10月21日午後、同志社大学新町キャンパス臨光館201教室で「DAYS JAPAN」の広河隆編集長を招いて、「新聞学原論Ⅱ」特別講演会「いま、戦場からジャーナリズムを考える」を開催した。
講演会は、広河隆一さんの略歴の紹介後、広河さんに講演していただき、その後質疑応答を行った後、最後に浅野健一教授が講演会を総括する形で行われた。
講演会は平日ではあったが、他学部の学生や一般市民も含め普段の二倍ほどの参加があった。講演では、広河さんが“フォトジャーナリスト”になるに至った話や実際の現場での経験から、ジャーナリズムとは何かという点を中心に進められた。
*広河さんの講演*
「ジャーナリストとは新聞雑誌ラジオで働く人という定義でいいのか」という話から講演は始まった。広河さん自身が実際ジャーナリストであると意識し始めたのは30代に入ってからだそうだ。「多くのジャーナリストがメディア企業に就職すると、ジャーナリズムより上位のアイデンティティとしてサツ回り記者クラブという社員教育を教え込まれる。企業もジャーナリズムよりも、社員教育を全うする者を求めている。ジャーナリズムが社訓を上回り行動した人間は会社から弾かれていく」と、日本メディア業界の現状を嘆いた。

広河さんはジャーナリストとは何か、という点についてこう述べた。
「生きる権利を全うするために必ず必要なのが知る権利なわけです。その上の自分たちの選んだ人間たちが知る権利というもの、どの方向へ行こうとしているのか、どこに連れて行こうとしているのかということを確実に私たちは必ず知らなければならない。そのためには知る権利を行使しなければならない。しかし国民は全部が知る権利を行使できるわけではない。その仕事の一部を全うするのがジャーナリストなのです」と述べた上で、「ジャーナリストはどこの場所でも立てば相手が首相だろうが大統領だろうが、対等に会って、それが本当かということを問いただしていくことができる。日本の記者クラブのような上からの直接上からの都合のいいことを垂れ流すのがジャーナリストではなく、自分たちの後ろに国民の生きる権利、人々の生きる権利、それに押された知る権利が背中を押しているからそういう仕事をしなければならない」と、人間として生きる権利を強調した。
フォトジャーナリストとしての仕事の中でも、「たえずいろいろな問題に答えがでるわけではないが、どこかに立ち返って自分たちの立場や立ち位置を見るとしたら、人々の生きる権利と自分の関係を見ることです。そこがいい加減な状態になったら、ただ戦場に行き、写真を撮る、より多くの現場で写真を撮る、そしてより多くの悲劇を伝えていれば、いい写真を撮れたと喜びを感じてしまうようなフォトジャーナリストになってしまう」と批判した上で、「そのような人は沢山いるが、そうなってしまうか、ならないかというは自分の立ち位置、つまり自分はフォトジャーナリストであるが、その前に何であるかが重要であり、『必要な言葉は、自分はジャーナリストである前に何かといわれれば人間であるということです』という他には無いのです」とジャーナリストであるということは何か、を語った。
そして、「民主主義の更に上のアイデンティティである、人間として生きることに反していることが、時として法律や民主主義で決められることある。ファシズムはまさに典型的な例です。そのようなときに抵抗していけるのは、一人の人間としての権利や生きる権利、人々の生きる権利と自分がいる、という意識があるというジャーナリストであり、そういった人材が求められている。こういった話は写真家というくくりでは出てこない。外で写真を撮るだけでは、ただの写真家であり、そういった人々にはジャーナリストであることが必要である。書くことであろうがテレビであろうが、写真であろうが必ず必要となる所である」とジャーナリストとして求められる人材についても論じた。
中盤からは、パソコンのスライドを使って、実際に広河さんが撮った写真をモニタに出しながら話された。「大学卒業後、当時戦争中のイスラエルに、戦争の意味やイスラエルパレスチナ問題も知らないまま行った」そうだ。当時のイスラエルで使われた”正義の”戦争という言葉の”正義”という言葉について疑問符がついたのが始まりで、色々と交流していくなかで、ユダヤの人々からパレスチナ問題を学んだという。一度日本に帰国した後、再びイスラエルに行った時、イスラエルの中のパレスチナ人のある老人に掴みかかられた。老人はなぜ一ヶ月前に来てくれなかったのか、と泣き叫んだ。一ヶ月ほど前に息子ら若者がイスラエルに対してゼネスト宣言を決意した。その前日、政府軍が拠点で銃を乱射し、死んでしまったそうだ。外国人ジャーナリストがいる場や証言者がいるような場所では、国や政府は証言を恐れて今回のような事態を起さない。銃乱射なんてしなかっただろう。「何かが起こった時に報道することだけがジャーナリストではなく、何かを起こさないようにすることもジャーナリストの役割である」と、初めて意識したという。危険な場に入るときはこの言葉を思い出した。
別の現場では、非常に緊迫した戦場で写真を撮っていた。「カメラに目を当てているときは怖くなかったが、カメラを目から外してフィルムを変えるときは、手の震えが止まらなかった」。「カメラを目に当てているときはジャーナリストとしてその場に立つ意味、アイデンティティを意識できるから。アイデンティティが無ければ足がすくんでしまう」と広河さんは振り返る。
大手メディアは安全地域に逃れて、現地雇いのジャーナリスト(ストリンガー)を雇い、その場限りの契約で前に出て写真を撮らせる。広河さんはフリーランスなので、現地に実際に行って見るのが仕事と考え、実際入ったら殺されるかもしれない場所へ行き、写真を撮った。「死体にしかシャッターを切れない悔しさもずっと残った」。
「今もなぜ写真を撮り続けるのか、危険な地域へ入っていくのか」という質問に対して、「明確な納得の行く答えは出せていないが、そのときの思いや悔しさなどの気持ちが多い」と答えた。行くといつも後ろをついてきた難民キャンプの女の子が、家族ごと爆撃された話などが今でも絶えないそうだ。そのほかにもイスラエル軍が家宅捜査をする写真や、難民キャンプが完全な平地になってしまった写真など、多くの写真が紹介された。
「現在のメディアは、テロがあって、カウンターテロがあってお互いに殺し合いをしていてどちらも困ったものだといった論調が多い」。
「メディアはどこから始まったのか、なぜこれが始まってきたのかという点を書かなければならない」。「どこかで私たちは関係ありません。あの人たちは勝手にやっています。日本の税金によって爆弾が投下されたということを触れないのか。このような状況に陥れていく原因の一つに私たちが関係しているということを書かなければならない」と広河さんは批判した。
南アフリカのコンゴでの写真も多く載せた。ここでも資源を巡っての抗争があり、その資源を最も消費しているのが、日本の携帯電話であり、ゲーム機であったそうだ。
加害者の側から都合のいい事ばかり書かれているメディアを変えるため、被害者の側から書こうと思い立ち上げた雑誌が「DAYS JAPAN」である。
広河さんは「私たちはむごたらしい写真を見たらつい目を背けてしまう。しかし、自分たちが加害者であることについては目をそらすでは済まされない。私たちは見るべき義務を持っているのである」と強調した。「しかし、日本のメディアはそういった義務から目をそらすように報道している。だから世界で起こっている問題は我々と関係のない、他人事である。世界では血が流れない戦争、綺麗な戦争と錯覚する」
爆弾を落とす国は、自分に有利な情報しか流さない。その代替メディアとして、「DAYS JAPAN」を作った。現在は多言語版や、インターネット版など、多くの試みも行っている。
「私たちは写真に対する力を信じている。人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」。「DAYS JAPAN」の創刊時に掲げられたスローガンで、広河隆一さんの講演は締めくくられた。(社会学部メディア学科2年・入江貴弘)