1999年7月22日

田島教授に求められる情報開示

浅野健一

                   

田島泰彦氏という学者がいる。元青年法律家協会議長で、私がインドネシアに転勤するまで、数年間、人権と報道・連絡会の例会や研究会にもちょくちょく顔を出していた。「実名報道主義と匿名報道主義の対立を解消させたい」とか「人権と報道・連絡会と他の団体の協調の道を探りたい」などとよく言っていた。

この人は90年代に入って、突然、匿名報道主義に問題点があると積極的に言い出し、報道被害者の名誉毀損訴訟にもいちゃもんを付けるようになった。連絡会に全く顔を見せなくなった。

田島氏は彼の著作で度々、私が提唱する匿名報道主義を批判してきた。彼に近い研究者、法律家も同じだ。彼が公表してきた論文や記事に対して、私はその都度、反論してきた。彼や彼の編集者に質問書を送ってきた。ところが田島氏はそれらに一度も回答しない。私の質問状や反論記事をすべて黙殺してきた。

田島氏は、脳死移植報道で「情報開示」「透明性確保」が不可欠で、リアルタイム取材報道が何よりも重要だと発言してきた。多くのメディアは彼に「識者」コメントを求めたが、いつも「取材・報道の自由」を最優先にとらえる談話を発表してきた。

私はここで問いたい。私が繰り返し、田島氏に尋ねたことについて、回答を開示してもらいたい。お互いにオープンに討論しようと、呼び掛けているのだから、それにこたえてほしい。「報道機関は無罪推定の原則には縛られない」というその根拠を明らかにしてほしい。なぜ匿名報道主義に反対かを、市民に分かるように説明してほしい。

田島氏は「放送と人権等権利に関する委員会」(BRC)のメンバーでもある。BRCの報道被害者に対する最近の裁定には首をかしげざるを得ないが、田島氏がBRCでどのような意見を展開しているかも、公表してもらいたい。少なくとも、申立人には議論の内容を開示してほしいと思う。

《「プロセスの公正さ、適正さのチェック」という一点をまず物差しにすべきだ》。ドナー、ドナー家族のプライバシーよりも優先されるべき情報があるという立場に立つ田島氏は、研究者としての活動を市民に明らかにする義務があると思う。田島氏のプライバシーはどうでもいいが、メディア研究者としての活動については他の研究者や市民に明らかにしてほしいのである。

犯罪報道をめぐる討論においても「プロセスの公正さ、適正さのチェック」が当然求められている。

 

▼分かりにくい田島教授の脳死報道論

朝日新聞は6月30日の特集「移植報道と情報公開」(上)で、「移植報道を見守ってきた識者二人」の談話を載せている。ノンフィクション作家の柳田邦男氏と田島泰彦上智大学新聞学科教授である。田島氏の主張はちんぷんかんぷんである。脳死移植報道の何が問題で、どうしたらいいのかがほとんど語られていない。

朝日新聞は5月13日付の朝日新聞メディア欄は「2例目の脳死報道/各社、それぞれに『慎重』」という見出し記事で、厚生省の臓器移植対策室が、日本新聞協会や民放連などを通じて報道各社に専門委員派遣を要請したが断られたことなどを紹介して、次のように書いた。《一方、新聞協会では三月末、報道各社の科学部長会で取材のあり方などを話し合ったが、具体的な動きには至っていない。

同協会編集部は「まずは現場の記者クラブで議論を深めることが先決。専門委員会への委員派遣についても、委員会それ自体が再検証の必要があるなか、報道機関が当事者になるのは好ましくないと判断してお断りした」と話している。》

この記事の最後に、田島泰彦上智大学新聞学科教授の次のような見解が載っている。私はこの記事で初めて田島氏が99年4月から上智大学新聞学科教授に就任したことを知った。田島氏はそれまで神奈川大学短期大学部教授だった。

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《「公共」の軽視感じる

田島泰彦・上智大新聞学科教授の話

 

脳死移植は、「死」や「医療」という極めて個別的でプライバシーの根幹に触れる事柄を含む。その一方で、「死をどう考えるか」「臓器移植をどう行うか」といった社会的合意やシステムの問題にも大きくかかわっている。

一連のプロセスを密室の中で行うことは一見プライバシーを守るようだが、長期的に見ると間違いや不正をチェックできず、患者個人の利益を損ねる。逆に、プライバシーや個人の尊厳をみだりに踏みにじると、システム自体が機能しない。メディアとしては、どちらかがどちらかを押し込めることがないよう、きわめて高次の判断が必要だ。

だが、今回の報道をみると、前回移植の影響が大きかったためか、「公共」のウエートが薄められ、情報の開示が軽視されているように見える。厚生省や病院など、実施側だけにあらゆる情報が独占され、集約するのは危険だ。

メディア側は、「プロセスの公正さ、適正さのチェック」という一点をまず物差しにすべきだ。プライバシーを無視して現象面を追ったり、開示されたものをすべて報道するような行いは慎まなければいけない。

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これについて、朝日新聞広報室に、《この記事内容について、田島教授から、発言内容と違うとかの指摘はないでしょうか。》と聞いた。

5月17日に朝日新聞広報室から回答がファクスで届いた。ファクス送信書の発信者は「朝日新聞社広報室」で、その下に「担当」として、役職と姓名を書くためと思われる空欄があったが、何も記入されていなかった。

《1 「新聞協会編集部」としたのは、新聞協会編集部としての見解を聞いたためです。

 2 「『専門委員会それ自体が再検証の必要』という根拠の判断は何でしょうか」というお尋ねです    が、朝日新聞がその根拠を説明する立場にありません。

 3 浅野さんがなぜこういう質問をされるのか理解に苦しみますが、田島教授からは何も指摘はあり    ません。》

私は5月19日、朝日新聞広報室に次のようなファクス(一部略)を送った。

《私の質問内容に疑問があるようですので、簡単に説明します。

田島教授の意見は、テレビのインタビューでも同様の発言があり、問題だと思っています。この問題で、一部のメディア研究者が、情報の開示と取材報道の問題を混同していることが重要だと考えています。田島教授の談話は、おそらく電話または面談で話を聞いて、記者が執筆したと思われますので、田島教授の発言が正確に掲載されているかどうかの確認をしたのです。前に毎日新聞に載った田島教授の談話を批判したところ、毎日記者から「談話は発言の一部にすぎない」と批判してきたことがありますので、念のためにお聞きしました。「田島教授からは何も指摘はありません」ということですから、教授の発言が適正に記事に出ていると判断します。

なお、田島教授は私が1983年から提唱している匿名報道主義に反対だと著書の中で何度も批判しており、私は何度も反論し質問していますが、一度も答えていません。この点については、私の最近の本(第三書館からの3部作など)で詳しく紹介しています。》

 

▼大マスコミ実名主義者支える「理論」

田島氏は実名主義の「理論化」に貢献した学者の一人である。いくつものユニークな「言説」を公表してきた人である。

犯罪報道の改革がすすまない原因の一つに、「犯罪報道の犯罪」の実態を熟知しながら、現状の犯罪報道の方法を事実上黙認する学者、文化人の責任という問題がある。匿名報道主義に対し当初は、逮捕された人の起訴率・有罪率が高いとか、犯罪者を社会的に制裁するのは当然、無関係の人が疑われるなどという反論が多かったが、86年ごろから「逮捕時点で被疑者の身元を明らかにすることによって冤罪を防いでいる」「実名報道主義を止めれば警察は被疑者を匿名発表してくるのは必至で、警察が被疑者を闇から闇に葬り去る暗黒社会になる」という権力チェック論が主流になった。

実名報道主義の弊害は誰の目にも明らかなのに、学者、弁護士の中にも匿名主義反対を公言する人が出てきた。田島氏がその代表である。彼は「被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と結論付け、匿名主義では調査報道が難しくなるとまで公言するのだ。

田島・右崎正博・服部孝章各氏が編者となって九八年三月に出版された『現代メディアと法』(三省堂)で、田島教授は「権力犯罪など顕名がとくに要請される場合を除く一般刑事事件の報道においても、被疑者・被告人等については匿名を原則とすべきであるとする犯罪報道における匿名主義の導入の是非の問題がある」と述べている。田島教授は「犯人視報道から根本的に決別する」べきだと主張しながら、無罪推定原則を報道の原理としてストレートに持ち込むことには「疑問が残る」と強調している。しかし、田島氏の犯人視報道批判の論拠は無罪推定原則ではないか。

田島教授は「匿名主義」に対して三つの「課題」を設定。それぞれに「被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と結論付けている。田島氏が『イカロスは甦るか』(こうち書房、九四年)所集の論文で展開した主張とほぼ同じだ。田島教授がいう「課題」について、私は『犯罪報道とメディアの良心』(第三書館)などで回答、討論を呼び掛けたが、何の反応もない。

名前を報道することが悪いのではなく、被疑者を犯人視することが問題だという主張は、一見正論に聞こえる。しかし、警察に逮捕されたという事実を実名報道されること自体が、報道された市民には死を意味することさえある。私の知り合いの学生の父親は大企業の部長だったが、自治体の条例違反で逮捕されたために、一週間後に事実上解雇された。逮捕されたことが問題にされたのではなく、全国紙に名前が出たことが処分の理由だった。

このほかメディア現場では、匿名報道にすると、無関係の人が疑われるとか、警察に誰が逮捕されたかが分からなくなり、かえって冤罪が増えるという詭弁を宣伝している。しかし日本の警察が逮捕している被疑者のうち記者発表するのは数%に過ぎない。警察が市民を闇から闇に葬り去る危険性があるというなら、まず逮捕段階で全被疑者に公選弁護人を付けるべきだ。先進民主主義国では、逮捕段階で弁護人が付くし、弁護人が同席しない取り調べは許されない。被疑者の権利を守るために実名報道が不可欠というのはとんでもない詭弁である。こういう法律家は報道被害の実態の深刻さを理解していないか、理解しようとする想像力に欠けるのだと思う。

河野義行氏は九六年二月二○日の新聞労連全国新研集会(高知)で、警察権力のチェックのために実名報道が必要という記者がいたので、「ここにいる記者の皆さんの中で、自分または自分の家族が逮捕されたときに、実名を出してほしいか。出してほしい人は手を上げてください」と聞いた。百人近い記者がいたが、一人も手を上げなかったという。記者たち自身が、権力チェックのために実名報道が必要というのは、根拠のない主張であることを証明した。

 

▼田島氏の反匿名主義珍説

新聞労連は九七年四月、「新聞人の良心宣言」(制作・販売はCIPサコー、電話03ー3981ー6101)を単行本にした。第二部に一三人が「私はこう思う」という文章を寄せている。なおこの本には私の報道倫理綱領試案も掲載されている。

三番目に登場する田島泰彦氏(神奈川大学短期大学部教授)は〈「報道と人権」への視点と課題〉と題して次のように書いている。

《「犯罪報道」などに主として関わって、報道倫理の中で重要な位置を占める「報道と人権」の問題に絞って私の意見を述べ、今後の課題を探っていくことにしたい。

全体として犯罪報道などでプレスが「してはいけない」種々の義務が列挙されるという形を取っていて、犯罪報道についてジャーナリズムが何を明らかにし、伝えるべきかを積極的に提示していないことが気になる。

ジャーナリズムは犯罪報道をどう扱うかという課題は、メディアは犯罪とどう向き合うかという問いに正面から立ち向かうことにかかわるのであり、これについては改めて後に検討するが、いずれにせよ、こうしたギリギリの突き合わせを回避したままで「人権」との調整を図ることは、いまメディアの現場に横行していることなかれ主義的な対応や精神の欠落したマニュアル的な対処を帰結させるだけで、報道を鍛えることにもならないし、ほんとうの意味で人権を尊重することにもつながらないのではないか。

無罪推定原則を「踏まえ、慎重を期す」必要があり、第一次的には国家機関を拘束する原理である無罪推定原則をメディアも尊重することが求められるのは疑いえない。

こうした司法の原則を報道の世界にストレートに持ち込み、報道の原理に捉えることには疑問がある。例えば、捜査機関等が今だ追及していない権力の不正や社会悪、そして犯罪などをあばくというこの国でもっともいま求められている調査報道の手法は、この原則を厳格に貫くと成立の余地を奪われるか、その本来の牙をぬかれてしまうことにならないだろうか。また、ジャーナリズムは法律で縛られた裁判という方法では必ずしも迫りえない社会の真実を発掘し、記録し、伝えるという使命を負っているのであって、ここでも時に無罪推定などの司法のルールと鋭く対立する場面が生じうることを自覚しなければならない。

誤解を恐れずに言えば、メディアはある局面では、無罪推定は人権と鋭く対峙しつつ、真実を伝えるというその本来の任務を貫かざるを得ないプロフェッショナルなのである。

犯罪へのメディアの基本的スタンスについてである。この問題が正面から突き付けられたのがオウムをめぐる一連の事件だった。犯罪やテロにジャーナリズムはどう向かうべきか。「宣言」には、オウム真理教事件などの深刻な問題提起が届いていないように思える。》

「二つの視点」という小見出しで田島氏はこう主張する。

《一つは、犯罪やテロなどへのリアルな認識にたち、それから市民社会の安全をいかに守るかという問題を正面から受けとめて、「法と秩序」論や警察官の再検討を含め従来の理論や制度に批判的吟味を加えつつ、テロ対処立法などもとめられる対応策を真剣に模索するという視点であり、こうした「市民社会の安全」という重要な視点を欠落させ、「警察=敵」論などに基づく短絡的で観念的な捜査批判や犯罪・テロ規制批判は説得性を持ちえないと思われる。

もう一つは、法の支配や市民的な自由と人権などからの批判的アプローチの堅持という視点であり、こうした批判的視点を欠落させ、市民社会の安全を一面的に強調することによって、官憲の違法捜査や権限濫用を免罪したり、過度のテロ対処権限の発動や導入を容認することがあってはならないと考える。

犯罪やテロへの一定の価値的立場という前者の視点に立ったとき、報道における一方での被疑者・被告人の人権と、他方での被害者の位置づけと人権など、根本的な再検討が求められる課題が少なくないと思われる。とりわけ、従来欠落してきた被害者の視点からの報道の見直しは重要である。》

続いて〈「匿名」か「実名」か〉という朝日関係者やメディアに近い弁護士・学者が愛用する小見出しでこう述べる。

《「宣言」は被害者・被疑者の顕名(実名)、匿名について、「良識と責任をもっ」た判断と人権侵害回避の努力の必要を述べているが、特に被疑者の扱いについては、以下に留意した慎重なアプローチが求められると考える。

1すべての問題を匿名・実名問題のみに還元しないで、犯人視報道など犯罪報道問題全体の中でこの問題が持つ射程と位置を明確にし、そのあるべき姿を探ること。

2法廷ルールの問題なのか自主規制措置としてのメディア倫理の問題なのかという議論のレベルを明確にし、少年犯罪等例外的に法的な権利と構成しうる局面がありうるものの、基本的には、メディアの自主的な報道倫理の課題として匿名・実名問題にアプローチすること。

3先にも触れたように、匿名主義の有力根拠なる無罪推定原則の報道原理としての妥当性を、報道の基本的使命に照らして批判的に吟味し直すこと。

こうした視点や、先にも触れた犯罪報道におけるジャーナリズムの価値的、主体的立場を考え合わせたとき、私には被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われないのだが、この点については、なお冷静な論議を積み重ねていくことが求められよう。》

田島氏は「私には被疑者等の原則匿名化が報道の原理として妥当であるようには思われない」と初めて断定した。体を張って匿名報道主義に反対を表明してくれた。田島氏の文章は何度読んでも分かりにくい。メディア相手の裁判はメディアを萎縮させるのでほどほどにというようなことを書いたこともあった。田島氏の主張の誤りは既に述べているので繰り返さないが、報道機関が法律には縛られないというのは当たり前のことだ。憲法を読めばすぐに分かる。報道倫理の問題として、無罪推定を尊重しようというのだ。悪法なら法を破ることは人民の権利として当然である。国連人権宣言など国際的に認められた人権を擁護するのがジャーナリストの任務だ。

田島氏がサリン事件などに対応するテロリスト取締法を考えていることも明らかになった。市民の敵にどう対応するかは原則として法律で解決すべきである。ジャーナリストの仕事は、犯罪を抑止することではない。あくまでも権力を監視することだ。テロリストにどう対応すべきかを考えるのは、法学者、公務員の仕事だ。メディアは議題設定し、広く論議を巻き起こすべきだが、犯罪者とどう立ち向かうかは本来の任務ではないと私は思う。

この本において、田島氏が書いたすぐ後の頁で、河野義行氏がすばらしい文章を寄せている。労連の小林亨副委員長(下野新聞記者)のあとがきも感動的だ。田島氏が自ら訂正することを望みたい。

田島氏はNHKと民放が九七年六月一一日に機能を開始させた番組苦情対応機関、「放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO、伊藤正己東大名誉教授)」の中につくられた「放送と人権等権利に関する委員会(BRC)」の委員八人の一人に選ばれた。日本放送協会と日本民間放送連盟が同年五月二二日に発表した報道資料によると、田島教授の専門は「公法学、憲法、イギリス法システム、マスメディアと市民の権利」とある。マスコミ報道ではメディア法制だそうだが、報道倫理と法律の区別をはっきりさせて審議に参加してほしいと願っている。

▼弁護士も呆れたメディア論

田島氏は6月8日、日弁連第42回人権擁護大会シンポジウム「人権と報道」実行委員会勉強会に招かれ話をした。出席した弁護士によると、田島氏は匿名報道主義に反対を表明、報道機関は無罪推定に拘束されないという持論を展開したという。和歌山カレー事件についても不当な発言があったという。このため多くの弁護士が反論して、ホットな議論になったという。ある日弁連幹部は「とんでもない主張だ。報道被害の実態が分かっていない」と述べている。田島氏は報道被害者と人間として向かい合い、対話したことがないのだと思う。

一週間後の6月15日、私も日弁連人権擁護大会シンポジウム実行委員会勉強会に招かれて90分話をした。報道界は今こそ報道の自由を拡大し、市民の人権を守るための仕組みをつくるべきであると強調した。メディア責任制度をつくるのは日本新聞協会・日本記者クラブ・新聞労連であり、日弁連がこの3者による懇談の場をセットしてほしいと要望した。日弁連は87年11月の「宣言」以降、人権と報道に関する調査研究委員会を設置。新聞、民放との懇談会の開催を積み重ね、外国のメディア責任制度を調査している。

メディア責任制度の前提となる「報道倫理綱領」には、被疑者・被告人と被害者の匿名原則(公人の職務上の犯罪容疑または不適切な行為の場合は例外として顕名)を明記すべきだ。メディア界は帝京大学ラグビー部誤報事件でも、警察が逮捕したのは事実という見解をとっている。警察の公式、非公式情報に基づいて記事を書いた場合には、名誉毀損にはならないというのはおかしい。実名、顔写真入りで、レイプ容疑で逮捕されたと報道されたら、一般市民は実際に犯人だと思ってしまう。被疑者を加害者と考える社会が悪いという言い方もされる。実名が出ても犯人と見ないような人権意識を育てるべきだという説もある。しかし、自分や自分の家族が、もしそう報道されたらと考えてみたらすぐに分かることだろう。少なくとも、そういう社会ができるまでは匿名原則でいくべきだろう。

脳死臓器移植報道でも、情報開示の前提としてドナー、レシピエントの匿名性が厳守されなければならない。6月14日に宮城県で行われた脳死移植では、ドナーが脳死状態に至った事故が一部で実名報道されていた。このため警察は脳死に至った経緯を公表できなくなったと表明している。犯罪報道だけでなく、市民にとってほとんど意味のない被害者、被疑者の実名掲載はやめるべきであろう。

日弁連の87年アンケートでは、「匿名を原則にする意見」についてしかどう思うかとしか聞いていない。一般市民は匿名にして、権力を持つものに対しては、調査報道で、捜査当局のアクションの有無に関係なく報道するのが、匿名報道主義であるという説明が必要だった。日本では匿名原則、匿名報道主義という概念をメディアがほとんど取り上げないので、定着していない。「すべて匿名になったら誰が新聞を読むか」などむちゃくちゃな見解が今もある。毎日労組が93年に実施したアンケートの設問が参考になる。

ジャーナリズムが脆弱だから匿名原則にすると、当局の匿名発表を増やして知る権利が脅かされるという危惧もあるが、実名原則だからこそ匿名発表の口実を与えている。権力に強いジャーナリズムをつくりだすためにこそ、匿名原則と報道評議会が必要なのである。

▼参考

私が田島氏との「論争」について書いている本は次のとおり。

『「犯罪報道」の再犯 さらば共同通信社』(第三書館)、『オウム「破防法」とマスメディア』(第三書館)、『犯罪報道とメディアの良心 匿名報道と揺れる実名報道』(第三書館)、『メディア・リンチ』(潮出版)『無責任なマスメディア』(山口正紀氏との共編、現代人文社)、『匿名報道』(山口正紀氏との共著、学陽書房)、『松本サリン事件報道の罪と罰』(河野義行氏との共著、第三文明社)、『英雄から爆弾犯にされて』(三一書房)などがある。                  (以上)

 

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