伊丹十三監督の死とメディア 浅野 健一
97年12月31日
一二月二○日午後、松本サリン事件の被害者、河野義行さんが同志社大学を訪れて、ゼミの学生たちと懇談した。「今年一番の印象深いことは、英国の元皇太子妃ダイアナさんが八月三一日未明に亡くなったことだ。メディアが改革しなければ、報道によって生活や生命を破壊される人が、これからも出るだろう」。河野さんは、メディア界が一致して、個人の尊厳を大切にするような取材報道を確立するように訴えていた。その日の午後六時半過ぎ、伊丹十三監督が東京都港区麻布台三丁目の八階建てマンションから飛び降り自殺した。私は翌日になって、テレビのニュースで知った。二二日発売の光文社発行「フラッシュ」に若い女性との交際が取り上げられたことが、原因の一つだと判明した。ダイアナさんの悲劇から日本のメディアはほとんど何も学んでいない。伊丹プロダクションの玉置泰社長が、二一日夕記者会見して、警察から渡されたという遺書の一部コピーに、「マスコミの方々への伝言」があったことを明らかにした。社長によると、「身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです」と書いてあった。
「フラッシュ」を読んだ。「目撃撮!伊丹十三監督が援助交際!?26歳のOLとのデート現場」が見出しで三頁。「援助交際」の援助の下に「・・」が付いている。記事は、東京都内のレストラン(伊丹プロダクションの事務所近く)で撮影したとする伊丹氏と女性(顔に目隠し)の写真と、二人で事務所に出入りしている二枚の写真。文章は、女性の知人らの「証言」をもとに、伊丹氏がこの女性と交際を続け、現金や贈り物を渡していたと書いている。記事の中に、伊丹氏の「今度の作品の脚本にOLの話が出てくるので、その生活ぶりを取材するのに会っているだけ」というコメントが載っている。各紙の報道によると、フラッシュの金藤健治編集長は「一○月初旬から約二カ月余の取材を経て、伊丹氏ご本人から直接お話しをうかがい、事実関係を確認したうえで表現にも配慮して記事にしたものです。記事の内容は真実であると確信しており、取材のルールにおいても通常の報道・取材の範囲を越えたものではないと思っている」とのコメントを出した。
朝日新聞によると、「フラッシュ」の槌谷昭編集長代理(報道担当)は「取材を申し込んだら、先週、伊丹監督から電話がかかってきた。表情はうかがえないが、むしろ余裕をもって対応してもらったという印象だ」と話した。槌谷氏は私の古くからの知人だ。二二日に電話で話を聞いた。「昨日から今朝にかけて抗議や問い合わせの電話がいっぱいかかってきた。他の雑誌メディアからも取材があった。伊丹監督をめぐるさまざまな話も追っていたようだ。大島渚監督がテレビで語っていたように、この記事で自殺するということは考えられないと思う。しかし、発売日の前日に亡くなったということで、つながりを言われるのはやむを得ないだろう。本当に残念なことだ」。
伊丹氏は私の第一作『犯罪報道の犯罪』(84年)の版元である学陽書房から『主夫と生活』を出している。彼のエッセイも好きだ。一一月下旬、ラジオで伊丹監督のインタビューを聞いたことがある。「お客さんが入ってくれるだろうかと不安になる」「作品をつくる度に緊張する」。何か思いつめたような響きだった。ここ数年、伊丹氏の顔の表情が変わったような気がしていた。常に完璧さを求める性格では毎日の生活がきついだろうな、と思った。私も本を出版したり、テレビ・ラジオに出演すると神経を使う。本を読んでくれるだろうか、自分の言いたいことが伝わっただろうか、などと不安になる。オーディエンスが大きいほど精神的に疲れる。伊丹氏が映画づくりや、その他の仕事で神経を擦り減らしていたことは間違いないだろう。
しかし、写真週刊誌が取材し報じようとしていたことが、自殺の一つの要因になっていることも、また確かな事実である。遺書に「フラッシュ」記事に関する言及があるし、発売日の前日に自殺したのだ。伊丹プロダクションの社長が、記者会見の席で、フラッシュの取材に対して、「ばかやろう、と思っている」と言いたい気持だと述べていた。「フラッシュ」編集部は、「取材に二ヵ月かけた」と表明した。大の出版社が二か月もかけて取材するようなことだろうか。
二二日以降は、「フラッシュ」が報じた女性についての報道も展開された。「A子海外逃亡」「愛人女性はどこに」などと書き放題だ。週刊文春なども自殺の背景を暴いている。死人に口なしをいいことに書き放題だ。一二月二四日の朝日新聞「天声人語」はひどかった。死者に鞭打つような原稿だ。なぜ自殺したのか筆者には理解できないというが、自殺の本当の原因は本人でなければ分からない。遺書に残された言葉が、真実ではないのではないかとか、勝手なことを言うな、と言いたい。
また二五日の毎日新聞の「めでぃあ&メディア」欄の平井晋二記者の記事もお粗末だ。「97年メディア回顧」の特集記事で、「パパラッチ 過熱防止は一般の読者」という見出しで次のように書いている。「そのようなパパラッチを育ててきたのは、その写真が掲載された新聞、雑誌を買う読者だったのである」「(伊丹監督のことが載った)その写真週刊誌は即日完売になったという」「こういう写真が売れるということになれば、日本でもパパラッチ同士の競争が過熱化しかねない。それを防ぐのは読者、一般市民しかいない」「やみくもにパパラッチを攻めるのは、天にツバをするようなものなのかもしれない」。「フラッシュ」も完売というが、それは伊丹氏の自殺という事態から、そうなっただけだ。社会問題化したので購入した人も多いだろう。日本のメディアは総体として、既に十分パパラッチ化しているということが、全く分かっていない。毎日新聞は「パパラッチ」的なメディアと無関係だという認識が誤っている。毎日新聞本紙と「サンデー毎日」の記事や写真の中には、欧州のタブロイド新聞以下の記事や写真も少なくない。
欧州のタブロイド紙は原則として、公人、準公人のスキャンダルを対象にして報じているが、日本では被疑者・被告人にされた市民や事件事故の被害者の人たちのプライバシーが暴かれている。逆に政治家、皇室などのプライバシーは取材の段階からよく守られている。
読む側、買う側が悪いのだという。確かに買う側も悪いが、つくって売る側が一番悪い。麻薬の密売も買う側が最も悪いと言うのであろうか。新聞、雑誌をつくっている人たちが、まず、人の人権を侵害するような取材や報道をやめるべきなのだ。ジャーナリズムは市民の知る権利にこたえて、市民が民主的な自治を行うために必要な情報を伝達するために存在している。再販制が維持されているのは、メディアが人民のために働いているという主張をしているからだ。消費者に責任をなすりつけるなら、再販制などいらない。
一般市民の権利や関心に深く関係がある場合を除いて、人のプライバシーに踏み込むべきではない。買う読者がいるから、仕方がないなどと考える人は、ジャーナリストをやめたほうがいい。
ジャーナリズムには人々に娯楽を提供するという側面もある。しかし、人間の名誉やプライバシーを侵害してまで、覗き見趣味や低俗な好奇心にこたえるべきではない。同じ毎日の記事で、堀田耕一記者は神戸の小学生連続殺傷事件の回顧で、〈今回ほど「書かない勇気」を求められたケースはない〉と書いている。伊丹監督は公人だ。公人のプライバシーは一般の市民に比べると、制限される範囲が広い。ただし公人だからと言って、1○○%プライバシーを放棄しているわけではない。フラッシュのケースは、やはり行き過ぎと言わざるを得ない。伊丹氏と女性が「深い関係」である証拠を示す写真を狙ったが、撮れずに、関係者の証言で記事を書いたと思われる。
雑誌メディアには、取材と報道に関する統一的な報道倫理綱領がない。フォーカスが神戸事件で逮捕された少年の顔写真を掲載した問題でも、日本雑誌協会(田中鍵五会長)は、販売を中止した流通業界を批判する声明を発表しただけだった。私は槌谷編集長代理に対して、「今回はフラッシュが問題になったが、マスメディア全体が表現の自由と個人の名誉・プライバシーをどう両立させるか、また両者が衝突する場合にどう調整するかを、メディア界全体で決めるべきだ。フラッシュ編集部がそのための議論を呼び掛けてほしい」と要望した。このまま報道による人権侵害が続発すると、法務省や警察による法的統制の危険性が高まる。「ポケモン」問題で、郵政省や自民党はマスコミ全体の規制を言い始めている。メディアによる人権侵害は、官憲による規制ではなく、社会的なコントロールで対応しなければならない。諸外国にあるような@メディア界で統一した報道倫理綱領を制定Aメディア関係者と市民代表で構成する報道評議会、プレスオンブズマン制度による審判機関ーを日本でもつくるべきである。メディア関係者と市民が協力して、何が表現の自由で守られるべき「表現の自由」の対象なのかを日常的に議論すべきである。私はこうした仕組みをメディア責任制度と呼んでいる。新聞労連日本報道評議会設立を日本新聞協会などメディア経営者に訴えている。日本弁護士連合会も七六年と八七年に報道評議会設置を提言している。放送界では六月から自主規制機関である「放送と人権権利等に関する委員会」を設けた。活字媒体の新聞、雑誌業界もメディア責任制度をつくるべきである。
メディア研究者の責任
一八日の毎日新聞の「めでぃあ&メディア」欄は〈名誉回復 十分だったか 連続通り魔「自供」報道〉という見出し記事を載せた。東京都北部と埼玉県南部で九六年一○月から九七年八月までに、自転車に乗った男が女性の顔を石や棒で殴りつける五○件近くの連続通り魔事件が発生。警視庁は九七年八月、別件で逮捕した男性が「三○件の犯行を自供した」と発表。新聞、テレビ、雑誌はこれを大きく報道したが、この「自供」は捜査員の誘導による虚偽自白であることがその後、明らかになった。警視庁は一一月三○日に、この男性が通り魔事件とは無関係と断定した捜査報告書を東京地検に提出している。
この経緯については、ルポライターの池上正樹氏が「創」一一月号に、捜査と報道の問題点をレポート、九八年一月号では、メディア各社からのアンケート結果を発表している。毎日の記事は突っ込み不足だが、呆れたのは「識者」の談話だ。青木彰東京情報大学教授(ジャーナリズム論)は「通り魔は解決が難しく、社会不安を引き起こすたぐいの事件で、供述したならば報道する価値は十分にあると思う」と述べたうえで、報道後に事実関係が変われば「それなりのスペースを割いて丁寧に訂正するように心掛けるべきだ」と論じている。桂敬一・立命館大学教授(ジャーナリズム論)は、「事実が違うと分かった時点で捜査当局に対して積極的に情報提供を促すことが必要で、事件取材の在り方を根本的に見直さなければならない時期にきている」と指摘している。二人の発言をきちんと報じているかどうか疑問だが、もし毎日新聞の報道が正確とすれば、とんでもない主張だ。
二人とも、メディアが、警視庁の発表を鵜呑みにして報道したことを問題にしない。通り魔事件は悪質な事件であるから、男性が「供述」したことを報道するのは当然だと青木氏は言う。しかし、男性は全くの別件で逮捕(八月一○日)されていたのであり、通り魔事件では逮捕されていなかった。
警視庁は八月一一日に三○件を自供したと発表したが、その時点でも、三件は男性の供述内容と現場の状況が一致するとしながらも、残る二七件については該当する被害届がないとも付け加えていた。
青木教授は八四年一二月に「朝日ジャーナル」の座談会(筑紫哲也氏が司会)で、全くとんちんかんな匿名報道主義批判を展開して以来、一三年間、非論理的で情緒的な発言しかしていない。憲法、刑法、刑事訴訟法をほとんど理解していない。事件が特異で市民の関心事だからといって、被疑者、参考人の実名を報じる必要はない。「供述した」と言っても、ジャーナリストは確認していない。捜査官が勝手に、そういう情報をリークしているだけだ。代用監獄が悪用されているこの国では、捜査段階の「供述」は、信用できない。桂教授は、いつものように捜査当局の情報の開示を強調する。確かに捜査情報はオープンにした方がいいが、それは何のためにするのかという視点が重要だ。冤罪を防ぎ、官憲の横暴を監視するためである。この男性の場合は、捜査情報が開示されればされるほど、報道被害が拡大することになる。「事実が違う」と分かることは極めて稀だし、警察的事実はいつも客観的事実とは限らない。捜査段階での報道はきわめて慎重にすべきである。
同じ毎日新聞は一○月二日付で、神戸事件について「なぜ生まれた幻の犯人像」と題して、報道を検証した。記事の右肩に、「NHKと民放連の放送と人権等権利に関する委員会委員」の肩書きで。田島泰彦神奈川大学教授が「結論が出ないからといって、報道すべきではないという意見には賛成できない。事件報道にはプロセスが対象。結果をいうなら確定判決まで待たなければならなず、それでは報道は成り立たない。読者や地域住民に、捜査情報や犯人に関する情報を迅速に伝えることは、メディアがしなければいけないこと。読者にとっては知る権利があり、ニーズがある」とコメントしている。教授は、目撃情報が法廷では信用性が厳しく問われるとか、情報の垂れ流しによる人権侵害の危険性があることを頭に入れて取材報道せよ、と主張する。そのうえで「捜査機関への確認作業も重要だ。当局が明示しないケースもあると思うが、基本的情報は開示するよう求めていく必要がある」と述べている。田島教授の犯罪報道論の誤りについては、第三書館の三部作で詳しく論じているが、この人は現状認識が甘すぎる。新聞社の社会部系幹部の「記者は権力チェックをしている」というデマ宣伝に影響されているのだろう。報道被害の深刻さ、メディアの加害責任について十分分かっていない。ジャーナリストは、捜査段階で「何をどう報道すべきか」を再考すべきなのだ。捜査当局からの情報に九九%依存する記者クラブ体制を維持して、人権侵害の危険性を頭に入れろと言ってもほとんど意味はない。「報道は成り立たない」と心配するが、無理に報道を成り立たせていることが、多くの報道被害、虚報・誤報を生み出しているのである。「犯人に関する情報」はそう簡単には入らない。被疑者・参考人についての情報に振り回されたのだ。警察に捕まったら黙秘をするのが一番いい。警察のフィルターを通ってくる情報は、まず疑って見るべきだ。捜査情報の開示よりも、捜査官の言動をきちんと記録して、後で公文書として市民が自由にアクセスできるようにすべきだろう。情報自由法が確立している国々でも、警察の捜査段階の情報が人民に「開示」されるケースはあまりない。司法手続き透明性が必要だが、捜査情報が捜査段階で知る権利の対象とは言えない。以上挙げた三人の学者は、メディアも警察と一緒に協力して犯人を探しだすことが、知る権利にこたえることだと認識しているのである。「犯人探しはやめてほしい」と河野さんらは訴えている。こういう学者には、その深い意味が理解できないのだろうか。ジャーナリズムは捜査当局が犯人をでっちあげることのないように、警察、司法制度の問題点を摘出して、司法手続きの民主化を促すべきである。裁判における自白偏重主義を排する。英国のように取り調べ室にテープレコーダーやビデオカメラを入れる。代用監獄を廃止する。国選弁護人を逮捕段階ですべての被疑者に付ける。裁判官の令状発付を慎重にさせる。陪審制、参審制の導入。メディアは犯人を探すのではなく、捜査当局が適正手続きに従って捜査を進めているかどうかに専念すべきなのだ。ゼミ学生の必読書にしている渡部保夫・伊佐千尋両氏の『日本の刑事裁判』(中公文庫)、小林道雄氏の『冤罪のつくりかた』(講談社文庫)を読んでほしい。桂教授の言う「犯罪報道の根本的見直し」とはどういうことか。桂教授には全面展開してほしい。『現代の新聞』(岩波新書)などで、私が提唱する匿名報道主義に批判を加えている桂教授は、自らの考える改革案を示すべきである。捜査情報の公開を叫ぶだけでは、根本的見直しは無理だろう。
こんなメディア欄を読まされたら、読者を混乱させるだけである。毎日新聞のメディア担当者は、北村肇・前新聞労連委員長の『腐敗したメディア』(現代人文社)と新聞労連の『良心宣言』を熟読してほしい。
Copyright (c) 1997, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1997.12.31