河野澄子さんと聞いたクリスマス・コンサート 浅野健一
「意識はまだ戻らないが、こうやって生きてくれていることで、子供たちや私の励みに なる。どこまで回復するかは分からないが、できるだけの努力をしたい」。三年三カ月 前に初めて会った部屋で、河野義行さんはこう語った。九七年一二月二五日、私は河野 澄子さんと一緒に、日本キリスト教団松本教会で開かれた「松本サリン事件を忘れない ためのコンサート」を聞いた後、河野さんと語り合った。 このクリスマス・チャリティ・コンサートはコンサートは松本・地下鉄サリン事件被害 者を支援する会が主催した。加藤知子(バイオリン)、山崎伸子(チェロ)、広海滋子 (ピアノ)各氏の演奏で、ベートーベンの「街の歌」マスネの「タイスの瞑想曲」を聞 いた。澄子さんはベッドに横たわったまま会場の一番前で演奏を聞いた。私は澄子さん のすぐ横で、約一時間半、迫力のある演奏を楽しんだ。澄子さんと会うのは一年ぶりだ ったが、前より血色もよく、音楽や義行さんの呼び掛けに反応していた。目をいっぱい 開けて、「ウーン」などと時々声を出して感情を表していた。 グランドピアノは河野さんの家から運んだ。澄子さんがずっと引いていたピアノだ。 演奏の合間に大沢牧師がクリスマスのメッセージを述べた。「サリン事件のような忌ま わしい事件は、一日も早く忘れたいのだが、このコンサートは、事件を忘れないために 開かれた。サリン事件は人間の奢り、高ぶりから起きた。自らが正義と考え、他者を抹 殺した。そうした人間の欲望をなくすためにどうすべきかを考えよう。河野さんは事件 を起こした人たちを憾み、憎むのではなく、事件を起こした人の平和に生きる希望を見 い出している。最初のクリスマスは暗闇の混沌の中で開かれた。暗闇の中に希望を求め てだ。そのとき兵士たちは、神に栄光を。地に平和をと歌った。今日のコンサートも天 からの響きだ」。
大沢牧師は河野さん宅が家宅捜索を受けた夜、河野家を訪れた。入院していなかった長 男の仁志さんと京都から駆け付けた澄子さんの母親に、「何か困ったことがあったら、 何でも言ってください」と告げた。河野さんの子供たちを自宅に招き、食事を共にした 。世の中がみんな河野さんを毒ガス犯人と見ていたときに、救いの手を差し伸べた。 大沢牧師は「東京で牧師になったばかりのころに、交番で警官が泥酔者を殴る蹴りの乱 暴をしているのを見たことがある。それ以来、警察に不信感があったので、河野さんに 対する警察のやり方を見ておかしいと思った」と語った。「浅野さんの仕事はとても重 要だと思い、ずっと注目しています」。
コンサートの司会のフリープロデューサーの磯貝陽悟さんは、私のことを「河野さんの 友人でもあり、メディアの改革に取り組んでいる同志社大学教授」と紹介してくださっ た。三人の演奏者は、澄子さんのために、全力で汗をかき、演奏した。加藤さんらはア ンコールにこたえて、「澄子さんの大好きな『G線上のアリア』を引かせていただきま す」と述べて、演奏した。そのとき、澄子さんは幸せそうな表情を見せた。 コンサートが終わり、澄子さんは車椅子で車まで移動し、自宅に戻った。離れのベッド に入ると、しばらく泣き顔だった。河野さんがおんぶをして部屋に運んだのだが、体の どこかが痛かったのだろう。一月五日まで家で過ごし、その後、再び、県の重度身障者 施設に戻る。
母家の居間でしばらく河野さんと語り合った。サリンがまかれた現場を一緒に見た。 この日も河野さんは午前中は会社の仕事をしていた。前日もそうだったが、昼食をとる 時間もなかった。
河野さんは三月に開かれる麻原被告の松本サリン事件の公判に証人として出廷する。「 これからやっと被害者の証人調べが始まる。これまで被害者は一四四人とされていたの に、突然四人になった。妻と私とあと二人。その二人は誰だか全く分からない。今ごろ になってなぜ四人にするのか。歴史を勝手に書き換えていいのか」。 河野義行さんは、麻原被告の子供が住む家がなくなりそうだという話を聞いて、「子供 は関係ないはずだ。うちで引き取ろうかと思う」と語った。本心からそう思っているの だ。河野さんは、新聞労連の報道評議会の設立運動に期待している。「評議会をつくる ことに対して、異論を言う人がいる。慎重にすべきだとか言う研究者もいる。それでは 、報道被害をどうやってなくすか、報道被害者をどう救うべきかを言うべきだ」。 これからも河野さんと一緒にメディア改革運動を粘り強く進めていこうと思う。
Copyright (c) 1998, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1998.01.09