Asano Seminar:Doshisha University
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浅野ゼミ・公開特別シンポジウム報告

足利事件は終らない
―今、私たちは何をすべきか―




 「人間として最も輝く時代を奪われた。冤罪を少しでも減らすために、警察、検察は取り調べの全面可視化に踏み切るべきだ」(布川事件被告人の杉山卓男さん)。2010年3月、足利冤罪事件被害者の菅家利和さんが完全無罪を勝ち取ったことを受け、浅野健一ゼミは5月13日、今出川校地新町キャンパスでシンポジウム「足利事件は終らない―今、私たちは何をすべきか―」を開催した。
 シンポには一般市民も含め約200人が参加した。菅谷さんが大学に到着後に体調を崩したためプログラムを一部変更し、昨年12月に最高裁で再審開始が決定した布川事件の桜井昌司さんと杉山卓男さんが基調講演。桜井さんは事件当時を振り返り、「朝から夜中までおまえが犯人だと刑事に言われ、本当につらかった。最後にはもうどうでもいいと思い、うその自白をしてしまった」と語った。
 続いて、菅家さん支援会会長の西巻糸子さんが「犯行現場を歩いて菅家さんの無実を確信した。裁判官は、最低限現地調査ぐらいはやってほしかった」と訴えた。
 第二部の討論では「甲山事件」で無罪が確定した山田悦子さんは、「裁判員制度が始まっても、報道は何も変わっていない。有罪判決が確定するまで容疑者は推定無罪だという司法の理念を報道で実現するべきだ」と訴えた。読売テレビの春川正明解説委員は「逮捕時の犯人視報道をやめることが大事だ。また、警察検察に全証拠を開示させるべきだ」と述べた。
 布川事件の再審が今夏、水戸地裁土浦支部で始まる。冤罪はなぜ起きるのか、報道の役割は何かを考え続けたい。(社会学部メディア学科・浅野健一)

 2010年5月13日 午後1時15分~4時 尋真館31番教室(Z31)



桜井:こんにちは。布川事件の桜井です。私はみなさんのように勉学というものがなく、高校1年、岩崎一高ってところに入ったのですが、私は半年で卒業しまして、杉山はあとで知ったのですが、2年ぐらいで退学になりました。そのあと私は適当に生きていました。真面目に働くでもない、真面目に頑張るでもない。遊ぶのは大好きだったものですから、お金ないですよね。お金なくても頑張ればいいのでしょうが、ちょいちょい人のものに手を出してしまっていたというのが20歳の頃の私でした。そのころに私の住んでいる利根町というところで玉村さんという人が殺害されまして、8月28日といわれていますが、だんだんと逮捕の順番が回ってきて、私が逮捕されたのは10月10日でした。事件があって40数日後だったものですから、あんまり思い出せないですよね。もしみなさん、今から40日前に、どこで何していたって警察に聞かれて、簡単に答えられる人はいないでしょう。みなさんは真面目に勉強やアルバイトをしているでしょうから、分かるかもしれないですが、当時の私というのは、毎日適当に動いていたので、記憶がつながらないのです。あそこは楽しかったな、ここはおもしろくなかったな、そういう記憶しかなくて。
   でも、たまたま昭和40年8月28日っていうのは、自転車を質屋に入れて、競輪場へ行って負けた日だったんですね。そしてたしか兄貴のアパートへ行って泊めてもらったなって思って言ったのですが、警察には「お前のアリバイを調べたけど違う」って言われました。みなさん、警察を信じたらだめですよ。必ず、そう言うんだそうです。警察というのは、被疑者として逮捕して目の前にいる人間には「やってない」って言っても、「違う」と必ず言うんですよ。そんなの、知らないよね。自分は警察が調べたって言ったら信じるじゃないですか。43年前の当時というのは、警察を疑うなんて誰もしなかった時代でした。自分も信じていた。警察というのは真面目に、一生懸命誠実に調べるものだと思っていたけど、全然違った。「お前のやってきたことを調べた」と言われたら、信じちゃうでしょう。でも、信じたら事実と違うから答えられないんですよ。「おかしいな、兄貴の家に泊まったはずだなあ。違う。じゃあどうしたんだろう」「お前、何か隠してるだろう」「隠してないです」「隠してないんだったら何か言いなさい」「いや思い出せないです」「そりゃおかしいな」って、こういうやりとりで下、私の場合。菅家さんの場合は、最初の取調べでいきなり殴られたそうですね、「菅家お前がやったんだろ」って。
   私の場合は一度も殴られたことはないです。「おかしいなお前。なんか隠しているんだろう」こういう取調べでしたね。これが意外ときついんです。みなさん多分、いろんな勉強したり苦労をされていると思いますが、私はそれまで苦労したり辛抱することを知らなかったので、信じてもらえない、疑われるっていうのは本当につらかったですね。朝の9時頃から夜中の12時頃まで(取調べを)やられたら、疲れますよね。一度もまともに勉強し、努力したことのない人間が、朝から晩まで「お前が犯人だ、証拠がある」。これはつらかったです。
   私は最初に逮捕されたときに、自分一人が疑われていると思ったんです。私のことをあまりに犯人だって言うものですから、なぜアリバイを思い出せないだけで犯人なんだって言うと、「お前と杉山だ」って言われました。これを言われるまで、杉山と疑われるなんて思っていなかった。杉山とはあまり仲がよくなかったんです、昔。逮捕される1週間ぐらい前に殴られたことがあるんですよ。「殴られたやつと一緒にやらないよ」「いやお前と杉山だ。杉山が道路に立っていて、道路を通った人が杉山を見ているんだ。お前は家の奥の勝手口にいて、被害者と話していたじゃないか」。自分は言ってないですからね、そんな事実ないんですよ。でも見た人がいるって言われたら、いると思うじゃないですか。だから杉山がやったと思いこんじゃって、「あいつビール瓶で殴ってきたりしたけど、とうとう殺しちゃった」と思ったんです、当時は。「俺じゃないです、杉山と誰か調べてください」「いやお前だ。お前と杉山だ」「違います」「いや俺はね、お前のアリバイを調べたんだ。8月27日は同級生の渡辺の家に泊まっただろう。29日はお姉さんの家に泊まったじゃないか。27日はわかる、28日はわかりません、29日はわかるなんていうのは、中学生が数を数えて、1,2はわかる、3はわかりません、4,5はわかる、なんていうのと同じじゃないか」とこんなことを言うんです。言われてみればその通りですよね、でも思い出せないんです。「それはお前、隠している証拠だ。後ろめたいことがなければ言えるはずだ」。こんなことを言われました。もうつらくて、つらくて。夜の12時頃になってもう苦しくて、「眠いです」と言うと、「お前はやましいから眠いんだろう。やましさがなかったら言わないはずだ」「いや眠いです」「わかったから。明日は話せ」。
   こういう取調べが2日、3日と続いて、ウソ発見器にかけられたんです。みなさん、ウソ発見器かけられたことがありますか。あれって意外と当たるんですよ。当たるっておかしいですが。最初に予備実験をやるんですよ。指先の発汗作用と呼吸と心電図のモニターをつけて、A,B,Cと書かれたカードを3枚伏せて、1枚だけ見てくださいと言われました。「今から3回質問します。すべてNOと答えてください」と言われました。それでモニターを見ていますと、モニターに3本線があるんですが、ぱっと5センチぐらい上がるんです。「あなたは非常に反応がいいです。では、今から質問に答えてください。あなたは、昭和22年生まれですね」「はい」それから何秒間か黙るんです。
   何を聞くのかな、と思っていたら、「あなたは利根町に住んでいますね」「はい」「あなたの本籍地は栃木県ですね」と聞かれたあとに突然、「あなたはこの事件の犯人を知っていますか」「知りません」「犯人は1人ですか」「知りません」「2人組ですか」「知りません」「あなたは利根町の商店に脅迫状を投げ入れましたか」「知りません」これがいっぱい続きました。そしてこれが終わった後に、「よくわかりました。あとは取調べの方に理解していただきなさい」と係員さんに言われましたから、「ああ、これで苦しい取調べをしなくて済む」と思ったんですけど、違いました。ハヤセシロウって人でしたが、もう死にましたが、「俺にはお前と同じ年の息子がいる。お前が犯人じゃなければいいと思ったけどもうだめだ。ウソ発見器が犯人と示した以上、もう逃れられない」。こう言われた瞬間、もうどうでもいいと思ってしまった。「じゃあわかった、認めます」。こう言ってしまった。みなさん、ウソの自白って簡単にできないと思うでしょう。これが意外と簡単にできちゃうんですよね。みなさんは京都の人ですから、利根町を知らないと思うのですが、私は利根町出身で、布川小学校、布川中学校の出で、被害者も顔見知りでした。どういう風に殺されていたかも聞いていたんです。八畳間で、押入れの前でワイシャツでぐるぐる巻きにされていて、タオルで縛られていて。さるぐつわをされていて、壁がぶち抜かれていて、床下から何百万、何千万の金が盗られた、とか。そういう話をつなげれば言えるんです。「お前、被害者の家に行った時どんな服装をしていた。長袖。半袖。」8月28日だったらわかるでしょう。「半袖だったかな」「半袖ね。色はどんな色。」「白っぽかったかな」「襟つき。」まあ、たいていの服には襟がありますから、「ついてたかなあ」と答えると、「え、襟ついてたの。」と聞き返される。ああ、これはついてないんだなってわかりますよね。「襟なしだったかな」「ああ、襟なしね」「ズボンは何色。」「黒っぽかったかな…いや違うな。紺色だったかな…いやいや」と、こういう取調べなんですね。
   捜査官は現場の図面を持っていまして、資料と(供述が)合うまで何度でも聞くんです。「お前は人殺しをして動揺してるから、覚えてなくていい」「何度も答えるうちに思い出すから言え」って言うんです。つまり、捜査官の言うことを聞いて、あっちでした、こっちでしたって言えば、どんな人でも嘘の自白できちゃうんですね。私は10月15日に嘘の自白をさせられて、16、17、18日、毎日こういう質問を受けて、自分がやったように言った。今でも覚えています。でも、まさかその自白のおかげで無期懲役になってその後29年間刑務所に入って43年たって同志社大学に来るなんて思っていなかった。普通に、無罪になると思っていた。ところが、一番ばかなのは裁判官ですね。どうしようもないですね、あいつらは。
   私は「裁判村」ってよく言ってます。司法試験に受かる、裁判村。どっかおかしいですね、あの人たちの考え方は。まともなことが通じない。裁判で、「あなたなぜそんな大事な日を忘れたんですか」って裁判官に言われました。かっとなってしまって、「大事じゃない。昭和42年8月28日なんて俺にとっては普通の1日だ!」って言ったら、「あなた今裁判していると(その日が)大事でしょう」って言うんですよ。「今になったら大事なのは当たり前でしょう。でも昔は普通の日でしたよ」って言うと裁判官はむっとして、そっぽ向いたんです。この裁判官、俺のことわかってないな、と思ったら、やっぱりわかってなかった。無期懲役になりました。ハナオカマナブってやつでした。
   東京高裁へ行って、もちろん無罪を主張した。昭和48年、控訴棄却されて、最高裁へ行っても昭和53年に我々は無期懲役が確定した。つらかった、というか、絶望でした。みなさん、目の前が暗くなったことありますか。自分は楽観主義者なので「明るく楽しい布川事件」って言っていて、自分自身明るく楽しく生きてきたつもりなんですが、さすがに最高裁で棄却になったときは目の前が真っ暗になりました。人生終わったと思いました。31歳で終わっちゃった。俺、なんだろう、どうしちゃったんだろう、俺の人生って思いました。でもしょうがないんです、なっちゃったんだから無期懲役に。一度も真面目に働いたことがなかったので、刑務所行ったらまじめに働こうと思ったけど、その考えは3日ぐらいで変わりました。刑務所って朝の6時半に起きて7時半に工場へ行って仕事をして、夕方4時半までだいたい仕事なんです。午前中15分午後15分昼休み50分ってあって、その内30分は運動時間になっちゃうんですが。私は靴工場に行っていました。菅家さんも千葉刑務所だったね。菅家さんは4~5年刑務所にいたみたいだけど、4~5年じゃあまだ根性が定まらないんだよね。18年ぐらいいると考えが変わると思うんだけど、自分は50歳まで入れられましたからね。これは大変でした。みなさん、20歳過ぎぐらいでしょう。みなさんと同じぐらいから、49歳11カ月まで刑務所に入るんですよ。これはちょっとねえ…何と言ったらいいのか。でも、あの日々というのは今から考えるとすごく満ち足りていました。あんなふうに自分が満ち足りていたときってないなあと思います。
   刑務所っていうのはほとんどだめなんです。NOの世界。許可されたもの以外は一切だめっていう世界です。米国とかは不許可以外は全部OKとかで、考え方が全然違う。座ってろって時間は立っちゃだめなんです。午後9時になれば電気が消えて、小さな豆電球になるのですが、「桜井、寝なくてもいいから横になれ」って。翌朝6時半になったら嫌でも起きるしかない。そういう縛りの中で、自分が一生懸命動けば、「やった」っていう満足感はあるんです。工場へ行って、今日はいい繊維を作ってやる、運動時間になったら一生懸命動く、今日はソフトボールだって。休憩時間になったら将棋やって明日は碁やって。音楽サークルに入っていたので、1曲いい歌を作ればいい。いっぺんいい詩を書けばいいって。アルバイトもしていました。6時から3時間。靴を作っていました。そういう毎日を一生懸命過ごしていると、満ち足りているんです。
   社会に帰ってきてもう10年になるのですが、意外と「俺の人生これでよかったのかな」って気がしてくるんです。シャバに出てきて10年、家に帰ってから、本を読んだり詩を書いたり、そういう努力をしなくなってしまいました。やっぱりお酒飲んだり、みんなと楽しく過ごしたりしちゃうんです。そうすると、俺の10年って本当にこれでよかったのかな、と思います。最高裁決定出たら、よけいそういう思いが強くなりました。あの刑務所時代の不思議な充実感はなんだったんだろうと思います。今、昨年12月に最高裁決定が出て、本当に自分は安らかな気持ちに戻ったんですが、なんだかちょっと複雑な気持ちも出てきました。これでいいんだろうかって。もしかしたら、自分には違った道もあったかもしれないって気持ちになってきました。
   これから菅家さんのようにマスコミに追いかけられて、来月6月12日に三者協議ってありまして、これで第一回公判が多分決まると思います。7月9日あたりになるでしょうか。公判で無罪になると思いますが、そのときマスコミが寄ってきますよね。でも、終わったとたんぱっとマスコミは退きますから。そのために有頂天になっちゃったら大変ですよね。だから自分は今、怖いなという気持ちがしています。それと同時に、非常に腹が立っています。警察に、検察官に、裁判所に腹が立っています。
   なぜわれわれが有罪になったかというと、やったという嘘の自白をしたせいです。でも、僕はなにも証拠がないんですよ。事件現場には40数個の指紋があって、被害者や銀行員の指紋とも違うから、誰のものかもわからない指紋。それを刑事さんは裁判の中で、「指紋じゃない」って言ったんですよ。ところがそれは、指紋だったわけです。その他にも、事件現場には8本の髪の毛が落ちていました。そしてその8本の髪の毛と、桜井・杉山の髪の毛とを比べると、「形状が違う」っていう鑑定書を35年間検察は隠していました。なぜ隠したのでしょうか。事件現場に指紋があった、髪の毛があった。一人暮らしでしょう。その家の中にわれわれとも被害者とも違う指紋や髪の毛があったら、それは真犯人のものじゃないですか。だからこれを出しちゃったら、われわれを有罪にできないと思った検察が隠してしまったんです。こんなの犯罪行為じゃないですか。それだけじゃないです。事件現場を8月28日の夜に通った女性がいました。ウエキミチコさんという方なんですが、彼女はモリスギさんという人の家に野菜を買出しに行こうとして、その前に被害者の家に寄ろうとしたんです。被害者は大工さんと言われていたので、窓ガラスを直してもらおうと思ったようです。ところが、勝手口のところへ行くと、被害者が誰かと話している。「あ、今日はお客さんがいるんだ」って通り過ぎようとしたら、玄関のところに1人立っていたっていうんです。それは杉山じゃないって言っています。「あれ、なんでここに人がいるんだろう」って思いながら通り過ぎたと言っています。それから彼女は自転車で7~8分走ってモリスギさん宅へ行って野菜を買って帰った。でも帰宅しても旦那さんは帰っていなくて、ふっとテレビを見たら7時30分、ニュース解説だった、とこういう調書を検察は35年間隠し持っていました。
   なぜこれが大事かと言いますと、われわれは当時東京にいたので、7時6分着の電車で利根町に帰って来たのです。駅に7時6分につきます。それから被害者の家までまっすぐ歩いても17分かかるんです。どんなに早く歩いても7時23分じゃないですか。ウエキミチコさんは、被害者の家の前で2人組を見て、自転車で7分ぐらい走って、モリスギさん家へ行って、さらにテレビを見たときに7時30分だったのです。どう考えても、(犯行時刻は)7時23分より以前じゃないですか。われわれを犯人にするのに不都合だからって、こういう調書を検察庁は35年間隠し持っていたのです。こんなのいいんですかね。
   昨年12月14日に最高裁決定が出て、翌日15日に再審開始が決まったのですが、その翌日、朝日新聞に昭和42年当時、茨城警察で鑑識員をしていたという市長さんがインタビューに応じていました。彼は、私が当時警察庁に派遣されて、鑑識をやっていました。ところが、刑事さんから2人の指紋と合わせろと言われた。長い鑑識課生活で指紋を調べろと言われたことは何度もあるが、合わせろと言われたのは布川事件だけだ、とこう言うんです。だから、ずっと布川事件は不思議な事件だと思っていた、と言うんです。これ、どういうことかわかりますか。でっちあげだったということです。彼らは供述したんです。このキリヤマさんという方は、県警の鑑識課長補佐まで出世されて、辞められた方です。
   私はそのニュースを聞いてあることを思い出したんです。昭和42年11月3日だったかな。ハヤセシロウってやつが、「桜井、今日はお前が事件現場でいろいろやったやつを見せていくから答えてくれ」と言って来ました。私が縛ったとされるワイシャツ、私が縛ったとされるタオル、あるいは被害者の口に当てられたパンツ、財布とかです。そのときに、真犯人が壊したらしいものを見せられたんです。「桜井、これお前が壊したんだろ。ちょっと触ってみてくれ」。私はすぐに気づいて、「嫌です、触りたくありません」「お前は自分が壊したやつを触れねえのか」「嫌です」。あのときもし自分が触っていたらどうなっていましたか。指紋発見ですよ。再審開始決定なんて出ていないです。そういうことをするのが警察なんです。みなさんが思っているより警察は汚いですから。自分たちの目の前にいる人を犯人にすること、それが正義だと思ったら、なんでもやるんですよ。
   あとで西巻さんがお話になるかもしれませんが、足利事件はああいう形で無罪になって、資料にもありますが、検察官と県警が盛大に詫びていますよね。本当に詫びているんじゃないんです。形だけ、頭を下げているだけ。最高検と県警が、なぜ菅家さんを犯人にしてしまったのかということを書面にしました。それを読んだのですが、「県警も最高検もDNA検査を誤ったことによって、我々は菅家さんを犯人と決めつけてしまった。菅家さんの迎合性に気がつかなかった。菅家さんの、人の言うことにハイハイと言ってしまう性格を見抜けなかった。あの人をでっち上げたわけじゃない」って言ってるんです。許せない。それが警察なんです。
   実は私たちの布川事件も、再審はもうすぐ始まりますが、検察官が、私が縛ったとされるワイシャツ、タオル、口に詰めたとされるパンツのDNA鑑定をやるって言っているんですよ。なぜかわかりますか。43年前にDNA鑑定はありませんよね。だから、慎重になんて採取していないわけです。しかも誰が触ったかわからないんですよ、パンツなんてもはや。今はDNA鑑定がありますから、証拠は厳重に保管されていますが、当時はそんなことありませんから。誰が触っているかわからない、いろんな資料が混合している。そんな中でDNA鑑定なんてやったらどうなるか、わかりますよね。もしかしたら菅家さんと同じようにでっちあげられるかもしれない。そして、43年前のDNA鑑定は出ないと専門家は言っていますが、彼らがなぜやるかと言うと、それを言い訳にするためです。「DNA鑑定をしました。
   しかし、43年経っていたので結果は出ませんでした。これが10年、20年前だったら結果は出ました。われわれは、布川事件の2人を犯人だと確信しています」と、そう言うのだと思います。もし裁判所が道理をもって「43年前の結果は出ないからやめましょう」と言ったら、「DNA鑑定ができないおかげで犯人と証明できません。でも、われわれは布川事件の2人を犯人だと信じています」そう言うんですよ、彼らは。なぜそう言うかというと、もし検察が「布川事件でわれわれは間違いました」と言ったら、われわれ2人をでっちあげたことを本質的に反省するしかないからです。冤罪って嘘の自白で作られたものですからね。多分、彼らは反省しません。できないでしょうね。これに今、腹が立っているんですよ。
   多分みなさんは、私たちと同じように冤罪で刑務所に入って20年、30年経っている人に会う確率は少ないとは思います、宝くじが当たるより少ないかもしれない。でも、裁判員制度があって、もしかしたら来年にも、今年中にも裁判員に選ばれるかもしれない。今も同じような裁判が続いているんですよ。いろんな裁判の中で、すべての証拠は裁判所に出されません。検察官は、自分たちに都合のいい証拠だけを出すんですよ。おかしいと思いませんか。犯人にするのに都合のいい証拠しか出さないんです。これが「裁判村」です。こんなことをしても、「当事者主義」といって許されるんですよ。検察官は検察官の当事者。「私は検察官としてこの人を有罪にするために集めた証拠だから、これは私たちが出します。弁護団は、弁護側当事者として、証拠を集めなさい」なんて、こんなのおかしいじゃないですか。43年前に集めた証拠なんていうのは、誰が犯人かわからない状態で集めたものでしょう。
   その証拠を、本当は弁護団に全部開示して、それで公平に判断するのが裁判ではありませんか。私はこのところたくさんの国賠裁判を見に行っています。一昨日は、大阪の大阪地裁所長襲撃事件を見に行きました。あの少年たちはアリバイが証明されて無罪になったのですが、検察官は未だに「われわれは、この人たちを犯人と信じている」って言うんです。私たちはアリバイなんて信じません、って言うんですよ。アリバイが証明された人さえも、検察は裁判の中で犯人と言っている。こんなのいいと思いますか。なぜこんなことが許されるのか信じられません。
   ですから、今みなさんに一番言いたいことは、こんな風な検察官は犯罪者にしましょう、ということです。まっとうに裁かれるようにしたい。みなさんは今日車を運転されるかもしれませんが、仮に交通事故を起こして人をはねたら、過失になりますよ。どんなに一生懸命注意したって、人をはねたら過失になるんです。お医者さんだって、どんなに一生懸命医療行為をしても、医療過誤で訴えられるかもしれない。弁護士だってあります。弁護過誤で。なぜ警察官は人をでっちあげて犯人にしておいて、アリバイが証明されて無罪判決が出ても犯人だと確信している、なんて言えるんですか。こんなことを許している社会がおかしいです。もし、医療過失罪、弁護過失罪があるんだったら、捜査過失罪だってあって当然じゃないか。証拠を隠している検察官が犯罪者にならないなんておかしいですよね。
   実は昨日狭山事件の集会に行ったのですが、石川さんの8点の新たな証拠が出てきたそうです。この証拠が出れば無罪になるようなものです。警察は出しません。布川事件には120点証拠を出したんですよ。狭山事件は出さないでいいと思っているんですよ。検察庁をなめているんですよ。裁判の中で石川さんが無実の証拠を隠しているっていう同意の声を大きくしないと、裁判に勝てないんですよ。私は少し立場が違うかもしれませんが、本当に無実の人が苦しんでいる世の中っておかしいと思うんです。みなさんがもしかしたら冤罪になるかもしれない。菅家さんは三男坊で、自分と杉山は次男坊で、長男の石川さんはまだ刑務所を出れない。ですから私は、石川さんが勝つまでどんなことでもします。ですからみなさん、今でも冤罪はあります。冤罪被害者の人たちは泣いています。みなさんの若い心を冤罪にも向けていただいて、ぜひお力添えいただけるとありがたいです。ありがとうございました。

松野:貴重なお話をありがとうございました。では同じく布川事件の杉山卓男さんからお話しいただきます。よろしくお願いします。

杉山:みなさん、こんにちは。布川事件の杉山と申します。私たちは43年前の強盗殺人事件で逮捕されて、今再審が確定して、今度最初の公判を行うことになっています。当時、どうして犯人にされたのかといいますと、事件が起きて犯人が捕まらない。警察は、いろんな人を調べたのですが、最後に残ったのが私と桜井しかいない、そういう状態で、どちらも町のワルだったので、逮捕されました。私の場合は暴力行為と法律違反ということで、その年に作られた法律で逮捕されました。いろいろな誘導を用いられ、自白させられました。そこで取られた調書がどうやって使われるのか、説明したいと思います。
   私の場合は、最初に情状書を書け、と言われました。どうやって書いたらいいかわからないというと、警察の方でひな形を教えるから、と言われ、「被害者に本当に申し訳ない」とその通り書けと言われたので書きました。その次に図面を書けと言われて、「そんなことを言われても被害者も知らないし、被害者の家も知らないから書けない」と言うと、最初は鉛筆で書けと言われました。鉛筆なら書きなおせるからです。真犯人なら書きなおす必要なんてないと思うのですが。それから、普通の家はどうなっている、と言うんです。今の東京では丸や三角の家もあると思いますが、昔40数年前の田舎にそういう家はありません。「四角。」って言ったら「そうだ四角を書け」と言われて、四角を書いた。そのあと「また書けない」「普通の家には何がある」「…タンス」「タンスはどこにある」タンスが部屋の真ん中にある家はそうないな、と思って「端の方」「じゃあその端にタンスを書け」。「あとはどうなっていた、下着はどこにあった」と聞かれたが、全然わからないと答えたら取調官が、現場検証調書という図面を持ちだして来まして、こうやって下を持つんですよ。そうすると前に座っている私に丸見えになるんですよ。5分ぐらい見せておいて、「見せちゃだめだ」って隠すフリをするんです。でももう見えちゃっていますから、書けるだけ書きました。そういう図面の書き方をしました。それから、先ほど桜井も話していた被害者の服装などについては、取調官が大学ノートを持っていまして、赤白青黄色とか書くんです。「この中から選べ」と。シャツは何色だ、ってそういう調べでした。調書が全部終わってから、「これから録音テープを録るからな」と言われました。これは後で知ったのですが、自白調書に任意性があるということを証明するために録ったようです。「今から録音するからな。今まで調書にしてきたことをしゃべればいいから、わからないことは今のうちに聞いておけ。今から調書を読むから」と読んで聞かされて、やったんですが、一回目の録音は失敗で、2~3日後にもう一度来て、「この前は失敗だった、もう一度録りなおすから。今日はもう少し詳しく教える」と言った。不正がないんだったら録りなおすことなんてないのにね。丁寧に教えてくれて、このとおり答えろって言われた。最後に「今日の録音テープはよく録れた」って言って帰りました。録音テープは、2本あるはずなんですよ。でも公判で出したのは1本だけです。もう1本は今もって「見当たらない」と出してもらえません。調書にも1本目を録った記述があるのに出してもらえないんです。桜井は2本出されてるんですが、桜井の方は時間が50分も短縮されていて、中身も改ざんされていて、テープを二重に録ったりしているのが明らかになりました。そういう取調べを受けました。
   検察庁に送られてから一回、検察官に「私はやっていません」と言ったら、その検事は責任感のある人で、「じゃあ調書を取ってやるから」と言われ、書類上は強盗殺人は釈放となったんです。でも別件でまた取調べを受けまして、私は一回拘置所に送られたのに、警察の代用監獄へ逆送されたんです。これ(逆送)はもっとも許されないことです。それでまた別の検事に調べられましたが、その検事は聞く耳を持たない検事でした。それでまた自白させられて、裁判にかけられました。起訴になったときに勾留尋問というのを受けまして、「この調書に間違いはないか」と言われましたが「いややってない」と言うと、「おかしいな。被害者の家へ行って話してきただけか」と言われた。「被害者の家も顔も人間も知りません」「おかしいな」と言った裁判長が、1審の裁判長です。ですから、裁判も予断と偏見をもって行われたのです。録音テープを法廷で再生したのですが、そのときに裁判長が言った言葉は、「すらすら答えているようだがどうなんだ」「バカじゃないから、教えられたとおりに話したんだ」と言うと、「いやいや真犯人じゃなければ話せないはずだ、こんなにスラスラ答えられるはずがない」。こう言われたんです。ですから、この裁判長によって1審も有罪になって2審も有罪になって最高裁で負けて。最高裁で負けたときには私も目の前が真っ暗になりました。刑務所にいたとき、第一次再審っていうのを請求しました。そのとき受刑中の人間が裁判に出廷するのは異例のことだと言われながら出廷しましたが、有罪になりました。第二次再審では、私と桜井が仮釈放で出ていましたから、支援の訴えなどを行いました。
   これは少しおもしろい話ですが、私は去年、国連のジュネーブへ行きました。無期懲役の人間が海外へ行くことは出来ないんですよ、仮釈放中であっても。だから行けないとわかっていたので、誘いが来ても「いいですよ」って答えていたら、話しがとんとん拍子に進んでしまって、刑務所の方でも「杉山は真面目にやってるから行かしてやって」ということになり、一筆書いてくれたらしくて、国連へ行って訴えてきました。そのときに訴えたのは、拷問委員会っていうのですが、そのときのスペインの代表議員の人が、「日本の問題は、代用監獄と、推定有罪で裁判をやっていること、取調べ時間が長すぎることだが、これが一番当てはまるのが布川事件のケースだ」と言っていました。それでその後、日本から役所の連中に「本人が不当な裁判を受けていると言っているがどうなんだ」と言ってくれたんですが、彼らは「そのような不当な取調べはしていない」と私の目の前でしゃあしゃあと言いました。私と一緒にいた人たちがその答弁を聞いて、「杉山さんがあんまりじゃないか」と私の気持ちを代弁してくれました。私もバカじゃないからおとなしく聞いていましたが(笑)。日本政府に対して国連人権委員会の勧告が出て、それ以来、桜井も去年行ってきてまた勧告が出たりして、日本ではおかしい裁判が行われていることが世界に知られたと思います。
   私たちが最高裁で12月14日に再審が確定しまして、今度最初の公判があります。私は21歳で逮捕されましたが、逮捕された当時の自分を振り返ってみますと、毎日のように暴力行為、恐喝、障害、そういう事件ばかり起こしていました。逮捕されるまでは、仕事なんてしたことがなかったのですが、今は真面目になって仕事がおもしろくてしょうがなくなったし、結婚して小学生の子供がいるのですが、そういう人間になれたことを自分で自分をほめてやりたいと思っています(笑)。でもその半面、(布川事件の)犯人にされて失ったものも大きいのです。20代30代40代、一番人間として輝く青春時代をなくしたこと、それと私の場合は裁判で土地とか家とか裁判の弁護士費用のために売り払ってしまいました。今田舎へ帰っても家はなくて、墓だけがあるのを見るたびに、すごい悲しみと親への申し訳なさがあって、言葉では言い表せないほどの悲しみと悔しさでいっぱいです。これで裁判で勝てばいくらもらえるかわかりませんが、お金が入れば家は買えますが、家の中に集まっている親子の思い出というのはお金では買えないのです。それが非常に悔しくて、(親の)墓の前で呆然としてしまいます。もう失ったものは返ってこないし、いくら裁判に勝っても返ってこないんです。
   あちこち行っていろいろ聞かれるのですが、「刑務所に長く入っていてくじけそうになったことはないですか。何を支えに頑張れたのですか」と聞かれます。もちろん支援者の方たちも支えになってくれたのですが。自分はやってないという信念がすごく自分を奮い立たせてくれました。俺はやってないんだ、やってないんだからいつか、絶対無罪を取れると、それを思って頑張ってきました。もう少し頑張れば無罪になると思いますが、これからの年月も1日1日頑張っていきたいと思います。今年の夏以降は、足利事件に次ぐ布川事件の報道が全国的に流れると思いますので、注目していただければありがたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

松野:杉山さん、ありがとうございました。ゲストの紹介が遅れてしまったのですが、会場には、甲山冤罪事件の山田悦子さんが来られています。また2部でお話ししていただきます。それでは続きまして、足利事件の菅家さんの支援をずっとされてこられた西巻糸子さんにお話いただきたいと思います。どうぞご静聴ください。

西巻:足利からまいりました西巻です。本当に貴重なお時間でしたのに、菅家さんが体調を崩しまして、ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。でも、桜井さんと杉山さんのお話がすごくわかりやすかったので、ありがたかったです。感謝しています。
   足利事件に関してはものすごく報道されたので、(事件の)詳しいことは省略させていただきます。菅家さんは6月4日に再審開始を待たずに釈放されました。それからは、主任弁護人である佐藤弁護士とともにマスコミに取り上げられまくり、講演し続け、今までの刑務所時代、あるいは、逮捕される前ののんびりした運転手さん時代、過酷な拘置所時代、刑務所時代とはまったく違うものでした。刑務所にいる人が釈放されるときというのは、本当はある程度の社会復帰のための訓練がなされるのですが、本当にある日突然「釈放だぁあ」というような感じで、そのまま故郷に帰るつもりでいたら全然帰れなくて、佐藤弁護士のとらわれの身になりまして、(佐藤弁護士と)二人三脚でまた過酷な日々が続きました。それ自身が菅家さんにとって大変なストレスだったわけですが。それにプラス再審が始まりまして、テープの法廷内での再生がありまして、法廷のみんなのいる前で、自分が刑事に誘導されてしまって迎合してしまって、ボロを出しながらも自白を覆せない屈辱を味わわされました。
   菅家さんは法廷が始まる前ぐらいから(テープが流されることを)かなり深刻にとらえていて、自分の中では不安感でいっぱいだったのですが、それを無理に押し殺して法廷に出て、とにかく再審無罪は勝ち取れたのですが、その途中で足利にも帰ってこれたのですが、ほとんど夜逃げ同然で足利に帰ってきましたので、そういう状態でほっとしたとたんに自分が受けたひどい状態が戻ってきてしまって、夜全然眠れなくなってしまったらしいのです。お正月から本当に「死にたいと考えていた」らしいのですが、私たちには全然そういう目を見せなかったので、本当にまったく気がつかなくて、申し訳なかったなあと思うのですが、実はそういう状態だったようで、今はPTSDで、本当にベトナムからの帰還兵たちと同じような感じでPTSDに苦しんでいるような状況です。そして精神状態がそのような状態だと、いろいろなところに症状が出まして、栃木県の中では出来る限り大きな病院にかかったのですが、マスコミが取材に来るような恐れを感じて病院が入院させてくれなかったりとか、そういうのもあって、病院側に迷惑がかかるのでオフレコにしてください。すみません。そういう感じで、今とても苦しんでいる状況です。それで今日も身体に出てしまって、気分が悪くなってしまって、ご迷惑をおかけしました。
   どういうことをお話したらいいかと思うのですが、NHKの「免田栄の旅」という番組で、それはまだ菅家さんが釈放される前に取材を受けて、菅家さんが出所してから放映された番組なのですが、その取材を受けるときに、裁判員制度と冤罪のことで免田栄さんと話し合っているところを撮らせてくださいとのことだったのですが、私はどうしても裁判員制度というものに、本当に裁判員制度で裁判はよくなるのかな、たしかにみんなが裁判に注目してくれるよい面もあるかもしれないが、やはり量刑を決めたりなど手続きで証拠を限定してしまった書類の上だけで見てしまったりなど、不安感を持っていたので、私は裁判員制度には納得できないのですが、と(NHKに)言うと、「いいんです。裁判員制度の是非は問いませんから、とにかく免田さんと裁判員制度について話してみてください」と言われたのですが、出来上がった番組を見ると、やはり素人の主婦だから見抜けた、だから素人が入る裁判員制度で冤罪もなくなる可能性がある、というような論調で出来上がってしまって、「やはりそういう風になっちゃったか」と残念でした。私自身がこの事件のことを主婦だから、素人だから見抜けたのではなくて、素人だから冤罪の可能性があることを知ったときに、もう怖くて怖くて、それに取り組むか取り組まないかというのは、ものすごく人生の大きな別れ道のような感じで、すごく怖かったのですが、私より先にこの事件に疑問を持っていた人たちがいて、現地を歩きたいから案内してくださいと言われて、私はそれまで現地へ行ったこともなかったのですが、冒頭陳述とかをその方たちが手に入れていたので、それをもとに現地調査に参加させてもらって、これはもう全然無理じゃん、時間的にも現場の状況も全然違うじゃないっていうのがわかって、ほっとしたし、取り組む勇気も出てきました。かたや、専門家と言われている裁判官はほとんど現地調査もしないで裁判行われていますよね。だから、私が一番訴えたいのは、裁判官はなにがなんでも現地調査ぐらいは最低やってほしい、ということです。
   資料の中に「実況見分写真に真実性」っていう記事があります。これは「らせんの真実」っていう地元の下野新聞が組んだ特集です。初動捜査のときどのような感じだったかなど、ずっとインターネットにも出ていますので、よかったらご覧になっていただきたいのですが、これは一番最近の記事で、裁判官がどうして誤ってしまったか、というのを裁判官に取材をしています。中でもこの良心的な裁判官が、「DNA鑑定のことは一番大事だとは思わなかった」と言っています。「やっぱり一番重視したのは、自白だ」と。どうして自白を信用したかと言うと、実況見分写真に真実性を見たからだと言っています。それって何かというと、菅家さんが逮捕されて自白させられ、力尽き果てて「やりました」と言ったとたんに、刑事がそれまでの乱暴な態度を一変させて、ストーリーを突き合わせる段階に入っていくのです。そのストーリーの突き合わせをどんどんしていく最中に、現場へ菅家さんが出させられて、女の子のお人形さんをこういう風に首をしめました、ってやったりとか、自転車に乗せたりすることをいちいちポーズを取らされて、写真を撮られます。その写真に真実性を見たなんて、これが裁判官の言うセリフかと思いました。裁判官って本当に事実調べをする人が裁判官だと思うのですが、実は事実調べって本当にしないんだなあと思いました。自白が正しいかどうかなんて、結局現地調査しないとわからないでしょうって思うんですが、現地調査してないんですよね。実況見分の写真に真実性を見たんなんて、よくそんなことをぬけぬけと言えるもんだなあと思いますが、それを言えちゃうんです。日本の裁判ってこういうものなんです。
   私は、4月4日に下野新聞社の主催で足利市で市民シンポがありまして、それもインターネットに載っていますが、そこでも私は「一番の願いは裁判官に現地調査してもらいたい」と述べたのですが、その部分はきれいに落とされていましたね。どうしてかなと思ったのですが、裁判官が現地調査を、ということは、今度裁判員も現地調査を、という流れになってしまうと、裁判所としては大変なことになってしまう。とにかく迅速に、書類だけでさっさと済ませようという流れの中で、裁判員に現地調査させろって動きが出てきたら大変なことになっちゃう、というのが根底にあるのではないかと思います。私はこういう支援をしてきまして、現地調査を行うときには、地域の足利市役所の記者クラブへ送ったり、宇都宮の県警記者クラブに送ったり、知り合いの記者に送ったり、資料提供は続けてきたのですが、そういう活動の中で載るか載らないか、というのがわかるようになってきました。あ、これはどうせ載らないな、と思ったら、やっぱり載らない。この載らなさが、どの新聞にも大体同じラインがあるような気がします。それが今、少しずつ、足利事件を契機に崩れてきているかな、とも思うのですが。裁判のことでも新聞にどんどん取り上げられていますし。菅家さんは桜井さんと一緒に裁判や集会に参加して応援しているのですが、そういうことで載ることもあります。冤罪がクローズアップされていることはいいのですが、やはり素人の直感として「ここは載らないな」と思うと本当に載りません。
   私は、地元の下野新聞というのは、栃木県に来てから本当にしっかりしているし、良心的な対応をとっている新聞だなあと思います。私たち(支援会)がはじめて会議を開いたときに、「こういうことで会議を開きます」という情報を事前に載せてくれました。それがきっかけで新聞を読んで入会してくれた人が何人かいてとてもありがたかったし、現地調査をすると、調査に参加して記事にしてくれたり。そういうことがすごくありがたかったです。でもそれじゃあどうして、現地調査をすれば記者さんも、「この事件はなんかおかしいな」と直感すると思うのですが、新聞社として独自に現地調査するかというとしてくれないんです。
   それから私は、「代用監獄での長期の取調べ自体が世界から非難されている。やってはいけないことだ。冤罪防止のためには禁止しなければ」ということも伝えましたが、代用監獄という言葉も載らなかったし、載らないラインというのはすごくはっきりしています。たとえば浅野先生は人報連に所属されていますから、その新聞などを読みますと、言っていることはわかるんだけど、すごく抽象的な伝え方をしていて、伝わることも伝わらないという印象を受けます。たとえば、自白について事実関係をきちんと調べる、ということは書きますが、現地調査をするとか具体性のある言葉が入らなかったり。私はずっと冤罪の支援をしてきて、警察もすごく悪いけど、事実を調べるはずの裁判官が事実を調べないことや、「事実関係を調べてください」なんてなぜ最高裁で言わなければならないのか、調べるのが当たり前でしょうって思うのに全然調べなかったり、そういうのが本当に歯がゆかったし、本当にそういう状況が変わってほしいなと思います。
   菅家さんとの文通の話を少ししますが、1回目の手紙には「こんにちは。足利の主婦です」というようなことを書いただけなのですが、その返事は「手紙をもらってうれしい」というようなものでした。その次のときに私が「本当にこの事件を犯してしまったのなら、被害者のことを思って、罪に服してください。でも、もし万が一やっていないのにやったと言わされているのだったら、やってないと言った方がいいよ」と2回目の手紙で書いたら、「もう手紙はよこさないでください」と言われました。私としては、この問題に取り組むというのは足ガクガクのことだったんです。手紙を書くのにも足ガクガクで、不安感でいっぱいでした。木下信夫さんっていう横浜事件をずっとやっていた明治大学の先生、DNA鑑定について本を書かれている三浦英明さん、それから山際さん、浅野さんと知り合って、支援を続けていただいていますが、そういう方たちの熱意でもやめられないってことはあったのですが、やはり足がガクガクでした。ですから、自分としてもやはり中立みたいな、つい思ってしまう。本当は「冤罪じゃないか」と思うのですが、やはり一応「やったんなら反省してください。やっていないのなら、やっていないと言った方がいいよ」という2通りの言い方をしたんです。それが新聞記者さんたちにはすごく評価されます、つまり公平性などの面で。手紙自体が公平だ、というような捉え方をされているのがわかるのですが、菅家さんにとっては「何この人」って混乱してしまったみたいです。「やっぱりこの人は本当に信じてくれているわけじゃないんだ」ってことで、「もう書かないでくださいって言ったんだ」ってあとになって告白されたんです。ああそういうことだったんだ、難しいなと思いました。やはりこの運動を続けていく上では、どっちかなっていう確認はやはりこちらを向いてくれる人たちも怖がりながらも「でもこうじゃない、こうかもしれないし」って打ち消していく、そういう確認作業というのがあるので、そういう書き方をせざるをえなかったなというのが今の心境です。
   それから、なぜ文通をやめずに面会まで果たしたのかということですが、私自身は諦めていました。しかし、菅家さんが無期懲役が求刑されてしまったときに、不安感で面会に来てくださいと言ったのだと思います。
   すごくとりとめのない話でしたが、参加されている方が新聞学原論の授業を取っている方たちだと聞いたので、少しそういう話になってしまいました。今後支える会を続けていくかどうかというのは、これからみんなで相談しながら決めていくのですが、とりあえず菅家さんの日常生活を当面支えていかなければいけないので、また新たにボランティアという形になるか、今試行錯誤している段階です。ありがとうございました。

―第1部終了―



浅野:それでは皆さん、第二部を始めます。出来るだけ、前のほうに座っていただいたら助かる。どうしても隅のほうにいたい人は仕方ないですが。できたらこの前10列ぐらいに。第二部は私と松野さんが二人で司会をさせてもらいます。
菅家さんの今の病状ですが、お腹が痛むそうで、もっと大きい病院にいくほうが良いということで。今は近くの病院にいる。16時半の終了前にご挨拶できないか、矢内さんがドクターに確認中。ここにいらっしゃるのは難しいかもしれない、申し訳ない。布川事件のお二人が言われたように、拘置所や刑務所に長くいて、強制・拘束された世界から解放された。しかしその解放された社会でまだ解放されてない、特にこの日本のような社会では、私はそう思う。だからよく毎回刑務所に入りたくて泥棒したとかそういう記事が年末に出る。正月を刑務所で過ごしたほうが楽だとかは絶対嘘。両方ともキツイ。社会がちゃんと解放されてない、人間らしい生活が、特にこの国、関東圏や関西圏というお金儲けの人がたくさんいる社会ではある。沖縄や北海道とは違う。そういうところに行っていつも思う。
私は外国によく行くが、本当に日本に帰ってきたら人々の目が死んでいるというか、学生も含めて、活気・元気がない。よその社会に比べると。そんな気が年々する。米国のニューヨークもギスギスしていて、そっくり。要するに、米国になっている。米国ほど解放されてない社会はない。つまらないことを言ったが、菅家さんの回復を祈る。
一部に来ていただいた方の紹介は省かせていただく。山田悦子さんの紹介は、今日のチラシにあるが、知らない人も増えてきているが、1974年に甲山事件、西宮の知的障害者施設の知的障害児といっても16歳から24歳の大人もいっぱいいるが、園児二人が亡くなって、全く何もしてない山田さんが逮捕された。私が記者を始めて3年目、社会党議員・岡田はるおの息子で神戸にいた岡田記者が「絶対、冤罪だ」といって、電話してきたのを覚えている。私も山田さんの裁判の支援もさせていただいて、山田さんは25年掛かって無罪が確定した。布川事件はこれからもその戦いが続いている。山田さんは浅野ゼミの顧問みたいな感じで、学生たちに17年ずっと「学問とは何か」「人間はどう生きるべきか」教えていただき、今日もゲストに来ていただいた。春川さんは突然で申し訳なかったのですが、春川さんは山田さんの裁判を個人的にも支援されていて、甲山事件の報道するときに山田さんの名前を出さないでニュースを放送したことがある。読売テレビでは報道被害のドキュメンタリーを作った。サンフランシスコでNNNの特派員もされて、報道部長を経て、解説委員でみなさんにテレビで分かりやすく適切にニュースを解説しておられる。発声が素晴らしく、羨ましい。河野さんのときも来ていただいたが今日は急遽おいでいただき、浅野ゼミで研究している志布志事件や北朝鮮報道や中国の餃子事件の逮捕報道や仕方をどう考えているか、5限ゼミで講義していただきます。この5人の方々で、1部を受けて、討論をしたいと思います。じゃあまず山田さんから。山田さん、さきほどのお話を聞いていかがでしょうか。


山田:私は、学生のみなさんが陰も形もない、1974年からずっと日本の司法を見てきた。冤罪は全然なくならない。何にも変わらない。私は桜井さんや菅家さんのように、獄中体験が殆どない。裁判は21年間闘ったが、保釈されて、外で闘うことができたから、獄中だけでなく社会もつぶさに見ながら、日本の司法について考えることできた。しかし冤罪はこの国からなくならない。  なぜなら、そういう風に社会制度が設定されていないから。
私たちの国家は卑しくも法治国家です。しかしヨーロッパの人権思想を生み出す法によって冤罪を生まないように設定されている。日本はそうはなってない。私たちは学校教育によって、人権尊重は日本国憲法に守られていると教わってきました。私たちは刑事司法の理念が無罪の推定にあるってことは一応知識として承知しているが、日本国憲法には無罪の推定の明文化されたものがない。世界の憲法ではちゃんと載っている。司法権は憲法を守らないといけない。しかし刑事司法の理念である無罪の推定を憲法には明記されてない。憲法から除外しているから、裁判所は理念を守らなくてもいいわけだ。米国、韓国、ロシア、フランス、イタリア、カナダ、ドイツ、国際法、すべては無罪の推定を明記している。先進国で日本だけが国家の最高峰である憲法に無罪の推定を書いていない。だから、憲法に第38条に「自白の証拠能力」とあり、「証拠が唯一自白だけであったら、証拠にならない」と書いてある。
さきほど杉山さんや桜井さんが懇々となぜ自白されたのかということをみなさんの前で説明されたが、それは無罪の推定の理念を守るために憲法38条が守られていない。法とは、命痛を持っている。命の痛みと書く。タイトルですね。無罪の推定という理念がない。だのに理念なき不健康なもとで、唯一自白の問題を換えてみたところで、なんの効力も持っていない。こういう状態にあると、これはとっても大事な問題だ。しかし日弁連もこういうことを問題にしない。守るべき理念、無罪の推定が日本の刑事司法にないから、守らなくていい近代司法の大原則は、逮捕された人は警察の管轄ではなく、警察とは別の管轄である法務省の管轄に移されて、そこで身柄を拘束されなくてはいけない。これが国際司法の大原則だ。しかし日本は逮捕されると、警察に拘留されるわけで、拘置所、いわゆるブタ箱に入れられ、警察のもとで24時間、拘束されて、取り調べを受ける。やってないことに対して、自白、当然そこに導かれていく。それは桜井さんの端的に分かりやすく説明されたあの取り調べはなにも布川事件だけではなくて、甲山事件や足利事件にも当て嵌まる。パターン化された取り調べ方法。なぜ科学的捜査が行われず、自白が唯一の証拠になるかというと、裁判官が自白のみで有罪を決定するそういう司法のサイクルだから。これは延々、変わってない。
私はこういう事件に巻き込まれて、おかげでこれまで多くの友達を失い、考えもしなかった人達が友人・知人に得ることができた。その中で、現役の裁判官の友達がいらっしゃって、裁判官は憲法を意識して裁判を行っているのですか、と質問したときに、憲法を意識して裁判をやっている裁判官は誰もいない、と言っていた。最高裁の判例、それを意識してみんな裁判をやっている。「最高裁の最終的な判決に外れないように、どう自分が判決するかを日々考えながら、裁判をしている」とのこと。日本国憲法が人権尊重になっても、明治時代の代用監獄制度は改められることなく、引き継がれている。そしてマスコミは司法改革、裁判員制度導入で、ばら色のような司法を報道しているが、この司法改革においても代用監獄制度は廃止されることはなかった。そしてみなさん、刑事司法の無罪の推定は、人類が長年かかって到達した司法の理念。その昔、人権もない、暗黒の時代に、専制時代に逮捕されたり、弾圧されたり死刑にされたり…そういう時代から人権思想を高め、今日まできた。人類が到達した理念が無罪の推定。
しかし裁判員制度導入にあたっても、理念を豊かに築くにはどうしたらいいのか、そういう呼びかけはなされなかった。要するに被害者、報復の司法を売り出しているのが裁判員制度。当然、そこから冤罪を除去することはできない。そういう根本的な問題を放てきしたうえで、この司法を論じても意味がない。だから、私たち冤罪者は延々となぜ自分が自白させられたのか、訴えてきた。代用監獄制度があるから、自白させられるわけです。冤罪は証拠がないから、いかようにでも証拠が作れる。大変皮相なアイロニーのもとで、冤罪事件は成立している。やっていたら、証拠が動かないから、警察が動かしがたい証拠でもって、別のストーリーを作ることができないが、冤罪事件は全く証拠がない。だから、犯罪という事実をもとに、いかようにも冤罪で逮捕された人に境遇ってものを作れるわけだ。そこに警察の虚構は新たな虚構を生む。拘置所の中で、取り調べ室の中で。本人しか知らない秘密の暴露ということにされて、これがまた裁判でものすごい証拠価値を持って、裁判官の心を魅了する。そういう大変危険極まりない刑事司法が日本の実態です。これ、国民は知りません。マスコミもそういうことを報道しない。一つの冤罪事件で無罪が出ると、万歳報道で終わっている。私は、延々、こういう報道の在り方、日本の刑事司法の在り方を見てきて、疲労困憊している。数え切れないほどこういう所に呼ばれて訴えてきた  が、何の改革もない。
外国のテレビドラマで推理刑事もので、最近新しくドイツの科学捜査班の「スカイパーク」というのが昨日から始まった。逮捕されると、被疑者でもちゃんと弁護士がつくのですね、イギリスでもそうです。それが当然視されて、娯楽番組で出てくるわけですね。日本国憲法は国民の権利を定めている。当然、被疑者に弁護士がつく権利が、この国からうまれてこない、絶えず新しい感覚でもって。人権についてけちな国は日本です。今は冤罪ブームですが、1980年代に死刑囚が4名、死刑台の露と消える寸前に、帰ってきました。その時も日本は大騒ぎした。しかし、なんら改革はされなかった。私たちがこういうふうに訴えても、何も変わりません。ますます悪くなっています。先ほど、浅野先生が「外国から日本に帰ってきたら、目がどんよりしている」とおっしゃっていたが、精神性がどんよりしてしまっているから。社会を変えるためには、いきいきとした、思想的エネルギーが司法・行政・立法の三権の中から生み出される必要がある。そうならない限り、変わりません。私たち被害者がどんなに声を大にして訴えても、冤罪はなくならない。これは夢も希望もない話だが、ただ私たちは、事実を直視すること、それから始めなければ、何も出発しない。そのためにおいて、私は暴露発言を致しております。

浅野:山田さん、ありがとうございました。では、春川さんに。そのあとに、討論へ。手を上げている人、どうぞ。

桜井:テーマは。

浅野:冤罪をどう思うか、ということで、資料にある。「足利事件は終わらない―今私たちは何をすべきか―」ということを、菅家さんの話を聴いて考える予定だったが、菅家さんがいらっしゃらない。ですから、「足利・布川事件は終わらない」ということで。資料の一番後ろにある、山田さんについての朝日新聞の良い記事があります。それでは読売テレビの春川さん、お願いします。

春川:読売テレビの春川です。今日は勉強のために聴きに来た。私たちジャーナリストは取材してなんぼで調べるので、恥ずかしながら、山田さんの甲山事件はちょっと調べさせてもらったが、足利事件も布川事件も一般的な知識を持っていたが、みずから両者の方とお会いしたのは今日が初めてです。取材したわけでもないから、みなさんのことは言えないので、今のお話を聞ききして、一般的な話をさせていただきたいと思う。
今の私ら番組で、私は偉そうに政治や経済、国際関係のことを喋っているが、元々は大阪の記者なので、いわゆる事件記者だ。自分の記者歴を考えても、裁判とか警察とか検察と一緒にいるのが長かった。
刑事裁判や司法の問題点を考えると、今お話なさったことが全てというか、私も全く同じことを考えていた。足利事件の時は、番組に中継という形で菅家さんにも出ていただいたり、スタジオに出て喋ってもらったりした時もあった。その時、私がやっぱり喋ったのは、推定無罪と代用監獄と取り調べの可視化についての話だ。メディアに関しても、問題点は全部絞られる。自ら、ご自身のことをあまり喋らないが、やっぱり、浅野さんがおっしゃっている犯人視報道がもちろん問題だと思う。
山田さんが喋られたこと以外では、さきほどもちょっと申し上げたが、やっぱり証拠の開示の問題が結構大きいと思う。というのも、要は検察側が自分に都合の良い証拠しか出さない。先ほど杉山さんの話にもあったが、裁判員裁判になって、こういう風に前の政権の続きで、今まで以上に司法が限られてしまう。ましてや、日本の、裁判の大原則として、法廷の中で代理被告人に有利な証拠が出て来ないというふうにはならないので、そこに司法の問題があると思う。
メディアについてだが、自分は25年間この世界に携わり、記者やいわゆる管理職・解説委員をやってきた。その中で、自分がここを一番直さなくてはいけないと思うのは、冤罪だけでなく全体に言えることだが、いつまでたっても発生報道であること。5W1Hが基本ではあるが、「いつどこで何が起きたか」ということに重きが置かれている。どうしても、「その後はどうなったのか」という検証報道、解説などの「事後どうなったのか」と見続ける報道は、どちらも必要だが、分量的に発生報道に重きが置かれている。それは何故かと考えると、私の個人的な考えだが、日本のメディアの現状の1つは監視ジャーナリズムであること。みなさんの中でメディアに就職することにご興味がある方もいらっしゃるかもしれないが、私の場合もそうだが、自分がジャーナリストになりたい・メディアで働きたいという人も実際問題どうなるかと言うと、例えば読売テレビ、読売新聞に入る。一生そこで働くということになると、ジャーナリストという自分の中にやらないことを自分の志とともにあり、つまり会社員としてでもあるのだ。正直、そこが一番大きな問題。
また、マニアックな現場のことをいうと、要は浅野先生のいらっしゃった通信社、通信社ジャーナリズムになっていた。どういうことかというと、何かが起こったら通信社とテレビ局と新聞社が横並びになって追いかけている 。多分こんなことをしているのは珍しく、日本だけである。どういうことかというと、通信社とは何かが発生した時に一刻も早く5W1Hをやり、それをうけて、一方を通信社に任せて、それから追いかけるのが普通の世界のジャーナリズム。要は日本のメディアは、テレビ局も新聞社も、時事通信や共同通信を完全にライバル視して、同じことをやっている。
それは、今日の話から少し逸れるかもしれないが、司法だけでなく、最近感じるのは政治報道。本当に起きたことばかり報道して、裏の解説もないし、解説があっても政局報道ばかりやって政策報道をしない。これはメディア系の人で気付いている人も多い。なぜ変わらないのか、私でもよく考えると、ものすごく忙しいから。なぜかというと、通信社報道をやっているから。そこの根本的な改革、もっと言えば大学のジャーナリズムや教育も全然十分ではないし、ジャーナリズムを目指してない人がたまたま読売テレビに来ることもあるわけ。そういった問題点を一つ一つ変えていかないと、さきほどお話にも何度もあったが、なかなか変わらないだろうと私も思う。
最後に今日聞いて一番危惧していることは、足利事件の時も今も続いて、布川事件の時にもおっしゃっていたが、最初は大騒ぎするがその後はさっと引いて、結果として何も変わらないということが毎回繰り返されること。やはり今のシステム自体を変えられるような報道を、発生報道からもっと世の中を変えていく報道にしていかなければと、今日の話を聴いていてあらためて実感した。


浅野:どうもありがとうございました。では、小原先生、コメントいただけますか。

小原:今日の話を聴いて、私は山田さんの指摘から、2月か3月に大阪の会議で話されたことと通じるところがあると思っていた。その時は、憲法ではなかったが、裁判員法に「人権のため」とかの理想とするという、規定がそういう書き方がなってないと思っていて。山田さんは、法律は、永遠根本というか、それが正しいことを言っていない限りは、正しく表れることはないのではないかという問題提起を、今日は憲法についてだが、繰り返しされていた。私はその時、それに対して、一応コメントはしたが、まともにそれに対して「間違っている」と言えなくて、「それはそうですね」と申し上げるしかなかった。
ただ弁解として、確かに大きな根本は全然変わっていないと思います。本当に残念なことだが、まだまだ。しかし、ただ大きな根本が変わっていないからといって、日々の日ごろの仕事や事件で何も努力しないわけにはいかない。たまたま菅家さんや杉山さん、桜井さんは、助かったり、助かりつつある途中であったりして、かろうじて帰ってきてここにおられますが、まだそうでない人が日夜いる。それをどうするのかというので、私たち現場にいる弁護士はそちらの立場になると、確かに大本が間違っているだから、それを変えなければいけないし、そういう認識をもたなければいけないことは分かります。しかし、それを変えるのは、おそらく「変えられない」と絶望してはいけないが、一世代ぐらいで変えられるものではないし、子どもたちや孫の世代まで引き継がれないと無理であると。となると、自分の生きている間は、単にそれだけなのかというので、やっています。
だから私たちは、非常にその大阪の会議の時も喋っていたので、あとで山田さんに色々言われるのを覚悟していますが、私たちは、裁判員制度が出来てしまった制度の一つなので、それを使って、できることはせいぜいこんな事が出来ているのではないか、とやっています。確かに短く、タイトな日程になりましたが、その一つとして、実際にやっている弁護士からしたら、証拠の開示は裁判員制度の前の後半の会議でしていると、昔に比べると、刑事からいっぱい引き出して、突きつけさせるということを獲得しつつある部分もあるのはあります。そのように私たちは、やっている。話が一旦巡ってしまうが、裁判員制度に多々悪いところはあるが、まだ駄目だと決めつけるわけにもいかない。例えば、ダメだと決めつけないで、こういう点があるから頑張りましょうというとか、こう言っているからやめてとかというふうにしていくというのが、私たちがしている立場です。結局、答えになっていない答えになってしまった部分もあります。
第二部のテーマは「冤罪のない社会の実現に向けて何ができるか」だが、「何ができるか」には二つあると思う。「大元が間違っていたら何も変わらない」と山田さんが仰っていた指摘を決して忘れない、みんなで話をしつづけ、次の世代に引き継いでいくということもある。そういうのもあれば、日々の出来事で悪くならないようにせいぜいマシなようにしているというのと。その両方を自分の現場でしていくしかないと、私は話を聴いていて思った。ちなみに政治の話が出たから言いますが、私もマスコミの政治報道がひどいと思うので、時々新聞社に投稿して、「ちょっとあの記事はどうなのですか」と言ったりすることがある。だからといって、民主党を手放しに誉めるというつもりはなくて、民主党の政治家の人に会った時は統括的なことを言っています。「取調べの可視化は、参議院で2回も法案通したのに、何故いまだに渋っているのか。参議院通ったのだから、あっさり通せばいい。あれをやらないようなら、他の政策をやるなと。二回も通ったのにしないのなら、誰も信用しませんよ」と言った。私はそのあとに、「…というような宣伝を、みんなが日弁連で始めたらどうするのですか」と言って、議員をどやしつけて、ちょっと脅しに掛っているというところです。これが成功するかどうか分からないが、ダメな知恵かもしれないが、私なりに色々考えて動いているということで。みなさんの友達や仕事場で、自分たちと話している中で、周りの人を変えていくというか、ちょっと疑問をもってもらうという形でなにかできることがあるのではないかな、とふっと思ったりしました。

浅野:小原先生、どうもありがとうございました。
私たちのシンポジウムの中で、山田さんが言われたように、逮捕されたときはわーとやって、無罪になると「可哀想だ」という報道を繰り返しやってきたので、そうではなくて「冤罪が起きないようにどうするべきか」と。私は「冤罪」という言葉が好きではなくて、これは「国家権力によるでっちあげ」なんですよね。「嘘罪」です。「冤罪」だと本質が見えなくなるので、私はなるべく使わないで「国家権力によるでっちあげ」と呼び、これは犯罪なのだと。つまり、やってない人を犯人にするのだから。途中で「犯人ではない」と分かっても、そうする(黙っている)。甲山、布川や足利事件でも途中で捜査官や刑事自身が分かっているはず。例えば、甲山では事件がないのに、子ども同士のある種の遊びというか、その中で落ちてしまったわけだから、「誰か大人が殺した」という事件がないですよね。鹿児島志布志事件もそうで、事件がない。足利は、被害者がいて、事件であったことは間違いない。しかし、警察が逮捕した人は、全くやってないと。そのことは「DNA鑑定で、菅家さんは救われた」とよく言われるが、そうではない。DNA鑑定があろうがなかろうが、菅家さんを無罪にしないといけない、無罪判決を出さなければいけなかった。だって、自白では、「自転車の後ろに乗せて、~ちゃんを連れて行った」とあるが、運動場にいた200人ぐらいの人が手を繋いでいるのを見ているが、自転車に乗せているのは誰も見ていない。要するに、供述と証拠・目撃証言が合っていない。だから途中で「おかしいぞ」と。それで、「おかしいぞ」ということを弁護士にみんな言ったわけです。しかし、その弁護士が「いやいや、今更言っても仕方ないでしょう」みたいなことを言っていた。富山の事件でも、弁護士がちゃんと機能していない。つまり、司法試験に受かった人がちゃんと機能していないのですね。
今日も同志社大学のロースクールの人がここにいないと思います、ほとんど。私らが色々なシンポジウムをやるが、法学研究会の人に会ったことがない。将来弁護を目指して、勉強している人にとって、今日のシンポジウムは関係ないのですよ。「試験のためにこんなところにきて勉強しても、仕方ない」と考えていて、志しさえない。新聞記者のことを話しているけど、今日何人か来てらっしゃるが、新聞記者さえもほとんど来ない。これが、20年、30年前は違うのですよ。昔は、司法試験受ける人たちも、こういうところに来た。報道機関に案内したら、さぼったりして、来ていた。記事にはならないけど、回っているという感じで。でも、年々減ってきている。そういうものを「どうしたら一つ一つ自分の持ち場で変えていくかというのを考えよう」という学生たちと企画した。それをちゃんと桜井さんに説明していないのですよ。杉山さんには言っていたが、桜井さんには直接お話ししていなかった。すみませんでした。


山田:ちょっと言いたいことがあるのですが。ごめんなさいね。

浅野:どうぞ。

山田:小原先生は本当に良い先生なのです。小原先生も言われたと思うのですが、これはパネルディスカッションから、民主主義は健全な意見をとってもらえますから、今浅野先生がおっしゃったように、「日弁連に志はあるのか」ということですね。杉山さんがジュネーブに行ってこられたと先ほどおっしゃっていましたが、代用監獄の問題について1991年に、袴田・甲山・横浜事件と、あともう一つの事件が、問われていた。その前に、五十嵐二葉さんという東京の弁護士の方が、子育てを終えて弁護士に復帰した時に、日本の代用監獄制度は問題だとうことで、日本で一番初めに国連のジュネーブに行って、代用監獄制度について訴えた方です。そのあとに、私たちは五十嵐さんと一緒に行ったわけです。みなさん、五十嵐さんが、個人プレイだったが、国連に行って代用監獄制度の問題を訴えた時に、日弁連は何と言ったかというと、「そんな内輪の事を外国に行って、喋るのが恥ずかしい」と。そしてそのあと、1991年以降、中坊公平という、こういう死刑制度を推進した人が日弁連の会長であった時、中坊さんの有志が国連に行って、代用監獄制度の問題を訴えて、そして外国の拘置所の実態を調べて、岩波のブックレットにその調査の報告を書いている。そういうことをやっておきながら、司法改革に全然活かされていない。小原先生は、裁判員制度で、検察とかが隠していた証拠を出すようになったとか良い面を紹介していたが、これは、(裁判員裁判で)やった事件に対してです。問題は、「やらない事件で証拠開示できるのか」、ここです。しかし、こういう困難的な英断を日弁連は行っていません。実践、とりあえず弁護士は、被害者・被疑者を守るために、実践を行っています。ですから、小原先生の言っていることは、痛いほどよくわかります。しかし、実践を行いつつ、刑事司法の理念をどう構築していくかが、これが法曹に課せられた大変な任務であり、課題だと思います。
日本の法曹は、理念を熱く語らない。元裁判官・弁護士や学者、私も交えて、刑事司法について、座談会をいたしました。その時に、「日本の法曹たちは正義を語れるのですか」ということを私は質問した。全員、「正義を語れない」と言いました。「正義を語るのは阿保くさいことなのです」と言った。皆さん、法の理念は正義・公平にあります。理念なき司法に、冤罪は多発します。1983年に日本評論社・評論セミナーという雑誌の創刊号があります。そこに日本の地図を描いて、冤罪のことをずっと書いているわけですね。この狭い日本列島に、80件ほど冤罪が明記されていた。布川も、甲山も入っています。足利はまだ発生していませんので、書かれていません。それは、運動体や支援があって初めて社会的に問題になっているのが、80件なのですよね。しかし、水面下で、明記されていないものもある。これは、冤罪列島・日本は、全然変わらないわけです。日本は先進国なのですよ。経済とともに、人権も発達させます。ヨーロッパ、米国。ブッシュを生み出すあのいやらしい米国でさえ、日本と比べたら、まともな刑事司法を機能させている。日本は何故できないのか。この精神性。これを問題にして、話し合わない限り、こんなことやっても全然解決しない、何度でも言いますが。先生、ごめんなさい。

浅野:そろそろ解散しますか…授業終了30分前ですが。桜井さん、十分説明していなくて、すみません。

桜井:この前、山田さんと志布志で立ち寄って、27日。色々説教して…。

浅野:どっちが説教したんですか。

桜井:これができない、あれができないと言っていたら、何も解決しない。できるという思いを掲げるということですよね。これができない、あれができないって、こんなことでは何も生み出すはずないじゃないですか。「何をしたいか?」「何をするか?」ではなく、「何ができるか?」じゃないですか。小原先生が言ったように、裁判員という立場の中で、証拠開示をさせることができるかということです。山田さんの言うように、「冤罪事件で証拠開示できるのか」とかね。これは保障がない。でも保障がないからと言って、進まないのではなくて、(それでも)進むべきです。 理念を語らないのは、司法も政治も、みんなそう。理念なんか日本にない。理想も何もない。現実しか見ない。そんなこと、「ないない」と言ったって、しょうがないじゃないですか。じゃあ、俺たち冤罪を受けた者は黙っていればいいのか。そうじゃないでしょう。あの日の俺たちのように、明るく楽しいだけでしかなかったが、本当に今、大変な人はいっぱいいるじゃないですか。本当は出てきた俺たちが、「おかしい」と言わないとおかしい。こういうのが現実だよ。「どうしたらいいのですか」、簡単じゃないですか。「証拠出しましょうよ。出さない裁判がおかしくないですか」と言い続けて。そして、やはりこういう同じ苦しみにあった人たちが、同じ思いでみんな語り合っている。変わらないメディアだったら、変われるようにメディアに働きかける、それしかないじゃないですか。いつか変わるかなんて分からないでしょう、人間だって、社会だって。変わらない、変わらないと思っていたって、明日突然変わるかもしれない。「自民党は変わらない」と皆思っていたでしょう、変わっちゃったじゃない。まぁ民主党もロクでもないけどね、同じだし。でも、変えることは出来るのですよ、というのが、この前の裁判だった。何故変わったかと言うと、自分自身が変わったから。コソ泥で、怠け者で、ウソつきで、どうしようもないのに、どうしてこうなったのだと不思議に思った。あんな詰まらない事件なんかないのに、この世で変わらない人がいないというのは…。(ここからテープが一時中断)…自分は幸い21年刑務所に居られたおかげで、あの中で自分自身を見つめたり、色々な事をしたりして、自分が変われた。それを思ったら、「楽勝ではないか」という気がする。ですから、このまま、皆さんとゆっくり喋りたいと。

浅野:山田さんは夜に帰られますよ。

山田:情緒、では変わりません。情緒、プラス理性。この2セットがないと、変わりません。

桜井:だから、夢を語るのですよ。何で、裁判所に理念が必要なのですか。日本の裁判所が変わらないのは、芸がないからではない。裁判官を育成して、頭の良い人へ。ただ頭のいい人だけが、裁判官になる。社会の常識のある人がやっていること。司法試験受かって、誰が検察官になるか。「私が正義をやりましょう」なんていう、変な正義感に燃えているやつがなっちゃうのですよね。上に行くと、検察官は、リクルートになる。検察官が「お前は、来い。体育会系だし」とか。弁護士は「ちょっと金儲けしてない」からバカにならない。要するに、司法試験に受かったやつしか、裁判所にいない。米国と違います。検察官は司法試験に受からないと、正義感を伴ってやるわけでしょう。制度とは違うのですよ。そういう制度を、もちろん米国社会を見ていると分かるが、日本では出て来ないけど、制度そのものが間違っている、という知恵は持ってないですね。なぜ冤罪が起るか。それは、検察が一番強いから。何故検察が強いか。秘密をいっぱい握っているでしょう。それで政治家が弱い。政治家は秘密いっぱいですもんね、小沢とか鳩山さんとかも。それで「先生、知っていますよ」とかで、黙る。だから政治家は、司法改革なんてできないのですよ。
本当に一番強いのは、秘密を握っている検察。検察官が強いことによって、何故警察があんなに弱いかと言うと、警察も裏金をやっているから、三井環さんの本を読めば分かりますが。警察が怒っているが、検察が警察を握っている。あの人たちは実力体ですから、捜査一課にも力を持っている。警察官にその捜査権限ないですからね。本当に強いのは、警察よりも問題がある、と私は思っている。

浅野:桜井さん、どうもありがとうございました。ちょっと「理念」と離れまして、杉山さん、西巻さん、いかがでしょうか。杉山さん、冤罪をどう思うか、そのことを若い人たちに教えていただきたい。

杉山:それの前に、山田さんと桜井の話を聞いたのですが、単刀直入に言うと、山田さんの話を聞くと皆暗くなっちゃうでしょう。その辺の話を聴くと、楽しめないですね。桜井の話のようにやったほうがいいと、私は思います。それと、冤罪の事について一番問題なのは、最初に捕まった時に、マスコミにとって「捕まったら、犯人」だったこと。だから、私が手錠をかけられたのを、堂々と載せられた。それから今、東金の事件(注 東金女児遺棄事件)で精神的に弱い人が殺したというのも、裁判が半年続いているが、あれも冤罪ではないかという話が出ている。だから、マスコミを反省させないと、ダメというか…。それで、勝ち戦になるとどんどん来て、取材受けたりした。私にも、女の子ばっかりが取材に来て、集めたけど。最近は、そういうマスコミも新聞社やテレビ局も、何故だか。「喋らない」と言ったが。
先ほど春川さんの話で、可視化の問題を話されていた。それは、私らの裁判でも、「こういう調べを受けた」「テープ取る時、こういうふうに言われた」と言っても、法廷では水掛け論になってしまう。「いや、こんなことしてないです。桜井なんか何にも聴かないのに、途端に堰出して、はらはらと涙を流しながら、自白した」と取り調べの警察官が法廷で言っているわけですね。そういう水掛け論になると、裁判官は、警察のほうを信用してしまうのですね。それで証人のほうは、みすぼらしい恰好をして、こぶのサンダル履いて、法廷で証言する。向こうは、割とすらーっとして、ネクタイ締めている。どちらを信用するか、やはり一般の人でもネクタイ締めて、背広を着ている人を信用すると思いますね。だからそういうのも、全面可視化なりすれば、冤罪が全くなくなるというか、少しは減ると思う。
それともう一つは、証拠開示。布川事件の場合、証拠開示がなければ、今でも暗い人生を送っています、はっきり言うと。私の場合は、殺害の方法の死体検案書や指紋がない、私がやっていないという指紋の証拠の開示など、他にも百何件の開示をしまして、その中でこういう結論、再審開始の結論が出ています。ご存じのように、あの事件で一回再審が開始になって、その再審開始決定を同じ名古屋高裁で門野博という有名な裁判官が、「有名」と言っても「悪い」方で有名な裁判官が、今度、布川事件で次の担当の裁判官に、「みんな…も、緊張して、これは参ったなぁ」と言ったが、法曹界に注意されたおかげで、「私たちの調べはおかしい」と。「録音テープは改ざんされている」とか、「今まで証拠にしてきた、男の目撃証言もおかしい」という…(テープ聴こえず)…ので、私たちの再審開始で、この場でこういう話が出来るようになったので、法曹界でも非常に大事だと思っています。これもマスコミを変えるのと、可視化を全面にする努力と、証拠開示をする努力と、全部少しでも、あるいは徐々に可能にしていけば、冤罪は減ると、私は思っている。だから私たちがその先頭に立って、足利事件はDNA鑑定という決定的な証拠があるから、マスコミも裁判長もこう興味を持って、無罪が出るということは、今刑務所に入っている人たち、冤罪で警察の拘置所に居る人たちに与える影響はすごいものだと思っています。布川事件が、先頭に立って、冤罪に希望を持たせる光になって、これが私たちの使命だと思って、頑張っていきたいと思っている。


浅野:杉山さん、ありがとうございました。菅家さんが釈放された時の記者会見で、最後に、「今、冤罪で苦しんでいる、全国の人たちを助けたい」と言っていた。私は、それがすごい、と思った。自分が助かった直後に、そういうことを記者会見できちんと言われたのは、すごく感銘を受けた。西巻さん、今の話で、「明るくやろう」という人と、「理念を太宰治的に考える」という人で、論争がありました。それを聴いて、支援運動をしてこられた西巻さんに、最後、学生たちにお話ししていただければ、と思います。

西巻:支援活動というのは、狭山事件とかぎっちり支援とかありますよね。私なんかは本当に中途半端な支援しかできなかった。それでもなおかつ、支援があるとないとで、本当に違うので、やはりそれぞれで気がついた人たちを出来るだけ助けて、地域に小さくてもいいから、こう支援組織ができて、できる限り、報道関係の方に働きかけるということが、これから私たちの中に(必要だと思う)。飯塚事件とかも、地域で支援ができたらどんなに良かったかと思う。

浅野:飯塚事件は、地元・飯塚市の支援がなかったのですよね。

西巻:重くとらないで、大変だけど、出来る限り気楽に取り組むしかないかなと思う。少人数でもあってもなくても、全然違うし。そういうことに取り組んでもらえたら、と思います。

浅野:ありがとうございました。じゃあ、会場から手を上げている人がいるので…

受講者:意見を言いたい。

浅野:どうぞ。なるべく短く。

受講者:杉山さんが「私たちが布川で音頭をとってやろうよ」と言った話について。24、5年前に、土田邸事件(1971年)、総監公舎爆破未遂事件(1971年)、で、みんな無罪を取って、あの時一気に、「無実の人を救おう・連絡協会を作っているわけです。だから、お二人に対して申し訳なくて、謝るしかないのですが。その時に何もできなかったこと、本当にごめんなさい。本当に失礼しました。その運動が、そのまま続かないで、結局終わってしまった感じになってしまったのは、そういう時期かなと。極右同士の事件も始まっていますし、布川も足利もそうだし、やはりそういう時期かなと思うのです。そういうので、横の関係がきちんと出来て、そして市役所同士がちゃんとやっていれば、本当にもう一度、権力犯罪に対して、きちんとできていくのではないかという気がします。その当時というのは、春川さんもいらっしゃいますが、報道関係の問題に対して、新聞と日刊紙について言えば、捕まった人の親やこども、兄弟に対して色々な形で報道してしまう。今まで被害が起こっていたということで、人権と報道・連絡会というのができました。浅野さんがその中心人物で、僕もそれを作った一人ですが、そういうことが現実にどこまで機能しているのかと。やはり報道関係者同士がもっときちっと繋がってやったらもっと良いかなと思うのですよ、春川さん。NHKでは、すでに九州では色々な形で、水俣病の問題とかで色々動いています。私も知ったのですが、「ザ・スクープ」で、飯塚事件の事をやりましたよね。あれで、僕も飯塚事件の事を知って、色々覚えて、動こうとした。残念ながら、弁護士の関係で、具体的になかなか動きのとれない中、出てきまして、日弁連の方に連絡をとりました。「なかなか教えてくれないのでしょう」という話になって。ちょっと僕自身、動きが止まっている。なんとかしたい、とは思ってはいる。私は福岡の出身で、現在、水俣と東京を行ったり来たりしていて、九州でも色んな事をしているので、ぜひ飯塚事件のことをやりたいと思っている。そういう意味で、人報連の関係で、九州でももっと大きくできればいいなと思っていますが、春川さん、こういうのを九州でも大きく出来ませんかね。

春川:九州はちょっと分からないのですが、私が出ていて感じるのは、実は私も東京と大阪を行ったり来たりして、大阪と東京でマスコミ懇談会というのがある。全国のマスコミ懇談会もある。そういうところに出ていて思うのが、さっきの話とちょっと繋がるが、私らみたいな解説委員とかの管理職ばっかりなのですよ。一番悩んでいているのは、自分たちが事件・事故取材や裁判報道しない人間の、僕らの時もそうだったが、「おかしいな」と思っている時もあるのですけどね。そういう若い子たちが集まれるような何かがあれば、とすごく思いますね。何故集まらないかというと、さっき言ったように、発生報道ばかりやっているので忙しく仕方がなくて、全然そんな余裕がない。そういう現場の若い子たち、私らも含めてだが、現場の最前線でやっている人間が、個人的にはやれているが、組織立ってやれていないというのが一番の問題点。これを是非やっていきたい。

浅野:他に質問のある人。

女性:質問は一つだけです。桜井さんが仰っていた「この世で変わらない人はいない。変われることが出来る」という言葉は、とても印象に残りました、聴けてうれしかったです。
   質問で、別の場面で菅家さんのお話を聞かせていただいたことがあって、菅家さんの言葉の中で「やはり頑張ろうと思えたのは、西巻さんの存在だ。支えになった」と仰っていて。是非、西巻さんの生のお話を聴かせていただきたいと思って、大阪から来ました。さっき西巻さんのお話の中で、「足がガクガク震えたし、不安でいっぱいだった」と仰っていたいたんですが、そう思いつつ、頑張ってこられた西巻さんの支え、原動力になったものは、一言では言えないかもしれないですが、どんなことなのかなぁとお聞かせいただけたら嬉しいです。

西巻:東京の方たちの中で、木下さんと、木下さんとともに菅家さんの面会や裁判傍聴をずっとしてくれた上野信代さんという方がいた。上野さんは、死刑囚の面会を若いころから一貫してやりつづけているおばあちゃんで、その方があまりにかっこよかった。その人は死刑囚の面会を主にやっていたが、それを続けながら菅家さんと面会していた。というのは、フランスの女性で、カトリックのある神父さんが、菅家さんを死刑囚だと間違えて、面会に来て、それからカトリックの方たちが菅家さんの面会に訪れるようになった。その時に、その友達の上野さんが来てくれた。その流れで、色々な人がやっているのを見て、「あ、かっこいいなぁ」と思った。上野さんはそのころは80歳ぐらいで、今は90歳。心臓も悪いが、家族から猛反対されているが、いまだに「東京拘置所へ行きたい、行きたい」と言い続けて、私にとって人生の先輩、そういう存在です。足利事件をきっかけに、向き合ってしまって、そういうことでどうしても向けられなかったというのが挙げられます。

浅野:西巻さん、ありがとうございました。他に質問はありますか。どうぞ。

法学部の学生:さきほど京田辺の授業から駆け付けて、話を折ることになってしまったら申し訳ないのですが、今検察官を目指して勉強しています。それにあたって、御質問したいことがあって、今日来ました。検察官にも、人によってそれぞれあると思うが、冤罪のことに関して、全く苦悩がないわけではないと思うのですね。そこで、検察官は、どのような姿勢・態度で、被疑者に向かい合うべきなのか。それを端的に教えていただきたいと思います。

浅野:どなたに。

法学部の学生:どなたでもけっこうです。

桜井:あなたが警察官になったら、あなたの個人的な意思は通りません。組織という意思しか通りませんので、もしあなたが個人の意思を通したいなら、警察官にならないほうがいいと思います。

浅野:さっきの話と矛盾しています。検察官です。

桜井:辞める時に、全て暴露しないといけない。三井環さんみたいに。

浅野:辞めたら弁護士になれますね。

桜井:全部知っているわけですから、全部暴露しないとおかしい。まず上司に、「おかしい」と言うことだね。「間違えている」とも。その時に、あなた自身が潰されたら、マスコミを使って全部暴露しなさい。

浅野:三井環さんを知っていますか。

桜井:大阪に居て、裏金の事を鳥越俊太郎に暴露しようとした瞬間に逮捕された。

浅野:三井環さんの本を読むことから始めて下さい。

山田:甲山弁護団の、主任弁護士が元検察官だった。組織ですから、被疑者から調書などを書くでしょう。その時に、上司の気に入られるような調書をとらないといけない。何回もそれは書き直しさせられる。だから、起訴を目的に調書をとっていますから、裁判でひっくり返させられるような調書をとったら、無能検事になるわけですね。それで何回も注意が上司から行われて、うちの主任弁護士が腹を立てて、上司の首をネクタイで絞めて、それで辞めた。検察官は、科学的な調査の下で、警察は逮捕するわけではないです。科学的捜査の上で、警察が集めた証拠をみるしかない。それでおかしいな、と思って、上司に相談したら、弾き飛ばされる。そういう世界に今、あなたは踏み込もうとしています。

法学部の学生:それを、本当に変えようと思うのならば、入らないと変えられないと僕は思っています。検察の外から言っても、それは市民の意識が少しずつ変わっていくことはあるかもしれないが、検察の中にいないで検察の外からそのまま変わっていくということは絶対にあり得ないと思う。

山田:そのかわり、出世を望まないことね。

法学部の学生:出世したうえで変えることができるのでは。

山田:できません。

浅野:今2回生だから、ゆっくり考えることです。読売新聞の記者、共同通信の記者、研究者になるというのもあるし。だけど京田辺のキャンパスから、駆け付けてくれて、そういう質問をしてくれたことは、素晴らしい(一同拍手)。
彼が言うように、その職業にある人が「変わらない、変わらない」というのはそのとおりです。これをプロフェッショナリズムというか、職業を誇りとして、やっていくというのが理想的。

山田:最後に、甲山を不起訴にした検察官は出世しませんでした。日の当らない道をそのまま歩みました。


浅野:山田さんを起訴した人は、その後順調に出世して、偉くなりましたね。では、時間がきてしまったので、もうちょっと質問を受け付けたかったのですが、終わります。 今日はたくさん一般市民の方にも来ていただいて、最後までありがとうございました。菅家さんが体調を崩されて残念でしたが、でも菅家さんが体調を崩されたのも、私たちの社会の色々な問題がそこに表れているのではないかと思っています。菅家さんが釈放されて一週間後ぐらいに、私は『週刊金曜日』で菅家さんを取材した。その時に、菅家さんに同志社に来てもらうことをお願いして、「京都好きだから、浅野さん、行くよ」と言ってもらえて、日程を調整して、私は西巻さんと一緒に来てほしかった、佐藤先生ではなくて。西巻さんが菅家さんの分までお話していただいたので、大変良かったと思います。
今日は、最後に拍手で、感謝の意を示したいと思います。どうもありがとうございました。今日はこれで終わります。

(了)

掲載日:2010年12月13日掲載
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浅野:では、明るい方向で。