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<浅野健一先生の還暦を祝う会>報告
社会学研究科メディア学専攻博士後期課程3年
森 類臣 |
「浅野健一先生の還暦を祝う会」(以下、「祝う会」)が、2008年7月27日午後、京都市上京区の京都ブライトンホテル1階「カディコート」で行われた。浅野先生の60回目の誕生日を迎え、友人の方々、ゼミOBGの方々、現役大学院生など50人を超える人たちが一堂に会した。「祝う会」は現役学生たちがリーダーシップをとって行った。
司会は浅野ゼミ1期生で、現在はフリーアナウンサーとして活躍している馬場尚子さん。「祝う会」は実行委員の岡村優里さん(4回生、浅野ゼミ14期生)の挨拶で始まった。岡村さんは浅野先生のプロフィールや経歴を紹介し、「浅野ゼミは、先生の親身にそして気軽に話せるお人柄もあって、ゼミの仲がすごくいい。よく飲み会もするし、議論もするし、他のゼミの人たちからうらやましがられる。私も浅野ゼミに来て、一生付き合える仲間ができた」と学生から見た浅野ゼミの魅力を語った。

事情があって今回出席できなかった浅野先生のパートナーである浅野美代子さんと現在アメリカ留学中である娘の左也香さんは、インターネットのスカイプを通じてリアルタイムで動画出演した。
美代子さんは、愛犬の「ルルちゃん」とともに登場し、「遠くから駆けつけてくださった方々もいて、本当に日本一の幸せ者だと思う。高校で知り合ってから45年過ぎたが、昔から物事を粘り強く追究していく姿勢は今も変わらない。これからも皆さんのために、研究に指導に頑張ってください」とエールを送った。また、左也香さんは「まだまだパワフルな父だと思います。これからもお仕事頑張ってください」とニューヨークからメッセージを伝えた。
続いて、浅野ゼミ1期生でアクセサリー・デザインの会社社長をしている景山由香子さんが、OBGを代表して祝辞を述べた。「私が卒論の準備をしているときに阪神淡路大震災が起こった。それで卒論のテーマを災害報道にして、現場で取材していた記者と会ったり、現場で感じたことをまとめたら、浅野先生は高く評価してくれた。やっぱり先生は現場第一主義だと思う。また、先生は私たちを学生扱いせずに、一人の人間として接してくれた。先生はとても真っ直ぐでピュア(pure)なところが魅力だ。先生は行動力があってエネルギッシュだ。私たちの目標としてこれからも元気で頑張っていただきたい」と、浅野先生が14年前、同志社に教授として着任した当時を振り返り、エピソードを交えながら語った。
次に甲山事件冤罪被害者だった兵庫県在住の山田悦子さんが、友人代表としてお祝いの言葉を述べた。浅野先生は1984年から、山田さんの支援活動を通じてと親交を深めてきた。山田さんは「浅野先生は当時からすごく真っ直ぐだった。匿名報道主義を唱えてマスコミ界で大バッシングを浴びていたときだった。しかし、持ち前の明るさでそんなことをものともせずに頑張っておられた。浅野先生との出会いは、長年報道被害に遭って来た私にとって救いだった。社会がすべて浅野先生の敵に回っても、私一人は浅野先生の味方でいようと心に決めていた。浅野先生は、淀みきったこの日本の報道界を何とか改革をしようとしている。浅野先生は報道界だけではなく、私たち市民社会における希望だ。私は今まで浅野先生に支えられてきたから、これからはサポーターとして支えていきたい」と述べた。
乾杯の音頭は浅野ゼミ3期生で毎日新聞記者の出来祥寿さんが務めた。出来さんは新婚旅行で外国に行っていたが、帰国した関西空港から直接駆けつけた。その他林順治さん・藤岡幸男さん・矢野均さん・柳球采さん・李東一さん・呉成元さん・福原淳郎さん・佐々野耕作さん・小林(旧姓・上地)裕貴子さん・デュリュネ・ドリスさんらがそれぞれ浅野先生へお祝いの言葉を送った。
式も大詰めになったときには、野村沙知代さんが来場した。浅野先生は、野村さんがマスコミによるバッシングを受けていたときに支援した。「週刊金曜日」別冊ブックレット『金曜芸能-報道される側の論理-』上で対談したこともある。対談後も友人として交流を続けられている。野村さんは「マスコミに叩かれているときに、私を助けてくれたのは浅野先生だけでした。今も感謝しています。浅野先生から受けた恩は忘れません。過日はありがとうございました」と話した。
この後、現在浅野先生の下で学んでいる学生(1~4回生・大学院生)が、浅野ゼミの授業風景や共同研究内容などを発表し、さらに浅野ゼミの中で音楽好きな学生たちが、“ASANO ZEMI BAND”(AZB)を結成し、歌をプレゼントした。「このお祝いの日をずっと待っていました!」とボーカルを務めた4回生の新垣統子さんと氏本・ロナルド・智之さんが切り出し、ハンバートハンバートの「長いことまっていたんだ」と「Happy
Birthday」を熱唱した。
歌のプレゼントの次は教え子たちからのプレゼントだった。現役の学生たちが贈ったのは「赤いチャンチャンコ」ではなくナイキの赤いテニス用ウインド・ブレーカーだった。テニスが大好きな先生のために、学生が選んだのである。OBGの10期生からは赤いパンツがプレゼントされ、現役3回生からはティーポットのサプライズ・プレゼントがされた。今回、残念ながら参加できなかった人たちからも、花などの贈り物やメッセージが届けられた。
式の最後は、浅野先生からの挨拶だった。浅野先生はプレゼントでもらったウインド・ブレーカーを着て、以下のように語った。
《60回目の誕生日に、学生たちが中心なって、このように盛大な還暦祝賀会を開いてくれ、卒業生・友人の皆さんが全国各地から出席してくださったことに心より感謝します。
私は1971年8月に結婚しましたが、結婚式も親類だけの小さいものでした。こういう形で多くの人たちに、華やかな会場で祝ってくださるのは、初めての経験です。
今朝、妻からもらったバースデーカードには、《本当に「日本一の幸せ者」》《祝う会に集まってくれたゼミ学生や卒業生のためにも、研究に指導にがんばってください》と書いてありました。そのとおりだと思います。
私は1948年7月27日、香川県高松市に生まれました。大学から関東で、22年間、共同通信記者をした後、14年前の94年4月に同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻・文学部社会学科新聞学専攻の教授になりました。共同通信で2度目の特派員としてニューヨーク支局のデスクとして赴任する予定が、私を敵視する社会部系幹部の横やりでつぶれ、外信部から排除される人事が強行されようとする中、尊敬する共同通信の先輩である故・新井直之・東京女子大学教授(新聞学専攻の元同僚である故・北村日出夫同志社大学文学部名誉教授と親しかった)から「そろそろアカデミズムに移る時期ではないか。同志社大学がジャーナリズム論を教える教員を公募するようだから応募してはどうか」という助言がありました。他にも同志社への転身を勧める研究者もいました。それまでにも関東のいくつかの大学から声がかかったことがありましたが、60歳の定年まで「一生ヒラ記者」をと願っていた私は断っていました。
しかし、同志社はほかの大学とは違う魅力があり、ニューヨーク行きの人事がつぶれるなどの共同の社内の状況も考えて応募しました。「博士号を持つか、それと同等の業績のある者(マスメディア現場の研究者を含む)」とあり、私も資格があるのではと思って応募しました。
幸い教授として採用され、1994年4月に同志社に来て以来、多くのすばらしい学徒と共に歩んできました。今日は現役学生、OBG、友人のみなさんが全国各地から参加していただき、心のこもった祝辞をいただき心より感謝しております。参加できなかった方々も、あたたかいメッセージを多数送ってくれました。
日本のジャーナリズムは、危機的な状態にあります。同志社における“Asano School of Journalism”の団結を固め、日本のメディアの改革、国際社会における人権と民主主義の確立のために努力します。60歳の機会に、同志社で後10年間ジャーナリズム教育を続け、日本のメディア改革を遂行する人材を育成するという決意の日とします。本日は本当にありがとうございました。》

浅野先生を囲んでの「祝う会」は、2次会・3次会まで続き、現役学生・OBGを始めとて友人の方々も夜遅くまで残り、語り合った。浅野先生の還暦の会はゼミOBGのリユニオンとメディア改革を求める市民とのネットワーキングの場にもなった。
OBG会が今後、新体制でますます発展することを期待している。
写真提供:浅野ゼミ14期生&出来祥寿(浅野ゼミ3期生、毎日新聞勤務)
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掲載日:2008年11月11日 |
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