エミル・サリム氏に再会 浅野健一
※月刊現代(講談社)にこのレポートのダイジェストが掲載されている。
スハルト体制が崩壊寸前に追い込まれている。学生・市民の判断は、ポスト・スハルトへと動きだした。以下、インドネシアを訪問した時のレポートを掲載する。
九八年三月下旬、再びインドネシアを訪問した。
エミル・サリム氏と再会するのが目的だった。サリム氏の経歴は次のとおり。
一九三○年、スマトラ生まれ。八四〜八七年国連「環境開発に関する世界委員会」委員。七一年に行政改革相、七三年運輸相兼務。七八年に開発観察環境担当国務相。八三年から九三年まで人口・環境相。国立インドネシア大学経済学部教授。経済学博士。インドネシアの民主勢力がつくったグマ・マダニ(市民社会のこだま)代表。
「スハルトさんに辞めてもらわないことには、七月までに流血の大混乱になる。ハビビさんではこの大国はまとめられない」。シンガポールからフェリーで四十分のインドネシア・バタム島にあるハイテク工業団地の日系企業社長が祈るように言った。この島はスハルト大統領側近で三月に副大統領に就任したハビビ氏の肝いりで開発が進んだ。昨年末からのインドネシア通貨ルピアの急下落で、消費者物価は三、四倍に跳ね上がり、工場労働者は鶏肉、ミルクなど生活必需品も十分には買えない。
バタムからジャカルタに飛んだ。ジャカルタのあのひどかった交通渋滞が消えている。屋台の店主は「もうすぐ貯金がなくなる。食事は一日一回にしている。子供の入学などにお金がかかる六月のことを考えるとぞっとする」。大学教授、記者、会社員、労働者たちが、「あと三カ月でこの国はおしまいだ」「スハルト一家は外国に貯めているドルでルピアを救え」「スハルトが辞める以外に国の信用は取り戻せない」「ハビビは優秀な技術者だが、政治は無理だ」と口を揃える。
私は八九年から九二年まで共同通信ジャカルタ支局長を務めたが、スハルト一族の富の独占ぶりと日本の援助や投資が圧制を支えている構造を取材・報道したため、事実上の「追放」処分を受けた。六年前のインドネシアは東南アジアの優等生として高い評価を受け、ある全国紙特派員は、個人としてスハルト氏を尊敬すると書いたこともある。日本国大使と経済紙特派員は、ルピア貯金をさかんに勧めていた。今は様変わりだ。私は『日本は世界の敵になる『日本は大使館の犯罪』などで、スハルト一族の富の独占ぶりを描き、日本の援助や投資が圧制を支えていることを明らかにした。
スハルト大統領は長女を後継者にして、次女の夫であるプラブウオ氏を軍司令官に抜擢して軍を押さえる目論見だが、既に人心は「裸の王様」スハルト氏から離れており、そううまくはいくまい。間もなくスハルト王国崩壊は秒読み段階に入るだろう。
インドネシアの次のリーダーにはエミル・サリム前人口・環境相が最も適していると私は前から思っていた。そのサリム氏が三月初めに民主化勢力に推されて副大統領候補に名乗りを挙げた。流血の事態を避けて改革路線を進めるためには知識人、市民運動家、学生たちに支持され、閣僚経験もある経済学者サリムがポスト・スハルトの最有力候補だと思う。
三月三○日、ジャカルタでサリム氏にインタビューした。
──現在の議会制度では、大統領と軍が決めた候補以外は絶対になれないのに、敢えて副大統領に立候補表明をしたのはなぜか。
この国の将来について真剣に考えている軍人、学生、知識人などすべての人民に勇気を与え、自由でオープンな対話を保証する社会をつくろうというメッセージを送った。副大統領のポストは問題ではない。
二十一世紀に向けて、社会政治面でのグローバリゼーションに備えて、経済の改革、選挙制度など政治の改革、腐敗の監視、下層・失業者などを救う行動計画の推進が必要だ。これまでとは異なる仕組みをつくりたい。
──閣僚時代、私のインタビューで「インドネシアのような自然豊かな途上国は、欧米や日本の経済発展理論とは違う第一次産業を中心にした発展モデルを構築したい」と答えたことが強く印象に残っている。今後の経済をどうすべきか。
新理論というより新しいパラダイム(枠組み)が求められている。豊富な自然資源を基盤にした経済発展を図るべきだ。この国には特有のフロラ(植物相)、長い海岸線、豊かな鉱山・森林・農地がある。これらの資源に知識と技術を合わせると新たな価値をつくりだすことができる。環境の保全が重要。
──工学博士で旧西ドイツで活躍したハビビ氏は、国産のジェット機を製造する会社を設立するなど、先進国の経済発展理論で開発独裁を推進してきたのと対照的な考え方だ。東南アジアの経済危機は、先進国の権益を優先させる世界経済の中に組み込まれ、振り回された結果とも言えるのではないか。
「北」の先進国は、産業革命以来アジアと中南米の「南」の資源を運んでプロセズ(加工)し利益を得てきた。また「南」に進出して労働力を使った。これからは途上国自身が、自然環境と調和した発展を進めるべきだ。果物や樹皮を遺伝子工学などを使って薬品にするなど、先進国の科学技術を学んで付加価値を高めることができる。
──スハルト大統領のファミリービジネスに市民の批判が集まっていることについてどう思うか。
経済活動をオープンにし、社会の透明性を実現したい。社会のあらゆる面で欠陥を取り除いていくことが重要だ。国際通貨基金(IMF)との合意を守り、国際社会と共に危機を克服すべきだ。この国に健全な市民社会を強化していくことが重要で、そのために言論・報道の自由が不可欠だ。人々が何も恐れずに社会改革を議論できることが何よりも大切だ。
──米国などもあなたに期待しているように思われるが。
これからの五年間にもう一つのインドネシアをつくるために力を合わせたい。日本の政府と国民のサポートを期待したい。
サリム氏は慎重に言葉を選び、スハルトへの直接批判を避けながらも、現体制の改革を訴えた。オールタナティブな体制をという表現で、新体制を構想する。表情からは政権掌握への自信と情熱を感じた。三月に発足した新内閣の閣僚の中に親しい友人も多い。
サリム氏は毎日新聞ジャカルタ支局の大塚智彦記者のインタビューに「スカルノもスハルトも国家の父だ。国民は父を悪く言うべきではない」と語ったという。本音は違うだろう。スハルト体制と正面対決せずに、話し合いによる政権委譲を望んでいるのであろう。
スハルト大統領は、IMFとの合意事項の一部について、「憲法でうたわれている家族経済と協同組合主義に違反している」と主張して、IMFの要求に異議を唱えた。四月中旬にやっと合意にこぎつけた。
インドネシアでは初代大統領スカルノの長女メガワティ氏(前民主党党首)も国民的人気が高い。しかし、彼女が人口世界四位の大国を治めることができるかどうか疑問だ。
インドネシアでは確実にテクノクラートが育っている。サリム氏は民主主義の重要性 をよく理解している。インドネシアを代表する作家モフタル・ルビス氏は「サリム氏は我々の希望だ」と評価する。清潔で温厚な人柄。混乱なくポスト・スハルトを舵取りできるのは、敬虔なイスラム教徒でもあるサリム氏以外にないように思える。
Copyright (c) 1998, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1998.05.15