独立後は日本国憲法にならい非武装中立国に

東ティモールの指導者シャナナ・グスマオ氏と会見

1999・5・20浅野健一

 

「忘れられた南の島の戦争」と呼ばれた東ティモール紛争の解決の日が見えてきた。旧ポルトガル植民地であるが東ティモールを一九七六年に武力併合したインドネシア政府が、今年一月二七日に、東ティモールの独立を容認すると決定。昨年五月に退陣したスハルト大統領に代わって誕生したハビビ政権による新政策で、東ティモール問題は再び国際的に注目を集めた。その後、ハビビ政権の独立容認政策に不満な軍の一部が現地の暴力集団などを組織した「併合派」による住民虐殺などがあり、混乱しながらも、八月八日に国際社会の監視下で独立かインドネシア残留かを住民に問う「直接投票」が実施される。

この投票が公正かつ自由に行われれば、大多数の住民が独立を望むことは確実で、二三年にわたるインドネシア軍の侵略に抵抗し、民族の尊厳を取り戻す勇気ある闘いを続けてきた東ティモールの人々に、輝かしい勝利の時が近付いている。

私は八九年二月から九二年七月まで共同通信ジャカルタ支局長を務めた。スハルト前大統領が軍をバックに「開発独裁」を推し進めていた絶頂期だった。ジャカルタで学ぶ東ティモール出身の大学生と会うときは、いつも公安警察の尾行がついていた。あの時代を知る者としては、東ティモールの人々が、インドネシア軍による威嚇、虐殺、強姦の恐怖から解放される日が来ることを、心から喜びたい。

私は三月一二日に、ジャカルタ市内で東ティモール民族抵抗評議会のシャナナ・グスマオ議長にインタビューした。シャナナ氏は拘禁二○年の刑を受けており、法務省借り上げの民家で軟禁されている。シャナナ氏が九二年一一月にディリ郊外で拘束された後、日本の支援者が会うのは初めてだった。

 

「ハロー、よく来てくれました」と私の手を固く握り、人なつっこい眼で話し初始めた。笑顔がすばらしい。風格がある。カリスマ性のあるリーダーだと改めて感じた。

シャナナ氏は、私とがっちり握手し、「あなたからの手紙を今朝受け取り、読んだばかりだ」とにこやかに声を掛けてくれた。シャナナ氏は前日から風邪気味だと聞いていたが、元気そうだった。

議長は約九○分間にわたり、東ティモール独立後の政治社会体制や日本の役割について率直に話した。(私はシャナナ氏と会うために、かなり「非合法的」な手段を用いたので、会談内容をこれまで公表しなかった)

ーー独立が確定的になったが、独立国家となった東ティモールはどういう国家を目指すのか。

まず第一に、平和主義の国家をつくりたい。新生東ティモールは警察しか持たない。国際社会においてほとんどの国が軍隊を持っている。しかし、日本やコスタリカのように軍隊を持たない国もいくつかある。我々は小さい国。多くの国が軍隊のために巨額の金を使っている。人民のためではなく、軍事費にお金が回っている。

政治的には複数政党制による議会制民主主義制度をとる。

ーー日本でも軍隊を持たないというのは非現実的だという考えがある。ほとんどの国が軍隊を持っているが。

その通りだが、私たちはその困難な努力を始めなければならない。非常に少ないが、日本やコスタリカのように軍隊を否定した国もある。戦争は苦痛と破壊をもたらすだけ、と我々は認識している。我々の先祖は平和の中に生きるという伝統と遺産を私たちに引き継いでくれている。我々の世代で平和を実現したい。未来に対する責任だと今考えている。

アフリカ諸国では約三○年前に独立を勝ち取った後に、国内で紛争が続き今も武力衝突がある。そうした国々では税金が戦闘に使われ、市民は悲惨な貧困状態にある。そいう悪い前例から学びたい。

市民に対する平和教育が大切だと思う。若い世代に平和の重要性について教えなければならない。そして、世界の平和に貢献したい。

ーー日本政府と市民は何をすべきか。

日本政府にぜひ東ティモールへ要員を派遣する準備に入ってほしいと願う。日本はカンボジアの国連平和維持活動(PKO)に要員を送ったように、東ティモールの独立へのプロセスにも協力してほしい。独立問題の協議と並行した平和のミッションとしてだ。我々は国連にはお金がないことをよく知っている。東ティモールの状況を理解してくれる国が要員と資金を出してくれることを期待する。そう大きな額にはならないはずだ。もし可能ならば、この国連PKO活動に必要な資金を集めるための会議の議長国を日本に務めてほしい。

我々が必要としているのは、和平協議の進む過程で、東ティモールのすべての党派が武器を捨て、領土をカバーする新しい東ティモール警察を訓練し形成するための、中立的な機関である。この機関にはそんなに大規模な人員はいらない。

ーー日本の新聞は「併合派」と「独立派」がイデオロギー的に対立しているとか、対等に扱っているが、もともと東ティモールに住んでいる人たちに「併合派」はどれほどいるのか。

インドネシアとの併合に賛成している東ティモール人はほとんどいない。ポルトガルの統治時代から、独立へ向かうための長い闘いの歴史がある。併合賛成の人たちは、インドネシアから移住してきた住民と、インドネシア軍との関係の深い人たちで、独立することが決まれば消えていくはずだ。

ーー独立国としては小さすぎるという意見があるが、どう思うか。

確かに領土は狭く、人口も非常に少ないが、世界には我々の国より小さな国も少なくない。独立を勝ち取った暁には、ゼロからのスタートになると覚悟している。あらゆる分野でそういうことになる。国際社会に強力な支援をお願いしなければならない。日本の援助に期待している。高度な技術を移転してほしい。

ーー日本軍は一九四二年から四五年までインドネシアを侵略した。戦後補償などを要求するか。

私たちは第二次世界大戦が終わってからの世代だ。日本政府に賠償を求めることはないと思う。インドネシア政府に対しても、過去二四年間の侵略について賠償を求めるつもりはない。平和的な友好関係を結びたい。

以上がシャナナ氏とのインタビューの主な内容だ。

私は会見の後、日本で東ティモールの民族自決権を支持して運動を続けてきた大阪外国語大学の松野明久助教授から預かっていた「世界人権宣言」のテトウン語訳パンフレットを手渡した。シャナナ氏は翻訳者(ニューヨーク在住の東ティモール人)をよく知っており、「独立闘争の同志だ」と喜んだ。

シャナナ氏にインタビューが終わった後の懇談で、シャナナ氏は「民家に軟禁されてから、多くの来客があり疲れている。刑務所では決まった時間に運動をしていたが、今はずっと室内にいるので運動不足でふとった」と笑った。

私がシャナナ氏と会見中に、シャナナ氏の高校時代の恩師であるイエズス会東アジア・オセアニア会議議長、イスマエル・ズロアガ氏も部屋に入ってきた。三七年ぶりの再会だった。「彼のことをアレキサンダーと呼んでいた。学生時代はとてもやんちゃな男の子だった。いつもいたずらをして先生から罰を受けていた」。サッカー好きの青年が、その後、ゲリラ闘争のリーダーになった。「彼の闘いは私にも勇気を与えてくれた。困難な時期を乗り越えて、東ティモールの国家建設のリーダーになる」とズロアガ氏は目を細めた。

▼インドネシア政府は面会を拒否

外国人がシャナナ氏に会うには、インドネシア外務省の許可がいる。今も政治囚であり、ジャカルタ市内の法務省が借り上げた民家に軟禁されているのだ。私はインドネシア政府の許可を得ないで、“ゲリラ”的に会見することができた。

私は三月三日、インドネシア外務省のヌグロホ政治総局長に、シャナナ氏との会談を許可するように求める文書をファクスで出した。インドネシア外務省の男性担当官、アント氏が国際電話で指示したとおりに申請したのだ。ところが、ジャカルタに着いてから電話したところ、アント氏は「日本のインドネシア大使館で許可をもらうよう申請すべきだった」とか「法務省の担当局長に申請してほしい」などと言い始めた。

私が滞在しているホテルに「あなたの問い合わせの件で、外務省内線4541の国際機構局の幹部に直接依頼するように提案する」という伝言が残っていた。

外務省国際機構局に電話すると、非植民地化部のディアンという女性係官が電話に出た。彼女は「観光ビザでは会えない」などと言った後、「午後三時にディノという部長に電話を入れてほしい」と述べた。約束の時間に電話すると、「先程、シャナナ氏が誰と会うかを許可する関係省庁との協議があった。その結果、あなたがジャカルタに滞在中にシャナナ氏に会うことはできないという結論が出た。彼に会見を申し込んでいる外国人がたくさんいるので、あなたの順番はここ数日の間には来ないということだ」と最終的に拒否した。

私はインドネシア政府が私の申請を拒否すると予想して、ジャカルタの市民団体を通じてシャナナ氏と面会できるように頼んでいた。東ティモールの独立を支援するソリダモール(SOLIDAMOR)や法律扶助協会(LBH)から分離したインドネシア法律扶助人権協会(PBHI、ヘンダルディ事務局長)などだ。私のジャカルタ特派員時代に、環境保護運動を展開し、スハルト軍事政権から弾圧されていた活動家たちが、こうしたNGO活動の中心になっている。彼や彼女たちが私が書いた手紙を三月一二日朝、シャナナ氏に届けてくれた。その際、ソリダモールやPBHIの人たちが紹介状を書いてくれた。

三月一二日、スハルト前政権下で反政府活動を行ったアリ・サディキン元ジャカルタ知事らがシャナナ氏と会った。午後三時半過ぎに会談が終わり、サディキン氏らが庭に出てきた。民家の門が少しだけ開き、外で待っていた数十人の記者たちが中に入った。私も記者たちに紛れて中に入った。駐車場で記者会見が始まった。間もなく家の中からシャナナ氏が現われて、中央に座った。ジャカルタに着きずっと接触してきたジョンソン・パンジャイタン弁護士が記者会見の司会をした。彼はシャナナ氏の主任弁護人だ。約四○分で記者会見が終わった。

シャナナ氏の後ろに座っていた軍人に促されてシャナナ氏は玄関から家に戻ろうとした。記者たちが次々と質問を浴びせた。シャナナ氏が家に入る寸前に、パンジャイタン弁護士とヘンダルディ氏が私の腕を引っ張って、「浅野さん、早くこっちへきなさい」と手招きした。玄関からすっと居間に入った。シャナナ氏の警備を担当している軍人は全く妨害しなかった。私が帰るときにも何も聞かなかった。

共同通信の上村淳ジャカルタ支局長は、私のシャナナ氏との会見を記事にしてくれた。見出しは「浅野同大教授人権宣言贈る グスマン氏と会談」だった。三月一三日の読売新聞アジア衛星版、京都新聞などに掲載された。


(参考)以下は、インドネシアが独立を容認した一月末に書いたもの。大学のホームページで流した。

「インドネシア政府が一九七六年に武力併合した東ティモールの独立を容認すると決定した」。一月二七日夜のテレビニュースに驚いた。二三年にわたるインドネシア軍の侵略に抵抗し、民族の尊厳を取り戻す勇気ある闘いを続けてきた東ティモールの人々の勝利である。

昨年五月に退陣したスハルト大統領に代わって誕生したハビビ政権は今年六月に総選挙を実施する。そこで発足する新政府が東ティモールの分離・独立をどう実現していくか予断を許さないが、この段階でハビビ大統領が、独立容認を言及したことは大ニュースである。ところがテレビのニュースの扱いは極めて小さく、翌日の各新聞の扱いも地味だった。

新聞にはとんちんかんな記事も多かった。朝日新聞の吉村文成ジャカルタ支局長は、一月二八日の解説記事で《東ティモールの独立派に対しては「本当に独立してよいのか」という問いを改めて問いかけることにもなる。インドネシア政府が住民投票を拒否続けてきたのは、東ティモール側が独立派と自治受け入れ派に分かれ、統一できていないのも一員だ。(中略)今回の外相発言は、そうした支援を断ち切られても約八十万の住民で国家としてやっていけるのか、と問いかけるものだ》と書いている。

東ティモールに併合前から住んでいる人たちの間では分裂などほとんどない。若者も含め「本当に独立してよいのか」と問われて動揺する人たちはゼロに近い。私が八年前にインタビューしたインドネシア軍幹部は「我々がどんなにお金を注ぎ込んでも、彼らはインドネシア人にはならない」と率直に語った。かつてある朝日特派員は「インドもインドネシアも独立しないで、英国やオランダの植民地のままでいたほうが、経済が発展してよかったのではないか」と言ったことがあった。朝日の記者には、世の中にはお金や豊かさとは無関係な「人間の尊厳」とか「民族自決権」という価値のあることが理解できないのだ。

九六年にベロ司教と共にノーベル平和賞を受賞したラモス・ホルタ氏は九七年一月来日した際、「日本の記者に、『小国なのに独立してやっていけるのか』『住民の間に独立をめぐり意見の対立があるのでは』と何度も聞かれた。インドネシア軍の非道な弾圧を見ようともせず、人口が少なすぎるとか、独立したくない人たちも多いのではと言う、その感覚が分からない」と話した。

私はTBSラジオの朝番組に出演したが、ディレクターに「東ティモールの住民の中にも独立を求める人たちと、インドネシアに帰属したいと思う人に分かれているのでは」と聞かれた。番組ではキャスターは「ハビビ政権は結局日本などからの援助がほしくて分離・独立を認めることになったのではないか」と聞いた。

日本は東ティモール住民を虐殺し、威嚇し、民族絶滅政策をとってきたスハルト体制を政府開発援助(ODA)という名の円で支えてきた。世界の中で突出した額の援助をスハルト、ハビビ両政権に注ぎ込んできたのだ。

ハビビ大統領は、シャナナ・グスマオ氏を釈放すると言明した。東ティモール住民の解放なくして、インドネシアの民主化もないだろうと思う。(了)

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Copyright (c) 1999, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1999.05.22