99/8/13

全日空ハイジャック男性の匿名報道

実名報道主義では精神医療ユーザー差別はなくならない

浅野健一

 

一九九九年七月二三日、東京・羽田発新千歳空港行の全日空機が男性にハイジャックされ、機長が刺殺された事件で、逮捕された男性が主要メディアで匿名報道されていることについて、報道機関には「なぜ匿名なのか」という抗議や問い合わせの電話が相次いでいるという。

小田晋氏ら毎度お馴染みの「文化人」が、犯行は計画的で周到に準備されており、論理的思考に基づくもので責任能力があるなどとコメント。産経新聞が七月二七日朝刊から男性を実名報道し、27日夕刊は顔写真も載せた。講談社発行の「FRIDAY」八月一三日号も実名報道し、顔写真を掲載した。「週刊新潮」も実名を掲載した。「週刊文春」八月五日号は「全日空機長『刺殺犯』の名前をなぜ隠す」というタイトルで短い記事を載せたが、男性の実名は掲載しなかった。

こうした世論を受けて、野田毅国家公安委員長(自治相)までが八月一日のフジテレビの報道番組「報道2001」で、「(犯人の男は)高度な知識を持ち、ハイジャックのためにいろんな準備をしている。それを精神障害といして扱うのはいかがか」(八月二日の朝日新聞)と指摘、判断能力を問うべきだと述べるに至った。この男性については鑑定留置が検討されていた時期であり、閣僚が鑑定内容に圧力を掛るような発言をするのは不見識である。野田公安委員長がここでいう「精神障害といして扱う」とはどういうことなのかはっきりしないが、匿名報道に対する批判ではないだろうか。

多数の乗客乗員の生命を奪ったかもしれない「凶悪な犯行」なのに甘いじゃないかというわけだ。マスメディアが被疑者・被告人・囚人に社会的制裁を加えることを当然とし、社会的に処罰することに慣れている人々には、なぜ彼だけが実名報道を免れるのだと不思議に思うのは当然だろう。

傷害容疑で逮捕された二○歳の青年は実名で、通り魔殺人で捕まった一九歳はなぜ匿名なのかという疑問も同じようなところから来ている。

その他のメディアは匿名報道を守った。少年非行に関しても匿名報道原則を守っており、メディアは「姓名がなくても事件の内容は伝えられる」と主張しているが、この場合も同じだろう。

新聞でもテレビでも、実名報道でなくても何の不都合もない。ただし、「男」という表現はいただけないい。「男性」にすべきだろう。

7月27日午後、東京新聞の特報部の記者から電話取材があった。私は約40分、詳しく話した。担当記者は私の談話を記事にしてファクスで送ってくれた。私は少し訂正加筆して記者に戻した。翌日の「こちら特報部」に見開きで掲載された「なぜ匿名報道か」の中で、私のコメントが載った。全体的にはいい記事だ。しかし、残念なことに、私が一番いいたいところが削られた。「警察が逮捕したら実名を出すというルールがそもそも間違えている。報道界は通院歴があるなど精神医療を受けたことがあるということで、匿名報道しているのが問題。こうした理由で匿名にすることで、かえって精神医療ユーザー全体に対する差別や予断を与えることになりかねないと思う。そうすると、一般の事件では匿名を原則にするしかない」。

この記事の中で、梓澤和幸弁護士も「『刑事責任を問えない病気』であることが事件の原因、との偏見が広まるのはよくない」と述べている。しかし、実名報道主義(逮捕されたら精神医療ユーザーと未成年を除き実名)をそのままにしては、こうした予断、偏見を防ぐことはできない。つまり、精神医療のユーザーだから例外的に匿名にするという説明を読者・視聴者にしなければならないからだ。梓澤弁護士は匿名報道主義に反対または懸念を示しているグループのリーダー的存在である。

一方、精神医療のユーザー、家族ら当事者にとっては実名報道ではなく匿名報道の方がいい。「精神医療ユーザーの場合も、実名報道にせよ」というわけにはいかないのだ。一部の精神医療関係者が、「精神傷害患者も実名にせよ」と主張していると伝えられるが、彼や彼女たちは匿名報道主義の理論と実践について全く知らないから、そう言っているだけだ。

8月10日、日本テレビ、「検察当局が刑事責任を問うことは可能と判断、起訴する方針を固めた」として、テレビ局として初めて、実名を報道。読売新聞も11日朝刊で実名に切りかえ、共同通信も11日午前実名で背信した。日経新聞も11日夕刊で報道した。毎日新聞は12日朝刊から、朝日新聞は13日から実名とした。これらの記事で、ニュースソースの検察当局者はすべて明らかにされなかった。

この被疑者は、結局、プライバシーである病歴が明らかにされた上で、実名と写真が報道され、最悪の事態となった。

 

精神医療のユーザーと「事件」

マスメディアが匿名報道の根拠としている、被疑者の精神病院、精神科への「通院」「入院」歴の有無に関する情報は、ほとんどが警察発表の鵜のみである。

東京・品川の青物横丁医師射殺事件では、精神「障害」の疑いがあると警察が発表した元会社員に関する「実名」「匿名」がバラバラだった。元会社員は結局、責任能力ありとの鑑定が出た。ユーザーへの偏見をまき散らしただけに終わった。

精神医療のユーザー(過去に於いても含む)が逮捕されたら匿名という説明は、実名報道主義の理論でも非論理的だ。非・精神障害者にもやさしい報道はできないのか。また「精神障害者の匿名原則」は精神医療のユーザーへの偏見を助長する。刑法上の規定と医療とは違うはずだ。(詳しくは「創」95年1、2月号の拙文参照、各社アンケートも)

 

「狂」という言葉の復活

マス・メディアは「狂人」とか「気違い」という言葉を使わないようにしてきたが、九五年三月二二日以降の、公安警察によるオウム真理教への強制捜査と幹部逮捕をきっかけに、麻原彰晃代表らに対して、「狂信」「狂った」という言葉が頻繁に使われた。同時に、「異常な行為」が精神分裂病などの疑いがあるという議論もなされている。

毎日新聞のオウム本のタイトルに「狂気」という表現があった。 いつの時代でも、世の中の人々が理解できないことが起きると、それを病気にしてしまう。そういう意味では、現在の既成宗教の開祖はすべて「狂っている」「異常」の烙印を押されていた。

刑事事件で、「狂」という表現を控えるようになったのは、精神医療ユーザーの人たちが報道機関にそれが差別語であることを訴えたからである。私は、普通、精神「障害」者、または精神「障害」患者と呼ばれている人々のことを「精神医療ユーザー」と呼ぶことにしている。

 

精神医療と事件報道

日本の精神医療には問題が多い。入院者数も多く、平均入院期間も長い。まだまだ閉鎖病棟が多く、薬漬け体質も改善されていない。精神「障害」は不治の病だか、遺伝するという誤った意識も根強い。その国の社会がどれだけ進んでいるかを見るには、精神病院を訪れるとよいと言われる。日本では、刑務所以上に人権を制限されて、劣悪な環境の医療施設が少なくない。

こうした精神医療の現状を改善するよう社会に問題提起すべきメディアは、逆に精神医療ユーザーをさらなる困難な状況に追い込むような報道を日常的に続けている。犯罪報道における「精神障害者は匿名」というルールがその主な問題だ。

 

「健常者」には人権はないのか

全メディアに共通しているのは、「精神障害者の人権を守るために匿名にする」というルールだ。精神科医で比較文化論などで大活躍する野田正彰・京都造形美術大学教授と六月にこの問題で話し合ったが、この基準はある個人にレッテルを貼ることになるうえ、精神障害というのは症状であり、医療の対象にすぎないのに事件と何か因果関係があるかのような誤解を日々与えているということで意見が一致した。

野田氏は「検察による鑑定は止めて、鑑定は裁判所の要請でやるようにしたほうがいいのではないか」とも提言していたが、私も同意見だ。

誰でも精神医療のユーザーになる可能性がある。ところが、この匿名規定は、精神障害という疾病の一つが、犯罪発生と関係があるのではないかという予断と偏見を世の中にふり撒いている。また「精神障害者が事件を起こしたと報道されると全国の患者すべてが裁かれる」(小林美代子著『髪の花』)という深刻な問題がある。

非精神「障害」者からは、精神「障害」者だけが匿名の権利を享受できるのは不公平だという誤解もある。社会や地域、職場で共生する中で治すべき疾病であるのに、障害者と非障害者の壁をなおさら厚くしてしまう。

事件と精神障害の関連の有無は指名手配、逮捕段階ではほとんど分からない。警察もメディアも、精神科の診断は下せない。そもそも刑事事件では、ある人が精神「障害」者であるかどうかが問題なのではなく、犯行の時点で心神の状態を判断するのだ。 

未成年は匿名というのは公平な基準だが、疾病の一つである精神科の医療を受けたことがあるかどうかを犯罪報道の匿名、実名の基準にするのは不公平ではないか。どんな病気にかかったことがあるかはプライバシーでもある。そもそも逮捕の時点で病名を報道することに問題がある。

匿名報道主義で解決を

メディア各社は、被疑者本人の社会復帰と家族の人権保護を、「精神障害者の匿名報道」の根拠としている。朝日新聞社の報道基準によると、精神障害者の匿名報道の根拠として@刑法三九条に「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」とあり、刑事責任不能力とされているA社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるB本人が社会復帰した場合への配慮のためーーの三点を挙げている。

ここで不思議なことは、@の理由はともかく、非精神「障害」者の場合もAとBは適用されるべきではないかということだ。警察に逮捕されているという事実が報道されれば、社会的偏見のため、家族が結婚、就職、進学などで不利益を受けるし、本人の社会復帰の妨げにもなる。拘束されている被疑者の氏名、写真は基本的には不要なのだ。問題は少年と精神「障害」者しか匿名にならないところにある。

精神障害と事件報道の混乱を解決するには、スウェーデンなど北欧で七0年前から採用されている犯罪報道の匿名主義を日本に導入するしかない。日本は逮捕されたら実名が原則だ。北欧では、事件や事故の当事者の姓名に「一般市民の明白な関心と利益」がない限り匿名を原則にしている。

スウェーデンの新聞・放送なら、青物横丁事件をどのように報道するかを聞いたところ、匿名でしかも過去の精神医療を受けたかどうかについては全く触れないということだった。どんな病気の人であれ、最初は被疑者を匿名にして、各メディアが判断して、市民に伝えるべき情報だと判断した時に、顕名にすればいいのだ。メディアが精神障害者を匿名にする理由として、刑法の責任能力での心神喪失と心神耗弱の規定があるが、これは法律上の手続きである。

刑事責任を問えるかどうかは鑑定で明らかになるわけで、過去の通院・入院歴は関係ない。殺人などの凶悪事件を起こした人のほとんどは、その犯行の時点では普通の精神状態ではないとも言える。

私は九四年一一月、主要メディアに一八項目の質問書を送り、精神「障害」者の匿名原則の矛盾について聞いたアンケートの結果については、「創」九五年二月号で発表した。各社とも改善の必要性を認めていた。一日も早く、精神医療ユーザーの人権を守る報道基準を確立してほしい。

 

私は「実名」主義を主張していた

私は七二年に共同通信に入社して、最初に東京・上野署記者クラブへ配属された。ある事件で逮捕された被疑者が数年前に精神医療のユーザーだった。副署長が記者発表で「被疑者はマル精だ」(○の中に精を書く)と言うと、「ナーンダ、精神病か」とクラブの記者たちが反応した。

私が大学一年の時、身近な人が精神医療のユーザーとなった。人間味溢れる素晴らしい医師のお陰で治癒した。まだその人が入院していたころ、精神医療の本を読み漁った。精神医療のユーザーが事件を起こすと、マスコミは「病気」を強調するので、私自身嫌な気持ちになった。だから自分が記者になって、なぜ精神「障害」者を「匿名」にするのかと疑問に思った。新聞各社は「本人に対する配慮から伏せるのではなく、報道されることによって家族・親類の人たちが大きな精神的苦痛を味わうことが多く、これを防ぐ意味で配慮」(日本新聞協会『取材と報道』)するから匿名にしているのを知った。同じく原則匿名となる少年は、「その人の将来を考え」て匿名としているのと対照的だ。メディアには精神医療のユーザーは犯罪を犯しても仕方がないという予断と偏見があるのではないか。メディアはその偏見を日々拡大している。この点は『犯罪報道の犯罪』(講談社文庫、166ー171頁)を参照してほしい。

全国各地には、精神医療への差別、偏見をなくすために努力している患者やその家族の団体がたくさんある。その努力を踏み躙っているのが、ユーザーを犯罪予備軍のように見るメディア報道だ。

新聞界には、精神「障害」者の仮名扱いに関し、関係団体から「むしろ実名にし、精神障害であることに触れない方がいい」と指摘されたことを強調する意見がある。しかし、匿名報道にすることが悪いのではない。数ある病「疾患」のうちで、精神障害を区別化して匿名にすることがいけないのだ。

確かに障害者団体からは「我々も実名に」という訴えがある。ただ、「実名にしてほしい」というのは、匿名主義というオールタナティブな犯罪報道があることを知らないからだ。私が世話人を務める人権と報道・連絡会(〒168東京都杉並南郵便局私書箱23号)は、一四年前から、権力を監視して、市民の知る権利にこたえるジャーナリズムを日本にも確立するための活動を続けている。精神医療のユーザーへの差別と偏見を助長する報道の改革も重要な柱の一つである。

私が勤めていた共同通信にも精神神経科に入・通院している記者が少なからずいた。記者にとって罹りやすい病気の一つである。自分たちが「精神障害患者」を匿名にすることで、その仲間たちがどういう思いでいるかをまず考えたらどうかと思う。

 

匿名報道主義の登場

日本の犯罪報道は逮捕時点で実名有罪視報道を原則にしている。実名主義は全ての市民は無罪推定を受けるという近代法の理念に反し、司法による刑罰に先行しリンチを加え不当に本人と家族のプライバシーを侵害、公正な裁判を妨げ、社会復帰の妨害などになっている。その反省から匿名報道主義では「権力の統治過程にかかわる問題以外の一般刑事事件においては、被疑者・被告人・囚人の実名は原則としては報道しない」と考える。つまりマスコミが犯罪を取材、報道する際、権力批判と市民の人権擁護の二大原則を打ち立てようというのが匿名報道主義。また、警察が何時逮捕するか、自供したかどうか(警察の言う自白)などの不毛な競争に費やされるエネルギーを、権力の不正やでっちあげの監視、報道に振り向けようと提言している。【文献】浅野・山口正紀共著『匿名報道』(学陽書房)日弁連編『人権と報道』(日本評論社)。浅野健一『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『新・犯罪報道の犯罪』(講談社文庫)『マスコミ報道の犯罪』(講談社文庫)

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Copyright (c) 1999, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1999.08.18