに警察が出向きました。もちろん親戚もそうです。中学校・高校・大学の教師も警察が行って調べました。そうやって調べても、何も証拠が出てこないのは、何もやってないからなのです。

 それでも、検察は起訴するわけです。逮捕して大々的に報道されると、世間の批判もありますし、警察・検察権力の面子もありますから、大きな事件では必ず起訴するのが日本の刑事司法のあり方です。そういう中で、裁判にかける証拠は有罪にしなければならないので、検察は無実の証拠を排除するわけです。そして、有罪がとれる証拠だけを法廷に提出するわけです。そうすると、真っ黒な中で裁判官は被告の無実の声に耳を傾けなければならないのです。そういう日本の刑事裁判のあり方の中で裁判官が、真実を見極める力量を持った人であるかどうかにすべてがかかってきます。被告人が目の前にいる、無実を訴えている、真摯に耳を傾ける裁判官に出会わない限り、日本の刑事裁判においては無罪を取ることができない。そういうのが日本の刑事裁判の実態です。

 仮に、たまたまそういう裁判官に出会い、かつ意地悪な裁判官に出会って、有罪にしようと思っても証拠がない、どうしようもない、しかたなく、無罪が出たとしても、日本の刑事司法は、限りなく検察官に控訴する権限を与えています。甲山は3回無罪判決が出ました。これは、控訴が繰り返されたということを意味します。こんな国世界にないんです。3回無罪出して、ようやく被告人席から解放するというのは。ここに、日本の刑事裁判が持っている、非常にそれは恐ろしい実態。欧州では一審で無罪が出ると控訴が許されないのです。

 それが近代刑事司法のあり方なのです。なぜなら無実の人を罰して、処刑し、命まで奪っていたという人間の歴史があります。ですから、そういうことはしてはいけない、そういう間違いがあってはならないということで、刑事司法の理念が無実の人を罰してはならない。それを言い換えれば、「疑わしきは罰せず」ということになります。この言葉を聞いたことがあるでしょう。ないですか。疑わしい人を罰せずというのがどういうことかというと、日本人はこれまた変な解釈をしているんですね。疑わしくても証拠がでなかったら罰してはいけない。本当はやっているんだけれど、証拠がなかったら罰してはいけないと、そういう風に思っていませんか。思っている人。では、疑わしきは罰せずをどんな意味があるか言ってみてください。浅野ゼミ3回生の学生さんは、「疑いがあるだけでは人を罰してはいけない」と言いましたけど、そうではないんですよね。絶大なる検察が国家予算を使って、証拠を集めてくるわけですよ。それを法廷に出して、そして弁護士が検察の証拠に反論していくわけですね。その証拠に反論したときに、この証拠が疑わしいのではないかと疑問を持った時点で、罰してはいけないわけです。これが、疑わしきは罰せずの意味合いなんです。私たちは社会科で刑事裁判というものを少し勉強しますけれど、こんな風に教えてくれる教師が存在しない。私の場合は、存在しなかった。浅野ゼミの3回生の学生が解釈を間違っているのは、私の後もそういうことを教えてくれるような教師がいないということになります。とても恐ろしい刑事司法の理念の理解を私たちはしているわけです。

 裁判官も私たちと一緒に育ってきた社会の一員です。大学の法学部を出て、今、私が言ったようなことを学んでいるのですけど、そうではないんですね。実際は検察が逮捕し、起訴したんだから、やっているのではないかという見方が山のように日本の裁判ではされているということを、私は被告人席に21年間座って感じました。

 では、なぜ、こんな刑事司法が日本には存在するのか。何故、こんな風になってしまうのか。私たちは何故無実の市民がやってもいないのに罰せられるような、法廷を作ってしまっているのかということを、私は被告人席に座りながら考え続けました。結果があるから、必ず原因はあるわけです。もちろん、警察の間違った捜査方針、それも一つの大きな要因ですけれど、何故警察がそのような間違いを起こしたのか。甲山だけではないんです。過去にも、大きな冤罪事件が嫌というほど、日本の刑事司法は生み出しているわけです。しかし、何の反省もなく次々と新たな冤罪事件を生み出し続ける日本の司法を作りあげている日本の国家とは、一体何なんだろうと私は考えることになりました。

 私たちひとりひとり、このようにこうして存在しています。そして、それぞれが自分の歴史を持っています。自分の歴史を持つ。現在の自分が自分であるという認識の下、現在の自分の考えを持っていない人は誰もいないと思います。現在の自分を考えられるということは、自分の過去があるからです。そして、現在の自分を考えるということは、同時にそれは未来についても考えているわけです。だから私たちは、絶望しながら、しかし希望を持ちながら生きていけるわけです。

 それは、私たちひとりひとりが国民として存在し、その国民の集まりが国家を形成しているんです。国家、国家というけれど、国民をのければ国家なんて存在しないんです。国民あっての国家なんです。それを皆さんはわかるでしょう。パソコンの中にソフトがなければ、中身がないものになってしまうのと同じなんです。では、私たちの国家。国家というのは何かというと何も難しくないわけです。ある一定の目的を持った一つの政治集団なわけです。国家は政治そのものです。だから私たちは国会議員を選んでいるんでしょう。これは私が今ここで言わなくても常識としてあることです。ただ確認のため申しているだけにすぎません。だから、ひとつの政治集団ということは、一つの共通の意識を持った政治集団。これが国家を作り上げているのです。いろんな考えがありますけど、政治集団として一つの意識・思想を持っている、それが国家のカラーとなって現れるわけです。

 では、この無実の人を罰する刑事司法を延々と続けている日本の国家はどのような歴史を持って生きてきたのか。このことを考えたときに1945年8月15日の日本の敗戦、終戦記念日にぶつかったわけです。なぜなら、日本の敗戦と共に私たちは人権尊重の日本国憲法を持って生きてきたわけですから。では、戦前、日本はどのように振舞った国家なのか。どう生きてきたのかが、それからの生き方を決定するわけですから。それはアジアを侵略し続けてきて、終戦・敗戦があったわけです。アジア侵略を正当化する人たちは、あれはアジア解放の戦いであったということを口にしています。日本人の大半の人もそう思っています。なぜなら、政治のあり方がそうであるから。確かに、アジアは西洋の侵略から解放されました。しかし、それは日本が解放したわけではないわけです。なぜなら、日本が西洋列強からの解放というふれ込みの下で、アジアを自分の国の下に治めようとしただけの話です。アジアを先に取っていた西洋から横取りしようとした。これが日本のアジア「解放」の実態なんです。

 みなさん、日本が負けなかったらアジアは日本に侵略されたままでした。それを解放と呼べるのでしょうか。こんなのは、小学6年生でも、少し物事の道理を理論立てて、考えればすぐにわかることなんです。日本人は解放だ解放だと叫んでいますけれど、アジアは解放だなんて思ってないんです。ここに日本国民の独特の感性のあり方があるわけです。戦後教育は、この独特の感性の下で作り上げられていき、そして現在、みなさんがここに座っているわけです。そういう感性の下で勉強をし、関関同立、偏差値の高い同志社大学のこの教室の一角を占め、現在私の話を聞いてくださっているわけです。そういう私もかつてはみなさんと同じような意識の下で生きてきたわけです。しかし、自分に降りかかった事態は、私からしてみれば、検察権力は国家そのものでした。国家が何も悪いことをしていない私に、生活を根底から剥奪し、獄中に放り投げることをしたわけです。日本に何も悪いことをしていないアジアを西欧の侵略から解放するといって日本は、アジア諸国を占領し、アジアの人々を弾圧したのでした。

 裁判で無罪が確定しても破壊された人生は二度と戻りません。無罪が確定してももとあった状態には戻らないということです。それとおなじく破壊されたアジアの歴史は二度と戻らないということです。破壊された側の歴史は破壊されますが、破壊者の歴史は破壊されません。生き続けます。アジア、そこには私たち日本人と同じ血肉を持った人々が生きているわけです。アジアも私たちと同じ、日々の暮らしを営み、そして夫や子どもや妻やおじいさんやおばあさんに、日々の喜怒哀楽の中の生活がありました。そういう人たちの生き方を根底から奪ってしまったのは日本なんです。ある日突然、日本がやってきて日々の暮らしを奪うのですから。皆さん戦争なんて、全然難しくないわけです。普通に生きていた暮らしが奪われるから、私たちは戦争に反対するのです。それではなぜ戦争を人間はするのでしょうか。それは簡単です。そこに豊かな物があるからです。手に入れたい鉱物資源があるから。そんなものがなかったら誰も戦争なんて行きません。戦争とは泥棒なんですね。

 米国が何故イラク戦争を始めたのかというと、米国を豊かにするため。石油が意のままに欲しいからです。物がある、奪いに行く、そこには女性もいる、男性はレイプする。それだけのことなんです。それだけのことにものすごく人間破壊、知性の破壊があるわけです。それは、レイプされる側に知性の破壊があるわけではありません。レイプした側に知性の破壊があるんです。人間社会を作っているのは知性ですから。この知性を自ら破壊していく。一度破壊された知性の建て直しは簡単なものではありません。それまでの何十倍もの努力をして知性を建て直していかなければなりません。だから、戦争は、人間社会ではあってはならないこととして、私たちは絶えず平和を願うわけです。

 アジアに対して、侵略の責任を取ってない日本の現在に私たち日本人は生きています。侵略の責任をとっていないから、小泉さんは靖国参拝に行くわけです。現在の安倍総理も行っているわけです。それを、日本国民は是としているわけです。責任をとる社会体制を持っていれば、首相が靖国に参拝しようなんていう発想はわかないわけです。先ほど私が申し上げた他国に攻め入る、つまり侵略ということは、泥棒行為をするということなんです。そういう泥棒行為をした責任者が戦犯なわけです。それを、神として靖国に祀っているわけです。戦犯を神とする日本のこの精神構造の異様さ。こういうような精神構造からは人権思想は生まれないわけです。みなさん、憲法があるからひとりでに人権思想が生まれるわけではないのです。人間社会に様々な人権侵害があり、その侵害にあったときに、私たちは人権を取り戻し守るために憲法にある人権法を盾に闘うのです。

 ではナチスドイツの場合はどうだったのでしょう。レジュメの4にいきます。ドイツは戦後、どのように生きたのか。このことを問うてみたときに、それは憲法から見えてきます。みなさんにお渡ししました資料で、ドイツの憲法があると思うんですけど。ドイツは憲法のことを基本法といいます。第一条は、人間の尊厳について、書いています。《人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、これを保護することが、すべての国家権力に義務づけられている。それゆえ、ドイツ国民は、世界のすべての人間共同体、平和および正義の基礎として、不可侵にして譲り渡すことのできない人権を認める。》これが憲法第一条です。ナチスドイツの行いに対して深刻な反省の下にドイツ国民自らがあみだした知性です。憲法の第一条は、国家がどのような国家として生きるのかが書かれています。ドイツ国民のアイデンティティーが、人間の尊厳であるとドイツ憲法にはうたってあるのです。

 日本国憲法の書かれた資料もお渡ししていると思います。第一条、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。私たち日本国家が一番大事にするのは、天皇である。これが世界に日本国家を知らしめる最も大切なこととしてあるんだということを第一条は明記しているのです。ドイツと同じく日本人のアイデンティティーが一条ということです。必ず言葉には概念があります。天皇の概念。法律に条文化するときには必ず、概念というものが問われます。では、日本の天皇の概念が何かというと、明治時代までさかのぼります。明治時代の大日本帝国憲法で、この概念が確立されました。日本は江戸時代の終わりまで、中国文明の影響を受け、そのもとで日本の政治体制を創造してきました。明治維新は西洋文化を取り入れ、その元で国家体制を創造していくために、政治体制をリセットしました。西洋文明が社会の根源においているキリスト教の神の思想を取り入れたように、天皇を神としたのです。ですから天皇を現人神(あらひとがみ)と言います。国家の最高法である憲法に神を明言したのでした。明治憲法の1条〜4条は、人間である天皇を神とするための根源規定としてあります。日本の憲法学者、政治家はこの原理を知っています。明治憲法は、主権が天皇にあったことは、皆さんよく理解しておられると思います。このことは、統治権が天皇にあることを意味していますよね。国家統治の思想原理が、明治憲法の1条〜4条になるわけです。そして、3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スルベカラズ」とは、国家無答責の思想を意味しています。日本は明治になって国家無答責の統治原理を、天皇を使って確立しました。この原理が日本国憲法になっても生きています。ですから、強制連行された中国人が、日本で裁判を起こしたのですが、日本の裁判所は国家無答責の法治原理があるから、訴えを最近、棄却しました。責任をとらない。責任をとる法律を日本は持っていないんです。日本国憲法の第一条象徴天皇制は、国家無答責の統治原理を国民の総意として定めたものなのです。私たちは、そういう憲法を持って生きているわけです。

 そして、この間の衆議院の予算委員会で、民主党の岡田克也さんが靖国参拝について質問をしていました。安倍首相は正直に答えていました。日本には、侵略戦争に責任をとる国内法はないんだと。これは当たっているのです。だから、アジアの人は日本の裁判所に訴えて、戦前の日本の行為を問うたときに、日本の裁判官はかつて時効だと言っていました。時効ということは、自国の刑法でしか使えないからです。侵略戦争に対して責任を取る法律を持ちませんし、唯一、裁かれたのが東京国際裁判です。それ以外ないわけです。しかし安倍総理はこうも言っていました。確かに、国際的には国際裁判で裁かれて、戦争犯罪人ではあるけれど、日本国内では犯罪人ではないんだと言っていました。かつて、このような国会答弁をした首相はいないわけです。そういう答弁ができる日本の国家体制が今ここに存在しているのです。そのことを今までの総理大臣は知っていたわけです。私たちは、そういう右傾化しきった中で今を生きているわけです。

 そういうなかで、北朝鮮の核実験があったわけです。北朝鮮が核実験をしたという報道が、連日ありました。朝日新聞などは、一面トップで報道していました。北朝鮮と今、呼んでいますけど、北朝鮮には朝鮮民主主義人民共和国という立派な国名があります。一昔前は、北朝鮮なんていう呼び方はしませんでした。朝鮮民主主義人民共和国。どんな長ったらしい名前でも、まずそれを書いて、(北朝鮮)という書き方があったわけです。それが北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)となりますが、今では、括弧なんてありません。これは、日本人の北朝鮮に対する意識がそこに表れているわけです。私たちが、ちゃんとした国名を呼ばないというのは、とてもおかしなことです。まして、日本は、かつて日韓併合条約をもって、自分の国にしたわけです。みなさん、当時の地図をご覧になってください。朝鮮は地球から消えて、日本と書かれているわけです。地球から、一国の名前・歴史を抹消したわけです。このような、恐ろしいことをして、何の罪の意識もない私たちがここに存在しているわけです。

 北朝鮮は、朝鮮というひとつの国だったわけです。冷戦構造が戦後、米国、ソ連の対立で出来上がりました。冷戦によって、朝鮮半島が二つに分断されました。しかし、過去は一つの国でした。そして、私たちは戦後、二つの国に分かれた一つの国である、韓国と国交樹立をはたして今付き合っているわけです。そして韓流ブームも起こり、私たちは韓国を身近な国として認識しているわけです。北朝鮮と日本の間には今も法的には、日韓併合条約が生きているんです。なぜなら、国交を樹立していないから。1965年に韓国と国交樹立をするときに日韓条約というものを結びました。みなさん、むやみやたらに国同士が付き合っているわけではないのです。必ず、国が付き合うには国家間の協約、条約というものがあるのを前提のうえに、私たちは国家と付き合っているわけです。北朝鮮と付き合うには、付き合う条約を結ばなければなりません。そのためには、新たな法律を二カ国間で締結しないといけないわけです。北朝鮮との新しい条約を結んではじめて北朝鮮との併合条約は破棄されます。

 日本は、江華島条約に始まって、日韓併合条約まで数々の条約を朝鮮半島と結んできたんですね。北朝鮮にはその条約が残っているわけです。それを解消するためには、新たな条約を結びなおす必要があるわけです。しかし、六カ国間協議も日本が責任をとろうと言わないから、こじれにこじれてきています。責任をとろうとしないで、そして、憲法九条を改正して、外国に日本の軍隊を出せるような状態を生み出そうとしているわけです。既に、イラクに行って外国の地を踏んでしまいました。

 日本国家は拉致を理由に北朝鮮という国を潰してしまいたいというのが、本音だと思います。拉致家族の記者会見をしたときに、「北なんか潰れて当然の国家だ」と横田さんは何年か前に言いました。そのとき日本のメディアはカメラアングルを横田さんからはずしました。私はここにマスコミの狡猾さを感じました。みなさん、北朝鮮なんかどうだっていいやと思ってますでしょう。核実験、絶対許せない。金正日は憎たらしい。みなさん、そう思ってますでしょう。なぜ、金正日総書記が核実験をするのか。日韓併合条約が北朝鮮とは生きたままなんです。法的にいうと北朝鮮と日本は戦争状態にあるわけです。かつて、朝鮮半島から強制連行によって山のような人が労働力として投入されたわけです。拉致の歴史が日本の歴史です。中国からも拉致しているんですから。戦争状態にあるなかで、北朝鮮の工作員は、日本の市民を拉致しているわけです。それだけの話なわけです。それは、拉致された家族も分かっていると思います。あの人たちが戦中を生きてきた人たちなわけですから。そういう状態のなかで、北朝鮮が、侵略するのなら、今までのあり方を続けるのならば、私たちは核を持って、いざというときは戦いますという、そういうデモンストレーションが、今回の北朝鮮の核実験なのです。

 そのことを、みなさんはきちんと押さえないと、また責任を取らない日韓条約が結ばれていくわけです。日韓条約の名称は日本国と韓国との基本関係です。中国と国交樹立するために交わした日中条約は日本と中国の平和条約です。そこには、二度と侵略しないということが条文として明記されているのですが、日韓条約にはそれがないわけです。数々結んできた条約は既に無効とする。では、無効とするのであれば、それに対しての謝罪が法でもって明記されなければなりません。みなさんは、同和教育ってご存知でしょう。私たちは同和教育に関して、教育を受けてきたと思います。部落民が解放されるときに、日本国憲法でも解放されていないわけです。だから、特別措置法という法律が用意されるわけです。この法律でもって部落の貧しい地域環境を建て直して、道路を拡張し、ぼろぼろ家ではなくて、立派なアパートに住んでもらおうという法律が必要なわけです。国家予算を投入しないといけないわけですから。

 責任をとるということは、法なくして、責任をとるという政治体制は生み出せないわけです。なぜなら、いくら首相が責任をとりたい、とりたいと思っていても、法律というものを作って、社会に提起して、社会に依拠して、機能していかないと差別などは解消しないわけです。気持ちだけでは、差別、人権侵害は解消しないんです。法律を作って、それに違反すると罰する。こういう法体系を作りあげないと人権思想なんて生まれてこないんです。そういう日本の侵略責任に責任をとるっていう法体系を日本は何一つ持っていないわけです。作ろうともしないんです。北朝鮮と国交樹立をしたときには、また、従軍慰安婦問題が出てきます。なぜなら、一つの国でしたから、当然日本の男性がレイプした朝鮮民族の女性が存在するわけです。たくさんの数で。国交樹立した後、北との間で、また必ずそういう問題が出てきます。だから、法律というのはとても大切なんです。

 責任をとるという精神を法律にどう明記するのか、そういう観点でドイツの憲法を見たときに、人間の尊厳の不可侵というものが考えられます。これはドイツ国民だけではないんです。全地球に住む、全人類にあてはまるわけです。こういうドイツが産み出す文化現象として、みなさんのお手元の資料に、「白バラの祈り」という映画の資料があります。ドイツが2005年にナチスのことを反省して作った映画です。「白バラの祈り」というのは、ドイツで有名なゾフィー・ショルという人がいます。ヒトラーが政権をとった時代に彼女は抵抗するんです。そして彼女が所属していたグループの名前が白バラというのです。大学にビラをまき、逮捕され、四日間で処刑されるわけです。処刑される四日間にスポットをあてて作られている映画なんですけれど、とても感動的な映画でした。今、話しながら思い出して、鳥肌がたっています。彼女は、取調官から糾弾されても、「正義のために闘っている」と言って一歩も譲らないわけです。取調官との言葉のやりとりをメインに作られています。この女性は、ドイツの若者の誇りとされ、彼女の名前を知らない人はいなく、そして、彼女の名前にちなんだ学校がドイツにはたくさんあるわけです。日本の戦争ものを扱った映画というのは、神風特攻隊で突っ込んで、死んでいった人たちの死を美化して作られたものばかりです。日本の側に立った戦争映画です。明治維新から敗戦まで続いた日本の戦争は、アジアを手に入れるための西洋、また、中国との戦争だったわけです。日本の向こうにはアジアがあるわけです。これが全く欠落してしまった映画しか戦争映画として、日本の映画人は国民に提起してきませんでした。私たちは子どもの頃から、こういうものを嫌というほど見せつけられてきているわけですから。加害者なのに被害者意識を持ち続けているのです。そういう国民性しか生まれてこないわけです。そして、最後に朝日新聞社が発行している「論座」に掲載されていた論文を紹介します。ドイツの国民は、どのように過去を受け止めているかということなんです。それは、マスコミにも関係することですけど、一部引用して、終わりにしようと思います。

 ドイツ在住のフリージャーナリスト梶村太一郎さんが2006年3月号の「論座」に寄稿された論考の一部です。論考のタイトルは「『自虐史観』を国是とするドイツ」となっています。それではその一文を朗読いたします。

 「政治教育とメディア。戦後西ドイツのころから、他国に見せられない『政治教育センター』が連邦と各州にある。この機関については、最近日本でも専門家による紹介がなされている(『ドイツの政治教育』近藤考弘)。目的は、成熟した民主主義の基盤を培うため、国家のための教育ではなく市民一人ひとりの政治能力を養う教育を行うことである。もちろん学校教育でも、普通の市民が人間の尊厳を守る勇気を示した手本として『白バラ』は重点的に取り上げられているが、授業でも同教育センターの資料が欠かせない。ジャーナリストが使う専門家による基本的情報資料も、同センターの提出によるものが非常に多い。この3月に行われる連邦政治教育センター主催の全国会議のテーマは『メディア社会』である。急速に社会的影響が増大し、変化も激しいメディアの多様な問題に関して、ジャーナリスト、政治、教育者らが参加し、突っ込んだ議論が公開でなされる。そこでは、特にマスメディアの危険性、また国家とメディアの相互介入や癒着の危険性も検証されそれをもとに『メディア教育』の資料が作成される。」
と論考にはあります。

 「人間の尊厳の不可侵」を憲法第一条に定め、その精神世界を創造していくためには、過去の歴史の誤りに責任を取り、そのことと共に絶えず社会を検証していく作業が必要であるということを、梶村太一郎さんの論考は私に教えてくれています。

 浅野さんが法とジャーナリズムが何のためにあるのかと私に宿題を出されました。法とジャーナリズムは私たちが平和国家を作っていくための人間の尊厳を守るためにある。これ以外に法もジャーナリズムもありません。法もジャーナリズムも戦争を防ぐ、人間の尊厳を守るためにあるのです。以上です。(了)



3回生ゼミ・山田悦子さんゲスト講義と質疑

 
山田悦子さんは2006年10月12日午後3時から4時半まで、新町校舎尋真館45a教室で浅野ゼミ3回生(13期生)ゼミにゲストで講義し、共同研究「人権と事件事故報道」のための質疑応答が行われた。 【13期生・泉 修平

 私はこれまで自分が受けた報道被害の体験を通して人間社会はどうあるべきか考えてきました。人間を傷つけない社会を私たちは作っていくためにはどうしたらいいのだろう。このことが私の考える原点になっています。なぜなら、私はずっと社会で犯人視され、刑事被告人にされてずっと傷ついてきましたから、突き詰めて考えると、人間を人間が傷つけない、そういう社会を私たちは人間であるがゆえに作っていかなければならない。このことが私の基本的なスタンスとしてあります。

 そういう社会を作っていくためには、やはりマスメディアの役割というのはとても大きいと思います。新聞は社会を構成している私たち全員に、いろいろな情報を提供します。富む者も貧しき者も、そこには差別はない。これはメディアのもっている力であり役割だと思います。ただ重要な社会的な役割をはたすメディアがどういう中身を書くのか。このことを問うた時に、日本のマスコミ、特に犯罪報道における報道は、権力チェックを使命としながらも、あまりにも警察・検察権力にべったりの報道になっており、本来の使命を果たしておりません。

 憲法を頂点にして日本の法体系が作られているわけですけれども、刑事訴訟法というのは裁判を行うためのいろいろな手続きが書かれているわけです。だからそこには人権侵害をしてはいけない手続きが書かれているわけです。私たちは日本国民である以上、日本国憲法はもちろん守って、そこに付随するさまざまな法律も守っていかなければならないわけです。法を守って初めて法治国家と言えるわけです。

 はたして日本の犯罪報道は、いわゆる憲法や刑事訴訟法が守られた内容になっているのか、と問うた時に、それはなっていません。それを端的にあらわしているのが「犯罪報道の犯罪」なんです。逮捕イコール犯人という図式が、日本社会では確立されてしまっています。なによりも最低限第一審の判決が出るまでは推定無罪。大原則の法の精神に守られて、私たち被告人とされた人は、被告席に存在する権利を持っています。裁判も始まらない前に社会的に有罪を下すような報道を行ってしまうと、私たちの側が法そのものを否定してしまっているということになるわけです。憲法の否定にもそれはつながるわけです。犯罪報道は日常茶飯それを行っているということです。決して日本の犯罪報道のあり方は、警察に疑問を呈する、法の手続き、そういうものがきちんと行われているのか、警察の捜査に対してチェックを入れないんです。取り調べるにしても、法的手続きに則ってされているのか、不正な取調べが行われていないか。マスコミはこのことをきちんとチェックすることを今まで何もしてきませんでした。

 マスメディアがチェックしないから警察はどんどん不正を行います。その不正が習慣化されているわけですね。そのような中で、日本の習慣化された中で犯罪が起こった時に、警察が動く、チェックしない。法が野放し状態になって報道が作られ、そのまま起訴され、それを裁判官も読むわけです。裁判官も審議するに当たって真っ白の心で臨むわけではありません。みんな私たちと同じように週刊誌も読み、新聞も読み、テレビも見る。裁判官もそういう情報を自分の脳裏に山のように満載して、審理にのぞむわけです。

 マスメディアは、刑事司法の理念である「疑わしきは罰せず」を社会意識として提供できていません。刑事司法の環境破壊を行っているのが、日本の犯罪報道のあり方に見ることができます。裁判官も人の子ですから、和歌山毒カレー裁判のように世間全般が真っ黒な意識を持って被告人を捉えていたとき、裁判官に与えるプレッシャーはものすごいものがあるわけです。絶大な検察が起訴しているわけですから。検察権力が起訴し、検察官の国家権力を後ろ盾とする国民の声、この2重奏によってとてもプレッシャーがかかるわけです。
そういう中で被告人が無実を叫んでいた時に、被告人の声を真実の声として受け止めようとする場合には、裁判官は並々ならぬ覚悟が必要とされます。日本の法廷というのは、裁判官にとっても大変過酷な司法だなと思いました。まずもって裁判官が心置きなく真実の声を受け止めることができ、弁護側の主張をどこまでも聞いていける。それで検察側の主張はおかしいと思った時には無罪の判定を下すことができる。そういう環境を私たちの社会は用意しなければならないわけです。

 その私たちの社会は何かというと、これは報道の役割だと思うんですけれど、そういう環境を報道は全然用意していないわけです。先走って有罪にしてしまっていますから、その対国民の意識に裁判官が無罪の判決を出す時抵抗しないといけないわけです。ものすごい勇気がいるわけです。無実の人に無罪を言い渡すのは当たり前のことです。当たり前のことが勇気を持ってしないといけない。自分の出世と引き換えに一人の無実の者を救わなくてはいけない。大事件に無罪判決を出す裁判官や、不起訴を出す検察官は、司法界では出世できないのが、日本の司法の実態なのです。これはやっぱりおかしいと思います。それはマスコミ自身が法を否定してしまっていることで、憲法さえ否定してしまっていることから起こってくる問題であると思います。

 みなさん、日本国憲法は大事だって思っているでしょう。日本国憲法に何が書かれているのかということをみんな知っていますか。憲法9条は知っていますよね。人権について書かれている条項を知っていますか。みんな知らないでしょう。そこが摩訶不思議な国民性で、日本国憲法に人権の尊重がうたわれている。じゃあその人権の尊重の中身は何なのかと問われた時、私たち国民は何も答えることができないんですね。法学部に行ってらっしゃる学生さんは別として。無実のものを罰しないためにちゃんと憲法には基本的なことが書いてあるんです。何よりも特に犯罪報道の場合に警察権力が入るわけですから、新聞記者は憲法を勉強して記事を書かないといけないわけです。警察は一国家権力の機関ですから、どこよりも憲法を守る義務が課せられているわけです。なぜなら国家構成の要素の一機関なわけですから。当然警察官も憲法を守らなければいけないわけです。その上で逮捕した者の取調べにあたらなければいけない。

 そういうことが実際行われているかどうかということが報道によってチェックされていないわけです。報道によってチェックされていないということは、個人の新聞記者がチェックする力を持たないということです。報道、報道といいますけれど、結局は個に帰るわけです。新聞記者を取り除き、そして雑誌の記者を取り除いたら何も残らないわけでしょ。報道は人間が作っているわけですから。それを私たちは報道と呼んでいるわけです。特にそういう分野で、権力チェックの分野で新聞記者はそれを日々の糧を得る職業として選んだわけですから、無理やりやらされているわけではないのですから、職業の選択の自由が憲法にちゃんと書いてあるわけですから。だから私たちはいろいろな職業につけるわけです。それ自体がすでに法の行使をやっているわけですから。そういう発想を新聞記者は誰よりも、社会に情報を差別区別なく提供する側にあるわけですから、憲法を勉強して記事を書かないといい記事が書けないわけです。それを日本の新聞記者はやってないということが分かりました。だからおかしいなと思っても、警察が不正に取り調べていても抗議の記事が書けないんです。新聞社どうしの特ダネ競争というのがありますけれど、今私が話したような観点がないからそういうような方向に走ってしまうわけです。

 本当に自分が憲法を勉強し、不正なことが行われて、自分の中に正義感があれば、不正義に抗する記事が書けます。正義というのは、屈しないところに正義の真骨頂はあるわけですから。まともに正義感を持っている人なら書けます。しかし書けないということは法を勉強していないからです。だから絶大なる警察権力にあれやこれや言われると、そのまま受け止めて書いてしまう。法学部を出て新聞記者になっている人はそういうことを知っている人もいるかもしれません。しかしそれを自分で思想化していない。単なる知識でしかなかったらこれもまた闘えません。法を単なる知識ではなく正義として思想化する。その時に本当の権力チェックの記事が書けるようになると感じます。

 新聞記者は死に物狂いで、日々社会の現象を目の当たりにして記事を書いているわけですから、いろいろ勉強することはあるわけです。勉強の中で法意識をどれだけ養うことができるか。これに新聞記者生命がかかっているのではないかと私は思っています。なぜなら新聞記者は私たちの代弁者として権力チェックをしてくれているからです。だから市民の側に立って権力が行うことをチェックしなければいけない。私たち以上に新聞記者は法律の勉強をしなければいけない。そういう勉強が日本の新聞記者は足りない。悲しいかな、やっていないというのが分かりました。

 法を正義として私たちが行使していくためには、私たちの思想性が問われるわけです。法は如何様にも解釈できるというのも事実なんです。しかし正義のものとして解釈する、そういう精神性が社会基盤としてあるかないか。これが大きく物を言うわけです。法が正義として共通の認識としてあるかどうか。悲しいかな日本社会には欠落しているわけです。欠落させている社会的要因に、マスコミの報道の質が大きく横たわっていると思います。

 「第4の権力」といわれているマスコミが果たす役割、またそのマスコミを支えるものは私たち市民の意識が、司法、行政、立法の三権のチェックを可能にするものかどうかにかかっています。結局、今のような犯罪報道のありかたを許しているのは市民の意識なわけです。そういう意識が結局は誰に返ってくるか、どこに返ってくるかというと、自分に返ってくるわけです。私たちが生み出した意識は、結局は私たちに還元されて私たちが苦しむことになるわけです。私は自分が逮捕され報道されるまで、マスコミに書かれていることをそのまま鵜呑みにしていました。結局はそれが自分に返ってきたわけです。何の疑問も持たずに提示されたものをそのまま受け取る。この精神性です。こういう精神性を改心できる機会があったわけです。それは2度の大戦、近代における戦争です。戦争というのは国家体制をすべて戦時体制にもって行きますから、教育も社会のあり方も市政のあり方も。そして女性の子宮さえコントロールするわけです。どういう事かと言うと、兵隊を産めよ増やせよと言って、兵隊をたくさん送り出さなければいけないですから。そういうのが国家方針として打ち出されると、私たちはそれを受け入れどんどん子供を産むわけです。「産めよ増やせよ」の国策の最終現象が団塊の世代と言われる人々です。戦争というのはそんなものです。勝たないといけませんから。それを2度も体験して、日本は戦争体制がいろいろ国家・社会のあり方について考えさせてくれる要素をたくさん持っているわけです。そういう要素を一つずつ、あれは正しかったのかとチェックする。政治がチェックできないのであれば、マスコミがチェックしなければならない。そして絶えず政府をそういう観点で追い詰め改善を図っていく。そういう戦後の報道をマスコミ人がやってきたならば、現在のようなあり方にはならなかったのではないか。私はマスコミの犯罪性を本当に感じています。

 皆さんは今がすべてで、つい20年前に生まれたばかりですから、分からないかもしれませんが、私が小学校、中学校、高校の時、もっと平和な時代にいたと感じるんです。自由があったんです。あの当時教師のスローガンは二度と生徒を戦場に行かせないというものでした。それが今誰も言いません。憲法9条が改正され、若者たちが下手すると戦場に行かなければならない、徴兵制が敷かれるかもしれない危険性をはらんでいる時代に生きていながら、教師たちはそういうことを一言も言いません。憲法9条が改正されるということは、そういう危険性があるということです。なぜ憲法9条が改正されるのか。それは外国に軍隊を出したいからです。それ以外のなにものでもない。アジアが日本を襲ってきたことが一度でもあるんですか。遠い昔、蒙古の日本遠征はありましたが、失敗に終わっています。そういうのがありましたけれど、近代になってからはないでしょう。韓国、北朝鮮が日本を襲ったんですか。中国が侵略してきたんですか。そうではないです。

 自分が軍隊をアジアに出したいからなんです。人間の行う行為には必ず深層心理が働きます。心理があるからいろいろ行動に出るわけです。そういう深層心理を新聞記者は誰よりも読み込まないと良い記事は書けない。人間を知る。もちろん私たちも大切な要素として持っていなければならないのですが、マスコミに勤める人は、それでもって国家の運命をチェックするんですから。新聞記者に託されているのは私たちの命ですよね、政治家ではありません。権力というのはいつでも不正を行っている。それは見て分かりますでしょう、皆さん。賄賂を受け取ったり。新聞記者はそんなことしてはいけない。国民の命を預かっているのですから。正義の名において。利害関係において命を預かっているのは政治だけで十分です。私は正義の名において市民の命を預かっているのがマスコミだと思います。そのような観点で報道記事を読んだ時にいろいろ見えてくるわけです。

 広島の事件でペルー人に対しての報道記事が、いかにペルー人をあれだけ否定するという書き方をするというのは、彼の国家を否定することにつながっていくわけです。国籍を持った人ですから。犯した罪は償いをしなければいけません。そのために刑罰があるのですから。償い以上の人格否定までする。これは許されないことです。結局は突き詰めて考えると報道の問題は、人間の存在をどう受け止めるのか、人間をどう受け止めるか、それにすべてがかかっています。

 皆さんは高校の教科書で習ったと思うんですけど、フランス人のボアソナードは、フランスから来て日本で20年暮らして、日本の法典編纂と法学教育に尽力してくれました。彼は、「各人に彼のものを帰すべし、何人も害することなかれ。これら2つこそが、それが尊守されなければ、社会が貪欲と掠奪と暴力の餌食になり間違いなく滅びる。何人も害することなかれ。自然法のすべてがそこにある。これこそ、立法者が発展させ、生命を与えさえすればよい本源的な準則である」と言っています。人を害するな、これは当たり前のことです。人のものを盗ったら返せ、当たり前のことなんです。法は当たり前のことを守るために法としてあるわけです。だから法なんてそんな難しいことではないんです。見果てぬ夢のようにあらゆる社会の場で、法の精神を作っていくための私たちの日常的な営みを行わない限り、法の精神なんてものは生まれてこないわけです。それが概念化しないわけです。

 「机」と言った時、私たちはすぐに思い浮かぶでしょう。それは概念化されているから。もともと生まれたとき「机」なんていう概念は無かったわけですから。人類が作り上げてこれを「机」としたわけでしょう。ただ法の精神というのは目に見えませんから、自分の思考の中、思想の中で概念化していくものですから、自分の精神性を鍛え上げていくしかないわけです。形あるものは破壊され粉々に砕け散ってしまいますが、思想というのは破壊したくてもされようがありません。その人が、その思想を自分の精神性の中から捨てない限り不滅なのです。だからソクラテスの思想は、今なお世界で生きているのですから。だから私たちは感性を鍛えに鍛え、感性を鍛えるということは思想性を鍛えるということです。その基本になるのは人を害してはいけない、これを肝に銘じ、そして自らが自らを人間としてちゃんと生きているのか、と自分を律する心がなければ法の精神は生まれないのです。

 私たちは人格を持っていますけど、自分を守ろうとした時には、法的人格者にならなければいけません。法が私たちを守ってくれるわけですから、私たち自身が法を知り、法によって不正義が押し寄せた時に自分を守れるか。これは法を知っていないとダメです。せめて憲法が最低限の条件としてあります。そうなった時、私たちは法的人格者になれますし、もともと私たちは法的人格者として存在する一人ひとりなわけです。なぜなら法治国家に私たちは生きているからです。

 浅野先生が「法とジャーナリズムは何のためにあるのか」と問われましたけど、要するに人を害しない、人間として人格を持って私たちは一人ひとり生きているわけですから、その存在を否定しない、そのために法があり、法の正義をあらゆる不正義から守るために、法とジャーナリズムはあるのだと私は考えています。「20世紀は戦争の時代だった」と言って、人類は21世紀を歩み始め、今年で6年が過ぎ去ろうとしています。しかし人類史を振り返ってみると覇権を求めて戦争をやってきて、現在に至っています。人類の戦争好きを象徴しているのがアメリカです。その国と軍事同盟を組んでいるのが日本です。日本も戦争好きであるわけです。ですからここに来て9条改正が言われているのです。

 最後に、ある新聞記者の金言を紹介して終わりにしたいと思います。甲山事件の当事者として私は無罪確定までの25年間報道され続けて来ましたが、そうした状況でいろいろな新聞記者や雑誌記者、また報道記者と出会うことになりました。そんな彼らからよく耳にしたのは、「保守本流は、読売ではなく実は朝日なのだ」と。みなさんよく理解されているのですね。その朝日新聞の元記者で、1909年生まれの須田禎一さんという方がおられました。須田さんは昭和46年(1971年)に若いジャーナリストへの提言として「ペンの自由を支えるために」という本を評論社から出されています。その中で新聞記者に対して7つの戒めを挙げられています。

 第一戒に、知ったかぶりをするな。自ら調査もせずに常識で事件を解釈するな。第二戒に、先入観を持つな。人間として特にジャーナリストとして生きてゆく上に欠かしてはならぬ根本的姿勢である。第三戒に、取材先に気に入られることなど考えるな。むかし、軍と新聞記者の癒着は社内に存在したわずかばかりの良心の灯を消してしまった。第四戒に、部長デスクの思惑など気にかけるな。出世を心がけ、記事の自己規制をやるようではペンの自由を自ら放棄するものである。第五戒に、あらゆる人間を差別するな。第六戒に、事件の頻度に鈍感になるな。“今日の公害、明日も公害では芸がない。”などという無責任な呟きをかりそめにもしてはならない。第七戒に、権力に追従するな。言論人は“秩序”を守る片棒を担ぐ前に、その“秩序”の下で苦しんでいる人民のあることを忘れるな。以上のようなことを提言されています。

 ジャーナリストを目指す人の心に深く留め置かなくてはならない珠玉の格言であると思います。

 
●質疑応答

 △浅野先生: 
 外国人が被疑者として逮捕された広島女児殺害事件報道について、どうお考えになりますか。

 ▲山田さん:
 ペルー人だからでしょう。アメリカ人だったらあんな報道になったかというと疑問です。やっぱりヒスパニックに対して日本人は蔑視する。アメリカ中心だから南米だとかは低く見ていますから。日本人の差別意識が記者の目を通して出たのです。例えば、日本人移住者がハワイで成功したのと、ブラジルで成功したのでは、どちらも同じ日本の成功者なのですが、ハワイで成功した人のほうを上に置いてしまうのが、日本人の意識ではないでしょうか。

 △学  生:
 朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)の核実験報道で朝鮮学校や在日コリアンへのバッシングや嫌がらせが出ていますけれど、どう思われますか。

 ▲山田さん:
 アジアを侵略した日本の精神性がものすごく関係してくるんです。フランスだって核実験しているんです。当時こんな風に大騒ぎしたかというとそうではありません。アメリカだって核保有していて過去に核実験を何度もしているんです。なのにバッシングはしない。2度も日本に核爆弾を落とし、広島や長崎の人々の命を奪い、その被害を現在も与え続けているのに、日本はアメリカを批判していません。
 北朝鮮の核を責める前に、なぜアメリカの核を責めないのか。アメリカや中国が核保有していることも並列化すべきです。フランスもインドも。なぜ北朝鮮だけをこんな風にバッシングするのか。私が住んでる田舎は夕刊がないんですけれど、1日遅れて次の日の朝刊を見るんですが、ほとんどの紙面が北朝鮮バッシングで占められているわけです。そしたらそれを読んだ情報のない田舎の人々は、北朝鮮憎しになっちゃうわけです。私は兵庫県の生野銀山近くに住んでいます。強制連行で連れてこられた人々が戦後も住んでいるわけです。その人たちが息を潜めて生活しているわけです。日本人はあいつは朝鮮人だと知りながら生活している。ああいう報道が出た時に非常に険しい近所付き合いが始まるわけです。アメリカも中国もフランスもインドも、みんな自己防衛のために核保有しているわけでしょう。なぜ北朝鮮だけに日本はヒステリックになってしまうのでしょうか。私はこのことを日本の報道陣に聞きたいですね。アメリカに日本人が旅行に行ったりして殺されたりしたら報道が出ますよね。でも日本に住んでいるアメリカ人を傷つけたりはしませんよね。しかし、こと北朝鮮問題になると、事あるごとに私たち日本人はチマチョゴリを切りつけたりしているわけです。
 だから日本人にとって朝鮮人は、日朝交渉をスムーズにやろうとしない憎き存在なのですね。日本がかつて朝鮮半島を侵略したその責任を北は、交渉で求めているのです。その正当な要求を日本が拒否して、拉致問題や核問題を前面に出して責任を取る態度を示さないからこういう事態を招いているのです。私たちは侵略の賠償金を払わなければならないと思っていないでしょう。思っていますか。そういう発想もないでしょう。罪を犯したら償いをしなければならないんです。しかし戦争だったら許されてしまうのはおかしいでしょう。
 その当たり前のことに私たちが責任を取る態度で向き合えるかどうか、人間として当たり前の話なんです。悪いことしたら責任取りましょうよ。その声が日本国民から上がってこない。

 △浅野先生:
 日本と朝鮮は未だに戦後処理、植民地統治の終結手続きが終わっていないんです。そのことをほとんどの日本人はわかっていないんです。日本が朝鮮と平和条約を結ぶ手続きに入るというのがピョンヤン宣言なわけですが、「拉致」を理由に進展していません。

 ▲山田さん:
 冷戦構造が崩れた時に、金丸信という政治家がいたことを知っていますか。社会党が社民党になる前、自民党の金丸さんは、自民党は北朝鮮と付き合えなかったから、付き合いのあった社会党と政府の高官を連れて1990年に北朝鮮に行ったんです。冷戦構造が崩れて、日本はこのままじゃいけないということで、ちゃんと賠償しなければいけないということで金丸さんは80歳という老体にムチを打って日本が責任を取る交渉に入ったのでした。そして、日本が北朝鮮で行った侵略に謝罪し償いをすることを認める共同宣言をピョンヤンで行ったのでした。その後、それを日本は反故にしたんです。金丸さんはその後政権から追い出され、逮捕された。北朝鮮は金丸さんと交渉しているのではなく、日本と交渉しているわけです。裏切ったのは日本です。
 そういうことをマスコミはすべて知っているわけです。それを書かない。まったく権力チェックをしていない。だからそういう流れの中に核実験があるんです。アメリカが核保有を放棄したら、世界は放棄しますよ。なぜ日本はアメリカを非難しないのか。あれだけ好き勝手して。イラクは核を持っていなかったわけだから。それをなぜ日本のマスコミは書かないんですか。「あるかないか、そんなこと行ってみないとわからないでしょう」。そんな小泉さんの発言を許している日本人ならびにマスコミの精神性が大きな問題です。アメリカの調査機関も核はなかったと結論を出しているわけでしょう。
 それに対して日本の小泉さんの取った政治性を糾弾する記事が全然書かれない。私たちはそんな報道を持っているんです。なによりもアメリカに原爆を2つも落とされたことを日本国民は真剣に考えてないんです。

 △浅野先生:
 日本では犯罪報道で韓国の人、また在日朝鮮人の市民が警察などに逮捕されると、韓国籍か朝鮮籍か国籍を出し、通名と本名の両方を報道する。これについてどうお考えですか。

 ▲山田さん:
 それは問題だと思います。日本人が韓国や朝鮮に対して蔑視観がなければどうってことはないんですけれど、出すことによって韓国、朝鮮への差別につながる。ペルー人、バングラディッシュ人なんて出ると、貧しい人は何するかわからないとなるわけです。日本は西洋系意識なんですよ。アジアとは別として日本を置いているんです。権力をアジアで得たい時だけアジア、アジアと言うんです。それははっきりしています。要するに日本の物の見方はどれだけ物を持っているか、どれだけ豊かか、それが美しい誇るべき日本、それが安倍さんの言っていることなんです。心が美しいことではないんです。物欲に長けているのが美しい日本なわけです。

 △浅野先生:
 山田さんが報道された1974年から今の報道の良くなったところと悪くなったことろは何でしょうか。

 ▲山田さん:
 私が書かれた時には住所が細かく書かれました。だから甲山の山田さんの家と言って尋ねてくる人がいっぱいいたんです。5,6人一度に「これがあの人の家や」と指さされながら見にこられたことがありました。少し精神を病んでいる人が被害妄想にあって、「俺がクビになったのはお前のせいだ。出てこい」と私の家までやって来て怒鳴るんですね。そういう2次被害、3次被害を報道は生み出すわけです。

 △浅野先生:
 今は「町」まで出ています。〜町○丁目まで出ます。

 ▲山田さん:
 本質的には何も変わらない。法の観点を捕らえて記事を書こうとしていない。これは一貫していますから、人権侵害の記事しか書けないんです。 (以上)                             

掲載日:2007年2月26日
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