同志社大学で09年度から始まった「プロジェクト科目」の「夜間中学を社会に向けて発信しよう!夜間中学を知っていますか?」(科目担当・奈良市立春日中学校夜間学級教諭の次田哲治さん)は、順調に春・秋期を終えた。科目代表は社会学部メディア学科の浅野健一教授で、大学院メディア学専攻博士後期課程の小淵由紀子さんがTAを務めた。
履修生は春期後半に春日夜間中学校を数回訪問した。この科目を4月初めから取材している 読売テレビ「ten!」が訪問交流の一部を09年7月9日(木)午後6時過ぎに約10分放送した。
また、毎日新聞が09年6月6日の解説面で、《新教育の森:夜間中学を題材に大学生が実践授業》《同志社大…生徒と交流、考え深め社会に発信》を取り上げた。さらに、毎日新聞奈良版は7月31日、《同志社大:大学生、夜間中学に“学ぶ” 講座、成果報告》という見出し(写真付き)で同科目の報告会の模様を掲載した。いずれも毎日新聞の山成孝治記者の署名記事だ。
09年5月13日の授業で、1964年に24歳で東京都荒川区立第九中学夜間学級を卒業し、以来45年にわたり、夜間中学の増設を訴え続けてきた髙野雅夫さん(69)=東京都墨田区=による特別講義が行われた。
髙野さんは09年度、立教大学大学院の特任教授に就任、夜間中学を題材にした講座を担当し、学生と議論を続けた。
髙野さんのゲスト講義の模様を報告する。【2回生・門脇由紀】
次田哲治先生(以下敬称略)「夜間中学は義務教育年齢の時に教育を受けられなかったという方を対象に置かれている夜間の中学校です。メディアを目指す皆さんにとっては非常に興味深いと思うのですが、客観的に夜間中学生を見て、それをいかにして若い人たちに伝えるかということを学んでいただければと思います。それでは髙野さんからお話を伺いたいと思います。」
髙野雅夫「アニョハセヨ。こんばんは。東京の夜間中学の卒業生、髙野雅夫です。
1964年3月18日、24歳で夜間中学を卒業して45年目になります。この45年間、夜間中学の卒業生だということを最高の誇りに生きてまいりました。その誇りを支え続けてくれたのは我が母校にある三つの伝統です。
一つ目は“夜間中学は本根を出す場”。生徒同士はもちろんのこと、生徒と教師同志が本根をぶつけ合って確かめあう、“道場”だということです。二つ目は“陰口を叩くな”。相手が誰であろうと言いたいことは直接本人に言え。陰口を叩くのは、人間として最低だということです。三つ目は“夜間中学に来た仲間は、例え人殺しになっても仲間だ”ということです。
俺たちが45年間、最高の誇りにこだわり続けてきた我が母校の伝統も、「金になりさえすればいい、楽しければいい、自分さえよければいい」という今の時代の中で完全に死語になりました。そんな時代の中でなぜ俺たちが頑なに武器になる文字とコトバと夜間中学にこだわり続けているかということを時間の許す限り、是非皆さんにお伝えしたいと思います。

最初に45年前、共に学び武器になる文字とコトバを奪い返した、仲間たちの叫びを聞いてもらいたいと思います。
(仲間の作った詩の朗読~省略)
(*“私の手”、“私の家族”、“夜間中学”という題で、夜間中学生の三人がそれぞれ幼いながらも強いられた過酷な労働や苦しい家庭生活、また夜間中学に対する思いについて綴った詩を髙野さんが朗読した)
これは俺たち夜間中学生の原点です。どんな時代になろうとどんな社会になろうとも、日本にアジアに世界にたった一人でも学ぶ場を、そして文字とコトバを奪われた仲間たちがいる限り、この原点は変わりません。オレ自身は旧満州の引き揚げで、戦争によって5歳ごろから日本の焼け野原の闇市に一人放り出されました。5歳から煙草をふかし、通称「爆弾」と言われたメチルアルコールをあび、ナイフを振り回して野良犬のように飢えを凌いできました。その時その時、飢えを凌ぐのが精いっぱいで、悲しいとか辛いとか思ったことは一度もありませんでした。涙を流したこともなければ死のうと思ったことも一度もありません。つまり、人間が持っている辛いとか悲しいとか、嬉しいとかそんなものはなく、その時その時飢えを凌ぐのが精いっぱいでまさに野良犬のような日々でした。
そんな中で一番悔しかったのは、自分の名前が書けなかったということです。一緒に野良犬のように2人で暮らしてきた戦友のゴンチがある日、チンピラたちの喧嘩の中でナイフを振り回し、俺の身代わりになって目の前で心臓を一突きにされて殺されたのです。それまでは生きるとか死ぬとか考えてもみなかったオレが、生まれて初めての恐怖で体の震えが止まりませんでした。その時はこのままではオレも殺されるという恐怖で、その場から逃げました。無賃乗車で汽車に飛び乗り、まるで虫けら以下のゴミのようにホームに叩き落され、流れ着いたのは東京でした。もし東京が終着駅ではなかったら、生きていたとしても今頃刑務所に入っているかどこかで殺されているか、その方が自然なことだったのです。
汽車がそれより進まなくて、仕方なく東京駅で飛び降りて流れ着いたのが上野の公園でした。上野の公園や地下道で何日も食べ物がなくて水ばかり飲んでいた時に、腹がペコペコになって耐えられなくなり駅前にあったパン屋さんで、まさにパンを盗もうとした時、オレの身代わりになって殺されたゴンチの顔が目の前にガバっと現われてパンは盗めませんでした。その時、どんなことをしても生きたいと思いました。しかし、九州の博多でやっていた闇市のような、人を脅し、物を盗むというようなことではなくて、なんとしてもオレの身代わりとなって殺されたゴンチの分まで生きたい、生きたいと必死に思い続けました。しかし、当時のオレの頭では何をしていいのか、どうしていいのか全く分かりませんでした。そのまま東京のドヤ街の山谷(日雇い労働者の寄せ場がある)の玉姫公園に流れ着いた時には99・9%死んでいました。
朦朧とした意識の中で「オイオイ」という声が聞こえたとき、あの世からお迎えが来たのかなと思ってボーっとしていたら、ボロボロのシャツを着た小さなおじいさんがリアカーに乗せて行ってくれて煮込みうどんを食わせてくれました。今から思えば何かわからない肉と菜っ葉のようなものが入っている煮込みうどんでした。その時、一度死んだ人間が生き返るとはこういうことかと、頭のてっぺんから足のつま先まで新しい血がどくどく流れるような、生まれて初めて感じる体験をしました。そのおじいさんは在日朝鮮人のバタ屋(廃品回収業)で朝早くから夜遅くまでリアカーを引いていました。
意識が戻るとオレは自分で名前が書けない悔しさから、「おじいさん、名前を教えて。オレはタカノマサオって言うんだけど、耳から聞いて音で聞いている名前だけでどんな字か分からないし、書けないから名前教えて」とせがむと、おじいさんはくずの中から集めてくれたいろはがるたで初めて平仮名のたかのまさおという名前を教えてくれました。その時にオレは生まれて初めて、鉛筆に力を入れると紙が破れたりしながらたったこの6文字を書くのに何日も何日もかかりました。だけど、これを書いた瞬間に、「オレはたかのまさおなんだ。たかのまさおは生きているんだ」という意識が芽生え始め、それはオレが野良犬から人間になっていく原点になっていきました。
それまで神様とか仏様とか考えてもみなかったオレが、もしこの世の中に神様がいるとしたらこのおじいさんこそオレの神様だという風に心に決めました。しかし、そんなおじいさんがある朝寝ている時に触ってみたら、冷たくなっていました。そこで「おじいさんが死んでいる」と言って騒いでいたら色んな人がとんできたんだけど、いわゆる粗大ゴミを扱うかのようにトラックが来てクレーンのようなものにおじいさんを挟み、まるでゴミを捨てに行くかのようにそのトラックが走り去った時、「オレの神様に何するんだ」と叫びながら、オレは「どんなことをしても、オレに新たな命を与えてくれたおじいさんの恨みを晴らしたい」と思いました。その瞬間、今まで闇市の中で涙を流したこともなければ死にたいと思ったこともないオレが、目からすごいものが溢れてきました。
今思えばそれは涙だったんだけど、その時は溢れるのは涙ということすら分かりませんでした。それは人間が持っている「悲しみ」とか「辛い」とか「悔しい」とか、感情まで奪われていた野良犬だったのです。それはオレが人間として初めて流す涙だという風に分かったのは夜間中学で勉強したずっと後のことでした。そうやって人間にとって文字とコトバを奪われるということはいかに残酷なことなのかがわかった時、きちんと勉強しておじいさんの恨みを晴らしたいと心に誓いました。
だけどおじいさんが死んだ後、おじいさんが残したいろはがるたを並べながら必死に勉強しようと思っても、それ以上どうしていいか全く分からないわけです。それで八つ当たりをしている時にふと、おじいさんがまだ生きている時に、当時わが母校で教えていた先生で自分が教師になった時のことを日記風に書いていた人のこと、そしておじいさんが夜の学校があると言っていたことを思い出しました。しかし、夜間中学というのは中学生しか入れない、オレも入れないんじゃないかという風に思ったので、ナイフを忍ばせて夜間中学を訪ね、校門のところまで行きましたが怖くて入れませんでした。学校や病院、区役所などもそうでした。なぜ入れないか。行ったら字を書かされるんじゃないか、読まされるんじゃないか、字を避けて生きてきているとそういう恐怖があるのです。
だけど何としてでも夜間中学に入りたいという思いが強く、三日間くらいかかって、夜間中学の職員室に駆け込みました。ひどい生徒になると3年も4年も校門の周りをぐるぐる回ってやっと入学した生徒も珍しくないんです。それでやっと入学できるとなった時に、戸籍謄本か住民票を持ってこいと言われました。しかしその時の俺は言われた意味すら分からなかった。だから夜間中学の先生に保証人になってもらいその日から仮入学ということで入り、戸籍を作るために各省をたらい回しにされて、最終的には家庭裁判所で日本の国籍を認知してもらいました。
入学当初は自分が恨みを晴らすために最高を目指さなければならないと思い、勉強の最高は何だと考えた時に“大学”だという考えに至りました。つまり名前も書けなかったオレでもちゃんと大学を卒業できるんだという形で、おじいさんの恨みを晴らしたいと思ったわけです。だから最初は10日くらい寝ないで勉強しました。その後、日本には憲法があるのだということを初めて知りました。ご存知のとおり25条と26条でちゃんと生きる権利と学ぶ権利は保証されています。さらにそれを保証するために素晴らしい法律がいっぱいあるのですが、憲法をはじめ、そういう立派な法律がちゃんと守られていたらオレは20歳まで名前が書けなかったということなどあり得なかったのです。
夜間中学でオレは文字やコトバを学んだのですが、それ以上に夜間中学で学んだことは人間の誇りと権利を奪い返したということです。文字とコトバを奪われたと今でも思っているのだけど、例えば空気を奪われた人間が空気を奪い返すというような、一番基本的な人間の権利を奪い返すということがわかったんです。それともう一つ学んだのは、自分がどこで生まれてどこに生きて、これからどこに生きようとしているのかが問われているのだということです。だから日本に“生みの親より育ての親”という諺があるように、俺たちにとって夜間中学とは、ただ読み書きを教える場ではなくて、野良犬のように生きてきた俺たちを人間として育ててくれた、育ての親でもあるんです。そういう夜間中学が1966年、行政管理庁によって早期廃止勧告が出された時、俺も段々疑問を持ち始めてこれからどうやって生きていけばいいのか分らなくなってしまいました。これでは憲法25条や26条に保証されている俺たちの権利が奪われていることになるのです。
今でもそうですけど学校教育法に夜間中学は認められていないんです。行政管理庁は役所の仕事を減らしたいのでしょう。また労働省に関しては、いわゆる10代の子どもたち(夜間中学の生徒たち)がいっぱい働いていて労働基準法違反だということから廃止要請につながったのです。警察庁に関して言えば、生徒が夜学校に来て、盛り場や駅の前でウロウロしていると非行化につながるという理由から非行化防止対策として廃止しようとしたのでしょう。このように大きな三つの柱で廃止勧告が出たのです。その時に、おれの夜間中学への入学のきっかけになった本を書いた先生に廃止勧告について聞いてみたんだけど、「俺は公務委員だから面と向かって反対とかできない」と言われました。その時は先生から言われた本当の意味が理解できなかったけど、いま想えばその時先生が本当に俺たちに本当に伝えたかったことは、どんなに立派な憲法や法律があろうが、それを奪われたお前たち自身が守るしかないんだ、お前たちが夜間中学で生きるためにはそれが必要なんだということだったんだろうと思います。だけど当時の俺たちの頭ではそこまで分かりませんでした。
しかしなんとかしたいという想いから自分たちの叫びを、多くの人たちに伝えたいということで1967年の1月から自分たちでドキュメンタリーを作って9月から全国を回り始めました。始めは全国を回ってやろうと考えたんだけど、25校あった夜間中学がどんどん潰されていって廃止になる過程で、「これは守ろうとしても守りきれないんじゃないか、ならば廃止反対ではなくて作ろうという形で挑戦しよう」と考えて、大阪に1967年か69年にかけて夜間中学を作りました。行政管理庁の廃止勧告そのものは、学校がなくなるというよりも、まるで俺たちを人間として育ててくれた親が死刑宣告を受けた様なショックであり“殺される”というのがまさにピッタリでした。だから、「やられてたまるか、殺せるものなら殺してみろ」という想いでフィルムを担いで全国を回ったのです。
そして68年に大阪にきて一人でゼッケンをつけ、市や府の教育委員会に行ったのだけど、当時「大阪には同和教育や民族教育をしているからそんな人は一人もいません。」「大阪府民から一つもそういう声(夜間中学設立要請)はありませんから作れと言われても簡単に作れない」と言われるなど、どこへ行っても最初はまったく相手にされませんでした。特にあるところにいったら頭ごなしに“義務教育体制を乱す”と言われましたが、俺たちはその怒鳴られた意味が全く分からなかったのだけれど、「今にみてろ」という想いで毎日毎日一人で梅田の歩道橋や心斎橋などいろんなところでゼッケンをつけ毎日毎日ビラをまきながらやっていると、最初8人の仲間が協力に名乗り出てくれました。
よく新聞でも大阪の夜間中学は髙野雅夫が作ったと言われるんだけど、本当は嘘なんですよ。もし勇気をもって名乗り出てくれた8人の仲間がいなかったら夜間中学は出来ていないのです。その先頭に立った小林あきら、神部博之、八木秀夫は夜間中学の歴史を見ても彼らの名前は一つも出てこないし、夜間中学生だって彼らの名前はほとんど知りません。だけどそういう闇に葬られた仲間の歴史を奪い返したい。そういう想いに支えられて今の俺たちが生きてるわけです。
だからそういう意味で1969年の6月15日に大阪市内で初めて天王寺夜間中学が出来て今年で40周年になる歴史の中で、色んな仲間を失っていったし、そういう仲間の屍の上を乗り越えて今の夜間中学は35校あるわけです。もちろん先生たちも変わるし生徒たちも変わっていく中で、それでも俺たちが頑なにこだわり続けてきた生命線がだんだんなくなっていくのもある意味では時代の必然なのかもわからないけど、闇の中に葬られていく歴史は俺たち夜間中学生だけのものなのか、もう一度皆さんに考え直していただきたいという想いもあるんです。
1990年の国際識字年で明らかにされたように、世界には10億近い仲間たちが学ぶ場、つまり文字とコトバを奪われているわけです。その80%がアジアなんです。またその80%がアジアの女性なんですよ。特に韓国の場合は第二次世界大戦や、日本に強制連行された人を含めて50年の南北戦争があった影響で2回焼け野原になっているんです。それと儒教の国で“女なんか勉強しなくて良い”という考えがまだまだ強いのです。
読めないことや書けないということはただ単に困るからというんじゃなくて、例えば大阪の橋下知事の考え方は人間の尊厳を根こそぎ奪うという考え方なんです。だからといって泣き寝入りするのか。冗談じゃない、自分たちの権利をもう一回奪い返したい。だからいみじくも1966年に行政からの廃止勧告が出て天王寺夜間中学が69年にできその40年後の今、大阪では11校になっているんですけど、その40年間はどんなに立派な憲法だろうが法律だろうが、それらが夜間中学生を何一つ守ってくれなかったということを俺たちが想い知らされつづけた歴史でもあるんです。だからなんで40何年もやっているのですかって言われたら、一言でいえば“復讐”です。オレに新たな命を与えてくれたおじいさんを虫けら以下のゴミのように扱ったやつらに恨みを晴らしたい、そういう想いが段々積もり積もってその想いを自分でもどうしようもなくなっているというのが今の本音なんです。
俺らにとって文字とコトバを奪われるのは空気を奪われることであって、それを奪い返すことは仲間の歴史を奪い返すことでもあるんです。けれどみなさんにとって当り前である文字とコトバを奪い返さない限り、それを奪ったやつらとは戦えないんですよ。そういう意味で歴史を切り開いて行く、武器になる文字とコトバは何なのかということにこだわり続けているのでそれについて皆さんと残り少ない時間の中でお話しできればありがたいと思います」
小淵由紀子「それでは質疑応答に移ります。質問のある方いらっしゃいますか」
森類臣(同大嘱託講師)「前の黒板に漢字で書かれている髙野雅夫という名前の上に(俺たち)と書いてあったり、平仮名で書いてある名前の上に(おれ)と書いてあったりするのには何か意味があるのですか」
(* 講演の冒頭で髙野さんは黒板に漢字や平がな、韓国語で自分の名前を書き、それぞれの上に「おれ」「俺たち」という言葉を添えた)
髙野「俺から見たら妹や弟の年頃の子供が真っ黒になりながら働き、いかに彼らが母親父親を支えているかを目の当たりにした時、俺一人ではなくて仲間がいるという意識がだんだん芽生え始めました。だから(俺たち)が増えていったというのが事実なんですよ。世の中が段々見え始め、仲間の姿がおぼろげながら見えるようになった時に「自分がどう生きるべきか」というのが問われていくようになる。
“知る”というのは“学ぶ”の前にあるんですよ。だけど俺たちはそのもう一つ先の、“奪い返す”ということに拘っているんです。俺は自分が学ぶ時にどこに基準を置くかで学び方が全く違うものになると想っているんです。俺らにとって文字とコトバを奪い返すことで自分が生きてきた歴史が逆に鮮明になっていくんですよ。だから皆さんの学び方とはそこが徹底的に違うんです。俺たちにとって抽象の世界をリアルにしていくのが文字とコトバなんです。
よく、劣等感を捨てて自信を持てというんですけど、そうやって劣等感を捨てて学んだって一しか学べません。だって自信は必ず過信になりますから。だから逆に劣等感は武器になるんです。
読めたり書けたりすることは“見えた”ということなんです。だからオレが“たかのまさお”と書けたということは“見えた”ということなんですよ。それが文字を学び世界を知るということなんだけど、そこで終わるんじゃなくてやっぱり世界の中身まで奪い返さないと。例えば“書ける”という先には“作る”ということがある。文字を作るということは仲間を作ることであり、夜間中学を作るということでもあるんだけど、ただ考えるだけじゃなくて“確かめる”という作業をすることが大事なんです。
一回社会に出て直接知らないところに出てみると自分の今の立場を思い知らされるんですね。例えば夜間中学を出た時に名前や住所を書けるなんていうことは社会では当たり前なんです。そうやって逆に思い知らされていくんですよ。自分の今の力とか立場とか。そういう意味で、それまで顔を隠して必死に生きてきた人間が夜間中学で学んで、本当にそれが証明されるのは夜間中学を出た後にどこまで自分の名前と顔を曝して生きていけるかなんです。
夜間中学には夜間中学独自の卒業証書がないわけですよね。だけど見る人が見たら卒業年度と生年月日でちょっとおかしいと思うわけです。だからそれを消すために高校や大学に行く人も東京にはいっぱいいるんですけど、それは誇りを持って生きていけないような学び方しかしてないわけでしょ。本人の責任をいうよりも、そういうことが起きるのはある意味では時代の流れなのかもしれません。だから俺たちにとっては外との戦いでもあるんだけど、それは内との戦いでもあるんです。
大阪で初めて出来た夜間中学の入学式の時に「俺たちの任務はこれで終わった、俺たちが本当に目指すのは、夜間中学なんか必要としない社会を創ることだ。そのために俺たち夜間中学生がその先頭に立たなければいけない」と訴えて40年経っているんだけれど、逆に夜間中学なんか必要ないどころか、今、全国で自主夜間中学という形でだんだん開かれるようになってきているんです。だからこの40年間自分たちなりにやってきたんだけど歴史の中では全くその想いは果たされていないんです」
鍛冶由佳「夜間中学という報道に関してはどのようにお考えになっているのですか」
髙野「東京のNHKが作った夜間中学生の報道番組と北海道や沖縄の民放が作った番組が全く一緒だったんです。それは発想が同じということなんです。ということは夜間中学というイメージをそういうことでしか見てない。
例えば俺が夜間中学に入って運動をやり始めたらすごく持ち上げられ、立教大学の特任教授になればまた持ち上げられる。だけどタカノマサオ自身はちっとも変ってないんです。確かにプラスの面に変わったこともあるけど、ではその裏はどうなのか、プラスもマイナスも含めて描いてほしいというのが僕らの最大の願いなんです。だってこの時代の中で夜間中学は誰からも批判されない、夜間中学だけ美談として成り立つなんていうのはあり得ないでしょ」
井上「今の夜間中学の生徒は髙野さんの頃の夜間中学の生徒と変わっているのか、変わっているとしたらそれはどう変化しているのでしょうか」
髙野「見学に行く前に予備学習みたいなのやるでしょ。あれはやらないほうがいいと思うんです。いきなり行ってみてそこで何を感じるのかっていうことが大事なんです。なぜ大事かというと、俺たちは生理から心理から道理という風に奪い返してきてるわけだけど、皆さんは逆に頭にはいっぱい知識があるわけです。だけど皆さんが少年少女時代に持っていたあの豊かな心、例えばキリンの首はなぜ長いんだろうと思っても、お母さんに「先生に聞きなさい」と言われて奪われた生理をもう一回奪い返す作業と、俺たちが文字やコトバを奪い返すということのどこかに接点があるんじゃないか、と。学ぶということと奪い返すことは基本が全く違うんだけど、それでも接点を作り出すというか、作り出していく作業をどうやったらできるのかということを今でも考えているんだけど、それは一人じゃできない。俺たちは世代の違いも含めて何かできないかって考えているんです」
岩切希「髙野さんにとって教育とは何だと思われますか」
髙野「俺たちは必然があるかないかが全てを決めていると想うんです。必然というのは三つあるんですね。まず自分がここにいる必然とは何なのかと考えた時に自分の必然と人民(仲間)の必然と2種類ある。それが一つ。二つ目は時代の必然と言ってもいいんだけど社会の必然と言ってもいい。そして三つ目は歴史(人類、世界)の必然です。
それはたとえば自主夜間中学という中で20年も過ぎているのに公立の夜間中学にならないのは社会から必然がないという判定を受けたんです。それを例えば行政の壁が厚いからということはできるんだけれど、それは自分たちの力では勝てないという証明なんですよ。つまり歴史の必然から否定されているわけです。そうなれば新たな必然を作り出すしかない。だから2009年の必然とは何なのか、そこからもう一回問い直さなければいけない。そうやって問い直せばどういう学び方をするのか、文字とコトバとは何なのかということが自ずと出てくるんだと思います」
門脇由紀「夜間中学にはさまざまな世代の人が来て、さまざまな境遇の人がいるという話であったが、それぞれ目的も違う中で同じ教室で同じことを学ぶという意味で一つの空気を作り上げていかねばならないように思います。その時にそれぞれの違いや溝を埋めることにおいて仲間内でどのようなコミュニケーションが行われているのでしょうか」
髙野「さまざまな違いがある中であっても本音を出し合わなければ成り立たないんですよ。同じ夜間中学生の仲間だとか、センチメンタルな次元では本音を出さないといけない。だから対立が生まれるわけだけど、本根を出した時こそ俺らの母校の三原則が成り立つんです。それは個人を否定しているわけじゃなくて、そういう考え方は私と違うけどどこが違うのかというように確かめる作業でもあるんです。だから我が母校の三原則の一番初めに“道場”というのがあるんだけど本音を言うことで確かめているわけなんです。けれど日本人というのは思ったことがあってもすぐそこで言わない。本音を言うと痛い目にあったり嫌われたりする。それが当たり前になっていくと本音を出そうと思っても出なくなる。それが恐ろしいんです。だから俺らは本根を出し合っていく。本根でどこまで生きていけるか、最後の楽しみです」
山本美菜子「どれだけ自分の問題として夜間中学の話を捕らえられるかということに関し、立教大のほうで特任教授をされている中で学生を見ていて、分かり合えるという可能性をどのように感じていらっしゃいますか」
髙野「生徒から何を聞いていいか分かりませんという素朴な意見がある一方で、逆に俺たちが何を伝えればいいか分からないというのがありましたね。だけど逆に分からないからこそ考えれば分かるんです。だって分からないのが当たり前なんです。そういう意味では全く違う歴史を生きてきているわけなんだけど、お互い分かり合おうではなくて、21世紀の必然は何なのかというところに基準をおいてお互いの本根を出し合うというところから、学ぶ、奪い返すという作業をしないといけない。だから丸ごと生の自分をどこまで曝していけるかが大事なんです。
奪い返すということは綺麗事ではないんですよ。時には殴りあう寸前までいくことがある。別にその人が憎いわけではない。だけどそういう娑婆で持っている価値観をそのまま平行移動させてはいけない。例えば俺たちは無学だったから息子や娘は絶対大学まで行かせようとするでしょ。その気持ちはよく分かりますよ。だけどそれは娑婆が持っている価値観ですよね。そういう娑婆の価値観を壊すところから夜間中学は始めなければいけないと想っているんです。だから夜間中学の先生も娑婆が持っている価値観をそのまま平行移動させるんではなくて、それを自分も含めて全くぶち壊す、そうした上で新たな学び、新たな文字とコトバを作り出さなければいけない。言うのは簡単なんだけどそれはものすごく大変な作業ですよ。だってそれは世界を支配している価値観の塊なんだから。その価値観を否定されたら全否定になるでしょ。俺だって大学まで行きたかった。だけどそれを断ち切ったのは6、7年に岡山県に行った時にパンフレットをもらった中に水平社宣言があったんですよ。その中で唯一これだと想ったのは、「人間を勞るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」というこの2行です。その時想ったのが、あぁそうなんだ、って。我々が夜間中学生であることを誇り得る時が来たのかと想いました。それはつまり必然を感じている人間が読む水平社宣言と、知識として読む水平社宣言は全く違うということなんです。そうやって自分の中での必然は何かって求めていたら必然が必然を生むから、必然を求めている人間に出会えるんです」
小淵由紀子「これで講演会を終わりたいと思います。本日はどうもありがとうございました」
●講師略歴●
髙野雅夫(たかの まさお)
荒川区立第九中学校夜間学級卒業。その後、一貫して夜間中学運動に関わり、大阪府の夜間中学再建などを支える。2009年より一年間立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻特任教授。
まとめ (門脇由紀)
「俺たちは文字と言葉を奪われた。だから勉強することでそれを奪い返す」
全ては、この衝撃的な言葉から始まった。
旧満州引き揚げの戦争により闇市に放り出され、まるで野良犬のようにさまよった日々に始まり、戦友との衝撃的な別れ、在日のハラボジ(おじいさん)との出会い、そして死。
そういう壮絶な人生の中で感じた、文字と言葉を奪われるという感覚により夜間中学への入学を決意。1966年、行政管理庁から夜間中学廃止勧告を受けたことによって反対の意を示すべく映画を作って全国を回った。
しかし、廃止反対だけでは守りきれない、“創る”という形でしか守ることができないのではないかという思いから大阪で一人夜間中学設立を訴え始める。そこに8人の仲間も加わり、努力の甲斐あって大阪に初めて夜間中学が設立された。
だが設立から40年たった今でも憲法や法律が守ってくれたと感じたことは一度もない。むしろそうやって自分たちの学ぶ権利を奪った者らに対する復讐の念は、髙野氏の中で次第に増していく。
そして2010年になった今。
徐々に感じ始める、学びに対する世代間の隔たり、美談としてしか成り立たぬ報道、さらに自分の思いとは裏腹に夜間中学を必要としていく社会・・・
しかしそれでも彼は言う。
「そんな今だからこそ新たな“必然”を創り出さねばならない。それを問い直すことによってこそ学びとは、そして歴史を切り開いていく武器になる文字とコトバとは何なのか、自ずと見えてくる」
髙野雅夫、69歳。
この人生をかけた壮絶な戦いに終わりはない。
10年3月発行のPJ「夜間中学」冊子に収録されたメッセージ
言葉を奪い返す場としての「夜間中学」から学ぶ
科目代表者・浅野健一(社会学部メディア学科教授)
友愛をモットーとする鳩山政権が、朝鮮学校を高校無償化の対象から外す方針と聞いて愕然とした。一部閣僚は朝鮮学校を「拉致」問題と結びつけ、「制裁相手の国民」が通う学校だという暴言を吐いた。在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の「国民」ではない。国籍と無関係に、児童、生徒には等しく教育を受ける権利がある。
国連人権規約は「初等教育は義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする」と規定している。様々な事情で公教育を受けることのできなかった人たちが夜間中学で学んでいる。最高学府に学ぶ大学生が在日朝鮮人、中国残留日本人、外国人労働者らと出会う場が、このPJ科目だ。
現職の春日夜間中学教員である科目担当の次田先生のアイデアと熱意で設置が決まった本科目は、初年度から大きな成果を残した。
昨年3月、メールなどでゼミ・講義の履修生にPRしたが、受講生がなかなか集まらかった。PJ科目には現代の世相を反映してか、実利的なものや、軽いカルチャー型のテーマが多い。キャンパスには社会問題に目を向ける学生が少ない。京田辺校地での開講、授業日時の関係もあって、開講人数すれすれのスタートだった。
受講生は春日中学など夜間中学に出掛け、授業を見て、生徒さんたちの生の声を聞いた。高齢の生徒たちが漢字や地理の学習に挑む姿を追った。
「文字を知ることで野良犬から人間になった」「文字と言葉を奪い返す闘いだ」とゲスト講義した髙野雅夫さんの言葉に衝撃を受けた。
毎日新聞の山成孝治記者、読売テレビの有光貴幸ディレクターらが学生たちを何度も取り上げて報道してくれた。受講生たちは様々な方法で、夜間中学の実態を発信した。
新島襄精神に充ちた科目だった。受講学生5人の頑張りに拍手を送りたい。
私は名ばかりの「代表者」だった。次田先生、TAを務めた小淵さんに心から感謝したい。
次田哲次先生からのメッセージ:
2010年度のプロジェクト科目「夜間中学」履修案内
いよいよ10年4月から2010年度プロジェクト科目「夜間中学を社会に発信しよう!夜間中学を知っていますか?」が開講されます。今年度は今出川学舎で金曜1校時の講義です。といっても、このPJは私の勤務する奈良市立春日中学校夜間学級への訪問、交流、取材が基本となります。
夜間中学とは公立中学校夜間学級のことで、全国8都府県に35校しかありません。この夜間中学を訪れ.そこから見えてくる現代日本社会や学校の矛盾や課題を考えて自分たちの手で発信するのがPJ科目のテーマとなります。09年度受講生は春日夜間中学の啓発パンフレットを完成させました。10年度受講生の取り組みに期待します。夜間中学からは日本の在日外国人、中国残留邦人、戦後補償、障害者など様々なテーマが浮かび上がってきます。メディア志望の方だけでなく、教育、政治、宗教など様々な方面に進もうという学生それぞれが一度は考えてほしいテーマの一つです。3月27日(土)に先行登録を行いますので、ぜひ登録してください。
科目担当者 次田哲治(奈良市立春日中学校夜間学級教諭)
詳しくは下記HPを見てください。
「夜間中学を社会へ発信しよう!夜間中学を知っていますか?」活動報告サイト:
http://yakanchugakuwoshitteimasuka.web.fc2.com/
2010年度プロジェクト概要:
http://pbl.doshisha.ac.jp/html/appeal/1012.html
浅野健一から:
09年度プロジェクト科目「夜間中学を社会に向けて発信しよう!夜間中学を知っていますか?」(Let’s Make "Evening Middle School" Known in Japanese Society!)の二年目の授業が4月から始まります。
学生たちが主体になって展開する科目で、科目担当者は奈良の中学校教員、次田哲治さん(科目代表者・浅野)です。記者などメディアへの就職志望の学生にはいい機会だと思います。
外部講師を招聘します。受講生でつくりあげる科目です。ぜひ履修してください。
(了)