1998年7月1日

「ふれあい W杯韓日共同応援観戦団」に参加

浅野健一

 

私は6月24日から29日まで「ふれあい W杯韓日共同応援観戦団」に参加した。在日本大韓体育会中央本部が主催した合同応援ツアーで、2002年のW杯共同開催に向けて、友好を深める目的だ。ツアー参加は15歳の高校生から74歳のお年寄りまで110人。25日の韓国ーベルギー、26日の日本ージャマイカ戦を応援した。韓国のサポーター集団「レッド・デヴィルズ」の20人も共同応援団に加わった。

「殴られた側が殴った側に呼び掛けて行われた企画だ」とある在日のジャーナリスト。本来は日本の方から提案すべきだろう。97年11月の日本対カザフスタン戦で在日の20人が日本を応援したのがきっかけ。

パリの競技場で行われた韓国ーベルギー戦では韓国が後半に同点にした。ベルギーのサポーターとの交流は楽しく、これがワールドカップの雰囲気だと感じた。古都リヨンの日本ージャマイカ戦は会場の約80%が日本の応援団で、ジャマイカのサポーターは目立たなかった。国立競技場での試合のような雰囲気。 試合開始前の国歌斉唱で日本の若者が大声で君が代を歌った。日の丸も振られた。日章旗に寄せ書きもしていた。海軍の旗だった旭日旗を持つ学生もいた。「97年の韓日戦から旭日旗が目立っている。この人たち、また我々の国を侵略するつもりかと思った」と在日のスポーツ・ジャーナリスト、崔仁和(チョイ・インファ)さん。

在日の人たちの多くが日の丸を振らなかった。バスの中に置いてきたり、かばんにしまった人が多い。日の丸への寄せ書きをした在日の人はほとんどいなかった。君が代を歌う人もいなかった。

このツアーで在日コリアンのジャーナリストや市民と知り合った。在日の人たちは刑事事件の被疑者になると韓国籍とか朝鮮籍と書かれる。通名とともに本名が報道されることも多い。様々な差別構造がこの国にはある。在日外国人の人たちと共生することが国際化の第一歩。

 

主催者の求めに応じて提出した参加の動機と目的は次の通り。

《私はジャーナリズム研究者として、日本統治下の韓国の言論状況について研究している。研究の成果は97年に『天皇の記者たち 大新聞のアジア侵略』(スリーエーネットワーク)などに発表した。コリアンとして初めて五輪で金メダルをとったソン・ギジョン選手の「東亜日報・日章旗抹消事件」についても書いた。あれから62年。韓国と日本のサポーターが同じユニフォームを着て一緒に応援するという企画を新聞記事で読んで、すぐに参加を決意した。勤務する同志社大学で学際科目「国際スポーツ事情」の講義を年に三回担当しており、その授業の材料を集める目的もある。

私は「日の丸」「君が代」を日本の国旗、国歌として認めない。日の丸も君が代も法的には国旗、国歌に決まっていない。憲法に合致した国旗と国歌が制定されるべきだと考えている。日本の国民そしてサッカーファンが共通して持てる旗を用意してもらいたい。日の丸をコリアンの人たちに持ってもらうことにも反対だ。日本人が韓国旗を持つことには問題がないだろうが、その代わりにコリアンの人たちが日の丸を持ってもらうのはいかがなものか。日本を表す新しい旗がいいだろう。あるいは両国の共同応援用の旗をつくってもいい。

金大中(キム・デジュン)大統領が98年4月29日、日韓政治部長交流のために訪韓中の在京政治部長訪韓団との会見で述べたように、「日本は歴史に対する明確な清算が必要だ」と思う。日本は30数年にわたる残酷で違法不当な朝鮮半島侵略について、ドイツが行ったような明確な措置をとっていない。韓国政府は元日本軍性奴隷の女性に対して見舞い金を支給することも決めた。日本の民間基金の受け取りは拒否されている。日本の一部の政治家や文化人は、朝鮮半島にはいいこともしたとか、従軍慰安婦は連行されていないなどという妄言を繰り返している。過去の歴史をきちんと解決せずに、今後の両国関係が重要なのだと言ってもだめだと思う。戦後生まれの人間には過去のことは無関係というのもおかしい。祖父母、両親が責任を取らなかったら、若い世代が取るしかない。

両国のさまざまな人たちが一週間一緒に過ごすことから、何が生まれてくるかわくわくしている。お互いの民族の文化や伝統をよく理解して、平和で人間的なパートナーとなれるために何をすべきかを学びたい。私が体験したことを学生や友人に伝えていきたい。私の3回生のゼミ(新聞学)の今年の共同研究テーマは「在日コリアンとマスメディア」になった。私は弓削達・元フェリス女学院大学学長、壽岳章子・元京都府立大学教授らと答責会議をつくって、日本による韓国侵略の歴史をどうとらえて、どう責任を取っていくかを考えている。韓国の学者、文化人と年に一回話し合いの機会をつくっている。98年2月末にソウルで開かれた「3・1運動と非暴力主義運動」の国際シンポジウムで発表した。》

「評論・社会科学」58号に「研究ノート」として書いた。

私は在日コリアン向けの経済新聞の東洋経済日報社に次のような原稿を送った。

 《恥ずかしい話だが、私は韓国と日本の問題について積極的にかかわるようになったのは、94年に大学教員になり、韓国人留学生が卒論で「日帝時代の韓国の新聞」を書くという話を聞いてからだ。それがきっかけで、アジア各地における日本統治下の言論状況を調査、『天皇の記者たち』(スリーエーネットワーク)としてまとめた。この本の最終章に韓国を取り上げ、コリアンとして初めて五輪で金メダルをとったソン・ギジョン選手の「東亜日報・日章旗抹消事件」などを論じた。

6月24日から29日まで「ふれあい W杯韓日共同応援観戦団」(在日本大韓体育会中央本部主催)に参加したのは、多くの在日コリアンの人たちと知り合いになれると思ったからだ。

在日コリアン三九人と日本人七二人の計一一一人で韓国ーベルギー、日本ージャマイカ戦を応援した。韓国のサポーター「レッド・デヴィルズ」の20人も共同応援団に加わった。

在日コリアンと日本のサポーターが同じユニフォームを着て一緒に応援したのだが、「殴られた側が殴った側にふれあいを呼び掛けて行われた企画だ」とある在日のジャーナリストは言った。本来は日本の方から提案すべきだった。

在日韓国人の人たちと一週間過ごし、いろんな話を聞くことができた。二世の人たちは戦前、戦後の激動期に本国の韓国と日本の狭間の中で生きる苦労の多いことを知った。両国でサッカー選手として活躍した経験のある人は、在日としてのアイデンティティを保つために努力している。みんなが日本と韓国の関係がさらに改善されること、そして祖国の統一を心から願っていることも分かった。

私は「日の丸」「君が代」を日本の国旗、国歌として認めていない。だから日章旗をコリアンの人たちに持ってもらうことには反対だと主催者に申し入れていた。日本人が韓国旗を持つことにはそう問題がないだろうが、その代わりにコリアンの人たちに日の丸を持ってもらうのはいかがなものかと感じたからだ。

古都リヨンの日本ージャマイカ戦は会場の約80%が日本の応援団で、ジャマイカのサポーターは目立たなかった。試合開始前の国歌斉唱で日本の若者が大声で君が代を歌った。「さざれいしの・・・」。不気味だった。意味が分かって歌っているのだろうかとも思った。日の丸も振られた。巨大な日章旗に寄せ書きもしていた。海軍の旗だった旭日旗を持つ学生もいた。「97年の韓日戦から旭日旗が目立っている。この人たち、また我々の国を侵略するつもりかと思った」と在日のスポーツ・ジャーナリストは呆れていた。

どらえもん、富士山の絵をあしらった旗を振る若者もいたのが救いだった。

私自身は日章旗を受け取らなかった。私の見た限り、在日の人たちの多くが日の丸を振らなかった。バスの中に置いてきたり、かばんにしまった人が多い。ジャマイカの人にあげた人もいた。日の丸への寄せ書きをした在日の人はほとんどいなかった。

私はジャカルタに三年半特派員として駐在したが、インドネシアなど東南アジアの人たちも日章旗にいい印象を持っていない。日章旗は大日本帝国軍隊による暴虐の象徴だからだろう。敗戦後五三年経っても日の丸に抵抗感が残っているのは、1895年以来半世紀にわたって続いた侵略の歴史について、「日本が歴史に対する明確な清算」(金大中(キム・デジュン)大統領)を行っていないからだと考えている。また在日外国人の人たちに対する様々な差別構造がこの国には今も残っている。在日外国人の人たちと共生することが国際化の第一歩なのに、日本の公教育は民族教育すら行っていない。

2002年のW杯共同開催は私たち日本人に対して、遅くとも2002年までに朝鮮半島の統一が実現するように努力し、日本軍性奴隷問題などの過去の歴史についてのを遂行するよう最後通告を突きつけているのだと思う。

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