少年「処分」をどう見るか 浅野健一
97年10月23日
神戸家庭裁判所(井垣康弘裁判官)は九七年一○月一七日、神戸児童殺傷事件で審判を受けていた少年に対し、医療少年院送致とする保護処分を言い渡した。通常の裁判における「有罪」に当たる。報道によると、井垣裁判官は、一連の事件を少年の犯行と認定。少年の責任能力は認めたものの、精神医学的治療が必要と判断した。少年の付添人(弁護士)抗告しないことを表明した。少年は医療少年院に入院し、精神医学的治療を受けながら更生プログラムに沿った生活を送ることになった。
この処分決定で少年が加害者であると家裁で決まったのだが、新聞に発表された決定書(要旨)を見るかぎり、多くの疑問が残る。「神戸事件の真相を究明する会」などが提起してきた疑問点が解明されていない。
この審判決定書には驚くべき「警察官の犯罪」が明記されている。付添人ら弁護団は審判の中で、五月の小学生殺人事件の「自白」について、「兵庫県警の警察官が、地元新聞社に送られた犯行声明文と作文の筆跡が完全に一致したとの虚偽の事実を伝えて得た」と主張、同事件の供述調書を証拠から排除するよう求めた。これに対し、井垣裁判官は、少年が二月の女児殴打事件と三月の連続通り魔事件については自白したものの、男児殺害事件については自白しなかったことを指摘して次のように述べた。〈当時、科学捜査研究所が上記声明文の筆跡と男子生徒の筆跡とが同一人の筆跡か否か判断することは困難であると判断したため、逮捕状も請求できず、任意の調べにおける自白が最後の頼りであった状況において、「物的証拠はあるのか」との男子生徒の問いに対し、物的証拠はここにある旨言って、机の上の捜査資料をぱらぱらとめくって、赤い字で書かれた上記声明文のカラーコピーなどを見せるなどして、あたかも筆跡鑑定により、上記声明文の筆跡が男子生徒の筆跡と一致しているかのように説明し、男子生徒は物的証拠があるならやむを得ないと考え、泣きながら自白したというのである〉。裁判官は、「取調官がこのように男子生徒に説明したことは違法であり、同一取調官に対する男子生徒の供述調書全部を、本件少年保護事件の証拠から排除する」と断じた。捜査の違法性をはっきり認め、弁護団の請求通り同事件の供述調書を証拠からすべて排除したのだ。検察が主張していた犯行の動機も否定された。
検察官に対する供述調書は、黙秘権を明確に伝えたうえでとられているとしてすべて採用した。
犯行の動機について、神戸地検は家裁に送致した際に「祖母の死をきっかけに死に関心を持ち動物の虐待を始め、次第にエスカレートし、殺人に至った」と発表したが、井垣裁判官は「祖母の死や動物の虐待とのつながりは不明」と述べるにとどめた。
メディアは少年の「自白」を真実であるかのように大きく報道していた。しかし、この「自白」は審判で証拠とならなかった。兵庫県警の警察官が嘘をついて少年に自白を迫ったと認定されたのだ。憲法三八条1項「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」、2項「強制、拷問、若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」と規定されている。この警察官は憲法に違反した違法捜査を行ったと断定されたことになる。しかし報道機関は、この警察官の姓名、所属を伝えない。記者たちは県警に質問したのだろうか。
少年の検察官に対する供述が証拠から排除されなかったのもおかしい。警察官による違法な捜査を受けた少年は、筆跡鑑定が一致したという嘘を伝えられたうえで、検察官の調べを受けている。検察官の取り調べの前提となっている逮捕・勾留が警察官に対する供述をもとづいてなされている。しかも代用監獄としての警察署の留置場に勾留されていた。
井垣裁判官は男児殺害事件の事実認定を実に簡単にすませている。これまでの報道で明らかになってきた数々の疑問に全く答えていない。第二犯行声明文の筆跡と少年の筆跡は同一とは言えないという警察自身の鑑定結果があったことが分かった。池から発見された金ノコは凶器なのか。金ノコが凶器だとすれば、鋭利な刃物で切ったような切断面が残るのか。切断された南京錠はなぜ発見されないのか。とうぶのが置かれていた場所が少なくとも三回移動しているという目撃証言はどうなったのか。
にもかかわらずメディアは、家裁処分に何の疑いも抱いていないようだ。少年の処分は決定したが、真実が本当に解明されたかどうかは分からない。少年に対して違法な取り調べがあったことがはっきりしたのに、私の知るかぎり、当日のテレビは全くそのことに触れなかった。翌日の新聞各紙も短く伝えただけでほとんど問題にしなかった。毎日新聞が小さい扱いながら、違法捜査があったことを詳しく書いていただけだ。朝日新聞大阪本社はベタ記事で、清水一県警捜査一課町が「適正な捜査を行ったものと考えている」というコメントを文書で発表したことを「客観報道」下だけだった。
「神戸事件の真相を究明する会」は三宮で緊急記者会見し、処分決定について「小学生惨殺事件の真相を闇から闇に葬るものである」と弾劾する見解を発表した。会見に出席したのは記者二人だけだという。「少年が冤罪ではないかという主張や、県警の違法捜査については無視するということを業界で決めているとしか思えない」と同会の責任者は語っている。
少年の処分が決定した一○月一七日、少年の親がコメントを発表した。新聞では今まで通り、親の姓名は伝えられていない。夫妻で書いたようだ。被害者の家族に謝罪し、「私たち夫婦は、いつ頭がおかしくなるのかと心配でした。辛うじてもちこたえられたのは、身内の励ましや親切な方々の思いやりでした」と」述べたうえで、「いろいろな先生方の力をお借りして、勉強しながら子どもを受け入れる態勢をつくり、息子を立ち直らせることだと考えています。それが私たちにできる償いだと思い、どんな困難があっても、何年かかっても、やり通したいと思っております」。このように息子を立ち直らせるために全力を尽くすと書いている。
一方、朝日新聞によると、被害者の父親も少年の逮捕後、初めて弁護団を通じてコメントを出した。父親のフルネームが載っている。父親は「残酷な犯罪を犯しながら、犯人が一四歳の少年という理由だけで、犯した罪に見合う罰を受けることもなく、医療少年院にしばらくの間入所した後、前科がつくこともなく、また一般社会に平然と戻ってくるのです」と指摘。父親はまた、二十歳を過ぎていれば精神的に幼稚でも実名も出るし、責任能力があると判断されれば罰を受けると主張。さらに、少年法の精神を尊重するべきだと述べたうえで、「加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないか」と書いている。最後にメディアの取材と報道について厳しく批判している。(処分決定要旨は一○月一八日の朝日新聞などを参照。
小学六年生殺人事件の被害者の家族の方々は、少年が逮捕された後もずっと沈黙を守ってきた。最愛の子供を亡くして悲しみの淵にある父親が、著したこのコメントの一字一句は重い意味を持つ。このコメントを論評するのは、私にとっても覚悟のいることだが、父親に理解してほしいことがある。
まず第一に、少年が「平然」と社会に戻ってくると断定できるだろうかということだ。少年に責任能力があるとしたら、医療少年院で過ごし、社会に戻ってきた後、自分の犯した罪に向き合って生きていく可能性もあるのではないか。「フォーカス」やインターネットなどで顔写真、実名、家族関係、両親の職業などが伝えられている。少年法は守られなかった。
第二に、近代国家の刑事裁判は、被害者の復讐のために行われるものではないということだ。ましてや少年法は少年の犯罪については刑罰を与えないと決めている。被害者の心情を汲んで被審判人の少年を罰することはできない。
法律手続きでは割り切れない感情が、このような残忍な事件の被害者の家族らに残るのは痛いほど分かる。
第三に、被害者は実名を報道されるのに、なぜ「犯人」「加害者」は少年なら実名にならないのかという問題の立て方である。被害者の実名やプライバシーを暴く報道が間違っている。少年法は被疑者の少年を匿名報道するように求めているのだから、被害者の少年も当然、匿名報道すべきなのだ。ところがメディアは、被害者の家族に相談もせずに、被害者だから実名は当然と勝手に解釈して取材報道しているのだ。このコメントを出すときにも、父親の姓名は報道すべきではないと私は思う。
被害者の家族の悔しい気持、やりきれない気持は、当事者にしか分からないと思う。「あなたの家族が同じ芽にあっても同じことが言えますか」。そう言われるとなかなか言葉が出ない。それでも、ジャーナリストや法律家ら専門家は、被害者家族の感情を踏まえたうえで、近代法の精神が社会に根付くように啓蒙すべきであろう。少年にもう一度やり直すチャンスを与えよう。なぜこのような事件が私たちが生きている社会で起きたのかをみんなで考えていきたい。
殺された女児の両親は玄関に、取材に応じないという貼り紙を出していたという。この両親は少年の逮捕後に、メディアにしばしば登場していた。この家族もメディア不信に陥ったのだろうと思う。
一連の事件の被害者の家族も「加害者」と認定された側の家族も、言葉に言い表わせない苦しみの中にある。立ち直りができない状況だと訴えている。苦しみの内容が異なるだけだと思う。
メディアは、両方の家族の気持を思いやり、処分を受けた少年もまた人間であることを忘れずに、冷静で客観的な取材と報道を続けなければならない。
被害者家族の方の声を受けて、イエロージャーナリズムが自己正当化の口実に使うだろうと思っていたら、「週間新潮」の広告欄に、被害者の少年の名前に「」をくくって「人権屋」を非難する見出しが踊っていた。品性下劣な編集者たちだ。こういう広告を漫然と載せる大新聞の倫理観も厳しく非難されるべきだ。「週間新潮」は先週号では、「神戸事件を究明する会」がある政治党派の「偽装団多」で「意図的に冤罪を仕立てあげる」などと非難した。同会は一○月二一日、編集部に抗議文を送っている。(以上)
Copyright (c) 1997, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1997.10.25