1999年10月12日
ティモール・ロロサエ民族浄化と日本メディア
揺れる報道、現実との間にミゾ
「併合派」対「独立派」の抗争などない浅野健一
私は「週刊金曜日」10月1日号に、東ティモールとメディアについた書いた。以下は、それを詳しくした文章である。
一九七五年にインドネシアが侵略した東ティモ−ルで、八月三○日に行われた住民投票の結果、独立賛成が圧勝した。しかし、、投票終了後から、各地で住民を襲撃。投票結果が判明した九月四日以降、インドネシア軍と独立反対の民兵たちは、虐殺、略奪、インフラ破壊などやりたい放題で、独立運動の指導者の神父、政治家らが多数殺された模様だ。 独立が決まった瞬間に始まった新たな住民弾圧で、多くの生命が奪われ、生活基盤が破壊された。国連は初めて多国籍軍派遣を決めて、九月二○日に第一陣が入った。
東ティモールの人々は、自分の国をティモール・ロロサエ(テトウン語で、太陽が昇るという意味)と呼んでいるので、本稿ではそう表記したい。
私は八月一九日から投票翌日の八月三一日まで東ティモールに滞在した。インドネシア軍と軍が育成した民兵の剥き出しの暴力に脅えながら暮らす住民たちに接した。その友人とは連絡がとれない。
出発前、多くの友人に「東ティモールの住民が独立賛成と反対に分裂していて大変のようだね」とよく言われた。
共同通ジャカルタ特派員時時代に二回東ティモールで取材し、ジャカルタなどで東ティモール出身の学生たちとよく会っていたが、インドネシアの武力併合を認めている人に会ったことはない。今回、「併合派」「「残留派」なる集団は、インドネシア軍が兵士を護衛するために雇っていた民兵をもとにして育成した軍の別働隊であることが分かった。
日本の新聞やテレビの多くの記者たちは「併合派」なるものの正体を、自分たちに銃が向けられ、威嚇されるまで適切に報じなかった。民兵の多くがインドネシア軍から訓練を受け、賃金、食糧などを支給されている準軍事組織であることを伝えてこなかった。住民が二派に分かれているのではなく、インドネシア侵略軍と東ティモール住民との間で四半世紀続いてきた国際紛争だった。
住民投票の結果について、七八・五%という数字に驚いた記者が少なくないようだ。インドネシアは反対党の闘争民主党のメガワティ党首も動員して、併合支持の大キャンペーンを展開した。インドネシア軍と民兵は各地で住民に独立反対を強要した。私は投票日に、インドネシア軍の車両が住民を投票所へ運んでいる場面を何度か目撃した。地方の投票所では公安、情報部員が数人のかたまりで目を光らせていた。民兵のテロ行為がなければ、自由で公正な選挙が行われていれば、九○%代になっていたと思う。
日本のマスメディアは、毎日新聞の大塚智彦特派員ら一部の例外を除いて、「東ティモール問題」の真実を伝えず、「インドネシアが実効支配している」とする日本政府の姿勢を批判してこなかった。また、政府開発援助(ODA)がティモール・ロロサエの独立闘争を弾圧する機材の購入に使われていることについて調査報道を怠った。
ハビビ大統領の多国籍軍受け入れ表明は、七六年の「併合」が侵略だったことを認めたことになる。それは同時に、インドネシア軍による四半世紀にわたる侵略を黙認してきた日本の政府とメディアの敗北でもあった。
日本の主要メディアは“同罪”だが、ティモール・ロロサエの自決権を八十年代から支持してきた人たちの間で、最も評判の悪かった朝日新聞の報道を中心に振り返ってみたい。(インドネシアやティモール・ロロサエに関心のある人たちの何人かが朝日購読をやめた。)
揺れる朝日新聞
インドネシアのハビビ大統領が一九九九年一月二七日、「東ティモールの住民が自治提案を拒否する場合、分離・独立を容認する」という衝撃的な発言を行ったことについて、朝日新聞の吉村文成ジャカルタ支局長(当時)は一月二八日の解説記事で次のように書いていた。
《また、(ハビビ新提案は)東ティモールの独立派に対しては「本当に独立してよいのか」という問いかけを改めて投げかけることにもなる。インドネシア政府が住民投票を拒否続けてきたのは、東ティモール側が独立派と自治受け入れ派に分かれ、統一できていないのも一因だ。インドネシアは、ポルトガルと違って、東ティモールに対して多額の資金をつぎ込み、多数の奨学生を受け入れるなど開発に努めてきたという自負がある。そうした支援を断ち切られても、約八十万人の国民で国が維持できるのか、と問いかけるものだ。》
二月六日の国際面で「揺れる住民 深まるミゾ」という見出しを掲げ、《地元紙は、東ティモール独立革命戦線(フレテリン)のグスマオ元司令官を大統領とする組閣案を発表するはしゃぎようだ。(略)人口約八十万人のうち、政治的に活発なのは一割ほどで、残る九割は独立とも自治とも決めかねている“中間派だ”、とジャカルタでは見られている。この人たちに対する働きかけが今後、強まりそうだ。(中略)独立派と自治派の中間に立つベロ司教は「インドネシアは“祖国”にふさわしい態度をとってほしい。各派は話し合いで妥協点を見つけるべきだ」と政府、住民双方に自制を呼び掛けている。》と書いた。
これらの記事はまるで、インドネシア軍や軍が背後で操る民兵たちの影響下にある新聞のようだ。
二月一○日の「時時刻刻」は「東ティモール 割れる民意」という見出しで、吉村記者がディリに入ってリポートしている。リードには《独立派は勢いづいている。だが、地元では「人口八十万人の地方が独立してやっていけるのか」という現実論も根強い。》とあった。
二月一一日の社説は「民意の反映する解決を」と題して、「異なる民族や宗教の人々が、一つの国家で暮らす」ことの難しさから、東ティモール紛争が起きているかのように書いた後、「独立派は、自治権を与えたうえ、人材や産業を育てる数年の準備期間を経たあと、住民投票を実施という手順を望んでいる。これに対し政府は、準備期間などなしに手放すのを「独立」と考えている。》などと指摘している。
三月二三日の「みんなのQ&A」(吉村記者)で、ポルトガルが植民地を放棄した後、東ティモールで「内戦になってしまった」ので、ポルトガルは「逃げ出した」と説明。「左翼」の東ティモール独立革命戦線が独立宣言をした後に、インドネシアが軍事介入したと述べている。最後に、「自立のチャンスがやっとめぐってきたわけだ。だけど、独立してやっていけるのかね?」という問に、「そう簡単ではないだろうね。人口は九十万人ほど。(中略)岩手県くらいの大きさしかない。インドネシアの統治が始まってから道路や学校、病院の建設が進んだが、まだまだ不十分だ。国際的な支援が書かせないだろうね」と答えている。
七月一日の朝日新聞で、翁長忠雄記者は「残留派の民兵組織」について、「国軍が武器を帝京、財政支援しているとの見方が根強いが、実情は明らかではない」と書いている。また東ティモール独立革命戦線は「国軍兵士の誘拐や国軍施設へのテロを繰り返してきた」「組織は一枚岩とはいえずシャナナ・グスマオ氏に反発する勢力もあるという」などと書いた。
外務省見解に酷似する朝日報道
八月以降の経過を振り返れば、ここに書かれていることと現実との間に、おおきなミゾがあることが明らかだろう。一連の記事は、「ポルトガルが無責任に逃亡した後に、インドネシア義勇軍に支援された併合派が独立派を駆逐した」という日本外務省の見解(外務省のホームページに今もある)によく似ている。
ハビビ大統領が一月末に方針転換したのは、二三年にわたるインドネシア軍の侵略に抵抗し、民族の尊厳を取り戻す勇気ある闘いを続けてきたティモール・ロロサエの人々の闘いの成果である。
ティモール・ロロサエに併合前から住んでいる人たちの間では分裂などほとんどない。私が八年前にインタビューしたインドネシア軍幹部は「我々がどんなにお金を注ぎ込んでも、彼らはインドネシア人にはならない」と率直に語った。かつてある特派員は「インドもインドネシアも独立しないで、英国やオランダの植民地のままでいたほうが、経済が発展してよかったのではないか」と言ったことがあった。マスコミ記者には、世の中にはお金や豊かさとは無関係な「人間の尊厳」とか「民族自決権」という価値のあることが理解できないのだ。
ベロ司教は八八年から国連に住民投票実施を要請しており、「中間派」などではない。
独立革命戦線は左翼ではない。現在の独立運動は「民族抵抗評議会」(CNRT)の指導で「一枚岩」の団結を誇り、グスマオ氏が政治、軍事両部門を掌握していることは、軍と民兵の暴力の中でも非暴力を貫いた事実で見事に証明された。
九六年にベロ司教と共にノーベル平和賞を受賞したラモス・ホルタ氏は九七年一月来日した際、「日本の記者に、『小国なのに独立してやっていけるのか』『住民の間に独立をめぐり意見の対立があるのでは』と何度も聞かれた。インドネシア軍の非道な弾圧を見ようともせず、人口が少なすぎるとか、独立したくない人たちも多いのではと言う、その感覚が分からない」と話していた。
日本の記者たちの多くは、「東ティモール紛争」は、ティモール・ロロサエ住民の分裂で起きたのではなく、インドネシアの侵略によって引き起こされたことを知らないか、知っていても伝えなかったのだ。
かつての日本のアジア侵略、米国のベトナム侵略、旧ソ連のアフガニスタン侵攻と同じように、民族の尊厳を踏みにじる侵略だったのだ。
学校で使われている地図で、東ティモールがどのように扱われているかを見たらいい。東ティモールは国連統治になっており、インドネシアの領土である西ティモールとの間に国境線が引かれている。
日本の報道機関は、一八九五年の台湾侵略以来の数々の侵略について、自らの責任を含めてきちんとした総括をしていない。天皇の戦争責任を追及することもできず、その死を「崩御」と表現した。「朝鮮半島にいいこともした」とか「アジア諸国独立に役だったのも事実」という歴史観に真剣に対峙してこなかった。朝日新聞や毎日新聞も、小林よしのり氏を登場させて、問題提起として重要だとか言わせている、「歴史は繰り返さない」という大月隆寛氏に好き勝手なことを書かせている。
自国の侵略の過去について正確に学ぼうとしないのだから、ティモール・ロロサエの人々の「人道に対する罪」についても反応しないのだ。
NHKの中には、東ティモールの惨状を伝えようとしたディレクターや記者が何人かいたが、度々企画がつぶされた。番組のオンエアの許可が出なかったケースもある。
渡辺大使はまず反省せよ
メディアは東ティモール騒乱を伝える一方で、政治部記者が《「動けぬ日本」PKF凍結》《対応に悩む政府 自衛隊派遣、法的制約多く》などという記事を書いている。東ティモールに国連が軍事部隊を送るべきだが、日本は自衛隊を送れないという「悩み」を「客観報道」している。
日本は日本の平和憲法の範囲内で、できることをすればいい。お金だけでなく、医師、看護婦、技術者らを送ってほしい。
スハルト政権時代後期に在インドネシア日本大使を務めた渡辺泰造・青山学院大学教授は、九月一六日の読売新聞の「論点」で、「日本は国連平和維持軍に参加し、国旗を掲げてそのプレゼンスを示すこと」を提言。渡辺氏は、ポルトガルとオーストラリアを非難して、「日本は、国連決議に従い、最後まで(武力併合を)承認しなかった」とまで書いた。サンタクルス虐殺事件が起きた九一年一一月、外務省報道官だった渡辺氏は、「日本の国益をまず最優先させるべきだ」と述べ、スハルト軍事政権を擁護した。
日本政府は一度もティモール・ロロサエの人々の側に立ってこなかったことを、棚に上げて、これだけのウソが書けるものだと呆れてしまう。
日本の文民警察官二人と日本政府関係者は九月六日朝、政府チャーター機で脱出した。その時、日本人の投票監視員らがまだ数人残っていた。国連は各国に十人の文民警察官派遣を要請していたのに、日本は三人しか送らず、しかもそのうち一人は「連絡要員」としてジャカルタに滞在していた。
他社の記者がディリを離れた後、共同通信の上村淳記者は一人残って八日午後まで取材を続け、インドネシア軍の兵士が民兵による「とめどもない暴力と破壊」をルポした。上村記者の記事を名前入りで使った全国紙は、九月一○日の毎日新聞だけで、他社は匿名扱いだった。上村記者の残留に「無謀だ」という批判があったようだが、私はジャーナリストとして的確な判断だったと思う。
日本の報道機関は過去の罪を償うためにも、日本政府による「東ティモールに自衛隊を送るために次の国会でPKF凍結を解除すべきだ」という「火事場泥棒」も驚くような大ペテン師的な策謀を全力で阻止すべきである。(了)
Copyright (c) 1999, Prof.Asano Ken'ichi's Seminar Last updated 1999.10.22