Asano Seminar:Doshisha University
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国家犯罪の密約隠蔽に時効はない

― 浅野ゼミ仲介で西山太吉さんと吉野文六さん対談が実現 ―




 沖縄返還密約問題で、2010年3月17日、元毎日新聞政治部記者で密約をスクープしたことにより国家公務員法違反(機密漏えい教唆)容疑で逮捕・起訴され有罪となった西山太吉氏(78)と、対米交渉の責任者だった元外務省米局長の吉野文六氏(91)による初の対談が東京港区の北海道新聞(道新)東京支社で行われた。同月9日の外務省有識者委員会による密約調査報告書の提出を受けて、両氏が日程を調整して実現した。
 密約は、1972年の沖縄返還の際、本来米国が支払うべき費用を日本側が肩代わりする内容だった。2000年以降、米公文書の公開により密約の存在は裏付けられたが、日本政府は一貫してその存在を否定。06年、吉野氏は道新の徃住嘉文(とこすみ・よしふみ)記者の取材に対し、密約があったことを認め、09年12月、西山氏らが東京地裁に起こした情報公開訴訟の原告側証人として出廷し、密約を証言。閉廷後、かつて対極にいた二人は「落ち着いたらぜひ会いましょう」と約束していた。
 この対談は、浅野ゼミの学生たちが密約事件報道に関心をもち、08年10月から始めたゼミ共同研究のテーマに沖縄密約とメディアを選び、09年1月15日に西山さんと藤森克美弁護士を招いてシンポを開いたのがきっかけだ。当時、西山さんの闘いは一部でしか知られていなかった。このシンポの後、ゼミのティーチング・アシスタント(TA)でさる望月詩史(しふみ)氏と指導教授の浅野健一氏が徃住記者と協力して実現した。
 対談で西山氏は、密約の本質は沖縄をめぐる現在の諸問題に通底し、決して過去の問題ではないと語った。吉野氏は、外交機密は一定期間を経た後、すべて開示される必要があるとして、外交資料の廃棄に疑問を呈した。
 両氏の対談を仲介した同志社大学浅野健一ゼミ生3人(代表・望月詩史氏)とゼミ関係者2人の計5人が密約問題の本質に鋭く迫った。
 以下は、対談を取材した学生の報告である。
【かつては、激しい敵対関係にあった二人の対談は、浅野ゼミ・北海道新聞・岩波書店の3者共催で実現し、歴史的なものとなった。対談では、吉野氏が当時の外務省と大蔵省の複雑な関与の経緯や隠ぺいの圧力について語り、西山氏はこれまでの経緯を語りつつも吉野氏への糾弾は決してせず、長時間の対談は終始穏やかな雰囲気で進んだ。別れ際の挨拶がまるで旧友のようであり、私たちゼミ生を叱咤激励してくださったお二人は、朗らかながらもしっかりと歩んでおられると感じた。

 歴史的な対談は、浅野ゼミ、道新、「世界」(岩波書店)の取材者が狭い部屋に無言で待機し緊張感漂う中で、吉野氏と西山氏の握手から始まった。対談の中で、吉野氏は当時の財務省と外務省が複雑な形で密約に関与していたことや、米公文書館での密約文書の発見後も真相を語らせまいとする動きがあったことを語った。西山氏は、外交は国民に公開されずに行われてはならないと述べながらも、感情的なことは少しはあるが「問題は(吉野氏ではなく)当時の政権にある」と吉野氏をかばう姿も見られた。情報公開法施行の1年前に大量の公文書が廃棄されていることや、政府・外務省内での隠ぺいの動きについて緻密な分析を行う西山氏と、吉野氏しか知り得ない当時の外務省内の動きについて述べた計3時間近い対談だった。最後に、「成長を見せているジャーナリズムの働き次第で、外交も下手なことはできない」(吉野さん)、「報道は、権力に深く切り込んでいくことが、民主主義の中核」(西山さん)といったやりとりがあり、お互いを激励して対談を締めくくった。
 長時間の対談で眠そうな様子の出版関係者もいたが、お二人はというと疲労はほとんど見られなかった。対談後の会食の際、学生である私たちはお二人の傍に座れなかったものの、長い対談を終えられた後もなお、西山氏は訴訟を担当している弁護士の方のお話や、吉野氏はときに西山氏と笑顔を交わしながら周りに座っている出版社の関係者に当時の話をされており、お2人の聡明さと強さを感じた。
 1時間ほど学生でインタビューをさせてもらったときに、08年度に研究した際のことを鑑みても、ここ最近の密約報道にしてもジャーナリズムは十分な働きをしているとは感じられないと、一つだけ質問をさせてもらった。西山氏は特に丁寧に答えて下さり、密約報道におけるジャーナリズムの小さな変化の兆しを感知する鋭い感度の大切さと、それを後押しする気概について、お二人から叱咤激励されたように感じた。
 対談後の会食の後、お二人はタクシーで帰られたのだが、西山氏が吉野氏を見送る際、ドアまで歩み寄り、お礼を言いあった後に手を振っていた。お二人はともに頭を下げるときも、車を見送る時もほがらかな笑顔であり、「じゃあ」という別れ際のお二人は旧友同士のようであったことが、心に残っている。】
 別の学生は次のような感想文を書いた。
【沖縄密約は現代の問題―3・17対談から学ぶ

 3月17日は私にとって忘れられない一日になりました。1972年の沖縄返還密約から38年という長い月日を経ての歴史的対談でした。西山太吉さんと吉野文六さんが始めに握手をされ、対談が始まり、最初は和やかな雰囲気で始まった対談でしたが、話が進むに連れて議論も熱くなり、西山さんと吉野さんの2人が少しずつ近づきながら熱く語られている姿が印象的でした。
 去年1年間沖縄密約について調べていたのである程度の内容は理解していたはずでしたが、この沖縄返還密約の裏には、様々な深い理由が関係しているのだということに改めて驚かされました。密約を暴いた当人の西山さんにしか話せないこと、元外務省アメリカ局長であったから分かる当時の外務省の内幕や密約を認められかった理由、当時の日本とアメリカとの関係などの西山さんと吉野さんにしか知りえないお話を聞かせていただき、メディア学を専攻している私たちとっては、あまりに貴重な体験でした。
 外交の都合上密約は致し方ないという理由は、吉野さんのお話を聞いて十分理解はするのですが、やはり密約という形で、国民の知られていないところで重大な事が進んでしまうのは問題があるのではと思います。また密約がアメリカからの資料で明らかになったのにも関わらず日本政府は密約を認めませんでした。外務省や財務省(旧大蔵省)幹部が関係文書を焼却した疑いも濃厚です。その隠蔽体質にもやはり問題があるではと考えます。
 メディアはこの密約問題をこれからも追及しなければなりません。メディアは権力監視という大きな役割を持っていて密約を見過ごしてしまうということは権力監視の点からみてもやはり大きな問題であると考えます。機密であるからという理由で隠されることがまかり通ることは、権力の暴走を引き起こすかもしれません。ジャーナリズムを学んでいる私たちにとってこの密約問題は、過去の問題ではなく、メディアがこれからも注視していかなければならない現在・未来の問題でもあると今回の対談を聞かせていただき改めて思いました。そして私たち市民も密約を許してはいけないと思います。
 1972年、私はもちろん生まれていませんが、沖縄が「核抜き・本土並み」という約束で返還されるときは、きっと日本中が喜びに満ち溢れていたことと思います。しかしその裏で国民の知らないところで、「密約」が結ばれていたという事実には単純に虚しさを覚えます。密約という問題が繰りかされないためにもこの沖縄密約の全てを明らかにする必要があるのではと思います。
 また今回は対談の内容だけでなく、会場の雰囲気や何台ものビデオカメラにカメラのフラッシュ、北海道新聞の方々の取材姿勢のすべてが学生の私にとっては、本当に新鮮で刺激的でした。後の昼食会で北海道新聞の記者の方が、「緊張した」と何回も言っていたのを覚えています。記者の方でさえ緊張する今回の貴重な対談に参加させていただいたことに本当に感謝しています。】


「若い学生たちの願いにこたえたい」と両氏が快諾

西山さんシンポから対談までの経緯

By浅野健一

 私が勤務する同志社大学社会学メディア学科には1年生時から少人数のゼミがある。2008年度の1年生ゼミの学生たちに、「日本のジャーナリズムを衰退させた要因はたくさんあるが、沖縄返還時の日米密約をスクープした西山太吉さんを毎日新聞が事実上追放したことが大きい」とよく話していた。学生たちが密約事件報道に関心をもち、08年10月から始めたゼミ共同研究のテーマに沖縄密約とメディアを選び、09年1月15日に西山さんと藤森克美弁護士を招いてシンポを開いた。
 その後、浅野ゼミのTAを務める大学院法学研究科政治学専攻後期課程の望月詩史さんと私が西山さんに、「吉野さんに会って対論してもらいたい」と提案した。浅野ゼミには、吉野さんとのパイプがなかったので、09年9月以降、吉野さんを取材してき道新の徃住記者の協力を依頼して、企画を進めてきた。外務省調査委員会の報告書が出たことで、両者が3月17日に初めて語り合う場ができた。どこかの温泉でゆっくりと対話してほしいとも思ったが、都内の道新東京支社で行った。「世界」はすべての企画がまとまった後の09年末、浅野ゼミとは無関係に参入してきた。徃住記者らが関係者から「北海道の新聞記事だけでは影響力が不十分なので、雑誌も入れてはどうか」というアドバイスを受けて、「世界」に提案したという。

 対談では、なぜ「密約」が生まれたのか、その背景にはどういった事情があったのか、外務省内の体質、日米両政府の事情など様々な角度から切り込んでいて、「密約」に至る過程の一側面があぶり出された。歴史に残る対談だった。
 ゼミ生の努力の賜だ。学生たちの企画ということで両氏が対談に応じてくれたのだと思う。大学、学生の社会的役割がここにあると誇りを持って言える。私は欧州出張が19日まであり、参加できなかったが、3月26日、吉野さんに2時間追加インタビューして、対談の記録に反映させた。

 道新の2010年3月18日の報道では、「岩波との共催で3時間の対談が行われた」となっている。
 また、4月8日発売の「世界」は、《沖縄「密約」とは何だったのか――40年後の邂逅――》とのタイトルで対談を掲載し、特集のリードで次のように書いている。
「1972年、沖縄返還密約を取材したことで国家公務員法違反に問われ、記者を追われた元毎日新聞の西山太吉氏 (79歳) と、当時外務省アメリカ局長で、当時法廷では「密約はない」と証言していた吉野文六氏 (91歳) が、3月17日、事件後38年ぶりに会い、3時間にわたって語り合った。吉野氏はすでに2006年に密約の存在を政府関係者として初めて証言していたが、西山氏とこのように語り合ったのは初めて。返還交渉、そして西山氏の裁判から40年の時を経て、沖縄「密約」を再考する。 北海道新聞と『世界』編集部の共催で、聞き手は北海道新聞編集本部委員・徃住嘉文と本誌編集長・岡本厚が行った」
 私は学生たちと相談した上で、4月13日「世界」の編集・発行者である岡本厚氏に以下のような質問書をファクスで送った。
[『世界』5月号掲載《沖縄「密約」とは何だったのか》の訂正について

 私は22年間、共同通信に勤めた後、1994年から同志社大学の大学院と学部でジャーナリズム論を教えている浅野健一と申します。
 去る3月17日に、同志社大学社会学部メディア学科浅野健一ゼミの学生たちが、北海道新聞の徃住嘉文記者の協力を得て、1年をかけて実現した西山太吉さん(元毎日新聞記者)と吉野文六さん(元外務省アメリカ局長)の歴史的対談のことで連絡いたします。
 この対談が実現した経緯は浅野ゼミHPで発表しています。  http://www1.
doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2010/20100317_nishiyamayoshino1.html


 「世界」5月号はこの対談を記事にしていますが、以下の二点について訂正をお願いしたいと思います。

①194頁「三八年ぶり」
 西山太吉氏と吉野文六氏が“事件”後、《初めて》対面したのは、昨年12月1日に吉野氏が東京地裁で証人として出廷した時です。しかも正しくは《37年ぶり》です。そこで二人は「落ち着いたら会いましょう」という約束を交わした経緯があります。その場に浅野ゼミの学生がおりました。
 これは明白に事実に反しておりますので、訂正を求めます。

②194頁「三時間」
 二人の対談時間は確かに“総計”では3時間ですが、実際は北海道新聞と「世界」編集部による対談が二時間、残りの一時間は同志社大学浅野ゼミの学生が行いました。浅野ゼミの持ち時間に入る前に、徃住さんが会場で「これから同志社大学浅野ゼミのみなさんが司会をします」と発言されています。そのことは貴編集部の方々は十分承知のはずです。
 これは事実に反しておりますので、訂正を求めます。

 なお、もし“三時間”と書くのであれば、「二時間は道新と編集部、一時間は同志社大学社会学部メディア学科浅野健一ゼミの学生がそれぞれ司会して対談を行った」とすべきではないでしょうか。「昼食時の対談を入れると3時間になる」という主張は失当というしかありません。
 「世界」読者のため、早急に善処していただきますようお願い申し上げます。

(以上) ]


 浅野ゼミは「週刊金曜日」4月9日号に、「若い世代に向けて 西山太吉・吉野文六が語る」と題した対談記事を3ページで書いた。この記事に私の「対談実現までの経緯」が載った。そこで明らかにしたように、対談の前半は道新と「世界」両社から司会者が出て、後半は浅野ゼミが聞き役になって取材した。道新は最後までいたが、「世界」関係者は浅野ゼミの持ち時間に誰もいなかった。浅野ゼミは対談に要した経費の三分の一を支払った。
 ところが「世界」の岡本編集長は4月12日午後、「週刊金曜日」の北村肇編集長に電子メールで、「道新と岩波の2社の企画であり、浅野ゼミと対談を共有するという事実はない」「事実は道新4月4日付け、『世界』5月号の前書きにあるとおりで、両社は事前に費用、司会、記録や写真の交換などについて協議し、合意して進めた。浅野ゼミとは、事前も事後も、打ち合わせどころか、接触もない」などと抗議した。岡本氏は北村氏に「反論文」の掲載を求めたという。北村氏は私との協議の上、「岡本編集長は抗議文を金曜日に載せろという要求してきたが、『クレームがあるなら、まず浅野健一さん、浅野ゼミへ直接言ってほしい』と答える」と話した。
 「世界」から浅野ゼミへ何の回答もない。北村氏からもその後、何の連絡もないので、岡本氏の「抗議」は立ち消えになったのであろう。
 「聞き手」の一人の岡本氏は居眠りしていた。吉野さんがゆっくり話すので、眠ってしまったようだ。私が取材した編集部員は4月9日私の電話取材に、「部員の間でも、編集長の取材中の居眠りは問題になっていた」と述べた。その部員は対談の際、「後ろのほうにいたが気になった」と話した。
 取材の全記録を以下に発表する。

西山太吉氏、吉野文六氏対談

2010年3月17日(水)
北海道新聞東京支社会議室(共同通信会館1階)

出席者:

望月詩史(TA 法学研究科政治学専攻、博士課程)
山田侑毅(2回生)
山本美菜子(2回生)



―(以下、聞き手はすべて浅野ゼミ)本日はどうぞよろしくお願いします。まず、密約は「戦後民主主義」の構造の中で結ばれたわけですが、ということは日本の「戦後民主主義」は真の民主主義ではなかった、未成熟だったということですか。もしそうであるとすれば、具体的にはどのような点が問題点として指摘できるのでしょうか。そして真の民主主義に転換するためには今、何が求められていると思いますか。

吉野 日本の民主主義も段々と、民主主義の原則に近づいていると思います。ほとんど今も純粋な民主主義であるだろうと思いますが、しかしまだ改良を加えることは沢山あると思いますね。
 しかし、そう簡単にはいかないんじゃないかと。やっぱり国会の法律というものを通じてやるわけですから。法律には議員さんが「YES」と言わないと法律にはなりませんからね。例えば英国とかフランスとか、米国の民主政治の運営とはちょっと違うような気がします。だけれども、日本においても段々とそのレベルに達していくと思います。

西山 日本は制度としての民主主義はほとんど他の先進国と同じ、あるいは同等以上に整備されていることは間違いないわけですね。だけど制度としての民主主義があっても、実際の制度を動かすのは人間です。民主主義という制度の中で生きる人間が、社会的にどの程度の民主的な意識を持てているかどうか、それが成熟しているかどうか、その度合いによって決まるわけですね。
 民主主義を動かしている人間たちが、依然として民主主義に逆行するようなことをしていたら機能しないわけですね。具体的に言うと三つの問題があります。
 一つ目は、政治権力というものが、自分たちの政策について、国民の理解を得るために詳しく説明しているか、最大限その努力をしているかどうか、その度合い。
 二つ目は、メディア。政権の政策などを綿密に分析して、その問題点を主権者である国民に伝達すること。一方的な報道じゃなくて。
 三つ目は、主権者である国民。情報を受けた国民が、その情報をかみ砕いて自分のものにして、そして政治に対する判断をする。判断したら今度は実践的に行動することです。
 この三つが相互にフィードバックするような形で、はじめて民主主義が機能していく。
 この三要件を分析してみる。
 権力サイドから言えば、依然として「機密王朝」的な体質を持っている。都合の良いところはどんどん情報を流すけれども都合の悪いことは出来るだけ極小化する、情報操作する。そういう体質がある。
 メディアはどうか。記者クラブで共同で行う取材があまりに多いこともあって、情報操作をまともに受けやすい、そしてその(情報を)そのまま鵜呑みにして垂れ流すという傾向を日本のメディアはまだ持っている。もちろんそうじゃない報道をするところもあるけれども、全体としてそういう傾向がある。
 もう一つの側面は大衆に迎合するということ。上に対しては弱くて、情報を垂れ流す。下に対しては大衆に迎合する。大衆の興味・好奇心にメディアが応じる、テレビなんかがそうですね。
 民衆の方は、戦後に初めて民主主義の訓練を受けた。今まで近代化の過程において民衆は権力を一度も作った経験がない。訓練されていないですよ、意識的に。だから民衆は政治的に無関心ですよ。特に外交・安全保障については本当に無関心ですよ。先進国で一番関心が低いのではないかな。
 この三つのメカニズムが日本では遅れていると思う。英国はイラク戦争について今、その原因は何であったのか、あのときの政権の取った選択は正しかったのかどうかを議会で徹底的にやっている。当時の首相や外相を呼んで未だにやっている。議会が国政調査権をどんどん発動してやっている。米国でも上院で、何か失政があったら聴聞会を開く。絶えず証人を喚問してやりますよ。
 ところで、今度(3月19日)我々が国会へ参考人で出ることは、日本の議会で初めてだと思うよ。珍しいよ。めったにやらないよ。これは情報公開の流れの中で起った現象なのです。いずれにしても、国会にしても国政調査権を発動することはほとんどない。
 ですから、この状況の中で見ると、日本の民主主義の中身は全然成熟度が低い。これを今からどんどん上げていかないといけない。上げていくには、今度の政権交代の果たした情報公開に関するいろんな強制措置は、それを促進させるための良い道筋を作ったと私は思います。そういう意味で、非常に期待しています。もちろん、今までの段階は非常に問題を孕んでいるから、これは大いに反省しないといけません。

―民主主義が発展途上ということですが、西山さんが文書を世に出した時に毎日新聞社内でどういう扱いでしたか。

西山 例の取材論の問題が出た時に、それによって一挙に(形勢が)変わりましたよ。そしてあのときの佐藤道夫検事(当時、東京地検、後に参議議員)が言っているように「我々は成功した」と。その時の問題は全部すり替わってしまった。外交機密に関する議論は一切なくなったということ。そういう流れの中でメディアは全部撤退したわけだ。けれども、やはり追求すべきものは全部公平にね、裁判だから。法の下の平等であり、裁判の公正ですから、追求すべきものは機密事件です。よって、「機密とは何だ。機密は違法性はどこにあるのかないのか」というのがあの事件の性格です。ですから、それを全部平等に並べて、そしてそれについての審理をつくして判決を下すなら分かるけれど、私の場合はいろんな形で妨害にあったと思っているし、それをメディアが助けた面もある。
 しかし今、いろんな形でもう一回清算して、レビューしようという機運が高まっているよ。もう一回全部見直してみようという機運がすごい勢いで浸透しているよ。あのときのことは乗り越えて、今動いていることを重視している。昔に立ち返る必要はない。

―毎日新聞の社内では当時そういう機運はなかったのでしょうか。

西山 社会風潮と同じです。一部の人が動いたとしても全体がそれに与することがない。ほとんどの人はそれに与しないですから。その役割を果したのは、その時の検察であり、国であり、それに対して同調したのは民主主義の成熟度の低いメディアなのです。私が言いたいのは、すべて平等に対等に公正にやれということ。その機能が果たされなければ日本の民主主義的手法ではないということを言っているのです。「俺だけ免罪しろ」とか「他の奴をやっつけろ」ということは今まで一回も言ったことがない。
 しかし今、全部見直そうとする機運は出ていますよ。ついに私を国会に呼び出したじゃないですか。こんな革命を誰が想像したか。国会に行って、密約の本質を述べられるんだよ。そういうことが大事ということを、いろんなもののしがらみを越えて、くぐりぬけながら来ていくわけです。それは民主主義も同じです。
 日本の民主主義は戦後スタートしたのであり、戦前からあったわけではないでしょ。いろんな経験をしながら、それをくぐりぬけている。今度の6ヵ月(2009年9月の密約調査命令から報告書提出まで)のステップは大きいですよ。革命的だとさえ言える。従来との比較で物を考えなければいけない。

―民主主義社会におけるジャーナリズムの持つ意義は大きいわけですよね。

西山 ジャーナリズムは民主主義社会の中核、媒介機能だから、権力と主権者の間の、権力がいくら政策して立案しても何も権力だけでは伝達されない。それはメディアを通して伝達される。メディアの伝達の仕方、捉え方、視点。これは非常に決定的ともいえる要素をもっているわけですよ。それに応じて民衆は動くのだから。だからメディアがどういう問題意識をもって正確に詳しく伝達するかというその使命たるや民主主義の中核です。

―メディアが民主主義社会で重要な役割を果たすとしても、権力との間には一定度の緊張感や距離間を持たないといけませんよね。
 では、吉野さんが実際に外務省に勤務されていた時、メディアとの関係には緊張感がありましたか。


吉野 緊張感はありましたね。外国との交渉する場合には、ある程度機密にしておかないと、もう相手にしてくれないということがありますからね。だから、「ある程度」というのは、ものによって違うのですけれども、やはりしばらくはべらべらと喋るわけにはいかないということがあるのです。それは外交というものをする上で仕方ないのではないですか。
 ただ外交は客観的な事実に基づいて行うのですが、行動自身はやはりその国の意欲を示すものですからね。意欲というのはやはり政治的なものです。客観的な事実ではなくて、政治的な意欲というものがあるわけですから。

―先ほど、吉野さんは西山さんに対して特別な感情はないとおっしゃっていました。

吉野 私は別に持っていません。人によっては、持っているかもしれませんが。

―外務官僚の気持ちとしてはなかったとしても、個人として感情はどうでしたか。人間としての立場と外務官僚としての立場の間に葛藤はありませんでしたか。

吉野 仕事している時は忙しくてね。いろいろ考えていては間に合いませんよ(笑)。やはり、自分の感情はしばらく放っておかないとだめですね。
 ただ例えば、沖縄密約に関する外務省の電報が漏れた時には、私は自分の担当する局から漏れたならすぐに辞職する覚悟で局員に言ったのです。「これは私の局から漏れたら、私はすぐに辞職します。しかし職員の皆さまを不審に思っているのではないから、どうかそのつもりで局員は従来通りに働いて下さい」。そして結果的に私の局から直接情報が漏れたわけでないことがわかったときには、私は実に救われたと思いました。なぜかというと、自分はもう辞職するつもりでいたわけですから。
 そういうことがありますから、それはもう外務省の仕事をやる以上、そういうことでみないると思いますがね。情報を提供することは悪くないけれども、しばらくこの情報を外部に漏らしては困る、外交ができないという場合には、そういうふうにしていかないと外交ができないと思いますがね。

―昨年西山さんに同志社大学にお起こしいただいた時とは、本当に昨年の初夏ぐらいから状況が変わってきました。先ほども吉野さんがジャーナリズムをどんどん啓蒙している、西山さんも革命的な動きが出始めたとおっしゃいました。
 私は昨年、沖縄密約の70年代の報道から現代まで我部さんが文書を発見された時、吉野さんが証言された時、また最初の西山さんの国賠訴訟でも、昨今の情報公開請求訴訟も見ても、やはり一度は大きく報道したとしても、継続的な報道ではなかったり、力が小さかったように思います。またこの半年くらいで新政府も巻き込んで大きな機運になったからジャーナリズムも勢いが出てきたという感じを受けています。先ほど西山さんは全体をすべてのことをレビューするような機運がジャーナリズムの中で高まっていると言われましたが、私はまだ疑問に感じる面があります。


西山 いろんなファクターが積み重なって、少しずつレベルアップしていくのです。そういう意味では、今まで全部ぐいぐいといい方向にどんどん直進的に決して伸びてきたわけではない。ある面では、大衆的な好奇心とか興味にずっと引きずられていって、非常に大事な公的情報が寸断されて、細切れになってしか伝えられていない。見てごらんなさい。今のテレビを中心とした日本のメディアは非常に経済的に危機に立っているよ。どんなところに行っても、(メディアは)すごい存立基盤が脅かされています。そうした時に視聴率が影響して、大事な情報がきっちりと報道されるのではなくて、大衆の好奇心や興味から外れたものであれば全部いつのまにか消えてしまう。そして大衆の好奇心を軸にした迎合的報道、放送が支配していく。そういう体質を持っている。経済的な要素も働いている。財政的要素も働いている。
 ただ同時にかなりのジャーナリストが今までの自分のやって来たことの限界を痛切に批判していますよ。それぞれが、その中から大事な情報を少しでも伝達しようという、組織の中にみんなそういう人たちがいますよ。だけどそれをまた、組織が潰そうとする要素もあるのですよ。中で闘う場面が演じられていますよ。しかしそれが前に比べれば、そういうものに目覚めた人たちが少しずつ増えて来ていることは事実。だけどそれを潰そうとする経済的要因などが多くなっている。そういう中で少しずつレベルアップしていかなくてはいけない。
 それには外圧が必要なのです。ある種のショック療法が必要。その役割を果したのが一連の外務省の調査ですよ。あれは行政組織上からくる大臣命令です。あれ違反したら罰則がある。このようなものが発動されたことは今までない。今度初めてともいえるのではないですか。あのインパクト、外圧が必要なのです。それによってグーッと上がる時があるのです。それが今の現象だよ。
 09年12月1日、吉野さんに証人として出ていただいた我々の開示請求訴訟でも、吉野さんが出ることによって関心が集まった。外圧、インパクトが必要なんだ。そして水準が上がる。上ったらその水準から次は始まるからね。時々沈澱してなかなか伸びない時は、外からの刺激が必要なのです。それが、吉野さんが裁判に出たということ。自分の信念を持って、過ぎ去ったことを振り返って陳述したということ。外務大臣が命令して、外務省にまん延している秘密主義をこの際修正しようというインパクトがあることでグッと上ったでしょう。今うねりが出てきたでしょう。
 ただしそれは一直線に来るのではないので、特に日本ではじわじわ来るので。だからこそ、刺激が要るのですよ。その刺激になったのが我々の開示請求訴訟における証人の出廷であり、外務大臣の密約命令なのです。
 反対にそういうものがないことを想定してください。我々の開示請求訴訟がなかったらどうですか。今度4月9日に判決が出ます。今度はすごい報道になりますよ。恐らく一面、二面全部つぶすことになるでしょう。それは我々がやったからだよ。やってそれが国民の関心を引き付けた。それによって情報公開問題と民主主義問題に対する認識が高まるでしょう。すごい勢いで今、末端の市民団体がこの裁判に関心を持っていますよ。みなさんが想像している以上ですよ。今度の密約調査命令もすごい反響があるよ。だからこういうことで、少しずつ上っていくのですよ。一直線ではいきませんけどね。

―吉野さんは、西山さんが時間や費用を費やして闘ってきた姿を見て心を打たれたのですか。

吉野 それはそうですよ。もうともかく、私財を投じてこれだけ闘ってくれる人がいなかったら、今度の事件が今のような発展をしなかったでしょうね。そうすると、今の民主党の外務大臣の勢いは出なかったでしょうね。それは疑いない事実です。

―学者やジャーナリズムが真実を追求する努力が必要とおっしゃられていましたが。

吉野 歴史とはいずれ真実を伝えるような具合に材料が出ていくでしょうが、そう早く出てくるわけではないですからね。
 ただちょっと思うのは、例えば、お医者さんが「お前さんはこういう病気をしているから、あと半年も命はない」という場合に、そういうことを正直に伝えた方がいいのか、あるいは黙っていて「ともかくもう少し静かにしておきなさい」として真実を伝えないようにした方がいいのか。もちろん病人と外交は違うけれども(笑)、そういうものもあるのだろうと私は思っています。
 やはり真実はつねに真実ですが、社会的にあまりに衝撃が大きい時には、悪影響がないとはいえないのではないかというような気もするので。私はやはりジャーナリズムを信じていないから(笑)。

―西山さんはこの沖縄密約問題は学問的、特に政治学の恰好のテーマと指摘されていました。

西山 密約がなぜ生まれるのかということをずっと追求すると、戦後政治史にぶつかるだろうし、それから戦後の外交史にもぶつかる。同時に権力がどのようにして情報を操作して管理するかという政治社会学にぶつかる。全部この問題からずっと入っていけばみんな、政治学のジャンルの深奥に迫ることになる。
 戦後の保守陣営が全部日米同盟を神聖化して、それにまつわる機密は絶対に金科玉条にして、この聖域を守ることによって日本は守られるのだという信念を持つ人もいただろうけど、そのグループだけではない。それに対して、たった四年の間に三つの政権があれだけの修正をやってのけた。あの冷戦構造のど真ん中で、日ソ国交回復を鳩山一郎内閣がやった。一年ちょっとの間に。それと同じ思想系列で石橋政権になった。でも病気になった。そのように日米同盟絶対論が戦後を貫いたのではないよ。それは大きな流れだけれども、戦勝国と戦敗国というどうしても逃れられない宿命的なものが冷戦構造の中に入るのだから、それは一つの大きな柱になったのは事実。だけどそれを修正しないといけないというのがあるでしょ。その力学のぶつかり合いなのですよ。どっちの力学に重点を置くのか。岸内閣と佐藤内閣はこっち(日米安保)の力学の方に重心を置いた。それはいけないと修正を試みたのが鳩山、田中ラインです。彼らは党人でしょ。その中で戦後史がある。
 なぜ密約が生まれたのか。(密約は)佐藤、岸に集中しているじゃない。そういうのが全部絡んでいるんですよ。一方は日米同盟絶対論、反共ですよ。一方は仮想敵視しない、日米同盟修正論です。その中から密約が生まれるか。生まれないでしょ。その二つの流れの相克なのですよ。こっち(日米同盟絶対論)を金科玉条にすることは、こっち(日米同盟修正論)にコミットするからみんな嘘をつかざるをえなくなる。そういう構造を持つ。もう一方はこっちからむしろ修正、離脱して日本の主体性を発揮しようという勢力だから密約が生まれるはずがない。そういう分析をすれば政治学につながる。
 吉野さんの外交官としての独特のプロパーの感覚はある。私らはそういう意味ではちょっと違うので。

―鳩山、田中ラインという日米同盟絶対主義に対する軸があると。

西山 日本には反核であり、憲法九条であり、中国・朝鮮半島と何千年もの歴史を持っている。米国は二百何十年じゃない。でも戦勝(国)と戦敗(国)ですよ。そういう逃れる余地がないのだから。その中で沖縄は米国の戦略として切り離されたのだから。そういう構造の中で日本はスタートした。
しかしその中に何とかしてこの中から抜け出して、しがらみから抜け出して日本は日本で「アジアの日本」としてという「太平洋の日本」として、という意識状況、歴史状況がずっと働くのですよ。それが鳩山の日ソ国交回復。また佐藤内閣が潰れて、絶対に台湾を国連から守るために、あの時私は外務省・霞クラブのキャップをやっていたけれども、中国の国連加盟を阻止するために何をやったか。あの時は福田外相ですが、非同盟諸国にいる日本の大使を総動員したよ。要するに、中国に対する投票を阻止するため。そういうことをやって結局負けた。惨敗した。それはニクソンと日米同盟のこんなにうたいながら、たった国連の投票日のほんのわずかな前に、ニクソンはキッシンジャーを中国に送った。負けるのは当たり前。雪崩を打ったのだから。
 日米同盟はそんなにすごい冷厳な日米同盟の側面があるのですよ。これを金科玉条視している日米同盟はいつでもやられるのだよ。そこでアンチテーゼが出る。田中角栄は、反中国だった佐藤(政権)からたった一年でやった。まったく対照的なことを、一年でやったんだよ。その代わりにすぐに潰れたけどね(笑)。いずれにしてもそういう流れがあるのですよ。それから日米同盟聖域論じゃないのです。アジアと太平洋の接点としての日本(を目指す)。そういう中での戦後史の中で、日米安保絶対、反共、その一番の急先鋒が岸、佐藤だった。それが同時に日米同盟絶対論です。
 ところが、それがあまりにも絶対論だからどうしてもあまりに違うから別の流れができる。それを何とか鎮静化しないといけない。それが「密約の生産構造」と私は言うのだけれども、そういうような陣営(日米同盟絶対論)の中から起る。だけど、吉野さんたちはたまたま佐藤陣営、岸陣営の中でその時に一番のど真ん中に座ったものだから、そうならざるを得なかった。

吉野 西山さんが言うのが正しいかもしれませんが、中国が一体将来どうなるかについては、極端に言うと中国が段々大きくなると米国に対する脅威になるのはもちろん、「日本を属国にするだろう」と信じている人もまだいる。ところが「中国はそんな国ではない。中国の歴史を見てごらんなさい。そのようなことは中国の民衆はそうではない。中国の政府はそうかもしれないけれども、民衆は平和的だ」という意見が、中国に住む日本人は感じている。
 ところが政府は、ことに一党である限りでは、自分の党を維持するためにその時にある手段を使いうるので、一党独裁の体制については非常に警戒しないといけないという根本的な我々の考え方があるわけですね。そういうものの中間に入ってどうなるか、それは未来のことなので何も我々は判断できないです。そういう時には過ちを犯す恐れがあるから気を付けないといかんということですね。
 イラク戦争の場合も、英国の大部分の学者はイラクは核を持つか持っていると、こういうことを主張していました。その頃の学者の主流はみんなそうですよ。そこでブッシュが戦争に踏み切ったわけです。ところがどこを探しても核を持っていないことが分かったわけだ。しかしその時は“too late”(遅すぎた)なんだ。もう戦争が始まってしまったから。そしたら今度は民主主義にしないといけないと言って戦争を続けた。ところが、英国は米国を助けるために参戦したのです。英国の勢力範囲もイラクの中にはあったけれども、やはり米国が参戦するから私たちも(参戦)しないといけないと思って参戦した。それが今の英国の国会で問題になっている。みんな過ちを犯すのです。

西山 それは結局その時の綿密なデータや資料がなければ、それを判定する基準が分からない。だからこそ、その時のある一定年限が立った時にその時の外交なり政治状況が正しかったのか正しくなかったのか、これだけの誤りがどうして起ったのかを検証するには絶対に必要なのは資料です。

吉野 その通りです。

西山 資料がなかったらできないじゃない。それが今言われているような情報公開の一番のネックにある問題。ところが資料は全部焼き捨てられたらどうなる。一番肝心かなめな物が焼却されて廃棄されたらどうなる。後でその時の歴史的事実関係が分からなくなったら、どうしようもないじゃない。そうしたら誤りが仮にあったとしても、なぜ誤ったのかが分からない。それが一外務省のグループによって、1280トンの厖大なものがトイレットペーパーに消えちゃった。衆議院の外務委員会で言うよ。1280トンの資料がトイレットペーパーに消えちゃったって(笑)。
 その中になぜ「栗山メモ」があったのか。ではなぜ「吉野・スナイダー」の合意議事録がないのか。それだけではない。肝心なものがない。時々、ぽーんと出てくる。これは本当に不思議な話でね。これはまったく非常にどうしてそういうものが、栗山メモは取っておいたのかね。どうして栗山メモだけがあったのかという問題。他はないという。

吉野 会議に栗山も出ていました。僕はメモは取らなかった。栗山は課長だったのでちょっと書いたのでしょうね。

―日米密約がテーマでしたが、当時の外務省の中に沖縄の人たちの視点はありませんでしたか。当時、沖縄では復帰運動が盛んでした。そういう運動であったり独立論であったり、反復帰論だったり、いろんな運動が沖縄で行われていましたが、そういうものについて外務省の中で議論があったのでしょうか。

吉野 恐らくあったでしょうね。私はまだ米国にいましたので。71年の正月に私が帰って来た時に、私が何も沖縄のことを知らなかったから、まず「沖縄の基地を減らさないといけない」と言った。すると当時の条約局長が私に、「吉野君、お前の意見は分らんこともないけれども、相撲を取るならば土俵の中で取りましょう」と言ったのです。それはもう初めから基地を減らすという議論はない(ということです)。

西山 逆に(基地を)強化する。

吉野 そういうことで、私は沈黙せざるを得ざるをなかった。そういう土俵が決まったのは私の前の局長(東郷文彦)の時ですね。私は、東郷さんを時々ペンタゴンに連れて行ったのです。そうしたら、局長は米国のいうことをみんな「YES、YES」と聞いていたのです。それはなぜかというと、彼の思想なのです。彼はまだ日本は米国に基地を提供して、使用してもらわないと日本は守れないという思想でした。恐らく、東郷さんの言うことは客観的に正しかったかもしれません。当時の日本はそれだけの実もないし、米国が守ってくれないと発展ができないというのが当時の状況であったろうと思います。
 いずれにせよ、私の無知の「土俵を広げろ」というものに対しては、「いやそれは広げられない」というのが、当時の状況なんですね。それをやはりそういうように判断したということが、外務省のオーソドックスな考え方ですね。それを私はそうではないと言えなかった。それだけの権限もないし、交渉はそういう段階を一歩進んでいたんですね。それが外交の歴史ですね。

―最後に、これからの日本を背負っていく若い世代に対する期待などお願い致します。

吉野 私たちはもう歳をとったので、本当はあなた方に話をする資格はないですよ(笑)、少なくとも私は。もうあなた方は自分たちの世界を知らないといかん。

西山 今の日本は極端に言えば、本当に転換期ですよ。吉野さんたちがやっていた状況と全く違う一つの新しい時代に入っている。これはもうはっきりと言える。どこが違うか。超大国米国がすでに一国主義から国際協調主義に転じざるを得なくなった。これが一つ。次に日米安保同盟が1960年、72年の安保、97年の周辺事態法の時の安保。2006年の米軍再編安保。この間に安保の枠組みが相当大きく変化している。
 かつて米国は日本を守る、日本は米国に施設区域、金を提供して米国に守ってもらうことが安保の核心だった。60、72年もそうだった。当時の安保は中国と朝鮮が範囲に含まれ、まだインド洋も中近東も入っていなかった。
 ところが今の安保は、やはり中国と米国のこれだけの相互依存関係が出た時に、朝鮮は中国の半島に対する決定的な影響力を持っている。米中は双方ともに切っても切れない相互依存関係になっている。米国の国債は中国が一位で70数兆、日本は60数兆円持っている。米国経済は日中で支えられているのだよ。米国は中近東において大きな戦争に巻き込まれて、アフガニスタンとイラクの戦争だけで年間17兆円金を使っている。米国の国家予算における国防予算は50兆円足らずですよ。日本の国家予算から国債費引いたよりも実質多い。だからこそ今米国は財政危機になっている。ますます中国と日本に依存せざるを得ない。よって、かつての中国、朝鮮敵視の安保から全然変わって、不安定のものといわれるものに対する枠組みに移ってきている。安保は日本が協力しないといけない安保になっている。
 事前協議なんて必要ないのだから、タダ同然の沖縄の在日米軍基地から(米軍は)世界中どこにでも行ける。今度、基地を作るといってすぐグアムのために6000億出すでしょ。アフガニスタンにも5000億出すでしょ。両方足しただけで1兆ですよ。こんな国は世界にないですよ。だから安保は、「米国が日本を守ってくれる。ありがとうございます。頼みますから助けて下さい」という安保ではないのです。これまでの安保の性格は、片務的なものだったので、日本は「思いやり予算をどんどん出せ」と言われていた。今は片務性が落ちて双務性が高まってきている。そういうように安保の枠組みが変わったんだよ。
 だから私から言えば、辺野古なんて取っ払えということだよ。そういうことが何も論争されていないんだよ。去年も、2006年5月に決まった報告書、ロードマップにのみ基づいてやっている。
 君たちの世代は、あの日米安保の亡霊から脱却して、新しい世界の日本という、新しい国際秩序の中の日本、新しいアジア、新しい太平洋の懸け橋としての日本という国家像を持って、自分たちの新しい日本を建設しないといけない。全くすごい転換期なのです。我々の時代は冷戦構造のるつぼの中に入っていた。あなたたちの時代はもう世界が多極化してどの国が伸びてくるかわからない。米国の力は依然として強いけれども、相対的にはじりじりと落ちてきている。その中で日本が「米国一極主義」で、どんどんやっていくと国際社会において大きな錯誤と誤りを犯すよ。
 日本は内政的にも社会的にも大きな転換期にある。日米絶対時代の終焉ですよ。新しい国制秩序を日本が求めなければいけない。そのための国家戦略よ。だから国家戦略が要る。そういう時代における青年の物の考え方なり、物の構造原理は、もう我々から学ぶべきものは何もない。自分たちが作り出していくものだよ。自分たちが研究しながら、新しいファクターが出て来ているのだから、それを掴み取るためにはすごい勉学がいるのですよ。我々は消えて行く世代、何もエネルギーを持っていない。

吉野 そういうようになるのでしょうけれどもね、実際の経済の実情はね、まだまだ中国は後進国なのです。ようやく数字だけで、数字が日本と中国が同じくらいになってきた。これからまた中国は大きくなるでしょうが、日本と中国は数字だけを見ると、まだ日本の方が先進国になっているんだ。
 それから日本と米国との関係は、米国はドルは弱くなっても、日本の三倍から五倍のポテンシャルをまだ持っている。だから日本は米国に一生懸命に物を売るという、本当は物をまだ売るのはおかしな話で、テクノロジーを売らなければいけないのだけれども、テクノロジーはまだ米国に全部依存していることが大問題なんだね。
 そういうようになるだろうことは疑いなく見ていれば分かりますが、しかし現実はそこまでまだ全然いっていない。だからそれをやっぱり客観的にそれだからすぐに変えてしまうというわけにはいかないということですね。

西山 ただし色々な変動や変化や改革とかの動きが水面下でぐんぐん始まっているから、それを汲み取っていかないといかん。静止している状態はもう終わった。汲み取るためにはすごいリサーチが要りますよ。ぼけーっとしていたら分らない。

一同 長時間ありがとうございました。






吉野文六さんインタビュー

2010年3月26日
17時~19時

吉野さん自宅(横浜市内)

浅野健一(同志社大学教授)
望月詩史(TA 法学研究科政治学専攻、博士課程)






―(以下、聞き手はすべて浅野)当時の西山さんの印象についてお聞かせ下さい。

吉野 当時、西山さんは私のところに足しげく通っていたわけではないです。そば屋で食事を一緒に食べたことなどがあるくらい。彼は大平正芳さんの子分でしてね、羽振りを効かせていました。当時、毎日新聞は、なかなか朝日新聞や読売新聞と対抗する大きな力がありました。ところがあの事件が起きて没落しちゃった。
 私がアメリカ局長をやっていた時は、(西山さんは)主として安川壮外務審議官のところに出入りしていて、あの電報を蓮見さんから取った。私のところにはたまに顔を出すくらいでした。

―それほど西山さんとは親しい仲ではなかったのですね。

吉野 親しいわけではなかったけど、1、2回そばを食べた。
 この間私と座談会したけれども、彼は物事をよく知っていましたよ。それだけ勉強したということでしょうね。結局彼もそのように主張していたし、私も最初からそのように言っていたのだけれども、ともかく我々は当初、沖縄はタダで返ってくるというような前提で話をしていたところが、そのうち6億ドルくらいの金をいろいろな形で支払わされたと。でも沖縄が返ってきたこと自体はお金では代えられないし、当時の日本はべらぼうに景気が良かったですから、お金もあった。むしろドルが貯まり過ぎて日本は困った。うっかりすると円が安すぎるという形になって、もっと円を高くするかドルを低くするかということに。
 沖縄協定が発効して数ヵ月後に米国はIMFの金兌換を停止して、それから輸入には何パーセントかの課徴金を掛けた。米国にある資本を日本に戻すために10何パーセントの課徴金を掛けた。米国はまさに貧すれば鈍するという、自分でIMFを作りながら、その大原則である金兌換を停止した。IMFが米国中心で作り、これからは金兌換が中心ということだったにもかかわらず、自分で止めてドルをただの紙にした。そういうドル不足というか米国の財政において、非常に困っていた時なのですよ。
 どういう原因かというと何のことはない、ベトナム戦争の継続です。ケネディ大統領は、ベトナム、ラオス、カンボジアというフランスの植民地を共産主義が乗っ取ろうとしていると誤解していた。実はこの三国では澎湃として独立運動が起きていたわけですが、共産主義が乗っ取るということは全くの誤解。それなのに、フランスを助けるために兵隊を送ろうとしたわけです。ところが、段々と戦争がはじまるとベトナムが参るどころか、ますます強くなる。戦争はいつ止むか分からない状況。米国は膨大な軍事費と兵隊を持っていたけれども、ベトナム人の強さに呆れてしまった。
 三国から見れば、自分たちの独立のために戦っているわけだ。ところが米国は共産主義になる恐れから参戦した。でも実際は、米国自身の独立と同じように民族独立の戦争だった。だから決して負けないわけです。そこで米国は当時、マクナマラ(Robert Strange McNamara、元米国防長官)を国防長官にすれば簡単にいくと思ったら、マクナマラ自身も戦争は見込み違いに気付いた。私はあの当時米国にいたけれども、米国がGNPの3%を毎年出せばベトナムは簡単に倒せると思っていた。ところが、金をいくら入れても兵隊を入れてもベトナムに勝てないことが分かった。どんどん事態がはっきりしてきた。そこで米国は引上げようと思ったけれども、うっかり引き上げられなくなった。
 ところが、米国国内でもベトナム戦争反対の運動が澎湃として若い学生の間で出てきて、キング牧師の暗殺もあった。ケネディと最初に争ったニクソンが共和党の大統領として出てきた。彼はすぐに撤兵しようと思ったけれども難しかった。そのような時期です。
 そこでタダで返ってくるはずの沖縄が、米国は金がないので、今まで沖縄に使った全部日本から取り戻そうという腹になったのです。占領中に米国が沖縄に費やしたあらゆるお金を。

―取り戻そうという計算が米国にはあったのですね。

吉野 そうです。大体6、7億ドルですね。ところが、そういうことを我々は知らずに協定を結びつつあったのです。ところが我々の背後に、福田蔵相とその下で働いていた私と同期の柏木が、米国の財務省と「今まで払った金を日本は払ってくれ」という交渉をやっていた。私はちょうどワシントンにいたのですが、二人がこそこそと来ていたことは知っているのです。ところが、(交渉が)漏れないように、ワシントンではなく牧場か何かで交渉していたのです。(その交渉は)そういう内容になっているのです。それが、ニクソンが大統領に就任した1969年です。

―吉野さんはその当時、米国大使館にいたのですか。

吉野 そうです。ニクソンがもう一つ日本側に頼んだのは、日本の対米繊維ですね。繊維といっても、綿縮ではなく化学繊維。それを規制しろということ。なぜかというと、ニクソンが選挙公約としたから。ところが、日本は米国から安いレーヨンを買った。米国の余剰農産物ですからね。しかし米国の綿花はインドよりも品質はいい。しかしそれを日本の紡績が安く買って、国内で加工する。早く安くということで、べらぼうに世界を席巻したのです。日本の紡績は利口ですから、安く売る必要はない。日本以外に勝つような綿布はできないから、自主規制にして高く売った方がいいとした。ニクソンもそれと同じことを化繊についてやってくれと思った。それに対して日本の政治家、佐藤(栄作)さんは簡単にできると思い「いいよ」と言った。
 ただし、ニクソンは沖縄を返すことについては、化繊を自主規制することはさすがに政治家としてあまりに馬鹿らしいと思って、1969年の共同声明の中には「綿」という言葉は一言もないし、金も入っていない。ともかく沖縄を返すと。非常に政治的に聞こえのいい声明を発表したのです。
 その途端、日本は沖縄を「イト(繊維)とナワ(沖縄)」を交換したという話が出た。すると日本の化繊業者から米国に対する反対運動が高まった。日本の化繊業界の反対運動は、非常に能率的にやっていたのです。化繊は綿布と違ってずっと若い米国の弁護士を2、3人雇って米国内でロビー活動をしていたのです。そのロビー活動の中心は、米国の下院のウィルバー・ミルズ(Wilbur Daigh Mills、元下院歳入委員会委員長)。米国の議会で一番勢力がある議員なのです。最初はニクソンの言う通りで「日本の化繊は自主規制しろ」と言っていたが、ロビー活動によって変わっちゃった。なぜかというと、若い弁護士がGATTの原則に従って、「もしそういうのを日本に押しつけるなら中国やインド、その他化繊を扱う国全部に当てはめないといけない」と主張した。そしてミルズは「お前の言う通りだ」と変わった。ニクソンが任命した大臣も日本の繊維を規制することにお手上げとなった。日本側も同じく、宮沢大臣、大平大臣もみんなお手上げだった。どうにも日本の繊維業界を抑えられなかった。最後は田中さんが、やはり田中さんはお金を使うのがうまいですから、結局繊維業界の古い旗か何かを大金を出して買い上げました。これは返還協定から一年経っての話です。
 ただニクソンが望んでいたのは、日本が沖縄を買い戻すために繊維を規制すると考えていたができなかった。ニクソンは腹の中は恐らく「佐藤何をやっているのだ」という気持ち。佐藤さんも分かっているから大臣を二人代えた。けれども、繊維業界を抑えられなかった。そういう経緯で沖縄が帰ってきたのです。
 そこで協定上は、3億2000万ドルの金を払うと書いてあるのですが、それ以上の金を日本があらゆる形で工面しなければいけなかった。逆に協定上のお金はそれだけを払う日本であったけれども、むしろそれを払ったことが日本のためにはより日本の好景気を継続させて、経済の世界制覇のために進めるということができたということです。 これは今の中国と非常に似ています。中国は今なるべく元を低くして他国に大いに商品を買ってもらってその間に中国は輸出で繁栄する。これはちょうど日本のやったことを真似していると思うくらい。絶対に元を切り上げない。日本はそういうことができないので、一生懸命米国にドルを貸したり、あげたり、使ったり。それで繁栄したいと思ったのが、福田さんや、柏木はそう思っていたか分からないけれども。そんな経緯で沖縄協定が結ばれたことの背後に日米経済の問題がありました。
 沖縄が返ってきて変わったことは何もないのです。米軍が今までやっていたことを日本が金を出して基地を維持し、沖縄自身を一種の軍事基地として繁栄するために沖縄に金を注いだということですね。
 それが今までずっと続いてきたのですが、鳩山内閣は何も知らなかったから「沖縄の基地をどこかに持っていってくれ」など言いだした。私もそれについてはそういうことが起きた方がいいと思いますが、米国の戦略を知らなかったのですよ。米国はともかく沖縄を中心にして前線基地を作って中国、ロシアという二つの大国に対抗する。また場合によっては台湾に暴動が起きないように。米国は絶対に台湾を武力で取ってはいけないと思っている。つまり、米国は日本とがっちりと防衛条約を作り、そして日本の基地をうまく完全に利用して、金は日本が応分に寄与して、東南アジアや東アジアの平和を守る。
 ところが中東まで出てしまったから米国の戦略がますます大きくなった。だから最近まで日本の自衛隊がインド洋で給油補給をしていたわけですね。ああいうのは上手く日本を利用できて御の字であった。
 ところが鳩山内閣が出てきて、何も知らないからね、あの頃は。今はやっと分かって大変になっていますが。

―当時、中国やソ連は共産主義国と言われていましたが。外務省内ではどのようにイメージされていたのでしょうか。

吉野 それはソ連が共産主義だった時には大きな脅威だった。中国は毛沢東の革命の時はともかく、今は一党独裁主義ですよ。必ずしも共産主義ではないですよ。いずれにせよ、一党独裁主義であるか共産主義であるかは非常に危険な存在ですよ。しかし、中国がどうなるかということについては必ずしもいずれは民主主義の国になるのか、共産主義にはならないでしょうが。やはり今の政権は相当独裁ですね。グーグルを追い出して。そういう例がありますが。ともかく自分を批判する奴は許さない。通貨についても、他国がどんなに不景気でも、自分たちの輸出さえ確保すれば御の字。国内が繁栄しますから。そういう個々の問題に触れると中国は自分の不都合な時には「ノー」と言う。政府である以上、止むを得ないですが。ですから、いわゆるGATTとかWTOとかEUとか、カナダや米国とは違う。

―西山さんの密約のことを新聞記者が粘り強くやってきましたね。

吉野 あの頃は、わずか400万ドルの沖縄の私有地に、元来は米側が支払っていた補償費を日本側が肩代わりしたということを、これは本当に小さな話なのですよ。今は、西山さんはよく分かっているのだけれども、当時は全容を知らなかったから分からなかったわけです。我々は「そうではないです。その金はもう全部支払っても差し支えない金です」と主張したのだけれども、しかし西山事件の裁判の時に、私は外務省の当時一般的だった内規、つまりある国と交渉している事項あるいは交渉してからまだ1、2年経った間にその交渉の内容を報道陣に話すことはできないというのが外務省の内規のようなものです。これは入省したときから教えられる。それは短期間に内容をべらべら話したら、相手国の交渉者は「もう日本と交渉するのはダメだ」と。すぐに2、3年経たないうちに外に出てしまう。日本と交渉しないということがあるのです。特に領土問題のような重要問題は交渉中にお互いに有利な交渉をやるのです。目的を達しようと思うわけですからね。
 ですから、沖縄の場合もそれから2、3年まではそう簡単には話すわけにはいかない。ましてや今話したように、日本から6、7億ドルという大金を米国に支払ったということ、支払うような結果になったことを話すことはできない。ですから、我々は検事に呼ばれたら、恐らくみんな忘れたけれども、「どういうことだ」と聞かれたことに対して、「答えられない」とか「そんなことはありませんでした」と否定してきたわけです。その当時の検事は「そうか」といって私を追求することはなかったのです。なぜかというと、その頃の検事は、今は少し変わったかもしれませんが、時の政権が任命するのです。検事は行政官ですから。やはり佐藤さんの顔を見て、私を尋問したのでしょう。私だけでなく同時に条約局長も呼ばれたし、事務官は呼ばれなかったかもしれないけれども。私は否定したわけです。
 ところが、西山さんが入手した電文はまさにそれと反対のことを、つまり日本が400ドルを米国が払うべきものを肩代わりしたとこういうように理解して、それを当時の社会党の横路孝弘さんに渡したわけです。それで横路さんが今度は国会で私と対決したわけです。私は横路さんに対して「そんなことはなかった」と反論したのです。結局その電文が元になって西山さんは罪になったわけですね。
 しかしながら、やはりその当時でも「言論の自由は保障しないといけない」ということはあったので、だから彼は執行猶予という判決を受けたわけですね。しかし執行猶予とはいえ、罪に当たるわけですからね。そういう意味で、彼なりに悩んだり苦しんだりしたのでしょう。
 しかし私は、西山さんたちがオーガナイズした新しい「機密は無くせ」とか「機密を公開しろ」という裁判に、原告側に立って証言することになったのです。それは、西山さんの刑事事件とは別に、「機密をなくせ」という意味の裁判ですからね。しかし外交については「機密をなくせ」ということはその通りですが、少なくともそれは直ちに機密を明らかにしろということではない。米国でも30年はかかる。
 そんなことで、西山さんとこの間の会合で会ったわけです。もちろん、「機密を無くせ」という裁判でも彼と会ったのですが。
 私も当時は、柏木君が協定締結の少し前になって「吉野君、沖縄協定にこれだけの金を入れてくれ」と言って持って来た。それに怒ったんです。「これは何だ。私は全然知らない。だから、載せるわけにはいかない」。すると柏木は「この金はこういう経緯でなっているから、協定に載せてくれないと主計局が金は払えないから載せてくれ」と頼みにきたのです。よくよく考えて「仕方ない」として載せた。それが3億2000万ドル。本当は、日本はもっといろいろな形で払う、あるいは米国に便宜を払った半分の金だったのです。
 後に分かったのですが、どんな金があったかというと、例えば沖縄が日本に返る前、沖縄の人はドルや米国の軍票を使っていたのです。そして日本に返ってきた1972年5月の時に、一夜にしてみんな円にしたのです。その時に日銀の人が私のところにきて、「明日円札をたくさん持っていく。ドルを代りに持っていきますから。そういうことを知ってもらいたい」ということを言ってきた。こんなことは協定に書いてないし、我々もそう考えていなかったので「そうか」と。
 すると後に分かったのですが、その代り金として取ったドルや軍票を日銀か大蔵省か分かりませんが、前から約束していたのでしょう、米国側に無利子で20数年融資していたのです。日本としてはドル札があっても焼くしか使いようがなかった。一番いいのはドルをしまっておけばいいのですが、その頃の日銀ないし大蔵省はドルが余って困っている。でもそれを言うと、今度は円が高くなってしまう。経済理論としては。その時は1ドル360円ということでIMFでは決まっていた。ところが、そのIMFの規制をわずか2、3ヵ月経って、米国はそれを維持できなくなって金の兌換を止めた。このことは長い目で見ればドルは下がっていくと。その代わりに米国の経済はよくなっていくと。逆に1ドル360円というとてつもない高い交換率の日本は不景気になる。だから日本は、金に換えられないのだから円を自由化しないといけないことになる。それから2、3年後には米国を中心として通貨会議が開かれて、最後には結局、90円とか一時70円とかありましたね。そこまでいってしまった。
 しかしいずれにせよ、それは金の兌換は世界経済の基本にはならなくなった。紙でも何でもいいけれども、それをある程度維持していくという努力さえあれば、世界経済は円満になる。日本国内でも、円を持っていて金に換えようとすれば1000万します。しかし円として使っていれば、めちゃくちゃな経済運営をしなければ通貨として役立つわけですから。
 私がこの間お話ししたことは要するに、沖縄はタダでは返ってこなかった。そのために日本は代償を払った。しかしその代償は、その当時に払ったお金に比べれば、沖縄が返ってきたことが、長い間の戦争で失った領土を米国との交渉によってまた返還させた。これが、偉大なことであり、そのために通貨を支払ったということは金を払ったということは、ほとんど意味はなくなったということになるわけですね。

―いろいろな新聞記者と付き合ってきたと思いますが、記者の役割をどのようにお考えですか。何が一番大事だと思われますか。

吉野 記者の役割はやはり真実を伝えること。だから西山さんのやったことは、記者としてはね、あそこまでやったことは、大した魂だと思いますけどね(笑)。そのために起きた様々な悲劇は、人間の世の中にはある程度犠牲が起きることもあるでしょうね。ただ、そういう覚悟で西山さんが本当にやったのかは知りませんがね。
 しかし記者としては政府が隠していてもそれを暴くことは、記者としてやむを得ないでしょうね。そしてそれらの機密性は果して役所の連中が考えるほど機密でありうるのかということですね。それは沖縄の場合には、金銭の問題ですからね。これは恐らく、新聞記者の追求するほうが正しいのではないでしょうかね。私はそう思いますけど。我々は見せないように隠しますけどね。
 ただこういうことは言えます。西山さんは、電報を盗み出して解釈が間違っていた。なぜならば、あの電報の400万ドルは本来米国が払うべき金であったのです。その金は、米軍が当時の国際慣習法によっていつも戦争の時には支払っていたのです。つまり400万ドルはどういう金かというと、米国の占領軍がある土地を占領すると、その土地をまた所有者に返す時には土地に加えた穴を埋めるとか塀を作ったら元に戻すとか。これは当時の国際法に入っていた。
 ところが、この国際法が順守されてきたかというとそうではない。第一次世界大戦の時に、戦争によって相手の国を占領した場合には、その戦争が終わって撤退する時にはそういうふうにやっているというわけではない。その時にはむしろマジノラインとかいろいろ塹壕を作ったけれども、それをドイツないしフランスは元通りにはしていない。のみならず、占領することによって相手から賠償金を取っていた。賠償金を取るために占領していたという近代戦争になっていたのです。
 私は米国に勤務した時、本省の命令で「米国の慣習がどうか聞いて来い」と。ハーバードの国際法の先生のところに聞きに行った。すると「占領軍は、占領地を撤退する時には、痛めた土地を全部賠償するというのが陸戦法規に書いてある。それに従う」という返事だった。米国は当時まだそのことをやっていた。ところが400万ドルに関する限りは、米国は支払おうと思っていたものの、金が無くなった。それはベトナム戦争があったから。逆に日本は特需で儲けた。だから「日本から取れ」ということになったと思うけれども。
 ところがロジャースという国務大臣は弁護士でしたが、私もよく知っているのですが、

(中断)

 ですから米国は沖縄占領中、その金は後から結局日本から取ることになったけれども、少なくとも自分で払ったという形にしたかったわけです。愛知さんも知っているわけですから、「400万ドルは、3億2000万ドルに入っているのですから、払いましょう」と言ったわけです。するとロジャースは「それはありがたいけれども、米国が払った形にするためには信託基金に入れておかないと払ったことにはならない。そのためには一筆書いてくれ」と言ったのです。愛知さんは「いい」と言った。しかし「書くことが外に漏れることがあるか」と聞くと、「それを保障できない」との回答だった。愛知さんはうまい文面を探そうとした。そうしたら愛知さんはそのうち忘れたのか、書くのが嫌だったのか、書かなかった。すると協定発効の2、3日前にスナイダーがやってきて、「せっかく我々は信託基金に入れるとうまく払ったことになるから、そういうことが信託基金に入れたということにした。しかし万一、米国に意地の悪い議員がいて、「大体なぜ沖縄を返すのか。ベトナム戦争が続いている間は基地として使わないといけない。のみならず、日本はベトナム戦争で大儲けしている。だから、急いで返す必要はない」と言いだした時に、ここにある一筆を見てくれ。もう信託基金に入れることははっきりしている。ただし、これは吉野とスナイダーがちゃんと説明書を書いている。そういうときに使うからイニシャルしてくれ」として持っていたのです。するとスナイダーが言うには、「これは使わないかもしれない、そんな議員もいないかもしれない、口頭で説明したら問題ないかもしれない。万一使ったら知らせるからイニシャルだけしてくれ」と言った紙なんです。だから証書でもなければ何でもない。説明用の紙なんです。なぜかというと、3億2000万ドルという厖大な金を米国に払うことになり、そこから400万ドルを払うことになっていた。愛知さんも、我々も、米国もそう思っていた。だから特別な金ではない。ところが西山君は、その時にはこのことを知らないので。彼は勉強して分かったのでしょう。
 ところが、ボイスオブアメリカ(以下VOA)というもっと大きな金を米国は日本に請求していたのですね。VOAは米国のラジオですね。これはただの対外宣伝のラジオ放送局ではなく、そこから米国は対岸の中国の情報をそこから取るためのものでもあった。どういうようにしてやったのかを私は考えたけれども、対岸の中国で行進する兵隊の歩く靴の音が聞こえるという。それは米国が小さな、これみたいに(ICレコーダーを指さして)それを中国に落としている。そんなものはいずれにせよ日本は困ると。持って行ってくれと。米国は、「持っていくけれどもどこに持っていくのか。場所を探してくれるか」と。私は探せない。しかも費用もかかる。5年待ってくれといった。1600万ドル要ると。400万ドルよりもっと大きな金です。さらに日本の郵政庁は「是非持って行ってくれ。国内にそんなラジオ放送局があったら困るから」と。400万ドルどころではなく1600万ドルも入っていた。それに米国にタダで貸した金もあるし。

―ところで、記者クラブは米国にはないですよね。

吉野 あれは日本の記者が縄張りでやったのでしょう。あれは恐らくそのうちになくなるのではないでしょうか。あれは独占だと思うんですよね。

―外国人記者は批判しますよね。

吉野 そうですね。日本にしかないですね。
 それから当時、西山君は大平さんの秘書みたいなものだったから、政治運動をやっていたから(笑)。例えば渡邊恒雄と同じように。渡邊なんて大威張りしていたからね(笑)。今は歳も取ったから。

―記者クラブは外務省の役人からしたらどういう存在なのですか。

吉野 情報局長か何かが週1、2回記者クラブの連中に講義をしていた、広報の役目ですよね。しかし実際には、物を取るのがうまい人は(役人を)回ってね。キャップが引き連れてね。

―吉野さんは夜回りとかありましたか。

吉野 あの頃は、私は遅くまで帰らないから。朝の2、3時に自動車で帰ってきていました。東京に移らないといけないと思っていましたけど、その頃になるとまた外に出ないといけないんですよ。
 外務省に勤めている間は(記者とは)飲みませんでしたね。大使をやっている間は飲む練習をしたけどね(笑)。

―記者を警戒していましたか。

吉野 私が忙しくてね、ほとんど記者も訪ねるわけにはいかないから。安川さんなんかは何もしていないから(記者はそちらに行っていた)。
 私も大学時代は、当時は帝大新聞にいたんです。そして海外の動向を(書いていた)。当時、まだ有名ではなかったオッペンハイマー(Franz Oppenheimer、ドイツの政治経済学者)夫妻が、ドイツから逃げてきて、上海から米国から行く途中に日本に来た時にインタビューに行きました。記者になりたいとは思わなかったけれども。
 他の連中は高文試験といって、勉強だけしている。なんであんなに勉強しているのか私は分らなかった。そんな必要があるのかと。本当の意味での勉強をすればいいのに、暗記しているだけだから。私はそんなものは抜きにしていたけれども。高文の試験だけは勉強しなくても私は三つ受かった。書き方がうまかったのでしょう(笑)。外交と、法科と、行政。
 ところが私の親父は弁護士で、家に帰って弁護士やろうと思ったら、「外交官になれ」と言う。私は背も小さいし金もないし。すると親父は、「外務省は一番たくさん信任官がいる」と。天皇陛下が任命する。「信任官が一番多いから外務省がいい」というんだよ(笑)。
 仕方ないからなったというわけではないのだけれども、その時、口頭試験、面接があるのです。それで面接で外務省に行ったら、「大学を卒業したらいけない。卒業したら兵隊に取られるから。だけど、外務省に来ればすぐにドイツに行って、3年間ドイツ語を大学で勉強ができる」と言われた。みんな兵隊に取られ、弟も学徒動員でフィリピンに行って戦死しました。まだ戦争が始まっていなかったけど、引っ張られてはいけないと思って、外務省に行った。するといきなり、「すぐにドイツに行ってドイツ語をやれ」と。それで3年間、ドイツ語を勉強することは別にして、ともかく大学を見たいと思った。
 ところが外務省に入って、シベリア経由で行けということで、ビザを取ろうとしてロシア大使館に行ったものの、なかなかビザを出さない。当時は、日本人を一人シベリア通過させると、ソ連人一人を日本を通過して米国に行かせるという取りきめがあった。そこでなかなかビザが下りなかった。12月頃に準備していたものの、3月ごろまで待った。それでもまだビザが下りない。外務省は米国経由で行けということになって、おかげさまで私は米国を通って大西洋を横断して、ポルトガルのリスボンに着いて、フランス、スイス、オーストリアを通ってドイツに行った。

―対談の際に「人間は過ちを犯す」とおっしゃいました。ただそのためには、資料を保存しておかないといけませんが、最近機密書類が多数焼却したという話がありましたが、当時からそういうことがあったのでしょうか。

吉野 そういう命令はなかったです。あの頃はなるべく電報は言葉が短く、なるべく短くして要領よくして読む人に意味が通じるようにという、電報を書く技術を上の人が下の人に教えていました。電報を電信化して記録されるようになった。あまり詳しいことを書くと赤線で消された。だからおよそ新聞に出る長い文章は書けなかった。ああいうのを書けるようになったのはコンピューターが普及してからでしょうね。

―吉野さんはパソコンやられるのですか。

吉野 昔はやりましたけど。今はもうバカらしくて。もう止めました(笑)。

―今回の廃棄は谷内さんが命令したのですか。

吉野 焼いたのかな(笑)。ちょっと(1280万トンは)大きいと思うけれども。外務省の建物はそんな重たいものを保管しておくだけのあれがね(笑)。

―沖縄返還の際に支払ったお金が結果的に思いやり予算につながるわけですが。

吉野 金の方は大蔵省が独善的でね。一緒に交渉しながらも金のことは一切黙る。「口出すな」と言う。大蔵省は一番それがひどいですよ。外務省は聞きにいけばほのめかすこともありますが、大蔵省は一切(ない)。大蔵省の秘密主義はすごい。

―外務省と大蔵省の確執はありましたか。

吉野 沖縄返還については、確執みたいなものは、最後に柏木が持って来た時に「それは無理だ」と言って柏木を困らせたこともあった。
 しかし、大蔵省はその前にまだ私が若い頃に対外援助をやった。これは最終的に大蔵省から金をもらってやる。ところが大蔵省は警戒していて、「吉野のところには大蔵省の人間を付けてはいけない」と。ラオスに対外援助の話をすることがあった。でも大蔵省は協力しない。だから私の方から大蔵省の役人のところに行って、「行かないと時代遅れになるから行け」と言って、一人付いてくることになった。
 するとラオスはまだベトナム戦争が深刻ではなかった時ですが、米国の大使がいて、「日本がラオスを助けるのであれば、俺も乗るから是非やってくれ」と。大蔵省の役人を持ちあげてくれるのです。すると大蔵省の役人は「助けないといけないのかな」と思う。
 ラオスにはナングムダムがある。単なる山だった。その上に湖があって、そこから下まで水を落とすと物凄い電力が起る。そのダムを当時、日本のクボタが請け負った。すると米国の大使が「日本が1出せば2出す」という。だから、やるということにした。すると大蔵省は仕方ないからお金を出すことになった。おかげでラオスは何も輸出がなかったけれども、ダムのおかげで、ようやく少し金の余裕ができた。タイに電力を売っていたから。
 みんな大蔵省が(金を)握っていた。そうしていないとあちこちからお金を引っ張ろうとするからね。我々は出すべき金と、出してはいけない金を分かっているからね。

一同 長時間ありがとうございました。


掲載日:2010年5月23日
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