
ドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さんを招いての映画「花はどこへいった」上映会と坂田雅子監督トークを行った。
映画「花はどこへいった」を上映後、DVD「花はどこへいった」の特典映像であり、坂田監督のお連れ合いのグレッグ・デイビスさんの写真作品を編集した短編「Out of Time」上映した。
その後、坂田雅子監督ご自身に作品を作るに至った経緯、自らがベトナムに足を運び考えたこと、これからの展望などをお話しいただいた。
略歴==============================================================
【坂田雅子さん】
ドキュメンタリー映画監督。1948年、長野県須坂市生まれ。京都大学文学部卒業。70年にグレッグ・デイビスさんと出会い結婚。76年から写真通信社インペリアル・プレス勤務、のち社長となる。98年、IPJを設立し社長に就任。2003年、グレッグの死をきっかけに枯葉剤の映画を作ることを決意。04年から06年、ベトナムと米国で被害者家族、ベトナム帰還兵、科学者らにインタビュー取材、撮影を行なう。2007年、映画『花はどこへいった』を完成させ、東京国際女性映画祭を皮切りに全国各地で上映。現在、『花はどこへいった』の続編を製作している。
==================================================================
【グレッグ・デイビス(Greg Davis)さん】
フォト・ジャーナリスト。1948年、ロサンゼルス生まれ。ベトナム戦争激戦期の67年から70年、米軍兵士として南ベトナムに駐留。70年から 74年、京都在住。この時坂田雅子氏と出会う75年からパリやニューヨークのフォト・エージェンシー「シグマ」に所属、アジア各国を撮影。87年から『タイム』誌契約写真家としてアジア各国、ロシア極東地域、中国、南太平洋地域を取材。2003年4月19日、胃の不調、足の腫れを訴え、入院。5月4日、肝臓がんにより逝去。
==================================================================
映画「花はどこへいった」公式HP
http://cine.co.jp/hana-doko/
==================================================================
以下は坂田雅子監督トークの記録である。
―坂田雅子監督トーク―
―坂田雅子監督(以下、坂田):私は枯葉剤が原因と思われる肝臓癌で夫のグレッグ・デイビスを亡くしました。そして、その喪失感からなんとか立ち直ろう、そして枯葉剤って何だったのだろうかを知りたいと思いこの映画を作ることになりました。それまで私はあまり政治的ではなかったのですけど、夫を亡くしてから枯葉剤についていろいろ調べ、その被害が今も続いていること。そしてベトナムでは今も何百万人という人が健康上の問題を持っていることを知りました。そして、それまでは、他人事のようにしか考えられなかった問題が遠い国で起こった過去のことではなくて、今の私たちの生活と密接に結びついているということを知りました。
この8年間で世の中は大きく変わりました。グレッグが亡くなるほんの少し前にブッシュ元米国大統領はイラクに侵攻し、グレッグは自分の体調が悪く憂鬱なのはブッシュのせいであると心の底から米国の外交政策に怒っていました。今、米国はイラクから撤退し、アフガニスタンの先行きは見えないというもののオバマ大統領はブッシュ大統領よりはずっと信頼が置けると思います。また遠い先の目標ではありますけれど、核兵器廃絶の声も高まっています。あの頃の絶望的な状況は少しずつよくなっているのではないでしょうか。
日本でも自民党から民主党に政権が変わり、先行きの見えない不安はあるものの私達それぞれの中に、無力感から脱して一人ひとりの力が大きなうねりになりうるという希望が生まれつつあるのではないでしょうか。今こそ平和を確固としたものにする好機だと思います。とりとめのないお話になると思いますけれどもホームビデオを撮影するくらいしか経験のなかった私が夫の死をきっかけにドキュメンタリー映画を撮ることのなり、そしてその制作、上映を通じて徐々に次の一歩を踏み出すことができるようになったことなどをお話したいと思います。
映画でご覧いただいたとおり、グレッグは1967年から1970年までベトナムに兵士として駐留していました。3年間の兵役を終えていざ、平和な生活に戻れると喜び勇んで帰った米国の空港でコカコーラの瓶を投げつけられ、あるいは赤ん坊殺しと言われ祖国に幻滅した彼は、その足でベトナム兵役中に遊びに来たことのあった京都に来ました。そこで彼はアパートを借りたのですけれど、百万遍の近くにあるアパートでしたが、たまたま私がその下の部屋に住んでいて出会うことになりました。木造の2階建てのアパートで私は下に住んでいて彼は上の部屋でした。4畳半の部屋に1畳半のキッチンでお風呂もシャワーもない。その頃の学生アパートとしては贅沢だったのですけれど。みんな銭湯に行っていたのですね。彼が私に銭湯はどこですかと聞いたのが私たちの出会いでした。彼は自由な生活を楽しみながらこれから自分はどういった人生を歩んでいくのだろうと考える中で、柔道や座禅を体験したり英語を教えたりいろんなことをするなかで自分の道を探して結局フォト・ジャーナリストになる道を選びました。
試行錯誤を経てのちにアメリカの主要雑誌である「TIME」で契約記者として仕事をするようになりました。文字通り世界をまたにかけて、生き生きと仕事を楽しんでフォト・ジャーナリストの道を歩んでいたのですけれども、2003年の冬くらいから胃の不調を訴え始めて。その春に入院して2週間であっという間に亡くなりました。
私は本当に茫然としてどうしていいかわからなかったのですが、彼が入院している間に映画にも出てきましたフィリップ・ジョーンズ=グリフィスというグレッグの写真家の仲間から電話がかかってきました。彼も2年前に肝臓を悪くして、大きな肝臓の施術をしていたものですから、私がどうしてあなたもグレッグも肝臓癌という病気にかかってしまったのでしょう、これは何か写真家の職業病のようなものなのでしょうか。たとえば暗室に入って化学薬品を使うことによって体に影響を与えたり、と質問すると、彼はすぐにいや、グレッグは枯れ葉剤を浴びたのだと応じました。枯葉剤のことなど70年代に出会った時にちらっと聞いたことがあるだけですっかり忘れていたので、まさかという気なりました。お医者さんも原因は分からないと言っていたので不信感があったのですが、枯葉剤と聞いて納得の行くような気持でありました。
私は65年から66年にかけてAFS交換留学生として米国メイン州の高校に学びました。そのメイン州というところは、人口3000人くらいの小さな町なで、その町にドキュメンタリー映画を作るワークショップがあることをあるきっかけで知りました。経験がなく、まったく初心者でも教えてくれる2週間コースがあることも。これは私が探していたことだと思ってその秋にそのクラスに参加しました。クラスは15人くらいでみんなキャリアの途中でやりたいことを求めている、30から50代の女性が多かったです。最初に先生がみんなにどうしてこのクラスに入ったのかを聞くのですね。みんなひとそれぞれに答えるのですが、私の番になったとき、自分の中に確信があったわけではなかったのですが、夫が亡くなったことといつか枯れ葉剤についてドキュメンタリーを作りたいと思っていることを話しましたら、その時の先生が非常に真摯に私の話を聞いてくれました。あの時の彼の真剣な眼差しは、私がドキュメンタリーを作っていく元気のもとになったと今でも思っています。
本当にホームビデオを撮るくらいしか経験がなく、プロフェッショナルなカメラは触ったこともなくて、アイリスだとか露出とか専門的な言葉はまったく知らなかったのですけれど、ゼロからはじめて2週間のコースで曲がりなりにも独力で、それぞれ5分ほどの短編作品ですが、2本作りました。そして何か新しい道が開けるような予感がしたことを覚えています。クラスが終わって日本に帰ってきて、私はその時、写真の通信社の仕事をしていましたが、その仕事の傍ら枯葉剤についていろいろとリサーチを進めていきました。
6,7年前ですが、今に比べてインターネットもすごく初歩的なものでしたし、なかなか実態をリサーチするのが大変でした。その頃グレッグが亡くなってちょうど一周忌だったので東京の記者クラブで彼の追悼会を開きました。その時に、フィリップ・ジョーンズ=グリフィスや、「DAYSKJAPAN」というフォトジャーナリズム雑誌を主宰していた広河隆一さんを招いてフォト・ジャーナリストについて、それから枯れ葉剤についてのトークイベントをしました。フィリップがその時に地球を半周して日本まで来てくれたので、ベトナムに行きましょうということになりました。2004年の7月でした。270万人という数の米国兵がベトナムに行っているのですから、グレッグでだけでなく同じような病気で苦しんでいる人がいるだろうと思いました。そしてその実態を知りたいと思ったのです。けれど、帰還兵のグループに手紙を書いたりしましたが返事はありませんでした。フィリップに相談したら米国の帰還兵はすでにある程度の保証をもらっているし、米国の政府はその問題は認めている。いま本当に知られなければいけないのはベトナムだ。ベトナムの人こそ忘れ去られた存在なのだというので、彼を誘ってベトナムに行くことにしたのです。
ベトナムに行ってどういうものがとれるのか、枯れ葉剤の被害者たちの状況はどうなっているのか私は何も知りませんでした。でもとにかく行ってみよう。行って何が起こっているのかこの目で確かめようと思って出かけました。田舎の奥深くまで被害者を訪ねていかなければいけないと思ったのですけれど、確かに政府がある程度おぜん立てをしてくれていたとはいえ、毎日いろんな状況の被害者にいろいろなところで会ってカメラで追いかけるだけで圧倒されました。まずわたしたちはハノイに行ってそれから南まで約1200キロを2週間にわたって旅行しました。
ハノイでまずたくさんの被害者に会いました。けれどここでひとつお話したいのは枯れ葉剤というのはベトナムの南にだけ撒かれたのですね。ですけれども北にも被害者がたくさんいる。これはなぜかというと北の兵士が南に行って戦ってその間に枯れ葉剤を浴びて帰ってきて北で子どもを産んで、その子供たちに障害が現れて、または兵士たち自身が病気になっている。そういう現状です。
その後私たちはDMZ(休戦地帯)—南北の軍事境界線だった休戦ラインとは本当に名ばかりのことで北と南がいがみ合い、戦闘が特に激しく行われていたところーに行きました。この地域は産業もないし土地も痩せていて貧しいところです。一つの小さい村を100メートルくらい歩いたら一つの被害者家族がいて、その隣にもいるという状況でした。サイゴンではドクちゃんで有名なツーヅー病院を訪問しました。サイゴンでことに私の心に残ったのはグレッグが駐留していたと思われるロンタンという基地を探しあてたことです。ベトナムでは今や3分の2くらいの人々が戦争を知らない世代です。当時の写真を見せてこの基地がどこにあったか知っていますかと聞いても知らない人が多くて探すのに苦労しました。やっと探し当てた基地跡周辺にはたくさんの枯れ葉剤の被害者がいることを知って、それまではグレッグが枯れ葉剤が原因で亡くなったということは疑惑にしか過ぎなかったのですが、その疑惑が確信に変わっていくのを感じました。
その2週間で私が期待していた以上にたくさんの被害者に会ったし、迫真のシーンも撮ることができました。2週間で40本程フィルムをとって、1本のフィルムが1時間あるので40時間くらいあるのですけれど、さあこれを映画にするにはどうやって編集したらいいのだろうと考えました。たくさんの被害者をただカタログのように並べても仕方がない。これを一つの作品とするのにはどうしたらいいのだろう。はたと行き詰ってしまいました。そこで先生に相談したところ、今度は編集を勉強するクラスがあるから今度はそれに行ってみたらと提案され、再びメインのワークショップに行きました。ベトナムで撮ったフィルムを持って、またそのクラスに参加して撮ってきたものをクラスメイトに見せてみんなで相談するのです。まず、みんなが言ったことはこれはすごくショックだ。こんなショッキングな映像は米国のテレビ局ではぜ絶対に放送できない。米国ではドキュメンタリーは主にテレビで放送することが前提となっているのですが、あまり劇場でという機会はないのです。米国の視聴者はいつもたくさんあるチャンネルをコロコロと変えていて、おもしろそうなものがあればそれを観る。こんな障害児が出てきたら誰も見たいとは思わない。だけどこれはとても大切なことだからどうやったらみんなに見てもらえるもみんなで考えましょうと先生やクラスメイトがアイデアをくれました。一人の女性が夫を亡くし、その原因が枯れ葉剤と思われる。その原因を探るためにベトナムに旅行に行くというパーソナルな話にしたらどうだと言うのです。私はこんな社会的な大きな問題を個人的な話に矮小化するのは気が引けて、躊躇するところがあったので、そのアイデアは心のおくにしまい込んで日本に帰ってきました。その後やはり一回の2週間の取材だけでは手薄だと思ったので、再びベトナムに行き、最初に出会った家族を再び訪問しました。彼女たちの日常生活をもっと深く取材したかったし聞き足りなかった話をもっと深く聞きたいと思ったのです。2度目でしたので皆さん私を覚えていてくれて歓迎してくれ、よりよい取材ができたと思います。その40本ほどのテープ、前回と合わせて80時間ほどあるのですけれど、それを今度はいざストーリーにまとめようとしたときに、メイン州での学校でのパーソナルな話にするというアイデアがまた頭に浮かんできました。グレッグが病院に行った時にこれでもう彼と話ができなくなる、姿が見られなくなると思ったらとにかくなにかに留めておきたくてホームビデオを撮ったことがあったし、それから二人で一緒に旅行に行った写真もあったし、これをつかって彼を生き返らせることができたらどんなにいいだろうという気持から、それを織り込んで一つのストーリーにすることにしました。すると今度は自然にストーリーがまとまるようになって、素人が作ったものですけれど1時間くらいにまとめることができました。
そういうものを友人などに見せている間にたまたまプロフェッショナルな人の目に留まって、一般公開できるということで手を入れてもらって、皆様の目に触れることこができるようになったわけです。
この映画は台本があってこういうものを作ろうと思って出来たのではなくて夫を亡くした悲しい気持から、一つ一つ小石を積み上げるようにしてできました。手探りで進んでいく間に周りから多くの手がさし述べられました。ベトナムで枯れ葉剤の被害者を撮影している間、カメラを通して被写体の世界に吸い込まれるような気持がしましたし、カメラの向こう側にある貧困と苦悩の間に家族の愛を見出して何か暖かいものがカメラを通じて私の中に入ってくるのを感じました。この映画は亡くなったグレッグが背中を押して、そしてベトナムの人達が彼らの物語をかたってくれて初めて出来たものです。
私はそこにいてカメラを回しただけです。映画を作る前と今では何が変わりましたかと聞かれます。悲しみを乗り越えようとして作った映画ですけれど、悲しみは乗り越えるものではなく、それと共に生きることを学ぶことだということに気が付きました。
その中で私のなかで何かが変わったし、変わりつつあるのを感じています。それは自分の殻から出て人と繋がろうとする気持ちだと思います。これはグレッグが亡くなって孤立していた私にとって大変大きな意味を持ちます。枯れ葉剤の被害者にあってその事実を調べて行く間に、遠い過去として遠い国で起こったことは私達の生活に密接に結びついているのだということ、そして夫の死という個人的な悲しみも連綿と続く歴史の中にあって私一人の悲劇ではないということに目を向けられました。そしてそこから私の次の一歩が始まったと思います。映画を通じて多くのいろんな出会いがありました。今夜もいろんな出会いがありました。私のつたないメッセージを受け取り、それを各々の中でふくらませてくれる多くの人に出会い私達は皆繋がっているのだと思いを新たにするとともに、メッセージを伝えるということの大切さと責任を感じています。
2008年6月、岩波ホールで公開されて以降、多くの方がこの映画を見て下さり,感動の言葉を寄せて下さいました。中でも中学生や高校生の方がある場面では被害者の様子に目を背けたくなったといいながらも、彼等が生まれるずっと前に、遠くの国で起こった出来事に深い関心をよせ、関わりを感じている事を知って胸を打たれました。物にあふれ表面的には平和に見える日本で何不自由ない生活を送っている彼らも世界で起こっている出来事が自分たちの生活と密接に繋がっていることを理解して、しなやかな若い心で考えているということを知って私の中にもなにか若い人たちに希望を託せるのではないかという思いが芽生えてきました。
この映画を作ったのは個人的な悲しみからでしたが、制作を通して世の中の理不尽な出来事の多くが根を同じとしているのだということに気がつきました。
以前はそんなに真剣に考えなかった環境問題、そして世界で起きている紛争の数々は私たちの今の生活と無関係ではないこと。そしていまの様々な社会のゆがみから出ている多くの犠牲と矛盾が見えてくるようになりました。物事の根が見えてくると、そこから派生して見えてくるものに惑わされにくくなると思います。
グレッグはよくこう言っていました。より多くのものを見ることによってより多くの事実を知ることができる。そしてより多くを知ることによって私たちを取り巻く世界を変えることができるのだと。彼はまた写真は世界を見る窓であるとも言っていました。この映画もそうであってほしいと思います。この日本という平和な箱庭のようなところに居て世界で起きている悲惨な出来事のことを知らなければ知らないで済みます。でも全ては繋がっています。私たちの今の平和な生活はいろいろな犠牲の上に成り立っています。
ですからドキュメンタリー映画にしてもジャーナリスティックな写真にしてもその世界に開く窓、そのきっかけになればいいと思います。出来るだけたくさんの方に見ていただいてそれが直接枯れ葉剤の被害者を助けることに繋がればうれしいのですが、でもそれが直接的な行動にならなかったとしても、こんな現実があることを知っていただければいいと思います。世の中は枯れ葉剤だけでなくいろんな問題があって根は同じところにある。どうすることがヒューマニティにとって大切なのかということをみなさんに、特に若い人たちに考えていただくきっかけになればいいと思います。日本は世界地図で見ると太平洋があって日本はその中心にありますが、外国の世界地図で見れば、太平洋の片隅に忘れ去られたようにあるちっぽけな列島です。日本の地図では真ん中ですが、ユーラシア大陸から見れば、ユーラシア大陸が真ん中にありアフリカや中国があります。けれど地理的にも恵まれていたからでしょうか、過ちを繰り返しながらも何千年もかかって文化を育んできました。世界の経済大国でもあります。とはいうものの国際社会での日本の存在感は薄く、海外に出ると日本人であることについて考えさせられることが往々にしてあります。
でも日本が誇りにすべきことがひとつあります。それはトヨタでもソニーでもなく日本の平和憲法です。こんな理想的な憲法を持つのは日本とコスタリカだけであると聞いています。私達は戦争をしません。こんな自明なことを憲法で決めているのは2国だけであると聞いています。「花はどこへいった」のような重く悲しいテーマの映画を心を開いて受け止め世界の平和ついて真剣に考える人々にこの映画の上映を通じて出会ったことで私は日本のこれからの国際社会に居置いて果たせる役割においても希望を抱いています。
映画ができ、そしてその経験が本として出版され、私の中ではなにか区切りが着きましたけれど、枯れ葉剤とそれをめぐる被害者の問題は枯れ葉剤が最初に散布されてから半世紀たつ今でも解決されていません。この問題の大きさに気付かされて今、私の中では次にすべきことの準備ができたように感じ、そしてそれがこれからの私の人生の指針の一部になるような予感がしています。
そしてその予感が現実化しはじめたのでしょうか。私は今年の一月からハノイに住んでいます。なにかグレッグが私をそこへ導いて行ってくれたような気がします。ベトナム語を勉強し、枯れ葉剤についてもっと知りたいというのが当面の目的です。かつては東南アジアの空港に立つと南国のくだものや魚のすえたような臭いが鼻につき、アジアに着いたと感慨が深かったのですが、いまやバンコクやホーチミンの空港は成田も顔負けする位の近代的な設備になってしまいました。ハノイの空港も例外でなく街にも日々といってもいいくらいのスピードで高層ビルがどんどん建っていきます。ベンツやポルシェを乗り回すような大金持ちが出現する一方で都会でも田舎でも貧しい人は取り残されています。
貧富の差と同じように、また戦争を経験した世代としなかった世代にも大きな隔たりが出来ているようです。私が知っているある退役軍人で、枯葉剤の援助をしている男性が私に漏らして言った若い人たちはハートがないと悲しんで言っていたことが今でも心の中に残っています。ベトナムでは今経済的な急成長を遂げる中でいろいろな意味での歪みも目立ちます。またその歪みがエネルギーになっているのではないかと思うほど人々はとてもパワフルです。多くは、車や家を持ちたいという物質的・経済的なものなのですけれど、家族旅行に出かけたいとか明確な目標を持って精力的に生活しています。だからその欲望の多くは大衆消費志向、資本主義的なものでときどき私はそういったものに首をかしげたくなるのですが、そのパワフルさは今の日本の閉塞的な状況とは対照的です。
例えば私のベトナムの先生は26歳で女性なのですけれど私が大学時代に何を勉強したのか聞くのですね。哲学と答えると哲学って何と聞くのです。説明するとあっそうか、なんであんなものを勉強したのですか。ベトナムにもそういったものはあるけれど誰も勉強しません。ベトナムではみんな経済を勉強して銀行で働くのが夢なのです。私のつたないベトナム語と彼女のあやふやな英語では会話はそれ以上深いところには進めませんでしたけれども何か一抹の不安を感じるエピソードではありました。
そんなベトナムですけれど三百万人いると言われている枯れ葉剤の被害者は取り残されたままです。ベトナムの大金持ちがホテルを経営しベンツを乗り回しているのだから、何も私達外国人が助けなくてもいいという声も聞かれるのですけれど、それはベトナム社会の矛盾です。このごく一部の特権階級をあてにしていたのでは、被害者たちはなかなか救われません。「花はどこへいった」の各地での講演会で約250万円の募金が集まりました。これは「ベトナム枯れ葉剤被害者の会」、通称VAVAと呼んでいるのですけれど、その会を通じて映画に出演した家族やその他の苦しんでいる家族に渡され家の改善やケアセンターの建設に使われています。枯れ葉剤の被害者というと日本でよく報道されたドクさんのようなツーヅー病院が有名ですけれど、被害者はベトナム全国のあらゆるといころに居ます。枯れ葉剤被害者の会は2003年に発足してまだ歴史は長くないです。けれど全国に50支部を持って地方の忘れ去られた被害者の救済をしています。VAVAの活動によって枯れ葉剤の実態がベトナムの人たちの間にも知られるようになりました。そしてそれまで障害児が生まれたのは、過去の因縁や自分たちが悪いとあきらめていた多くの人たちが枯れ葉剤が原因であると知り、少しは救われた思いをしているのではないでしょうか。また、各地に支部が出来たことによって各地で孤立していた人達にまで援助の手が伸びるようになって障害や病気は治らないにしても、勇気を与えられるようなケースが見られるようです。
今回ベトナムに滞在している間に僻地の方を訪ねる機会が多くありました。南の散布地域から最も離れた中国との国境近くにあるハザンというところへも行きました。ここでさえ何千人もの障害者がいます。この原因は先ほどもお話ししましたが兵士が南に行って北に戻ってきてそこで子供を産んで障害者が生まれたというケースが多いのです。またハノイから100キロメートル離れたバクザン省では南で戦った多くの女性兵士に会いました。皆さん大体私と同じ年齢です。16歳くらいの時に南での戦いに志願し枯れ葉剤を浴びて帰ってきたのです。今年の4月30日に南ベトナム解放35周年記ということでその女性兵士たちが集まる会に私も招かれたのですけれど82人の元兵士が集まっていました。その中で18人—これは25パーセントという驚きの数なのですけれどーが、一人ないしは複数の障害児を持っている。それに加え、自分自身も癌などの病気に侵されているケースも多いのです。どこへ行っても私の訪問はとても温かく迎え入れられ感動しました。被害者や家族にとっては金銭的な援助以外に彼らのことを気にかけて彼らのことを外の世界に伝えてくれる人がいることが希望につながるようです。被害者の方々と接するたびに私にできることは何なのだろうと考えさせられています。ベトナムに住んで各地の枯れ葉剤の被害者を見てきて、私はそれまで枯れ葉剤の被害者というと医学も施しようがなく健全に生活の出来ない重症の障害者であると思い込んでいたことに気がつきました。
今回いくつかの省に被害者を訪ね、手や足が一部なかったり容貌が普通でなかったり、目がみえなかったりしても一生懸命生きて行こうとしている若い被害者たちがたくさんいることに気が付きました。被害者を抱える家族の多くは大変貧しい生活を強いられていて子供を学校にやることもできません。また、顔に大きな障害を持ちながらも学校の成績は優秀で将来自分のような障害者も治療できる医師になりたいと奨学金を受けながら医学の道に進んでいる子、目が見えないけれど音楽家になろうとしている子どもたちがいます。少しまえから、奨学金があれば彼らの人生の中にも一筋の光が差し込むのではないかと考えていたのですけれど、今回ハノイ在住の日本人の方の協力も得てこの秋から「希望の種」という奨学金を始めました。当初はひと月5万円の予算で20人の高校あるいは大学生の3年間の奨学金を与える予定です。ひと月2500円あれば一人の子供がよりよい教育を上けることができるようになるのです。この奨学金の制度を印刷した物を用意してありますので、ご賛同していただける方は手に取って下さい。
一方この2年間、私は「花はどこへいった」の続編を作成するための取材を続けてきました。そのなかで米国のベトナム帰還兵の子どもの中にも障害を抱え苦しんでいる人々が多くいることを知りました。彼らの多くは私とグレッグに子供がいたら同じ年であるような年代です。彼らの父親はすでに亡くなっていたりPTSDと呼ばれる心的外傷ストレス障害に悩まされている人が多くいます。枯れ葉剤の被害は時代、国境を越えて今も続いています。この続編は来年NHKで番組化されるのと、映画館でも放映されると思います。皆様にもまたご覧いただきたいと思います。
枯れ葉剤の被害を含む世の中の矛盾に遭遇した時に、私たちにいったい何ができるのでしょうか。私たち一人一人の力はとっても小さくて大きな政治や経済の流れの中では何もできないと思ってしまいがちです。しかし私はこの映画の上映を通して全国各地でこつこつと平和のため、そしてより良い支えあう社会を作るため努力を続ける数多くの方々に出会ってきました。一人ひとりは微力ですが、その草の根の努力がある日世界の流れを変えることができるようになると信じたいと思います。
ベトナムに住んでみて日本に対する期待の大きさをひしひしと感じます。日本の企業は大変な勢いで今、ベトナムに進出しています。でも私達は経済的に援助するだけでなく平和と平等への強い意志をアジアの国々に伝える必要があると思います。そしてそれは今若い人たちの肩にかかっているのです。私達まえに立ちはだかる障害は巨大です。でもみなでなんとか立ち向かっていこうではありませんか。最後にグレッグは亡くなりましたけれど、彼の落した命が一つのしずくとなって、水の波紋のように出来るだけ広く広がっていくことを祈っています。今日は遅くまでありがとうございました。
―質疑応答―
―今日は本当に素晴らしい映画を見て本当に感動を覚えました。今後、奨学金や第2作品の作成等いろいろと計画をされていますが、活動の障害はなんでしょうか。我々がもしサポート出来るのならどんなことがあるのかお話しいただきたいです。
坂田:やはり一人でやっているのでくじけてしまうことがあることです。例えばグループでやっていると支えあうことができますよね。もう辞めようかなと思うことがあるのですけれどその時、やはり大切なのは人と人とのつながりだと思うのです。本日皆様にお会いできたのもどこかでつながっているからだと思います。本当にくじけそうになった時にいろんな人がサポートしてくれる。それによって続けて行くことができると思います。だからこれからも皆様のサポートをよろしくお願いいたします。
―枯れ葉剤の影響を受けて生まれてきたお子さんのお母さんが、すごくお子さんに対して優しく接している姿が印象的でした。いま日本では幼児虐待等が問題になっていますが、坂田監督から見て日本の母親、ベトナムの母親に違いは感じられますか。
坂田:日本の母親、ベトナムの母親というくくりはできないです。しかし今の日本の社会は閉塞的であると感じます。人と人の気持ちのやり取りがベトナムのように直接的ではない。なにか物や社会の規範に縛られているような気がします。ベトナムの母親たちは自分の子どもを愛して本当に可愛がっています。それは日本の母親でも同じだと思います。子どもの足がなかったり、奇形型で生まれてもやはり子どもはかわいい。そういった意味では日本とベトナムは変わらないかと思います。映画にも出てきた頭が二つある男の子ですけれど、私も初めて見た時はたじろぎました。しかし、しばらく一緒に居ると本当にかわいくみえてくるのです。他の人と見かけが違うから最初は慣れないけれども、母親の愛情というのはそれには左右されないと思います。
―このドキュメンタリー映画はアメリカの戦争責任について追及する映画でもあったとも思う。例えば日本にも朝鮮や中国に対して戦争責任があると思います。そういった問題について今後取り上げて行こうという予定はありますか。
―坂田:映画としては取り上げて行くことは私にとっては荷が重すぎるので、きっとありません。映画にするともっと身近な範囲で私ができることしか出来ないと思うのですけれど。戦争責任に関してはドキュメンタリー映画として取り上げたいことはたくさんありますが、それを効率的に、心の中から生れ出るような作品を作ろうと思うと、私にとっては中国、朝鮮の戦争責任を取り上げたドキュメンタリー映画を作るのは荷が重すぎます。今日も電車の中で日本の戦争責任の本を読んでいたのですけれど米国もベトナムについてはなにも賠償をしていないのです。日本も中国・韓国にしていません。中国側からは日本の賠償責任を求めるといったような動きもあやふやになって、ある時期中国の人の考え方は、日本国は悪いけれど日本の人々が悪いわけではないから、今ここで日本の人々に賠償責任を追及するのは得策ではないと言われていたということを聞きました。戦争責任をどういったふうに取るかは難しいところです。ただアメリカの枯れ葉剤の場合は本当にこれが戦争犯罪だということが明らかだし、枯れ葉剤を作った化学薬品会社はそれが毒だということを知りながら利益を得るためにどんどん作ったわけですね。それが証明されているわけですから。ベトナムの人々がアメリカの化学薬品会社を相手取って訴訟をおこしましたけれど、その訴訟は結局アメリカの最高裁で棄却されたのです。だから法的に解決する道はないのです。現在、アメリカは罪を認めるわけではないけれどベトナムの人々が気の毒だから何億ドルというお金を出しましょうと。でもそれは自分の罪を認めたことにはなりません。
―米国が本当に真剣に責任をとって被害者の人たちに保障していくということがないとなかなか解決しないと思います。日本で上映をすることで、この問題に関心を持って支援する人が出るというのも大きいことだとは思います。しかし、日本に原爆を落とした米国がベトナム戦争で枯れ葉剤を使って被害が出ているにもかかわらず、こんどはアフガニスタンやイラクの戦争でクラスター爆弾や劣化ウランを使ったり、いわゆる枯れ葉剤と同じような被害が出る兵器をどんどん使っているのは米国なのです。こういった映像はマイケルムーア監督の映画がなかなか米国で上映されないように難しいと思うのですけれど。それでも何とか米国にこの映画を見てもらうということをあきらめているのかどうか教えて下さい。もうひとつ、数少ないと思うのですけれど、ベトナム帰還兵の人たちやイラク帰還兵の人たちで反戦兵士の会があると思うのですいけれど、そこには連絡をされたことはありますか。
坂田:アメリカでも上映を努力して行っています。米国でも大学の図書館にビデオが置かれたり授業で見たりはしています。もともと最初は英語で作ったものなので。また、平和を願うベトナム帰還兵の会があるのですけれど、そことは密接に連絡を取りながらやっています。ベトナムの帰還兵というのはアメリカの勢力の中で強いグループです。政府に対して大きな声を持っています。アメリカ帰還兵の子供たち、あるいは未亡人が団結しています。これはインターネットがあって初めて成立しました。そういう人たちとベトナムの人たちが連携してもっと大きい動きに持っていこうとする運動はあります。私もできるだけの力を出していきたいと思います。
―Brian Covert氏:お話しいただいたことにお礼を申し上げます。ここにお招きできたことを光栄に思います。
ある意味で、私たちがこの教室で、ベトナム戦争についてこのイベントを開くのは、適切なことです。3年前、ベトナム戦争の退役軍人であるアフリカ系アメリカ人アレン・ネルソン氏が、すぐ隣の教室でスピーチをしてくれました。それは、私たちすべてにとって、非常に感動的な経験でした。
アレン・ネルソン氏がここでスピーチをした2年後(昨年)、 彼はニューヨークでガンで亡くなりました。彼のガンは、ベトナムの兵士だった時の、枯葉剤をあびたことによるものであると彼は確信していました。
この映画を見ると、ベトナム戦争がまだ終わっていないことがよく分かります。アメリカは敗北を受け入れず、枯葉剤に苦しむベトナムの人々のことをこれまで認めませんでした。私たちはあることを覚えておかなければなりません。それは、戦争というものは、兵士が彼らの器材を荷作りして、帰国するとき、戦争が終わるのではない、ということです。いかなる戦争でもその影響は永遠に続くのです。
私たちには、自分たちが見たくない不快な事実を見せてくれる坂田雅子さんのような映画製作者が必要です。私の個人的な意見としては、それらの真実を見せてくれたフォト・ジャーナリストのグレッグ・デイビス氏と坂田さんの勇気をたたえたいと思います。
坂田さん、どうもありがとうございました。
―浅野健一教授:今日私は初めて映画を観たのですが非常に素晴らしい映画でした。坂田さんはAFS交換留学生として米国メイン州の高校で学ばれたのですけれど、実は私もそうなのです。坂田監督が12期で私が13期なのです。AFSには広島市の市長や川口外務大臣なども参加しています。日本から100人の高校生が一年間留学するというプログラムです。先輩だということが初めてわかりまして驚いています。先ほどの中国の話に関して少しだけ補足します。中国が72年に中国交正常化の時に賠償を放棄したのです。日本の人民も被害者であるということで日本のからの保障はいらない。しかしそのかわりにしっかりと歴史を教えてほしいというのが田中角栄の合意なのです。今中国は事あるごとに日本に対して発言をしますがそれはやはりしっかりと教育が出来ていないとの思いがあるからです。日本では9月18日が何の日か知らないで尖閣諸島の問題で騒いでいた。向こうはみんな9月18日が何の日か知っています。中国は政府として賠償を放棄しています。韓国には日本は賠償をしています。朝鮮民主主義人民共和国に対しては何もしていません。朝鮮半島の北の部分には一切言及しないという状態が続いています。中国や朝鮮の問題に関しては伊藤隆さんが朝鮮の被爆者についても書かれていますし、同志社でも講演などをしています。また興味を持っていただければと思います。いずれの国も戦争の賠償をするのは難しいです。しかし、他の国が謝っていないのであったら日本だけでも謝ろうと思っています。今日はありがとうございました。
●参加者の感想
昨日は、大変素晴らしい作品に出会わせていただき、 本当にありがとうございました。
枯れ葉剤の脅威は今も続いていて、戦争は終わっていない。ということ、そしてそんな中でも、子供への愛情をもって全力で生きている方々から生きる力を貰いました。 私自身、日本で社会的なドキュメンタリーを作っていて、釜ヶ崎の方々の生きる力や、社会の中で目を反らされている方々にこそ、目を向け、生きる力を発信できるものをメディアにのせていきたいと、考えております。(社会学部学生)
今回、講演会に参加し映画作製、枯れ葉剤、グレッグ氏の死に真摯に向き合う坂田雅子監督の姿に感動した。監督は講演中に「すべてはつながっている」と発言された。今も残る枯れ葉剤の被害はアメリカ政府を責めるだけでは解決せず、人類が起こしてしまった戦争という行為に対して私たち一人一人が行動して解決にむかわなくてはいけないのだと感じた。(社会学部学生)
戦争はいつの時代もそれとは直接関係のない人々に悲劇をもたらしてしまうと改めて痛感した。今回取り上げられていた枯れ葉剤はその最たる例であり、世代をまたいで産まれてくる子供の体を蝕んでいる事実には衝撃を受けた。映像の中で紹介された家族では障害を持つ子を中心に温かな家庭が築かれていたが、このような家庭は恵まれている方だと推測してしまった。中には、育児を放棄してしまう親などが存在することも想像できるからである。枯れ葉剤が撒かれなければ違う形で産まれてくる人々がいて、そこにはまた異なる家庭があったかもしれない。
そう考えると、枯れ葉剤が奪ったものの大きさを痛感した。そしてこのベトナム戦争から、私たちは多くを学ばなければならないと感じる。やはり、一人一人が今回の映画などを通して、枯れ葉剤やベトナム戦争そのものに目を向け、「知る」ということが非常に大切であると感じた。(社会学部学生)