97年9月5日

ダイアナさんを殺したメディア

浅野健一

 

 旅行先のソウルで英国の元皇太子妃ダイアナさんの死を知った。九七年八月三一日午前零時半過ぎ、パリ中心部のセーヌ河沿いの自動車道路内のトンネルで乗っていた車が交通事故を起こし、三時間後に亡くなった。ダイアナさんがの乗っていた車は追い掛けてきた写真記者たちの乗ったオートバイを猛スピードで振り切ろうとしてコントロールを失い、トンネル内の壁面に激突した。韓国のマスメディアも大きく報道していた。「新しい恋人」と報道されていたエジプト人大富豪ドディ・アルファイド氏と運転手も死亡した。ダイアナさんはチャールズ英皇太子との離婚からちょうど一年後の悲劇だった。フランスの司法警察刑事部は車を追跡していた写真記者七人を拘束、検察当局は九月二日、過失傷害致死容疑で予審判事に身柄を送った。予審判事は七人を尋問した後、釈放した。七人のうち二人は保釈金を支払った。

 世界中のメディアはダイアナさん関連のニュースを死後数日間、トップで伝えた。「心の女王」になりたいと語っていたダイアナ妃の死は、全世界の人々に悲しみだけでなく、メディアの報道倫理を考える機会を与えた。これは報道による殺人とも言える。メディアによる取材・報道が市民を間接的に死に追い込むというケースはあったが、これほど直接的に死に至らしめた事例はない。

 特ダネ写真を狙う「パパラッチ」が被疑者である。パパラッチとはイタリア語で、はえのようにぶんぶんうるさい虫のことで、単数ではパパラッゾ。フェデリコ・フェリーニ監督の映画で、ゴッシップ雑誌の記者とともに働くフォトグラファーに名付けられ、芸能人や政治家のスキャンダルやプライバシーを暴いた写真を狙う写真家を指すようになった。

 ダイアナさんが乗っていた車の運転手が酒を飲んで一六○キロのスピードを出していたにしても、メディアから逃れるためにおとりの車を使うなどの状況に追い込んだのはカメラ記者たちである。ダイアナ妃もメディアを利用していたという畫、洪水のような報道に対抗するために反撃の手段をマスメディアに求めざるを得ない状況に追い込んだのはメディア企業である。

 日本の新聞・テレビは、「過激取材は日本以上」などと過熱する英国のメディアを批判的に取り上げているが、これはもちろん日本の報道のあり方と無関係ではない。むしろ外国のメディアより多くの問題を日本のメディアは抱えている。外国のメディアの振る舞いが日本に似てきているのだ。過熱競争、テレビなど映像メディアの発達で、情報が世界を駆け巡る中で、悪貨が良貨を駆逐しているのだ。

 ダイアナさんの交通事故死で写真取材を行っていたフランスの通信社幹部などマスメディア側は、有名人の私生活を暴いた新聞や雑誌を「見る側」に責任があると主張している。メディアによる人権侵害が問題になると、「社会が悪い」という議論がよく出てくるのだが、私はかつて通信社記者を勤めた経験から、メディアによって引き起こされた問題の責任はまず第一に報道する側にあると思う。

 一部メディアがダイアナさんについてあることないことを報じてきたのは、「売るため」であり、読者・視聴者の「知る権利」にこたえるためではなかった。「表現の自由」は、一般市民が知るべきこと、知らなければならないことが対象であり、何を取材・報道してもよいということではない。

 私が共同通信の外信部でデスクワークをしていた時に、英国のタブロイド紙がダイアナ妃がジムでストレッチしている写真を盗み撮りした写真を載せたことがある。ロイター通信がこの写真を配信したのだが、約一時間後に、「英国王室は強く抗議しており、配信写真を削除する」と連絡してきたことがあった。後でジムの責任者が盗み撮りに協力していたことも明らかになった。その後も非人間的な取材方法や明らかな誤報があった。ダイアナ妃は離婚後、前以上にあることないことを報道されるようになったと思う。

 日本の新聞社、特に朝日新聞は英国大衆紙の報道をBBCやタイムズが引用したとか何度もタブロイド紙を持ち上げてきた。英国でも米国でもマードック資本が買収した新聞、放送局がセンセーショナリズムを蔓延させてきた。マードック系の報道機関では組合がつぶされ、利益至上主義でジャーナリズム性が後退してきた。私はこうした国際的な傾向をジャーナリズムの日本化(ジャパナイゼーション)と呼んでいる。日本で八○年代の初めにテレビのワイドショー、新潮社・文藝春秋などを中心とした雑誌が先取りしてきた、「視聴率をあげるため」「売るためには何でもする」という報道スタイルが、外国でも顕著になってきたのだ。

 誰も止められないメディアの暴走が、ついにダイアナさんを抹殺してしまった。

 マスメディア(NHKなどを除き)が私企業であり、企業である以上、食品メーカーと同程度の社会的責任はあるし、最低限の社会的ルール(それが法律と常に同じとは限らない)を守らなければならない。表現の自由が無条件に「私企業である新聞、出版社の報道の自由」とイコールというわけではない。報道人には一般企業の人々より高い倫理性が求められる。

 我々は日本でも同じ問題を抱えている。八月二六日付の本紙によると、田島泰彦・神奈川大学短期大学部教授は集会で、「フォーカス」が神戸連続殺傷事件で審判を受けている少年の顔写真を掲載した問題で、「販売も問題だが読み手が実物を見て批判する機会を奪ったのも問題」と述べたという。この発言がどのような脈絡の中であったのか不明だが、少年だからといって凶悪事件の被疑者の顔を「見る自由」を制限するのは不当だと主張しているのであれば問題である。

 被疑者の少年(無罪を推定されている)の顔は「一般市民の権益」とほとんど無関係である。「フォーカス」が「少年被疑者は匿名」という原則を破る積極的理由はなかったことは同誌の田島編集長も認めているように思われる。ダイアナさんの行動についても、そのすべてを市民が知る必要はない。「見ない自由」、「知らないでおく品性」も大切なのだ。報道される本人及び家族などの関係者が受ける損害を超える「社会的利益と関心」があるかどうかが問われている。(田島教授は九月四日の毎日新聞で、ダイアナさんの死にふれて、メディアの自主規制強化を訴えている。ダイアナさんのプライバシーや遺体写真を「見て判断する権利を奪うこと」「パパラッチの取材の自由」についての言及はなかった。ダイアナさんと神戸の少年を比較すると、ダイアナさんの方がよほど公人で、知る権利の対象だろう。ダイアナさんの「見られない自由」を認めるならば、少年の顔が載った雑誌を売らない自由もあるだろう。

 メディア企業の商売の自由は一定程度制限されて当然である。しかし、法務省や警察による法的統制ではなく、社会的なコントロールでなければならない。諸外国にあるような@メディア界で統一した報道倫理綱領を制定するAメディア関係者と市民代表で構成する報道評議会、プレスオンブズマン制度による審判機関ーを日本でもつくるべきである。メディア関係者と市民が協力して、何が表現の自由で守られるべき「表現の自由」の対象なのかを日常的に議論すべきである。私はこうした仕組みをメディア責任制度と呼んでいる。

 新聞労連が二月に決めた倫理綱領は「犯罪報道」の項で「新聞人は被害者・被疑者の人権に配慮し、捜査当局の情報に過度に依存しない。何をどのように報道するか、被害者・被疑者を顕名とするか実名とするかについては常に良識と責任を持って判断し、報道による人権侵害を引き起こさないように努める」と規定した。新聞労連は日本報道評議会設立を日本新聞協会などメディア経営者に訴えている。日本弁護士連合会も七六年と八七年に報道評議会設置を提言している。放送界では六月から自主規制機関である「放送と人権権利等に関する委員会」を設けた。活字媒体の新聞、雑誌業界もメディア責任制度をつくるべきである。

 田島教授と同じ集会で発言した毎日新聞社会部記者は、日本の犯罪報道が十年前のレベルに戻ったと警告している。メディア界が真剣に自浄努力をしなければ権力側が、プライバシー保護を理由にして、メディアに対する法規制を狙ってくるのは間違いないと思われる。報道の自由を守るためにこそ、メディアによるセルフコントロール強化が必要なのだ。

 ダイアナさんの死で、地球市民は公人のプライバシーはどこまで制限されるのか、我々はどこまで知る必要があるのかなどについて考える契期を与えてくれた。ダイアナさんが事故の4日前にマスメディア批判を行っていたことを永久に忘れないでおこう。

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Copyright (c) 1997, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1997.09.09