99年2月24日

 

誰もが第二の河野さんになる危険性

今も続く犯罪報道の犯罪

松本サリン事件から五年

浅野健一

 

 「これまでよくも社会的に抹殺されずに生きて来られたものだ、というのが実感です」。松本サリン事件が起きてからまる五年たった六月二八日夜、事件の第一通報者で被害者でありながら警察とメディアによって犯人として社会的に抹殺されそうになった河野義行さんは、TBSテレビ「ニュース23」に生出演してこう話した。

 この番組で筑紫哲也キャスターは、「加害者であるオウム真理教について河野さんはどんな思いですか」と質問した。これに対して河野さんは「今、加害者という言い方をされたが、まだ裁判が係争中で、オウムの彼らにも無罪が推定されるという大原則がある。そのことがどこかに吹っ飛んでしまっている。それが怖い」と答えた。河野さんは「何も事件に関与していないオウムの人たちが住むところもない状況にある。彼らに出ていけと言っている住民の側に問題があると思う」とも述べた。

 一般の人には分かりにくいかも知れない。しかし、世間が河野さんに「毒ガス男」(週刊新潮)などというレッテルをはっていた九四年九月に初めて会って以来、河野さんの警察とメディアとの闘いを見てきた私にはよく理解できる。河野さんは自分たちの生活を破壊しようとしたサリン加害者、警察、報道機関は同罪で、捜査情報を鵜呑みにして脅迫状や嫌がらせ電話で攻撃してきた「世間」も冤罪つくりの共犯者にされてきたと考えるに至った。これは多くの冤罪事件の被害者との出会いから学んだ結果ではないだろうか。とくに九六年のアトランタ五輪爆弾事件で犯人視されたリチャード・ジュエルさんと九七年九月に会談し、米国のメディア関係者と懇談したことが大きいと思う。

 河野さんは「法の支配」「適正手続きの保障」が現在の日本におけるルールなのだから、どんな例外もなくすべての市民にそれらが適用されるべきだというのだ。そうでなければ、自分を犯人と疑って捜査し、犯人と報道し、報道を信じて社会的に排除した、警察・報道機関・市民を批判できないというのである。

河野さんは私の取材に次ぎのように語った。「オウムの人はビラをまこうとしただけで逮捕されている。自治体の首長が、『憲法に違反することは分かっているが、オウム関係者の住民票を受理しない』という。これでは無法地帯であり、行き過ぎだ。一方でかなり公然と非合法なことをしている組織暴力団にはほとんど何もしない。オウムは実際には力がなく怖くはないし、現行法では違法なことを何もしていないと分かっている。オウムはなんにもできない。買い物もできない。だから、むちゃくちゃをしているのではないか」。

 河野さんの妻、澄子さんは今も意識がほとんどない状態だ。河野さん自身にも後遺症が残っている。その河野さんが「オウムは出ていけというが、誰がどうやってオウムかどうかを判定するのか。どんな人にも自由に信仰し、考える自由がある。刑罰は裁判所が言い渡すというのが決まりなのに、九八年夏の和歌山カレー事件も同じだが、実際にははやばやと世の中の人たちが制裁を加えてしまっている。こんな悪い奴は許さんぞという動きは間違っている」。

 久しぶりに一時帰国した元TBS記者の下村健一さんは七月八日同志社大学で講演し、「オウムが怖いとヒステリックに叫ぶ日本社会が恐ろしい。一つの方向に国家・社会が突き進む風潮が最も危険だ」と語った。

 河野さんは「第二の河野さんが出る恐れがあると思うか」という筑紫氏の最後の質問に、「私はあると思う」と答えた。捜査当局とメディア界は、不適切な捜査と誤報、虚報を行った当事者を全く処罰もせず、五年前と同じ人たちが同じ方法で取材・報道続けている。

 以下はニュース23の再録である。

 この番組は、松本サリン事件から五年の特集で、サリン事件の被害者が今も後遺症などに苦しんでいる様子を伝えた後、筑紫キャスターと河野さんが、河野さんの自宅庭から対談した。生中継だった。

 同志社大学大学院新聞学専攻の鄭淑恵さんがテープおこしを担当、河野さんがチェックしてくれた。

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1999.6.28  NEWS 23 in 松本    

河野さんに聞く

 

筑紫:まず、最初に重ねて改めてですけれども、私たちの報道は河野さんに大変に傷つけたことをお詫びを改めてしたいと思いますが、この五年間というのは、河野さんにとっては奥さんが生きていることが自分にとっての生きている希望、支えだとおっしゃっていますけれども、意識不明はずっと続いているわけですね。

河野:そうですね。

筑紫:それもいい変化は多少できているんですね。

河野:そうですね。動き、それから表情はですね、それはずいぶんいい方向にはいっております。

筑紫:五年経って、改めてなんですけれども、一番、今その五年という歳月をどういうふうに考え受け止めていらっしゃるのですか。

河野:そうですね。本当にその事件からの一年、非常に長い一年だったわけですけれども、よく社会的に抹殺をされずに、乗り越えてきたなあという思いですね。

筑紫:事件全体はどうでしょう。その警察はオウムの犯行だということになって、裁判が進んでる。しかし、事件全体として、何が終わって、何が終わってないというそのへんはどうご覧になるでしょう、五年経って。

河野:ですから、何も終わってないのは私の見方です。例えば、誰がやったかは、今、裁判で係争中ですよね。それから、被害者というものもそのまま残されてる。そして、この事件はどうして起こってる、そしてどうやったら、今後起きないかという部分は全く終わってないですね。そういう意味からしたら、この事件は何も終わってない、そんなふうに思います。

筑紫:先ほど、VTRでもあったですが、被害者の救済という問題ですね、これが河野さんも被害者の一人ですけれども。ご家族の方も含めてですけれども。これがどうしてこういう状況になっているかということについて、河野さんはどうか受け止めていらっしゃるでしょうか。

河野:本当に不思議な思いがするんですけれどもね、例えば、犯罪被害者というのは絶対数でいえば、少ないですね、それにかかる費用は非常に少ないと思います、例えば、国家予算から比較して。そういう少ない費用がどうして出せないのかなあ。それが一つ。そして、誰もが明日はわが身という可能性がある、そういう中で、なんで被害者救済、法律もない状態ね、救済の法律ですね、そんなものはどうしてできないかなかって、本当に不思議な感じがします。

筑紫:河野さんも被害者の一人ですけれども。河野さんの場合についてお話すれば、加害者というのは考えれば、三つがあって、するとも、直接サリンを撒いたオウム人たち。それから、誤認をして河野さんを犯人にしようとした警察の捜査。それから、それをそのまま鵜呑みにして伝えた報道。この三つがあると思うですけれどもね。

河野:私の方はもう一つあるというふうに思ってます。そのもう一つが一番きつかったような感じがするんですよね。それがやはりその報道を信じてしまった人、一般市民ですよね、そういう人たちによって、無言電話が来たり、脅迫状が来たりというようなかたちですね。何を言っても、こう言い訳にしか取ってくれない。まあそういう状態ですよね。で

私のことを人殺しと呼んだり、町から出ていけ、これは今のオウムの状態と全く同じ行動だと自分が思うですけれどもね。

筑紫:オウムの信者たちがなかなかその住民とトラブルを起こしてる問題、そのことをおっしゃているんです。

河野:そうです。彼らが何かをやったかといったら、まだやっていないうちに、人殺し、それからその町から出ていけ、これは私の方からすればですよ、それは住民の方に問題があるじゃないかと思います。

筑紫:それにしても、こうやってお話をしてる、これ、ひょっとしたら、こんなことは本当にまかりまちがったらですね、あり得なくて、河野さんも犯人扱いされたかもしれない、本当にすれすれのところだと思うのですけれども、にもかかわらず、河野さんのお書きになったものを拝見しますとね、取り調べを受けるかなりの段階まで、警察が間違いをするはずがないと思っていっらしゃる、私はちょっと意外というか、びっくりしたんですけども、にもかかわらず、警察はなんで間違がったんでしょうね。

河野:やはり、まず、思い込みというものがありますですよね。それは一旦ある方向に走ってしまうと、おそらくまずいと思っても、戻ってはいけない、そういう組織じゃないか、と私は思います。

筑紫:私どもの報道、メディアの問題なんですけれども、確かに後で真犯人がわかったからこそ、河野さんは晴れてというか、そういう身分になっていますが、その報道というものが間違いを犯さないために、何が一番大事だと、河野さんがこれから起きることをどう防ぐかの方が大事だとおっしゃっていますけども。

河野:ですから、今のマスコミ界は言ってみれば、品質管理部のない工場みたいなものですよね。本来であれば、非常に早い情報を速く流していくということであれば、相当な人数ですね、品質管理部の人間がいるんですけれども。これが皆無に近い、それが一つ。それから、あとはその良品であるか不良品であるかという、その規格というものが、いわゆるマスコミ業界できちんとできてないということじゃないかと思います。

筑紫:一種の普通の商品で言えば、JIS(日本工業規格)マークなんとかの商品基準の一定のものをクリアしていないとはいけない。それに近い。

河野:一般商品では、JISもあるし、ISO(国際標準化機構)もあるし、MILもある。いろんな規格があるわけですよね。そういうものはやっぱりできてない。そんなふうに感じます。

筑紫:最後の加害者、直接の加害者であるオウムに対して、河野さんはどんな思い、先ほど信者にも権利があるとおっしゃていましたけれども。

河野:ですから、今、最後の加害者という言い方をしましたのですが、実際には、まだ係争中ですからね。彼らもまだ無罪が推定されているという大原則があるわけです。それは今の世の中どこかに飛んじゃっている。このへんが恐いですね。

筑紫:ご自分で大変その無言電話も含めて、先ほど第四の加害者とおっしゃいました。つまり、いわば、社会全体ですね。それが五年経って、今どういうふうに河野さんには見えますでしょうか、河野さんに対してじゃなくて、世の中全体というものをご覧になっている。

河野:ですから、誰が制裁するかというところがあると思うのです。これは法律、自分たちのルールですね、これはやはりきちんとした裁判において、裁判所がそれを下すそういうルールになっているんですけど、実際にははやばやとですね、世の中の人たちがその制裁をしてしまってる。和歌山に行ったときもそうなんですけど、その林さんの塀に落書きが一杯、これは器物破損ですね。ところが、みんなが認めちゃっているんですよね。これもなんだか恐い。

筑紫:一旦、こいつらは悪いやつということになってしまうと、いわば、何をやってもいいという、どういう罰しかたをしてもいい、といういう風潮ですからね、やっぱり。

河野:ですから、誰が裁く、それがどこかへ飛んじゃってるですね、こんな悪いやつは許さんぞというような動きのなかで、その世の中が制裁しちゃってる。ここがちょっとやっぱり間違っていると思います。

筑紫:そうしますと、第二の河野さんが、まだ出る恐れがあるというふうにご自分は思いますか。

河野:私はそう思います。

筑紫:どうもありがとうございます。(以上)

 

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Copyright (c) 1999, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1999.08.06