少年匿名原則をすべての市民の匿名原則に
神戸少年殺人事件報道から学ぶべきこと 1997・7・19
浅野健一
神戸の小学生殺人事件で被疑者の少年が逮捕された後、少年の顔写真を新潮社発行の「フォーカス」が掲載、電子メディアに「フォーカス」の写真を転載したうえで少年の姓名や家族関係まで書き込んだ情報が流れている。「二年でシャバに出るのは危険だ」「安全のために少年の顔を覚えておく権利がある」「親の顔も出せ」などと、中世でもこれほどはひどくなかったと思われるような「情報による暴力」(リンチ)が続いている。
その一方で、自衛隊機が三機、カンボジアの「邦人救出」を理由にタイまで飛んだ。法手続きを全く無視してである。軍隊を持たないことを憲法で明記している国が、なぜこういうことができるのだろうか。平和をつくりだすためにという大嘘をついてポル・ポト派が不参加の国連主導の総選挙を実施するためにという大義名分で、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣した。私はカンボジアPKOは成功だったという岩波書店発行の「世界」に載った明石康氏の主張を批判してきた。ポル・ポト派の参加しない選挙の脆弱性、フン・セン第二首相ら人民党のファシスト性に問題があるからだ。自衛隊派遣を実現するためにカンボジアを利用した自民党タカ派は、フン・セン氏のクーデターともいうべき武力行使をまた利用して自衛隊機を飛ばした。
神戸事件の報道と自衛隊機問題は、適正手続きの無視という点で共通している。一貫性のなさと言ってもいい。報道によると、県警刑事部の捜査員の間には、「大っぴらには絶対に言えないが、本当にこの少年なのかなというという気持が今もある」(七月九日、読売新聞大阪本社夕刊)という声もあるという。「中年の男」に関する報道はすべて虚報だったのか。検証は十分になされているのだろうか。
勾留されている少年は「犯人」ではない。後日、司法手続きで加害者と認定されたとしても、現在行われている犯人視報道は誤っている。神戸報道を検証しよう。
「犯人」逮捕と報ずるメディア
六月二八日、兵庫県警は五月二四日に起きた神戸の小学生殺人事件で被疑者の少年を逮捕した。県警捜査一課長が同日午後九時半から行った記者会見によると、県警は少年に対し同日朝から任意同行を求め取調べたところ、少年が殺害を認めたという。課長の説明によると、県警は少年の自宅を家宅捜索して凶器のナイフを発見したため、逮捕状を請求、午後七時過ぎに逮捕状を執行したという。
NHKが午後八時半過ぎから「容疑者逮捕」を速報した。民放も続いて報じた。各局の記者、アナウンサーは、「犯人を逮捕」(NHKは後で容疑者の逮捕と修正した)「なぜ殺したかを少年から聞きたい」「犯人が少年だったことにショックを受けた」と連発。テレビに登場する記者は、警察の発表やリークを自分が確認した真実のように報道した。また大学教授や評論家が、動機や背景を解説した。梶山官房長官は「警察の努力で事件が解決したのは喜ばしい」という談話を発表。こうした報道を受けて周辺住民も「少年だったのは意外だ」「これで安心だ」などとメディアの取材にコメントした。
一課長の記者会見はNHKで中継されたが、会見開始前の報道陣の乱暴な言葉遣いや下品な行動ぶりが映像と音声で伝わった。NHKはたまらず、まず音声を消し、その後、神戸放送局のスタジオに切り替えて、アナウンサーが「準備が整うまでこちらからお伝えします」とコメントした。六月二九日の各紙朝刊は戦争勃発時のような大見出しだった。犯人という言葉を使わず、容疑者と表現しているだけで、この被疑者が犯人ではないかもしれないという留保は全く見られない。相変らず警察の発表とリーク情報を、記者が自ら確認した真実であるかのように書いている。被疑者の少年が捜査本部の調べに対して供述したとされる内容(警察情報)をニュースソースを全く明示せずに括弧付きで引用している。
松本サリン事件報道の反省は全く生かされていない。無罪推定の原則は吹っ飛んでしまった。県警発表を100%信用して報道している。ただし、被疑者が少年だったことで、「犯人の横顔」を報道できないので、事件の経過を振り返ったり、学者に解説してもらうだけだった。被害者の両親の住宅前に報道陣が群がった。警察は被疑者が被害者と顔見知りと述べ、学年まで明らかにした。主要なメディアは少年の姓名は伏せるだろうが、地域ではすぐに分かり、被疑者の家族、親類、知人や学校関係者に対する取材が展開されると思われる。九四年一月の大地震において一部メディアによる粗野な取材が批判されたが、節度を持った取材を望みたい。この事件ではほとんどのマスメディアが、「0君事件」という表現で、被害者の名前を事件名の中に使った。ワイドショーなどではリポーターが「0君、0君」と親しげに名前を連呼していた。被害者の少年の両親の了解を得ているのだろうかと思った。両親の姓名、職業、住所がいつも伝えられていたのも問題だと思う。一方、一部の新聞社は敢えて神戸小六殺人事件と表現していた。
被害者のプライバシーもしばしば報じられた。殺されたからといって、その人の属性などが全国に報道されていいのだろうか。沖縄のメディアは九五年九月に起きた米軍兵士によるとされる少女暴行事件で、被害者の少女を「沖縄本島北部の少女」とだけ報じた。少女の年齢も学年も伝えなかった。神戸の事件も、被害者の姓名などは地元地域ではある程度必要かも知れないが、全国に毎日伝える必要はない。警察が地域で情報を伝達する必要があるだろうが、メディアはもっと抑制すべきだろう。加害者の犯罪を誘発しているのではないだろうか。
逮捕された少年が加害者とすれば、メディアが五週間にわたって報道してきた「不審な車」(一体どんな車が不審な車なのか)、目撃された中年の男などの報道はすべてが虚報だったということになる。メディア情報を信用して犯人を推理してきた大学教授、評論家、作家らの虚言の責任も重い。事件の冷静な解明とともに、五週間にわたるメディアと識者の虚報の犯罪も検証されなければならない。
フォーカスの暴走
少年の顔写真や姓名を出すとしたら、「フォーカス」か「週刊新潮」だろうが、逮捕された少年が十代前半なので、さすがの新潮社もやらないだろう。兵庫県警が六月二八日、被疑者を逮捕した時に、学生たちに聞かれてそう答えていた。
甘かった。新潮社が発行するこの二つの雑誌の人権感覚、商業主義はとても常識では判断できない程のひどさなのだ。松本サリン事件で「週刊新潮」に何度もひどい記事を書かれた河野義行さんは、「週刊新潮は誤りを認め示談に応じたが、社長が謝罪文を書くという約束を守らなかった。示談内容を一方的に破ったメディアは新潮社だけだ」と聞いたことがある。今回もやっぱりやったかという感じだ。
今回「週刊新潮」が弱者を抹殺した中学生と非難したのには驚いた。日頃は、あらゆる意味のマイノリティを痛め付ける「弱肉強食」推奨雑誌が何を言うかと感じた。次号では「民衆の声」として、御用学者・文化人の少年の実名・写真付き報道を肯定する発言を載せている。いつもは、民衆とか人民の声を無視するのにだ。破防法弁明の立会人を一緒にやった小沢さんがTBSラジオで明らかにしたところによると、週刊新潮記者が小沢さんにも取材があり、フォーカスの写真掲載に批判的なことを言ったところ、「記事にできない」とボツになったという。「私の声は民衆の声ではないということになるから、私は神なのかと思った」と小沢さんは言う。
同志社でも顔写真入りビラ
驚いたことに、七月初め同志社大学田辺キャンパスの正門や生協ショップ前で、フォーカスの写真の複写と思われる顔写真と逮捕された少年の姓名を書いたビラが配布された。スポーツ選手や芸能人をからかった文章の後、こう書いている、
「さて、ここからは一気にいくぜ。まだ自分のバカさんい気がつかず「メイクドラマ」なんてほざいている長島茂雄にダイナマイトパンチ。「ボクをとめてみたまえ」なんていってて止ってしまった酒鬼薔薇聖斗(本名○○○○、おおっと、少年法に触れちまうぜっ・・・)にダイナマイトパンチ!」(ビラでは姓名の漢字の一部が記号になっている)。
ビラの見出しは「さあレースの始まりです」。発行者は競馬の予想をしたり競馬観戦をするイベントサークルが発行したようで、第116号と書いてある。第38回宝塚記念の予想表を左上に掲載している。次回は秋華賞(10月17日発行)とあるだけで、発行者の姓名、連絡先もない。全体が全く低レベルのビラで、まともに対応するすべき「言論」ではないが、同志社の学生の中にこうした行為に出る人がいたのは非常に残念だ。こうした行為に批判的な学生も多く、みんなで考えていかなければならない。
少年法を守らず、少年の顔を載せたのが悪いわけではない。法律を破っても報道すべきときはある。新潮社も含めて日本のマスメディアは、少年法の精神を尊重して、自主規制として犯罪事件で公訴を提起された未成年者を匿名報道することを決めている。メディアが自主的に取り決めた倫理綱領を破ってまで、少年を特定して報じる必要性があったのかということだ。
言い換えればこの被疑者の顔写真が「一般市民の利益と関心」または「知る権利」の対象であるかどうかの問題である。個人のプライバシーなどの人格権を上回るほどの社会的重要性があるのかどうかが問われるのだ。
「顔写真」を掲載した「フォーカス」の田島編集長は記者会見で「編集部内に異論もあった」と述べている。これは重要である。この異論に対して、十分な議論がなされたのだろうか。編集長は七月一六日号で、顔写真掲載を決断した時のことについて、「締切りギリギリの月曜日、昼過ぎだった。方法としては写真に目隠しをすることも出来る。だが、それはしないことにした。写真でものごとを伝える。それなら写真を使うか使わぬか、どちらかと考えた。少年のやったことは、少年法の枠を踏み越えている。伝えるなら、その少年の顔をきちんと伝えよう」と説明している。また「フォーカス」についてのマスメディアの報道を批判した後で、「ただ、一言付け加えれば、少年法を犯した私たちの方法について、私たちは胸をはっている訳ではない。やむをえず、このような方法で表現しなければならなかったことについて、実に遺憾に思う」と述べている。自信がないのである。人権侵害を犯す危険性があると迷ったらとりあえずやめるのが編集者の責任だろう。とくに相手が一般市民の場合は、慎重でなければならない。
販売中止、自主的判断なら問題ない
出版取次業者、キオスクなどが「フォーカス」の販売を中止したのは、それが業界の自主的判断であれば問題はない。橋本首相、法務省幹部らの発言を受けて横並びで決定したとすれば問題だ。法務省による回収勧告については、プレス(新聞・雑誌)業界が本来、メディア責任制度で解決すべきとことだが、日本の印刷媒体業界にはそれがないので、すぐに政府の干渉を受けることになる。総務庁長官が法的規制を狙った発言は絶対に許されない。ただしここで忘れてはならないのは、「フォーカス」のような人権侵害雑誌が権力に法規制の口実を与えるということだ。メディアが自律的に不当報道をなくし、もし不適切な取材報道があった場合には、業界が自発的につくった報道評議会で対応すべきなのだ。
ここで指摘しなければならないのは、NHK・民放・大新聞の取材と報道も新潮社と同様に犯罪的であるということだ。松本サリン事件報道の反省は全く生かされていないのだ。
第一に、この少年に関する報道は匿名報道になっていないということだ。新聞社系の週刊誌を見れば、少年のアイデンティティがすぐわかるような「事実」がたくさん書かれている。
第二に被疑者の少年に対する無罪推定、公平な裁判を受ける権利がほいとんど無視されていることだ。少年は被疑者として捜査に協力している段階なのに、逮捕された少年が犯人であると決め付けて議論がなされている。ジャーナリストなら、本当に少年は加害者なのだろうかという疑問を持つべきである。やはり中年の男が犯人ではないかと考えるメディアが一つくらいあってもいいのではないか。七月七日のテレビ朝日のニューステーションで、キャスターの久米宏氏は「、松本サリン事件で河野さんに対して、あれだけの誤報をしたことについて、慙愧に堪えない。あれ以来警察が逮捕した場合、これは冤罪ではないかと考えるようにしている。金ノコが出てきても、金ノコが捨てられている池は全国に千以上あると思うので、まだ冤罪ではないかと疑っている」とコメントした。
第三に警察情報に懐疑的姿勢が見られない。県警の公式説明によると、「少年が殺害を認め」「少年の自宅を家宅捜索して凶器のナイフを発見」、池から「少年の供述どおり」金ノコが発見されたという。このほか捜査幹部への夜討ち朝駆け取材で入手したリーク情報が「〇日分かった」「明らかになった」と連日報道されている。一つ一つ検証が必要だ。
メディア記者は被疑者の「供述」を直接聞いたのだろうか。日本では警察の代用監獄としての留置場に拘禁されている被疑者から直接取材はできない。自分で確認したのでなければ、その情報がどこからもたされたのかを明らかにしなければならない。
警察が今も少年を留置場に留め置いているのは国際的に認められた人権の侵害であり、捜査段階の自白は証拠能力がないにもかかわらず、警察当局の非公式情報を垂れ流している。
第四の問題として、逮捕容疑にはなっていない「余罪」容疑に関する報道のいい加減さは目に余る。「大筋で犯行を認めた」などの大報道だが、メディアは三億円事件誤報などの反省から、別件についての報道は控えるという自主基準を持っているはずだ。
最後に被害者のプライバシーがある。殺されたからといって、その人の属性などが全国に報道されていいのだろうか。沖縄のメディアは九五年九月に起きた米兵によるとされる少女暴行事件で、被害者の少女を「沖縄本島北部の少女」とだけ報じた。少女の年齢も学年も伝えなかった。神戸の事件も、被害者の姓名などは地元地域ではある程度必要かも知れないが、全国に毎日伝える必要はない。警察が地域で情報を伝達する必要があるだろうが、メディアはもっと抑制すべきだろう。加害者の犯罪を誘発しているのではないだろうか。
サリン事件の後に、未曾有の事件であるという宣伝のもとに、宗教法人法改正や破壊活動防止法適用申請に結び付いたと同じように、今度は「少年法を改正せよ」と体制派文化人が騒いでいる。世の中の悪はすべてこの中学生のせいだといわんばかりの情緒的反応だ。少年法は戦後の貧しい時代に、未成年の窃盗事件を対象にできた法律だと国立筑波大学の土本武司教授は発言している。戦後の時代には少年による殺人事件がなかったかのようなデマ宣伝だ。少年法はロウティーンの殺人を想定しているし、そもそも凶悪事件が発生したから法律を変えよというのでは、法律の意味をなさない。
東京・綾瀬の殺人事件などのように少年が警察に犯人としてでっちあげられた経験から、少年事件の法手続きを民主化するための議論は必要だが、少年法の精神を無視して、短期間で出てくるとか死刑にできないという全く乱暴な主張が公共の電波や、再販制に守られたプレスが展開していいのだろうか。「今回は例外、特別だ」というのはいかがか。
メディアの報道を見ると、少年の弁護団が悪役になってしまう。少年を代用監獄から鑑別所に移送せよという主張を、真実解明を妨害する行為と非難する。例えば七月九日のテレビ朝日系の「スーパーモーニング」で、伊藤聡子キャスターは番組の最後で「弁護士は鑑別所に移せというが、それでは少年が本当のことを話さなくなり、真実が分からなくなる」と発言していた。日本のほとんどのジャーナリストが、黙秘権、起訴状一本主義など罪刑法定主義について無理解であることを暴露している。
英米では少年犯罪も凶悪なケースは「米国でも実名報道される」という報道も多い。しかし、少年の家族のことなどは絶対に報道できないことや、警察の拘束は一二時間に限られていること、ジャーナリストが被疑者の少年に自由にアクセスできることなどを伝えない。特に米国ではできるだけ多くの情報をオープンにしたうえで、当局と被疑者側の主張を公平、公正に情報源を明らかにして伝えるという方法を取っている。情報源も原則として明示される。「犯人が憎い」という市民感情を土台にして、社会的制裁のために姓名、映像を報道しているのではない。陪審制度があるため犯人視報道も許されない。日本の「実名報道主義」(官憲にほぼ百%依存した取材・報道)とは全く違うのだ。私は北欧のように、社会復帰を大前提として匿名報道し、なぜ犯罪が起きたかを考えるべきだと思う。米国のジャーナリズムも変わるべきだと考えている。
新潮社は、同業者のマスメディアによるこうした国連人権宣言、憲法、刑事法を無視した「有罪推定」「自白偏重」報道の洪水の中で、一つ独自色を出したということだ。それに便乗していつもの御用学者(元「左翼」活動家も多い)が親の顔も出せとか顔が見たい私は醜いのかなどとコメントしている。
ただし希望はある。被疑者が実際に凶悪事件の加害者だったとしても、少年の将来を考えて、匿名報道を守るべきだという世論がしっかりと存在している。新潮社や一部の漫画家や文化人に踊らされた人たちが、電子メディアや街頭で「実名報道は当然」とゲリラ的に活動しているが、なぜこうした痛ましい事件が起きたのかを社会全体で考えようというのが大勢のように思われる。
私は一般刑事事件では被疑者も被害者も原則として匿名報道すべきだと提唱してきたが、ジャーナリズムは何のために犯罪報道をしているのかを考える契機になったと思う。匿名報道主義の意義を浸透させる好機である。大人は実名、少年は仮名また凶悪犯罪は実名で微罪なら匿名という現在の犯罪報道の基準そのものが問われている。メディアに犯罪者に社会的制裁を与える権利があるのかが今重要な論点であろう。
私の大学にも新潮社に入りたいという学生が少なくない。特に私の人権と報道に関する主張に反対する学生に多い。新潮社が出す二つの雑誌を批判し、改革を求める力が、この国のジャーナリズムの危機を救うことになるのである。
灰谷健次郎氏の勇気
児童文学者の灰谷健次郎氏が七月一五日、新潮社発行の「フォーカス」の報道について新潮社側と話し合いをしたが、意見の一致を見るに至らなかったため、全著作の版権引き上げを選択し、前日新潮社に通知したと発表した。灰谷氏は「フォーカス」七月一六日号に「『フォーカス』が犯した罪について」と題して特別寄稿を寄せ、被疑者の少年の写真掲載は人権侵害と批判、「わたしの批判を『載せっ放し』にするならば、わたしは単に利用されただけのことになる。わたしが、それに甘んじるはずはないことを伝えておきたい。こんどの事件は。わたしの生き方にもつながっている。わたしは新潮社から多くの出版物を刊行している。世論の前に、『フォーカス』並びに新潮社が誠意ある態度をとらないならば、わたしはわたしなりに身の処し方を考える」と書いていた。
灰谷氏とは信州大学で開かれた国際化を考える公開シンポジウム(アグネス・チャン氏が司会)で一緒にパネリストになったことがある。そのときの討論では、外務省の課長と青木建設社長と灰谷氏と私との間で論戦があった。灰谷氏は、在日外国人の人たちとどう共生していくかが重要だと強調したのを鮮明に覚えている。
私のゼミの二年生は、少年逮捕の六日前に神戸で現地調査した。神戸新聞社の幹部もインタビューに応じてくれた。地元神戸の新聞、放送局は、大震災の経験を生かして、冷静な報道に努めている。七月一一日から始まった連載「報告 男児殺害事件第一部 何かが見えない」では、報道の問題も取り上げている。
御用学者や処罰欲旺盛な市民は、殺された側の気持を代弁したつもりになって、被疑者の少年の実名報道を主張する。しかし少年逮捕の前には、被害者の小学生の両親に、「息子さんが殺害されたときに、どこにいましたか」と聞いた記者がいたという。親が怪しいという情報がかなり流れていた。被害者の両親は、自宅玄関に貼り紙を出して、取材を断っている。メディアにいいたいことがたくさんあるのではないだろうか。被疑者の家族の人たちの気持を推し量ることも必要ではないか。
少年が社会に戻ってきたときのために彼の顔を知っておく権利があるという主張は恐ろしい。無罪推定の原則を無視している。あなたの隣に元犯罪者がいるかも知れないから、チェックしようという発想が怖い。過去に犯罪を犯した人だったら排除していいということになる。「彼」だと分かったらどうするというのだろうか。過去に犯罪を犯した人が分かるようにしろというのでは、日本の法制度そのものを根底から否定することになる。
被疑者も被害者も同じ人間である。ジャーナリストもまた人間である。メディアは人間の幸せにつながる報道をしてほしい。メディアに接する市民も、事件から何を学ぶべきかを考えたい。
(以上は、第三書館から七月末に刊行する『犯罪報道とメディアの良心 匿名報道と揺れる実名原則』(定価2600円プラス悪税)に書いた文章に、加筆したものです。)
Copyright (c) 1997, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1997.07.19